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第三章 暴君を暴君たらしめるもの
皇太后の思惑
「何やらツェツェグ妃の周囲で騒ぎがあったようね。何か聞いている?」
水鏡は夜半、夜着姿の皇太后に部屋へと呼びつけられていた。
園遊会以来、彼女の機嫌が良い日は少ない。桔梗宮に勤める誰もが皆彼女の機嫌を気にし、怯えながら働いている。昼夜問わずわがままを言うため、仕える人間としてはたまったものではない。
「どうも、大風の使者が妃に危害を与えたようですね」
——皇子たちが子どもの頃は、ここまで感情の起伏が激しい方ではないと聞いたのだが……。
先帝には他にも子を身籠った妃がいた。だがどの子も夭折しており、生き残ったのは現皇太后の子どものみ。東宮は若くして亡くなったが、他の二人は健在。この世の春を謳歌しているように見えるこのお方は、なぜこんなにも荒れているのだろうか。
「ツェツェグ妃へ、故郷の使者が危害? なぜかしら。今や中級妃になった故郷の姫君に、大使が危害を加える意味がわからないのだけど」
青磁の器に入った白酒を口に運びながら、皇太后は興味を引かれたような顔をする。
「詳しくはわかりません。ただ、大風の使者は牢に入れられ、ツェツェグ妃は手厚く保護されているようです」
「ふうん。不貞でも働いていたのかしら。大胆ね」
「そうだとすれば、陛下が黙っていないかと。事件以降、ツェツェグ妃は皇宮で庇われているようですし」
皇太后は、蝋燭の火を見ながら、酒の器を揺らす。
「……変わったわね、昊然は。あの短気が、そんなふうにひとりの妃を大事にするなんて」
刹那、彼女は酒ごと器を床に叩きつけた。
彼女がなぜそんなことをしたのか水鏡にはわからず、ただただ驚き、顔をこわばらせる。
流れ出た酒が、床の木目に沿って、ゆっくりと広がっていく。
水鏡は額に冷や汗を浮かべながら、皇太后の表情を伺った。
「面の皮の厚い女だものね。ちょっとした嫌がらせで心を折ることができないなら……最終手段を取るしかないかしら」
「あの……娘娘……。皇帝陛下があれだけ寵愛される妃が現れたのは、奇跡的なことではないですか。どんなに娘娘がお心を砕かれ、お育てした妃についても、見向きもされなかった方があのように。ここは一つ、御子ができるか否かで、吉兆を占うのも良いのではないでしょうか」
内心、水鏡はこの状況に閉口していた。子ができれば、この強硬な皇太后の態度も緩むかもしれない。
可愛らしい赤子の顔を見れば、このささくれだった感情も少しは落ち着くのではないかと。そう進言したつもりだったのだが。
「御子など、作らせてたまるものですか!」
激昂した皇太后は、机に置かれた紙や硯、筆や花瓶などを苛立ちのままに薙ぎ倒す。それでも収まらず、彼女は水鏡の首に両手で掴みかかり、ギリギリと締め上げる。
「に……娘娘、おやめください」
「もう一度そのようなことを言ってみなさい。次は命がないわよ」
「わ、わかりました、ですから、どうかお手を……」
ようやく皇太后が手を離し、苦しみから解き放たれた水鏡は、浅い呼吸を繰り返しながら自分の首元に触れる。
彼女は暴力を振るって気分が落ち着いたのか、寝台の上にふたたび腰を下ろしていた。
——狂っている。
細く白魚のような指には、尋常ではない力がこもっていた。
「ツェツェグ妃が皇宮にいるというのが厄介ね。毒を使えば足がつく可能性が高いし……。ああ、そうだわ。泰然からいいことを聞いたのよ」
皇太后の顔に仄暗い笑みが浮かぶ。その表情を見て、水鏡は背筋が凍るのを感じた。
◇◇◇
中級妃の宮のものよりも、さらに豪華で大きな湯殿。本来なら皇帝が使う湯殿で、モワモワと立ち上る湯気を眺めながら、ツェツェグは物思いに耽っていた。
——私が、幸せになろうなんておこがましい……か。
事態が落ち着き、一人になる時間が増えるにつれて、バートルの言葉が呪いのように頭を支配していた。
大風の集落を出る時は、懺悔し続け、虐げられ続ける人生を覚悟していた。
だがいつしか、幸せになりたいと願ってしまった。
大風の役目から解き放たれ、新しい人生をつかみたいと。
「私は、わがままなのかしら……」
