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Chapter6

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 とあるところに、クマと仲のいい娘がいました。ある日、森の入り口を歩いていると、クマと出会いました。
 ──おじょうさん、おじょうさん、どこに行くのかね?
 ──あらあら、クマさん、お散歩かしら?わたしはこれから、森の中のおばあさんのおうちへ行くのですよ。
 ──おや、奇遇だ。ワシも森へ行こうとしていたのだ。森の中はクリやドングリが美味しい季節だからな。
 ──それは嬉しい。ひとりで森を行くのは心細かったから、クマさんと一緒だと心強いわ。では、参りましょう。
 こうして娘とクマは、手に手を取って森を歩いていました。すると、クマを探していた猟師と出会いました。
 ──おやおや、おじょうさん。クマと一緒とは危ないな。わたしがこやつをやっつけてやろう。
 猟師が鉄砲をクマに向けて、一発、「ドンッ」と撃ちました。それで、クマは死んでしまいました。
 ──これでおじょうさんも安心して森の中を歩けますよ。
 しかし、娘はクマの骸にしがみついて、いつまでも泣き続けました。猟師が娘をクマから引き剥がそうとしても、離れようとしません。
 猟師には娘の心は分からなかったでしょう。
 だって、娘にとってクマは、誰よりも安心できる相手でしたから。恋しい恋しい相手でしたからーー。

 『危急存亡の秋』
 この言葉に少々の胡散臭さを嗅いでいたけれど、滅多に泣き言を言わない律が助けを求めるほどなのだから、まあ、何かはあったんだろう程度に、あまり深く考えずに下宿へ向かった。
 大学からほど近いところに、律の住んでいる下宿はある。周囲には学生向けのマンションやらアパートが建ち並ぶ三ツ木町一帯の中で、その幽塵荘は、三ツ木町の魔窟と言われていた。
 一説には、昭和初期に建てられたとも、いや、維新のころにはあったとも言われるほど、悪い意味で趣のある建物だった。 
 大家はさっさと更地にして、売ってしまいたいようなことを言っているが、幽塵荘の売却話が出るたびに、大家の体調に異変を来すため、「幽塵荘には何か憑いている」ともっぱらの評判だった。それに、「そよ風でも倒壊する」と言われているのに、両脇にある高層マンションが幽塵荘を支えているような態勢になっているためか、なかなかしぶといのも、幽塵荘の「神話」に拍車がかかっていた。
 そんな「アンタッチャブル」幽塵荘の主として、律は君臨していた。
「川端君はワタシよりここに詳しいからねぇ」
 と、管理人さん(六十七歳・男性)も認めるくらいだった。
 そんな幽塵荘の主が住む二階角部屋、二〇七号室の扉をノックする。
 ……。
 返事がない。
 だが、そんなことは日常茶飯事だった。一応の常識として、ノックしたのに過ぎない。だいたい律の部屋には鍵がかかっていない。誰でも入り放題だった。しかし、泥棒などに入られたことはない。
 それは、扉を開ければ一目瞭然だった。
「律ー。入るよぉー」
 中は明かりがなく、暗いままだった。
 とはいえ、勝手知ったる律の部屋である。勝手に上がり込み、勝手に電気のスイッチを点け、勝手にずかずかと奥へと進む。
「律、どうしたのー?」
 明かりに晒された部屋を見渡す。
 そこは、魔窟中の魔窟と呼ぶに相応しい、混乱、カオスの城だった。
 堆く積まれている本、本、本の山と、四方を埋めているDVDやブルーレイディスクの壁、そして、縦横無尽に張り巡らされた配線の絨毯の世界だった。この混沌を見たら、きっと泥棒すら意気消沈するに違いないと思わせる無秩序ぶり。
 生活感がない、というよりは人間的ですらないこの部屋の真ん中に、こんもりと膨らんだ布団があった。
 わたしはその布団に近づくと、バサァッと布団を剥ぎにかかった。
「人がせっかく来てやったというのに、寝ているとは何事だー!」
 こうすると、いつもなら、
「万里さん、手荒な真似はよしてくださいよ」
 と眠い目を擦り擦りしながら起きるのが常なのだけど、今日の律は、布団の上でぶるぶると震えて横になったきりだった。
「……? 律、どうしたの?」
 こわごわと聞いてみるが、ボソボソと呟くだけで何を言っているのか分からない。布団の傍らに正座して、律の顔を覗き込むと、あり得ないことが起こっていた。
 顔が真っ赤になって、うなされていたのだ。あの健康体で、「バカは風邪引かない」の典型のような男がだ。
「ま、りさん……よく、来てくれました……。お茶も出せず、すみません……」
「何言ってるのよ。熱は?」
 そう言って律の額に手を当てると、燃えるように熱かった。
「わっ、すごい熱! 病院行こう」
「……いや、です……」
「何言ってるのよ! ここで寝てたって良くならないわよ!」
「病院に行くくらいなら、死にます……」
「バカ言わないでよ。ほら、一緒に行こう」
「医者怖い……」
「子どもか……」
 それからもわたしは律を病院に連れて行こうとしたけれど、律は頑なに拒否した。
「しっかたないなぁ……」
 今日は金曜日だし、泊まりがけで看病すれば週明けには治るでしょうよ。
 そう思って、わたしは律の看病に取りかかった。
 一階に住んでいる管理人さんに氷枕と薬を拝借して、律にたくさん着せて汗をかかせて、着替えさせて、近くのコンビニからたくさん水分を調達して飲ませた。
「粥など食べたくないです……。菓子パンが食べたい……」
 という超偏食の律の口をパン粥で塞いでいるうちに、熱は下がってきた。
「37.2分。よし、この調子でいけば、明日にも平常通りということになるわね」
 体温計を律の体から取り出し、数字に安心する。
 時計を見ると、0時。土曜日から日曜へと変わる頃だった。
 丸一日、律の世話をしていたことになる。
「ふわぁぁぁぁぁ……なんか眠くなってきたなぁ。少し寝ようかな」
 そうして、律の傍らに寝袋を敷き(律にキャンプの趣味はないのに、なぜかある)、入り込んだ。
 ふと律の顔を見る。
 すやすやと子どものように眠り込んでいる。その顔に、そっと触れる。ぐっしょりと大汗をかいたから、髪は額に張り付いて、肌はペタペタとした感触がした。
 それでも律に触れたということに、体の奥がきゅうっとした。
 このまま彼を自分のものにできたらいいのに。
 そう願っているうちに、眠り込んでいた。
 
