斎王君は亡命中

永瀬史緒

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序章 流浪の始まり、あるいは逃亡

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唐突だが、ルカは顔がいい。
どのくらいかと言うと、お世辞抜きに「この王国で1番」と言い切ってしまえるほどに。そう言い切ったのは、ルカに仕える侍従騎士のルディだが、これに異を唱える者はおそらくいまい。

オリハン大公息女ソーヤ姫の不義の子、この地の衆生の魂を救う星教の、いずれ大神官となる斎王君、そして端的に「父なし子」。ルカを表す言葉は数あれど、その容姿の美しさを抜きにして語られる事はない。

年が明ければ十八になるルカは、母親のソーヤ姫に生き写しだと言われる。オリハン大公家に多く生まれる銀の髪に銀の瞳、白磁の肌。出自と諸事情から実際の年齢よりも少しだけ若く見られるその姿は、男子であるけれども、凛々しい、よりは嫋やかという言葉が似あう(本人的にはものすごく不本意ではあるが)。つい最近までは幾分かのやっかみを込めて、男子にもかかわらず「美少女」と形容されていたが、この頃は「美人」と言われる事の方が多くなった。じき大任に着く身であれば、大人扱いされれば本人もやぶさかではないが、その発露が「美人」というのはどうなのか、と疑問に思わないでもない。
 真っ直ぐな銀色の髪は細腰の近くまでを覆い、ルーラー山の万年雪もかくやと讃えられ、柔らかな頬の線と繊細な顎の形はもちろんのこと、目鼻立ちも美々しく夜空に輝く白銀の月のごとし、と詩人が言葉を連ねる。値千金と言われる星都の花街一の高級妓楼の御職であっても、姸を競ってその御前にまみえる事を恥じらうだろう。
 
 初めてルカを見た人はまず例外なく魂を抜かれたようにその姿に見惚れて、結果未来の大神官たる斎王君に対する礼を失してしまい、傍らに佇む侍従騎士にたしなめられる。
秀でた額に優美な柳眉、銀の睫毛に縁どられた青銀の瞳は夢見るように遠くに焦点を結び、薄い微笑みを湛える柔らかそうな唇はほんのりと紅い。まだ少年の余韻を残す痩身に、神官らしい質素な生成りの衣をまとい、こっくりと小首を傾げる姿を見れば、「ああ、あれが次代の大神官様か」としばし呆けて、苦々しげな侍従騎士に咳払い等で促されてやっと、ぎこちなく膝を折り地に跪く。

 当のルカ本人にしてみれば、自分と面会した者が例外なく、しばしぼんやりと、あるいはうっとりと動きを止めるので、宗教的に身分の高い神官にまみえたためにおそらく作法に戸惑っているのだろう、くらいに思って流している。
 ごく幼い頃に母と別れて神殿に入ったルカは、言ってみれば(宗教的な)純粋培養、いわゆる天然系で、それゆえ彼の身辺を守り整える侍従騎士は、なにかと気苦労が絶えないという。

世界の中心たる唯一無二のアスカンタ王国、その王宮の在る都ー星都にほど近い星教の総本山たる大神殿――通称「谷」の奥深く、隠されるようにして育ったルカは、現在のところ「大神官」の地位を継ぐための百日行の真最中。谷の後ろに広がる金竜山脈の、切り立った岩山の頂上近くに設えた岩屋に篭って、毎日律儀に祝詞を唱える。
この世界で一番広大な領地を有し、人口も抜きんでたアスカンタ王国は南北に長い国だから、その北端にある星都の、さらに北の端に位置する谷は、冬になればそれなりに寒い。
 その背後に聳える金竜山脈の、頂上に近い岩屋ともなれば、麓にある谷の神殿とは気候は何もかもが違っている。切り立った岩にしがみつく針葉樹に吹き抜ける風は強い上に、山肌を覆う岩石に穿たれた住居は狭く、雪の降り積もる冬季ともなれば修行に籠る者もほとんどいない。その岩屋に至る道は切り立った崖に穿たれた回廊のみで、一刻(二時間)近くも急な階段を上らなければならないのだから、もとより訪れる人は少なかった。
 ルカがこの時期に、傍付きの二人だけを供に岩屋に籠っているのは、ひとえに翌年の夏至には大神官の任に着き、神殿と衆生とをその肩に担わなければならないためだった。



「そろそろ起きて、身支度をなさい」
 口ぶりは優しげでも有無を言わせない印象の声に、ルカは寝台に伏せたまま顔だけを持ち上げて声の主を見上げた。まだ八つ刻を過ぎたばかりだというのに、狭い窓から陽が斜めに差し掛かった部屋は薄暗い。ルカはうつ伏せたままのろのろと腰回りに手を伸ばして、自分の服がきちんと整えられていることに気が付いた。
「……シェートラ師兄、あの」
 ようやく寝台から身を起こして、部屋の真ん中で窓の方を注視したまま動かないシェートラの姿を改めて見る。岩を穿って作られた住居は狭い上に窓も小さく、ほとんど明り取りの役にも立っていない。薄暗い室内をほのかに照らすのは、寝台の枕元に据えられた質素な行灯がひとつだけだった。
「……きな臭い。ここまで煙の臭いが上ってくるとは、少々奇妙なことだ」