独り言ちれば、衝立の向こうから、ひょいと凛が顔を出す。
「ツェツェグ様、そろそろ上がられませんと、のぼせてしまいますよ」
「そうね、いくわ」
落ち込んでいるのを悟られないように。努めて明るい顔を作って、湯から上がった。
凛は大きな布でツェツェグの体を包み込むようにして、体を拭いてくれる。
「ねえ、私はいつになったら自分の宮に戻れるのかしら」
「いろいろとありましたから、陛下もご心配なのですよ。ここなら警備は万全ですし、落ち着くまではここにいるのがよろしいでしょう」
——それは嘘。ただ単に、私を閉じ込めていたいだけよ。
ツェツェグは嫉妬渦巻く昊然の心声を聞いていた。許すと言った手前、もう蒸し返すことはしないでおこうと心に決めているようだが。たびたびツェツェグの紅を口元につけたバートルを思い出し、心の中で悪態をついている。結果、たとえ宦官であっても、男の目に触れさせたくないと、半監禁状態のような形で、皇宮に留め置かれているのである。
「ああ、いよいよツェツェグ様の元に陛下が通われるんですね。なんだか感慨深いです」
凛がうっとりと頬を染める様子を見て、ツェツェグはなんとも言えない気持ちになる。
あの男は今夜、自分と枕を共にするつもりらしいのだ。
罰として度を超えた触れ合いをした日。ツェツェグの心の奥には、確かに今までと違う感情が巻き起こったように思う。
だが芽生えた感情に、蓋をしようとしている自分がいる。
「気が進まない。適当に断ってくれない?」
「何をおっしゃるんですか! 初めは緊張するものかもしれませんが、お支度していくうちに落ち着いてきますよ」
むう、と不貞腐れた顔を作ってみるが、凛は意に介さない。
「さあ、張り切って参りますよ!」
「適当でいいわ」
「もう、またそんなことをおっしゃって……」
受け入れてしまえば、もう後戻りはできない。自分はずっと、後宮で生きていくことになる。
だが、もしもいつか、自分が大風のつまはじき者だと、長老の直系の娘ではないと知られてしまったら?
気味の悪い異能持ちだと知られてしまったら?
そして彼の寵愛を失い、孤独な最後を迎えるとしたら。きっと気が狂ってしまう。
——私は、あの人に嫌われるのが怖いんだ。
そう考えているうち、夜が更けていった。
水鏡は夜半、夜着姿の皇太后に部屋へと呼びつけられていた。
園遊会以来、彼女の機嫌が良い日は少ない。桔梗宮に勤める誰もが皆彼女の機嫌を気にし、怯えながら働いている。昼夜問わずわがままを言うため、仕える人間としてはたまったものではない。
「どうも、大風の使者が妃に危害を与えたようですね」
——皇子たちが子どもの頃は、ここまで感情の起伏が激しい方ではないと聞いたのだが……。
先帝には他にも子を身籠った妃がいた。だがどの子も夭折しており、生き残ったのは現皇太后の子どものみ。東宮は若くして亡くなったが、他の二人は健在。この世の春を謳歌しているように見えるこのお方は、なぜこんなにも荒れているのだろうか。
「ツェツェグ妃へ、故郷の使者が危害? なぜかしら。今や中級妃になった故郷の姫君に、大使が危害を加える意味がわからないのだけど」
青磁の器に入った白酒を口に運びながら、皇太后は興味を引かれたような顔をする。
「詳しくはわかりません。ただ、大風の使者は牢に入れられ、ツェツェグ妃は手厚く保護されているようです」
「ふうん。不貞でも働いていたのかしら。大胆ね」
「そうだとすれば、陛下が黙っていないかと。事件以降、ツェツェグ妃は皇宮で庇われているようですし」
皇太后は、蝋燭の火を見ながら、酒の器を揺らす。
「……変わったわね、昊然は。あの短気が、そんなふうにひとりの妃を大事にするなんて」
刹那、彼女は酒ごと器を床に叩きつけた。
彼女がなぜそんなことをしたのか水鏡にはわからず、ただただ驚き、顔をこわばらせる。
流れ出た酒が、床の木目に沿って、ゆっくりと広がっていく。
水鏡は額に冷や汗を浮かべながら、皇太后の表情を伺った。
「面の皮の厚い女だものね。ちょっとした嫌がらせで心を折ることができないなら……最終手段を取るしかないかしら」