 明くる朝、ポツポツとトタン屋根を叩く雨の音で目が覚めた。
 軽やかな音が、耳に心地よく響く。えいやっと窮屈な寝袋から這い出ると、まず律の熱を確かめた。頬や額に手を当てると、昨日までのような、火照った熱は感じられない。寝息にも息苦しい様子は見られない。
 これでもう大丈夫だろう。
 ほっと一息ついて立ち上がると、改めて部屋を見回してみる。何度も来ているから、見慣れた混沌の宇宙ではあるけれど、何だか変な感じがした。自分とこの部屋に、どこかよそよそしさがあった。
 何だろう。何だっけ?何がおかしいんだろう?
 違和感の正体を探っていると、あることに気がついた。
 ああ、そういえば、ここに泊まるのはじめてだった……。
 何度も何度も来ている。何なら律よりもこの部屋のことに詳しいくらいだ(何せ、この間ガスの元栓の開け方を知ったほど、この部屋の仕組みを分かってない)。夜遅くまで、日付の変わる頃までいたこともある。 
 でも、それでも「泊まってく?」と言われたこともなければ、「泊まってっていい?」と言ったこともない。今どきの学生ですらないような、清く正しい友人関係なわけだ。
 そもそも、ここにもう一人分、寝泊まりできるスペースなどないのだけれど、それでも、わたしたちには超えられない一線があるのを、双方理解していたような気がする。
 そうだよね、と少し気落ちしたような感じで思う。
 もし、律がわたしに何か下心を持っていたら、何やかやと理由をつけて引き留めるはずだものね。そうしないってことは……わたしにそうしたいって思ってないってことなわけで……。
 こんなことを考えていたら、あるものが目に入った。
 見たことのないTシャツが、カーテンレールに律の着物の影にかかっていたのである。 
 見るからにレディースサイズの、色柄ものだった。
 律の、カジュアルな洋服姿など見たことはない。着物と浴衣以外は持っていないはずだ。
 ならどうしてここに、こんなものがある?
 と、そこではたと気づいた。
 渋谷さん! 渋谷さんが着ていたものだ!
 彼女がそのTシャツを着ている像が、頭の中に浮かぶ。
 この部屋で、汗をかきかき律のガラクタを片付けていたことを思い出す。
 そのことに思い至った瞬間、わたしの中でガラガラと何かが崩れる感覚が起きた。ぐらぐらと、立っていることすら難しいほどの目眩に襲われた。
 そして、この感覚が、わたしにある決断をさせることになる。
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