 ルカの呼びかけを無視して、シェートラは低く呟いた。首元でひとつに括った黒髪は緩く波打って、肩を過ぎるあたりで無造作に終わる。色白すぎて血の気がないと称されるルカよりは健康的な――だが、浅黒い、とまでは言えない程度に日に焼けた肌はなめらかで、かすかに眉をしかめるシェートラの整った容貌に艶を添える。眉間にしわを寄せ、視線をわずかにさまよわせてから、シェートラは戸口を振り返った。
「ユディ、荷物の用意をなさい。私が出て四半刻経過しても戻らない時は、御身様を連れて山荘へ逃れよ。」
「……はい」
 いつの間にか、戸口の向こうの薄暗い土間に男が一人跪く。墨染の衣に癖の強い黒髪は短く、首元から浅黒い肌が覗いた。腰に下げた剣は無骨だが、頼もしくもある。シェートラは土間への入り口に跪くユディの肩口へ視線を落としてから、思い出したように付け加えた。
「侍従見習いの……イスカと言ったか。戻るのを待つ必要はない。斎王院に使いに立ったのならば、まだ麓付近にいるだろう。私が責任を持つゆえ」
「お願いいたします」
 シェートラの受け持つ祈りの修行に居合わせる事のないように、ユディが用事を言いつけたのが徒になったか。腕に覚えはあれど、侍従騎士一人で斎王君を逃がす大役を任されて、ユディが小さく息を飲む音が聞こえた。
ルカはため息を一つ零してから、寝台に腰かけて足先だけで靴を探る。
「襲撃、でしょうか」
「あるいは、粗忽者が行灯を蹴飛ばしたか」
 短く答えたシェートラが、椅子の背から外套を取って手早く身に着ける。寝台に腰かけたままのルカを振り返って、軽い動作でその場に跪いた。ルカと同じ形の、青と黄土色の刺繍で縁飾りをした生成りの麻の衣の上に重ねた毛織の服の裾は長く、分厚い毛織の外套の下でひら、と舞った。いかにも神官らしい、つつましやかだが布をたっぷりと使った神官特有の出で立ちは、青年期の終わりから壮年期の始めの頃合いのシェートラによく似合う。ほぼ同じ服装のルカは、年齢が若いせいなのか来年には大役に着くというのに、見習いのようにも見えた。
「では、御身様、くれぐれもご無事で」
 ルカの返答を待たずに身を翻し、細く開いたままの戸口からすり抜けるようにして退出する。土間の向こうの扉を開く、きしんだ音の後には、傾いた日差しの入る薄暗い部屋に重苦しい沈黙が落ちて、ルカは小さく息を吐いた。毛皮で内張をした長靴の紐を結んでから、ゆっくりと立ち上がる。乱れた銀の髪を手櫛で適当に直しつつ、狭い窓のある壁際へと寄った。つま先立ってのぞき込めば、曇天の下はるか彼方から、かすかに煙の臭いがする。それも、煮炊きのための煙ではない、雑多な物が根こそぎ燃える、酸味を含んだ不穏な煙の臭いだった。
「ユディ、急いで」
 ルカは戸口の向こうに声をかけつつ、部屋の隅に置かれた小さな箪笥から着替えを取り出す。なめした皮のカバンに乱雑に詰めてから、文机の上の携帯用の経典と寄木細工の手箱を服の下へ押し込んだ。少し迷って、ろうそくが立てられたままの小さな燭台と、マッチの小箱も追加する。
「ルディ、行料袋と私の外套は」
「こちらに。……御身様、そのカバンは私が持ちますから」
 わずかに苦笑を滲ませて、ルディと呼ばれた男が振り返った。ルカは年が明ければ十八、大神官に就くに足る年齢となるが、侍従騎士のユディは五つ年上だから二十三になる。しっかりとした体躯はしなやかな筋肉に覆われて、腰に佩いた長剣を抜かずともひとかどの使い手なのが判った。隙のない足運びと視線は、たとえ山頂近くの岩屋に主と二人きりであっても、少しも緩められることはない。
 また、差が大きくなった気がする。
 ごく間近にルカを見るユディの背丈は、初めて会った時からルカよりもかなり高かった。ルカが十六になる頃には、少しだけ縮まったかと思われたが、また最近になって差が開きつつある。
 それも、仕方のないことだと飲み込んではいるのだが。
 ユディは自分の肩かけカバンの中から細い櫛を取り出して、ルカに向かって軽く振って見せた。
「今しばらく。――御身様、お髪を整えましょう」
 指先で招かれて、ルカは着替えを詰めたカバンの肩ひもを握ったままユディに背を向けた。腰の近くまで伸ばした銀の髪はたよりないほどに細くて、寝転がるとすぐにくしゃくしゃに乱れてしまう。母譲りとされる銀色の髪は、けれども見る角度によって薄い青とも、紫とも言えない色を含む。母の髪はどちらかといえば白銀に近かったので、色味としては似ていない気もする、とルカは自分の髪をひと房つまんで考えた。
「御身様、まことに襲撃でしょうか。……もう、大晦日だというのに」
「だからこそ、とも言える。冬至を越えてしまえば、きっと私が百日行の修行に入ると踏んだのだろう」
「襲撃者は王軍と?」
「第二王子派だとしたら私軍だろうな。ご母堂の第2妃様のご実家は、地方とはいえ広大な領地を持つ貴族ゆえ、私軍を動かす財力も併せ持つ」
 ユディがゆっくりと髪を梳きつつ、小さく溜息を零した。ルカの侍従騎士は、谷一番の剣の腕を持ちつつも、主人の身の回りの世話にも長ける、細やかな神経を持っている。