「あの……娘娘……。皇帝陛下があれだけ寵愛される妃が現れたのは、奇跡的なことではないですか。どんなに娘娘がお心を砕かれ、お育てした妃についても、見向きもされなかった方があのように。ここは一つ、御子ができるか否かで、吉兆を占うのも良いのではないでしょうか」
内心、水鏡はこの状況に閉口していた。子ができれば、この強硬な皇太后の態度も緩むかもしれない。
可愛らしい赤子の顔を見れば、このささくれだった感情も少しは落ち着くのではないかと。そう進言したつもりだったのだが。
「御子など、作らせてたまるものですか!」
激昂した皇太后は、机に置かれた紙や硯、筆や花瓶などを苛立ちのままに薙ぎ倒す。それでも収まらず、彼女は水鏡の首に両手で掴みかかり、ギリギリと締め上げる。
「に……娘娘、おやめください」
「もう一度そのようなことを言ってみなさい。次は命がないわよ」
「わ、わかりました、ですから、どうかお手を……」
ようやく皇太后が手を離し、苦しみから解き放たれた水鏡は、浅い呼吸を繰り返しながら自分の首元に触れる。
彼女は暴力を振るって気分が落ち着いたのか、寝台の上にふたたび腰を下ろしていた。
——狂っている。
細く白魚のような指には、尋常ではない力がこもっていた。
「ツェツェグ妃が皇宮にいるというのが厄介ね。毒を使えば足がつく可能性が高いし……。ああ、そうだわ。泰然からいいことを聞いたのよ」
皇太后の顔に仄暗い笑みが浮かぶ。その表情を見て、水鏡は背筋が凍るのを感じた。
◇◇◇
中級妃の宮のものよりも、さらに豪華で大きな湯殿。本来なら皇帝が使う湯殿で、モワモワと立ち上る湯気を眺めながら、ツェツェグは物思いに耽っていた。
——私が、幸せになろうなんておこがましい……か。
事態が落ち着き、一人になる時間が増えるにつれて、バートルの言葉が呪いのように頭を支配していた。
大風の集落を出る時は、懺悔し続け、虐げられ続ける人生を覚悟していた。
だがいつしか、幸せになりたいと願ってしまった。
大風の役目から解き放たれ、新しい人生をつかみたいと。
「私は、わがままなのかしら……」
独り言ちれば、衝立の向こうから、ひょいと凛が顔を出す。
「ツェツェグ様、そろそろ上がられませんと、のぼせてしまいますよ」
「そうね、いくわ」
落ち込んでいるのを悟られないように。努めて明るい顔を作って、湯から上がった。
凛は大きな布でツェツェグの体を包み込むようにして、体を拭いてくれる。
「ねえ、私はいつになったら自分の宮に戻れるのかしら」
「いろいろとありましたから、陛下もご心配なのですよ。ここなら警備は万全ですし、落ち着くまではここにいるのがよろしいでしょう」
——それは嘘。ただ単に、私を閉じ込めていたいだけよ。
ツェツェグは嫉妬渦巻く昊然の心声を聞いていた。許すと言った手前、もう蒸し返すことはしないでおこうと心に決めているようだが。たびたびツェツェグの紅を口元につけたバートルを思い出し、心の中で悪態をついている。結果、たとえ宦官であっても、男の目に触れさせたくないと、半監禁状態のような形で、皇宮に留め置かれているのである。
「ああ、いよいよツェツェグ様の元に陛下が通われるんですね。なんだか感慨深いです」
凛がうっとりと頬を染める様子を見て、ツェツェグはなんとも言えない気持ちになる。
あの男は今夜、自分と枕を共にするつもりらしいのだ。
罰として度を超えた触れ合いをした日。ツェツェグの心の奥には、確かに今までと違う感情が巻き起こったように思う。
だが芽生えた感情に、蓋をしようとしている自分がいる。
「気が進まない。適当に断ってくれない?」
「何をおっしゃるんですか! 初めは緊張するものかもしれませんが、お支度していくうちに落ち着いてきますよ」
むう、と不貞腐れた顔を作ってみるが、凛は意に介さない。
「さあ、張り切って参りますよ!」
「適当でいいわ」
「もう、またそんなことをおっしゃって……」
受け入れてしまえば、もう後戻りはできない。自分はずっと、後宮で生きていくことになる。
だが、もしもいつか、自分が大風のつまはじき者だと、長老の直系の娘ではないと知られてしまったら?
気味の悪い異能持ちだと知られてしまったら?
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