パリ15区の恋人

碧井夢夏

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花の都 2

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「いただきます」

 二人でテーブル席に着き、朝食の時間。
 丸いプレートにバゲット3切れのフレンチトースト、ハム、スライストマトが乗っていて、白いスープボウルにはオレンジ色のポタージュスープ、そしてミルクティーが並んだ朝食になった。

「ん、スープいける」

 後頭部に寝癖がついた彼が言った。私もスープを飲んでみる。
 玉ねぎと人参と……恐らくセロリの入った野菜のポタージュだ。

「ほんとだ。市販のスープなのに、なんだか手作りっぽい味でいいね」
「日本でもこういうの飲めるといいな。でも、いちいちあの大きな紙パックで液体を買うのは重いのかも」
「んーそうだね。日本で粉末のスープが主流なのってそういうのもあるのかなあ」

 そして、スライストマトを口に含む。日本のトマトに比べて柔らかく、そして味は思ったより薄かった。
 なんというか、トマトなのにきゅうりの風味を感じる。水分たっぷりだ。

「トマトはどれを買うのが正解なんだろ。このトマトどう思う? 私にとっては味が薄いんだけど」
「どれどれ……」

 彼は私よりずいぶん大きな口を開けてトマトのひと切れを一気に頬張ると、「んー」と言いながら咀嚼してそのままごくりと飲み込んだ。

「そんなに違う? 普通のトマトって感じ」
「そう」

 そして、メインのフレンチトーストにフォークを立てて、豪快に嚙みついた。
 焼けたパンの繊維が崩れる音がする。そして、彼は「ん!」と言ってうなずいた。これは気に入ってくれたらしい。

「実はオレ、フランスパンで作るフレンチトーストを食べたのが昨日初めてでさ」
「うん、ラデュレね」

 ラデュレは日本にも店舗があるけれど、世界で初めてティーサロンを開いたお店。マカロンの生みの親らしい。
 パリのラデュレは朝食をやっていて、そこの「パンベルデュ」つまり、フレンチトーストが有名だった。

 パンベルデュとは、失われたパン、という意味の料理。
 固くなったパンを柔らかく食べるために生まれた。だからフランスではパンベルデュ。
 日本ではフレンチトーストと呼ばれている。

 フランスに来て思い知ること。フランスにあるパンは基本的にフランスパン。
 考えてみれば当たり前なんだけど、日本のパンよりもともと硬いパンばかりだ。
 日が経てばさらに硬くなるのだから、こうやってフレンチトーストにして食べる行為がすごく自然に感じられる。

 彼のフレンチトーストと私のフレンチトーストには蜂蜜を最後にとろりとかけた。
 お店では粉砂糖を使ったりもする。

「食文化って、それなりに理由があるんだろうね」

 そんなことを私が言うと、彼は二つ目のフレンチトーストを咀嚼しながら分かったのか分かっていないのか、適当にうなずく。
 続けざまに、プレートに丸めて盛りつけた大きな鶏胸肉のハムをナイフで切り、また口に含んだ。

「このハム、旨いね」

 フランスでは鶏肉と言えば胸肉のことを指すらしい。だから私は、スーパーで鶏胸肉のハムを買った。
 日本の鶏胸肉のハムよりも随分しっとりとして美味しく感じるのは何故なんだろう。

 精肉は種類が豊富で、他にも、豚肉のハムだってあったし、ソーセージも種類が豊富だった。
 有名な「ブータン・ノワール」は豚の血液と脂肪を腸に詰めたもので、普通にスーパーで売っていた。

 お菓子のコーナーでは日本でも見慣れたものが多く並んでいたけれど、精肉とチーズ、バターの種類を見ると、日本とはまるで事情が違う。
 特にチーズは種類が多すぎて、何を選んでいいのか分からなかった。

「さて、今日は初めての別行動だ」

 彼はそう言ってフランス全土の地図を出す。
 私はパリ、彼はここから約300kmほど離れたロンシャンという町にある礼拝堂に向かう。

「フランスの田舎って、英語が通じないって言うよね」
「昔はパリでだって通じなかったんだよ」
「へえ」

 彼はロンシャン付近の地図を見ていた。
 初めてパリに降り立った私とは違い、治安の悪いヨーロッパの乗り物にも一人で乗ることに慣れているし、別行動をとる間の私を心配していた。

「地下鉄が分からなくなったら、タクシー捕まえてもいいよ。まあ、多分ぼったくられると思うけど」
「……そんな普通にぼったくる?」
「外国人だし、どう見ても観光客って思われるだろうし。お店でクレジットカードは持っていかせないように。見える前で使わないようだったら現金に切り替えて」
「はいはい」

 昨日二人で行ったシャンゼリゼ通りは、凱旋門から放射状に延びている道のうちのひとつだった。
 凱旋門には観光客しかいなかったけれど、私もその中の一人になって上まで登って写真も撮っている。

 日本で一緒にいたときは知らなかったけれど、彼は相当に過保護だったらしい。
 私のために服の中に隠せる貴重品入れのポーチを買って持たせてくれたし、言葉が通じなくて困ったときのためにと簡単な日常会話の本をくれた。

 街で観光客がスマートフォンを使うとスリに遭う確率が上がるらしい。
 そんなわけで、携帯電話はアパルトマンに置いて行動した。まさかそのためにデジタルカメラを新調することになるとは思わなかった。

 日本にいるときはスマートフォンひとつでどこにでも行ける気がするのに、今は紙の地図を持って出かける。
 治安って、持ち物や行動が制限されるんだってことを知った。

 とはいえスマートフォンを使っている人にはしょっちゅう遭遇するから、狙われなければ普通に使えるんだろう……私は、間違いなく狙われやすい部類になるから止めておくとしても。

「気を付けてね、遠出」
「そっちこそ。自分がいいカモだと思われてるのを忘れないように」

 私たちはそんな会話をして、拠点のアパルトマンを出る。
 薄暗い階段を下りて正面入り口を出ると、すっかり明るい陽射しが差すパリの街にまた一歩を踏み出していい気分だ。

 ここ、パリの15区は住宅街だった。
 拠点にしたアパルトマンは二人暮らしにちょうどいい物件で、治安が良くて犯罪が少ないエリアにしたと彼が言っていた。
 道路や歩道は日本と同じアスファルトだったり、でこぼこの石畳だったりする。

 パリジェンヌはみんなおしゃれで高いピンヒールを履きこなしているのかと思っていたけれど、この石畳にピンヒールは合わないのか……東京よりピンヒールのパンプスを履いた女性は圧倒的に少なく見える。
 そして、格好は日本人よりシンプルな服を好む人が多い。

 隣を歩く彼が、自然に私の手を握る。
 日本では決して手をつないで歩いたりしなかったのに。

 この街のカップルが当たり前のように抱き合い、触れ合い、人前でも濃厚なキスをしている風景を見せつけられ続け、彼の中の羞恥心がどこかに行ってしまったのだろう。

 日本にいたとき、彼が手をつないだりしてこなかったのは、単にそういう事情だったのだ。
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