 襲撃、とユディが口にした事で、谷に群れ立つ神殿が軍に襲われているという事実がはっきりと認識されて、胸郭の内側で早まる鼓動にルカは食いしばった歯の間からひっそりと息を吐いた。
「第一王子が御身様の後ろ盾となれば、もはや第二王子には立太子の可能性はないとはいえ……、このような暴挙に出るとは」
「星教一万年の歴史に照らせば、ありがちな展開とも言えるが」
 呑気な声音ではあるが、やや眉間にしわを寄せてルカは囁き返した。ユディはルカの髪の一番上の、飾り編みをした髪の房をそっと持ち上げて、その下の真っ直ぐな銀髪に櫛をあてる。
 後ろ髪を飾る貴石の髪留めは小指の先ほどだが、小さな髪の房を交互に止めて、網の目のような飾り結びに整えてある。小さな貴石の飾りは頭頂に近いほど高価で、毛先に近づくほどに価値を減らす。例えば、一番下の飾りは一つで大人二人の食事を一回賄える程度、その上は街で一晩宿を取れる程。そんな風に使う髪留めに規則があるのは、毎日ルカの髪を結っているユディと、『谷』の斎王であるルカに近いごく少数しか知らない。端から見ればいくつもの貴石を使ったきらびやかな装いとしか思わないだろう。神官はふつう、これらの髪飾りを両耳の前の房にいくつか留めている。非常時には金銭として使う事もできる、神官たちが必ず身に着ける携帯財産である。
 仰々しく「御身様」と呼ばれるルカは、カバンの肩ひもを掌に握りこんだまま、深く息を吐いた。この国の、ひいては人の住む地においてあまねく衆生の魂を導く星教、その頂点たる大神官に、数百年ぶりに着くと定められている神官を『斎王』と称する。それゆえにルカは神官たちから『御身様』、と呼ばれていた。名を呼ぶことすら憚られるゆえに、聖なるその身をさしてそう呼ぶが、呼ばれる方にしてみればなんと座りの悪い呼び名であることか。
 ルカがいずれ大神官となる『斎王』の位に着いたのは、わずか五歳の時だった。訳も分からずに「谷」と呼ばれる大神殿に連れてこられて、母親に言い含められた通りに神官に伝言を告げれば、膝をついてにこやかに対応してくれた神官がさっと血相を変える。優雅な所作をかなぐり捨てて神殿の奥へと駆けていった彼の姿を、ルカはありありと思い出すことができた。
 後になって自分の諳んじた言葉の意味を知ったが、ルカが周り切らぬ舌でいとけなく告げたのは、星教への帰依と神官への請願。自分の身元を明かす旅券すら持たなかったけれども、星教の総本山たる谷の神殿の入り口に立つ、幼い子の容姿だけでそれは明かされた。
 あまりにも母に似たその姿、この国の支柱のひとつであるオリハン大公の三息女が一人、絢爛たるアスカンタ王国の宮廷の華ソーヤ姫。古い貴族の血を体現する、稀有な銀の瞳に銀の髪、整いすぎて造り物とすら思える容貌。たとえ異なる氏名を名乗ったとて、このアスカンタの星都では隠しようもない。
 すべての神殿の総本山である「谷」の長老院とオリハン大公家へと即座に連絡が届いて、その日のうちにルカは神官見習いとして谷に受け入れられた。以来、十三年間、ルカは奥の院のさらに奥深く、大事に隠して育てられてきた。
「御身様、参りましょう。火の始末は済みましたゆえ」
「……まだ四半刻は経っていないが」
 肩に毛皮で裏打ちされた分厚い外套を着せ掛けられて、ルカはとりとめのない回想から意識を引き戻した。切り立った岩山の頂上近くに結ばれた庵から、麓の神殿までは歩けば優に一刻(二時間)はかかる。だが、シェートラはつづら折りに連なる階段を使わずとも、一息に降り、また昇ることもできる手段を持っている。だから、きちんと四半時待つ必要もなかった。今まで待って、シェートラが戻らないならば、ルカとユディとは逃げねばならない。
「さあ、早く。日の暮れる前に隧道を越えなければ」
「……うん」
 手早く居室を整えたユディが木製の鎧窓を閉めると、室内はほとんど暗闇に塗りつぶされた。かすかに混じる汗と、体液の残滓から漂う匂いが床の近くに淀んで、ルカは首元に巻き付けた毛織の襟巻の下に、軽く指先を添わせた。
「本当は汗をぬぐっておきたかったけど」
「山の寮に着きましたら。すぐにお湯の用意をしますから」
 先に立ったユディが重い扉を開いて、曇天の下に雪のちらつく外へと踏み出した。墨染の服の上に生成りの外套をまとって、フードを目深に被る。そうすればもう、辺り一面の雪景色に紛れてしまって、離れた場所から視認するのは困難になった。最低限の道具と糧食とを詰めた行料袋を肩にかけてから、外套を着なおしたルカも後に続く。外に出た途端に、切れるほどに冷えた空気が耳先と指を包んで、ルカは慌ててフードを引き上げる。
 山頂に近い道は狭く、むき出しの岩の上にしがみつくように生えた針葉樹と、岩の間を埋める凍った土とを雪が覆っている。下から立ち上る細い煙の勢いは衰えず、麓で起きている火災がいっかな鎮火されていない事がわかった。
 岩屋から麓へと続く道はしんと静まって、風に交じる煙の不穏な匂いさえなければ、いつもと変わりのない風景だった。
「……念のために」
 毛皮張りの手袋は暖かいが、細かな作業には向かない。ユディの踏みしめた雪を長靴の底でなぞりつつ、ルカは岩屋の入り口近くの薪の棚から針葉樹の枯れ枝を引き抜いた。焚口に使う枝を片手でつかんで、無造作に広がる葉を雪の積もった大地に引きずった。降り続ける雪の積もる表面を擦る枝葉はルカ達の足跡を消して、ただのまっさらな雪原へと戻してしまう。針葉樹の連なる山肌は切り立って、細い道はともすればただの獣道にも見えて、岩屋の奥にさらに道があるとは分からない。薪を積んだ棚の奥へと、ルカ達は慎重に進む。
「……滝はもう、すっかり凍っているでしょうけれど。――こんな時節にあの道は通れるのでしょうか」
「多分」
 気づかわしげなユディの声に、ルカは小さく答える。日頃から鍛錬を怠らないユディはともかく、神殿の儀式と祈りに明け暮れる(たとえ建前としても)だけのルカには、山越えは難儀なのだ。山頂近くの滝の裏から、岩場の隧道を抜けて山の反対側、そこは国境を越えた北の隣国、ポーラスタ王国の南端にあたる。金竜山脈は人類最大の王国アスカンタと、北の大国ポーラスタとを隔てる国境線でもあった。その山脈の麓の、南のアスカンタ側にあるのが星教の総本山たる「谷」の大神殿、北のポーラスタ側はアスカンタ側の切り立った山肌とは違ってなだらかで、麓には小規模だが豊な街があった。山の中腹までは放牧を主とする農家が立ち、山頂の近くには貴族の有する寮がいくつかあった。その一つ、一番山頂に近い場所に、アスカンタ貴族所有とされる山荘が建っている。実を言えばそれは、神殿の持つ数ある「避難場所」の一つで、神殿の奥、切り立った崖の上の岩屋に出入りを許された神官、それもごく一部の高位神官だけが知る抜け道を通ってアスカンタ側からポーラスタへと向かうことができた。
「御身様、足元にお気をつけて」
「うん、ユディも」
 雪に覆われた針葉樹の林を抜けて、二人は凍り付いた滝へとたどり着く。滝つぼを抱く岩場にほど近い、低い藪の下生えの奥へ折った針葉樹の枝を押し込んで、ルカは背後の細く下る道をちらと振り返った。吐く息は白く、首元から顎にかけて巻いた荒い毛織の襟巻の表面に細かな霜を育たせる。やや乱れた息を整えようと、深く息を吸えば凍えた空気が喉を絞った。
 足元は雪と、凍った岩とで滑りやすい。凍りついて雪に覆われた白い滝つぼは、だが落ちれば氷の下の冷たい水に沈むだろうと判る。二人はそろそろと凍った滝の裏へ進んで、暗い隧道へと踏み込んだ。片手を狭い岩肌へ沿わせて、一見行き止まりにも見える暗闇へと進んで行く。
 凍った岩はただ冷たく、長く上り坂を歩いたせいでせわしなく打つ脈拍が耳にうるさいのにもかかわらず、指先も足先もが冷えて痛む。
「……ユディ」
「お静かに」
 吐息だけでささやいたユディが、前方を伺う気配がした。ほぼ暗闇の中、行き止まりに見える岩の間の細い道をいくつも曲がって、ようやく先にかすかに光が見えた。目深に被ったフードの先が風に揺れる。細く高い風の音が聞こえるから、北側はきっと吹雪いているのだろう。
「しばらくは昇りますので、足元に気を付けて」
 夜目の効くユディの足取りは確かだが、あとに続くルカはただ闇雲にユディの足跡を追うばかりだった。フードを揺らして耳元を過ぎる風は、痛みを感じるほどに冷たい。こんなに動いているのに、足先が冷たくしびれるのは何故なのだろう。
「御身様、手を」
 ユディがルカの手首を掴んで、彼が斜めに掛けたカバンの肩ひもを握らせてくれる。あともう少し進めば隧道を抜けて、針葉樹の林のただなかに出る。隧道を抜ける風に交じって、雪の小片が不規則に舞う。曇天とはいえ、洞窟の外に出れば多少は陽光が差すだろうに、なぜ気温がぐっと下がったように感じられるのか。
「抜けた……?」
 暗い隧道を抜けた直後、真っ白に霞んだ風景はすぐに形を取り戻す。けれどもそこには、立ち並ぶ針葉樹とそれを覆う白い雪が広がるばかり。山の裏側に出たというのに、白と灰色ばかりの景色にほとんど違いはなかった。一見してなだらかな雪景色だが、雪の下に隠される道を違えればすぐさま方向を失うだろう。
「襲撃は、第二王子派以外にはありえないのでしょうか」
 気温が氷点下なせいで一向に踏み固まらない雪を慎重に漕ぎながら、ユディがささやいた。彼のカバンの肩紐を握って、すぐ後ろを歩くルカは吹き付ける雪風の中で小首をかしげた。
「……さて。手っ取り早く谷を手中に収めたいと思う者は、他にもいるだろうけれど」
 ひときわ高く風音が響いて、一瞬目の前が白に覆われる。思わずユディのカバンの肩紐を引けば、間近でくすりと含み笑う声が聞こえた。
「あと少しで山荘です。こちらは風下ですから、私は間違えませんよ」
「……うん、頼む」
 方向すら定かではない吹雪の中、危なげない足取りでユディは進む。
 ルカと同じ形の外套の下、浅黒い肌に癖の強い黒髪はうなじあたりで無造作に切ってあり、細い鼻梁に薄い唇はやや冷たい印象を与えるけれども金色の瞳は野性的で、そして闇でもしっかりと見通す。ルカの侍従であり騎士であるユディは、その本性を黒豹とする大猫族だった。ゆえに彼は人の形に化生していても恐ろしく鼻が良い。すんなりと伸びた肢体は大猫族らしくしなやかな筋肉に覆われて、腰の無骨な剣がやや不釣り合いにも見えた。
ユディはもともと、ルカの母親の一族―オリハン大公家の有する広大な領地の、南に位置するごく狭い地帯を管理する家の妾の子として生まれた。オリハン大公家自体は珍しくも代々女系継承だが、ユディの家はごく一般的な男系の家系で、しかもユディの上に正妻の生んだ男子が二人いた。だからユディは、男児であっても誕生をさして喜ばれるでもなく、幼少から「将来は自分で身を立てるように」と正妻や父親から言い聞かされて育ったらしい。両親とも大猫族だったので、ちゃんと本性の姿も取れたのも幸いした。人との混血が進んだ場合、本性の姿へ戻れなくなってしまうと将来の就職の口が狭められてしまうからだ。



 夜空に赤く輝く星から、星を渡る船に乗って太古の昔にこの地にやってきた時、人はただの一種類だった。神殿に残された文献や、各地に散らばる神話を紐解く限り、この地に国を最初に作った時には、まだ人族しかいなかったらしい。その頃は、地表にはシダ類ばかりが広がり、竜たちが大地を占め、獣は数少なかったと伝えられている。アスカンタ王国が興り、人が増え、竜は人に飼われて、アスカンタ第一期の隆盛期となった頃に、生物全ての存亡の危機となる大災厄がもたらされた。
 その時に現れた大神官の、予言と尽力によって人々は壊滅からは逃れたものの、大災厄による天変地異で恐ろしく数を減らしてしまった。それを嘆き悲しんだ赤い星の神が地に降りて、残った人を四族へと分けたと伝えられる。
すなわち、竜族、狗族、大猫族、そして地上の人たちの全ての祖たる人族。
 人族は化生することなくもヒトの姿のままで、力も弱く寿命も短いが、他の三族と子を成す事が可能で、他族より知恵が回り手先も器用だと言われている。他の三族も他族と番って子を成す事は可能ではあるが、その確率は同族同士や人族と番った場合と比べて格段に落ちる。例えば、竜人と大猫族の豹人が番った場合、子を成す確率は同族間の婚姻と比べて半分以下、どちらの族となるかは全く選べなかった。それでも人々、特に庶民は、他族の伴侶を選ぶ事を躊躇しないし、本性の姿所以の差別もあるにはあったが、それは卑劣な行為とされた。
 ルカは父なし子とはいえ由緒正しいオリハン大公家の直系、竜人だった。
 竜族は、太古の昔に人々が船でこの地へと発った赤い星の、神々にもっとも近い性質を持つと言われる。薄い色の肌と髪、瞳の色を持ち、比較的大柄な者が多いゆえ、容貌から見分け易い。寿命はおよそ人の2~3倍あるが、幼少時に弱く、子どもが育ちにくいため、徐々に数を減らしつつある。本性の姿を持たないのも人族と同じだが、こちらは本性の姿があまりに大きかったので、不便さからその姿を捨てたといわれている。
ルカは、というかオリハン大公家は代々竜族の血を守ってきており、直系に限らず、よほどの傍系にならない限り竜族以外の者はいない。竜の中でも、本性の姿をとれる翼竜人と、そうではない竜人とに分かれるが、オリハン大公家は生粋の「竜」人であることを誇りとしている。一見、人族と人に化生した竜族とでは見分けがつかないが、竜族は身体のどこかに鱗を持って生まれて来る。ルカの鱗は、背中に十字を描くように生えているらしいが、本人はせいぜい鏡越しにぼんやりと見える程度しか認識していなかった。翼竜人は、両手の甲に鱗を持つのが一般的だと言われている。
 四族のうち狗族は、本性の姿と化生したヒトの姿の両方を持つ。狗族の大多数は狼人で、三割ほどが狐人だった。どちらもその本性は大きな立ち耳とふさふさした長い尾、鋭い爪、伸びたマズルに尖った犬歯を有する姿を持っている。化生の姿の時には人族とさして変わらない大きさだが、ひとたび本性に戻れば人の大きさを越えて、甚大な膂力と脚力で他を圧倒する。集団行動を得意とするせいか、軍人に多く見られた。
 一方、ユディを含めた大猫族は、虎人、獅子人、豹人と種類が多く、四族の中でも人族に次いで数に優れる。本性の姿がヒトより大きいのは狗族と同じだが、大猫族の彼らはゆったりのんびりとした気質で、単独行動を好んだ。敏捷性に富み、力にも優れるから、護衛任務や待ち伏せての狩りなど、活躍の場も多い。本性の姿では、大きな丸い耳と長い尾を持ち、らんらんと輝く瞳は陽光に対応して瞳孔の大きさが変わるせいで、昼と夜とでかなり印象が違う。柔らかい被毛と、長い尾は優雅で、特に大猫族は清潔好きと言われていた。
 竜、狗、大猫の三族は、他族と番うと子を成す事が難しく、それゆえ同族間の婚姻が好ましいとはされているが、特に庶民間では他族との婚姻も珍しくはなかった。
 人族は、他の三族すべてと子を成す事が容易だが、三代続けて人族の血が入ると他族は本性の姿を失う事が多かった。膂力や寿命は個人差が大きく、だが人の血が混じると寿命も膂力も減じるのが常だった。狗族や大猫族の平均的な寿命は、人族の1.5倍程度と言われている。
一番数が少ないのは竜族で、その中でも翼を持たない竜人は真っ先に本性の姿を手放したからか、各国の高位貴族に残るばかりで、市井にはほとんどいないとされている。一方同じ竜族でも、その大半を占める翼竜人は本性の姿を保っている。ひとたび本性へ戻れば空を飛ぶことができるため、通信や流通に携わる者が多かった。神殿の神官にも、翼竜人は比較的多い。
「……っくしゅ」
 先頭に立って雪を漕ぐユディが、小さくくしゃみをする。本性は黒豹である彼は、寒さをもっとも苦手としている。わずかな道のりであっても吹雪の中を進むのはつらいのだろう。それでも黙々と腰丈の雪を漕いで、背にルカを庇って針葉樹の林の中を進む彼は、ひどく頼もしく見えた。
「ああ、建物が見えましたよ」
 降りしきる雪の向うにおぼろに見えるのは、険しい山中に似合わない瀟洒な寮だった。壁が厚く、屋根の勾配は急で、暮れかけた曇天の空の下、人気のない姿はなにやら不吉な印象を与える。ぐるりと囲む石垣の上にも雪は降り積もって、風にあおられて散る。
「鍵を取ってきますから、こちらでお待ちを」
「うん、頼む」
 さらさらと降り積もる雪を漕いで、門から玄関口の屋根の下まで歩くだけでも息が上がる。外套の上に積もった雪をかじかんだ手を包むミトンで払い落しつつ、ルカは眼前の景色をぼんやりと眺めた。前庭は雪を積もらせた木々を外側に、すっぽりと白い雪に覆われている。この寮の東側には、岩山に氷室として使う洞窟があり、西から北側にかけて納屋があった。納屋の屋根には雪が積もっているものの、寮の屋根にはさほどの雪はない。この寮は貴族所有とみせかけて、実は神殿が持つ万が一の逃避行先の一つだから、夏から秋にかけて管理人の手が入っているとはいえ、長らく無人の状態だった。
 この地上唯一の、そして最大の宗教たる星教神殿は、裁判なしに信者を、すなわちこの世の人のほとんど全てを裁く権利を持つ。アスカンタや各属国の王の失政に否やを唱え、その行いを質す力を持つただ一つの機関だった。破門によって暴君の地位をはく奪し、あるいは脅して撤回させ、衆生を正しく導く。その教えは広く民衆の信仰心を集めているし、時には王権を覆しもする。
だが悲しいかな、神殿は軍を持たない。せいぜいが高位神官の護衛騎士と、手紙を運ぶ翼竜人(彼らは神官でもある)が多少の戦力に数えられる程度。
 長い神殿の歴史の中、自らの地位を危ぶんだ王族や軍人らが神殿を襲撃する事態は度々あった。それゆえ、神官らは一目散に逃げる。神殿も、宝物も、時には経典ですら捨て置いて、ほとんど身一つで彼らは逃げるし、逃げることが推奨されてきた歴史がある。
 てんでに散って逃げてから、時を見てそろりと戻り、あるいは他国で工作にいそしみ、衆生に理を説き、世間の声を味方につけて、そうやって神官達は長い年月の間星教と衆生を守ってきたのだった。
「御身様……ルカ様? どうぞ中へ。外套はここで脱いでください」
 白い息をまとわせて、玄関口へと戻ってきたユディが凍った鍵で扉を開ける。
 暮れかけた頃合いなせいか、締め切った玄関はとっぷりと深い闇に沈んでいる。壁際の金具に手探りで外套をかけてから、ルカはのろのろと襟巻を外す。呼気で湿った毛織は重く濡れて、表面だけ凍っていた。
 入り口の扉から半間ばかりは土間で、靴裏の泥を落としたり、濡れた外套を置いておくための場所だった。ほんのりと暖かいのは、吹雪く外とを隔てる壁と扉とが分厚いためだけではない。
「御身様、まずお湯の支度をしますので、お茶の準備をお願いできますか」
「うん、そこの扉の右手が風呂場だから」
「ええ、その手前が厨房ですね」
「……台所、程度の造りだが」
 土間から内扉を潜って、寮の室内へ入る。貴族の寮にふさわしい玻璃の入った窓は小さく、室内はほとんど暗闇と言ってよい。ルカは自分のカバンを漁って、マッチの小箱と燭台を取り出した。手早く火をつければ、暗い廊下に木の燃える、少し酸味を帯びた臭いが散った。
「……御身様は、本当にこの寮でお育ちになったのですね」
「5歳まで、だが。その御身様というのは、外では避けた方が良いのでは。身を隠すのならば、ユディも私を名前で呼ぶべきではないだろうか」
 一刻ばかりを雪中の移動に費やして、疲れた足が少しだるい。長靴の中で固まった関節を曲げ伸ばししつつ、ルカは風呂場へ続く廊下を進むユディの背に声をかけた。
「……残念ですが、それはできかねます」
「いっそ様もなしで」
「……承服しかねます」
 主の言葉は一も二もなく受け入れるべし、と教育された筈の「鉄壁の侍従騎士」があっさりと拒否する。
 廊下の奥、黒金具の装飾が美麗な扉を潜るユディの、少々不満げな声だけが残った。ルカは小さくため息をこぼしてから、薄暗く少々埃くさい台所へと移動する。
 4~5人分の食事を作るのに問題のない広さの台所は、火の気もないのにふんわりと暖かい。濃い色の床や、漆喰を縫った壁は使い込まれて、室内はくすんだ色合いで統一されている。流し台には大鍋が伏せて置いてあって、その下から流水の音が聞こえた。ミトンをしたままの手で伏せた大鍋を外すと、部屋に暖かい湯気がふんわりと広がる。石樋の端から石造りの流し場へ絶え間なく流れ落ちる湯が、もうもうと湯気を上げる。湯量の豊富な源泉がこの家の地下にあって、厚い壁伝いに建物自体を温め、また寮内の水源ともなっているのだ。温泉と冷泉の両方を通しているので、煮炊きはほぼこれらで賄えるし、風呂にも入りたい放題だった。その上、山頂近くの寮は夏でも夜にはかなり冷えたので、一年を通して暖房として重宝されている。
「……ああ、ここを去った時とほとんど変わりないようだ」
 ルカがこの寮に暮らしていたのは、およそ十三年前まで。ルカの母、オリハン大公息女のソーヤ姫と、彼女の侍女騎士であるグレタとのたった三人でのつましい暮らし。月に数回は麓に暮らす寮の管理人が通って来てくれるとはいえ、仮にも大公家の息女とは思えないほどに質素な生活だったと、今ならばわかる。
 世間ではこっそりと父なし子と揶揄されるルカを、ソーヤ姫はこの寮で隠れて育てたのだ。もっとも、実際の子育ての大半は侍女のグレタが担っていたけれども。ソーヤはもともと体が弱く、産後の肥立ちが良くなかったのか、ルカの記憶の中でも彼女は寝込みがちだった。不便な山荘での暮らしを、騎士でもあるグレタがてきぱきとこなして、ルカは歩くまでは籠に入れられて、歩けば彼女の後ろをついて回って、そうやって五年を過ごした。
荒天が多い冬はほとんど寮内で過ごすしかなかったから、文字を覚えたり刺繍や編み物を教わったりと、庶民の、しかも女性の手仕事を習って過ごした。神殿に上がった後も、オリハン大公家から派遣された乳母と侍女たちが刺繍や編み物を何故か積極的にルカに仕込んだので、今では立派に一人前の職人技を身に着けている。ルカの指導をした長老や高位神官達は微妙な顔をするが、ルカ本人は楽しんだ上に小遣いが稼げるので気に入っている。もっとも、神殿の潤沢な予算の上に、実家であるオリハン大公家から仕送りもあるので、もともとルカは手元には困らないのだが。
「まあ、実家とはいえ、私は一度もオリハンの家には行ったことはないのだけれど」
 台所の棚を探って陶器の碗を二つ出し、行料袋から円盤状に固めた茶葉を取り出す。腰帯に下げた護身用兼手作業用の片刃の短剣で碗に茶葉を削り入れてから、石樋から洗い場へもうもうと湯気を上げて流れ込む湯を、さきほどまで被せてあった大鍋に受けて、流し場のそばの台へと据えた。
 少し考えてから、ルカは行料袋から取っ手付きの軽金属製の碗を出して、鍋から湯をくみ上げる。作業台の上の碗へ注いでから、再度湯を汲んでそっと口元へと運んだ。
非常時に持ち出すための行料袋には、軽金属製の取っ手付きの碗と、固焼きの木の実入り焼き菓子、カチカチになるまで干された塩漬け肉の塊、塩やハーブの調味料に火打石が入っている。襲撃を躱して逃げる神官が、少なくとも一週間程度は身を隠していられる程度の、最低限の食料と道具が入れてあった。ただ、水だけは、その場で確保しなければならないのだが。
 ルカはゆっくりと白湯を飲み下して、記憶の底にある幼い頃に覚えた味と比較してみる。同一か、と問われればいささか心元ないけれども、ソーヤとグレタと過ごした頃の味に相違ないように思えて、知らずため息が零れた。
「居間はそのままでもいいか。……寝室は、どうしよう」
 この寮が十三年前と同じままであるならば、一階には台所と洗濯場と居間、厠と風呂場が配置され、玄関から続く廊下の途中にある階段を上がれば、客間が二つ、主寝室と小間使いのための小部屋とが二階にあった。居間は南西側に、台所と洗濯場は北東に、風呂場は南東に配置されている。厠は、廊下を真っ直ぐ進んだ先、納屋へ通じる扉の傍、ほとんど真北に位置する場所にある。壁を隔てて隣が台所で、かけ流しの温泉が一年を通して流れているせいか、真北側にあるのに厠は暖かかった。納屋への扉はこの地方では珍しい引き戸なので、一見して扉には見えない。芯張り棒と鍵とで厳重に閉められているので、ルカが住んでいた頃に納屋へ通じる扉が開くのを見たことはなかった。
 ルカはつま先立ちで、庭側の玻璃を張った窓をのぞき込む。
 高い位置にある窓は、十八になるというのに竜人としては痩せて背が低めのルカには伸び上がらないと外が伺えなかった。
 四族の中では、竜族がもっとも背が高く体格もよく、ついで大猫族、狗族とほぼ並んで、人族がもっとも体格も劣り、脆弱だとされた。赤い星から飛来した神は、この地に根付いた人が度重なる天変地異で滅びかねないことを憂えて、他の三族を造ったのだから当然ともいえる。
 それでも、竜人の子は弱い。そして人族の数倍の寿命を持つがゆえ、成人までの期間もまた長いとされた。個人の差はあれど、しっかりと大人の体形に育つまでは三十年近くかかるといわれる。ましてやルカは、虚弱さを補うためにある処置を施しているがため、今年大神官の任に着くというのに、いまだ成人前の見習い神官のようにしか見えなかった。
「……私だって、あと十年くらいもすれば、きっとユディやシェートラ師兄のような立派な体格に……!」
 分厚い玻璃の向うでひときわ高く吹雪く音がして、ルカは無意識に両腕を組んで自分の胸を抱き込んだ。石樋から流し場へ落ちる湯は部屋を暖めて、ほとんど寒さは感じない。
 記憶もおぼろではあるが、幼年期に過ごした寮にいるのだというのに、ずっと居心地が悪いのは、やはり自分が襲撃の標的だと判っているからだろう。
 晴れて百日萬行となれば、あとは後ろ盾となる有力貴族か王族を選び就任の儀式を経て、ルカは大神官となる。その肩書は終身だが、この大陸に神経のように張り巡らされた神殿を総べるのは、うまくやったとしても数十年のことと長老たちに言われている。その後は、おそらくオリハン大公領の片隅などで、楽隠居となる予定だった。
 そのためには、現在のこの窮状をうまく逃げおおせて、いい感じにオリハン大公家と協力して神殿の独立性を守ってくれる、高位貴族か大商人の後ろ盾を得て大神官の地位へ着き、現状の良くて軟禁、悪ければ暗殺、の薄暗い未来を避けねばならなかった。
「――目指せ、楽隠居! 読書と刺繍と編み物の日々を」
 口の中でぶつぶつと呟いて、よい塩梅に茶葉がふやけた碗を手に取る。少し考えてから、粗末な行料袋から黒砂糖の小さな塊を取り出して碗へ抛り込んだ。
「未来ある十代の若者が、楽隠居目指してどうするんですか」
「ッつ!」
 すぐ背後からユディの声がして、ルカは両手に碗を包み持ったまま、小さく跳ねた。
「その前に大神官の座に着かねば、始まらないでしょうに」
 大げさに嘆息したユディが、台の上から碗を取り上げる。うっすらと埃が積もっていたらしい台の上には、碗の跡が二つついていた。顔をしかめたユディは、台の傍に干してあった、カラカラに乾いた布巾を取って卓上をざっと拭く。
「御身様は、実はかなりおおざっぱですよね」
「えーうん、まあ、そうかもしれぬ」
 ことりと小首を傾げて見せると、一瞬だけユディが息を詰めた。
「ええ、刺繍と編み物以外では。ほら、さっさと湯浴みして来てください。貴方、一人でも大丈夫でしょう?」
 掌を軽く払う仕草をしてから、ユディは流し場へと向き直った。神殿のどの厨房も、物を収納する場所はきちんと決められていて、流し場の周りだけは調理器具を探して迷うこともない。卓上に雑に置かれた麻布の行料袋から豆の袋とカチカチに乾いた干し肉を取り出して、何事か思案している。
「……ほら、ぼんやりせずにさっさと行く」
「あ、はい」
 珍しく、やや邪険なルディの物言いに、ルカは背を向けつつそっと微笑む。ルカが十になった年にユディはオリハン領南部の田舎から谷に上がって、ルカに服従を誓っているから、かれこれもう七年以上主従として寝食を共に過ごしている。
 十になったばかりのルカは、まだやせっぽちの小さな子供で、そのルカから見たユディはすでに十五になって元服しており、上背も体つきも他の騎士に引けを取らなかった。浅黒い肌が健康的で、首裏で無造作に束ねた髪が波打って背の半ばまで届く。彼は石畳に跪いたまま輝く金色の瞳でルカを見上げて、ほんのわずかに唇の端を持ち上げた。
「御身様、どうぞよろしくお願いいたします」
 威勢の良い啖呵こそが似合いそうなのに、意外と低い声音でユディは厳かに告げる。少し怖いかも、とルカは内心物怖じしたが、ナキール導師に仕込まれた『大神官らしい』微笑でなんとかうなずき返した。
おっとりと笑うルカは、子どもとはいえいずれ大神官となる異能の持ち主、見る側は勝手に畏怖やら敬意やらを抱いてくれる。だからどんなに内心でビビろうとも、穏やかにゆっくりと微笑まなくてはならない。
 ナキール導師の教えは、それ以降も度々ルカを救ってくれたから、ルカのナキール導師への信頼は厚い。経典に精通し、谷の歴史を自ら織り上げるナキール老は、乾いて深くしわを刻んだ姿ゆえ『ミイラに親和性のあるご隠居』やら、もっと直截に『死にぞこない』やらと陰口をたたかれてはいるが、神殿のご意見番であり、交渉事の千峰でもある長老院の重鎮だった。
 ルカとユディとの初めての顔合わせは、どことなくぎこちなかった。侍従騎士候補として着任して以降、ユディは当時ルカの生活の手配を一手に握っていた乳母ノルチアの補佐として丸2年を過ごし、その後1年はどこぞへ出向した後、ルカが十三になる年に谷へと戻って来た。十八のユディと十三のルカ、幼い主は根っからの引きこもり体質で、暇を見つけては読書だ刺繍だ、編み物だと、神殿の自室にこもってせっせと手を動かしている。
 まるで深窓の令嬢のような状態の斎王君に、ユディは涼しい顔をして恭しく仕えてくれた。だが、故郷では剣の腕がずば抜けて優れて、将来を嘱望されて谷に入った彼が、幼い主を実はどう思ったか、ルカは想像すらできないままだった。
 ルカが十五になる年に乳母と侍女たちが谷を辞してからは、以来三年の間ルカの生活全般をユディが差配している。
「石鹸は、風呂場にありましたよ」
「うん」
「……髪を洗うのは明日以降になさいませ」
「……うん」
 廊下へ出たルカの背を、続けてユディの声が追いかける。世間に言うおかあさん、という存在は、もしやユディのことではないか、とルカは常々疑っている(乳母のノルチアはもっと厳格に己とルカとを線引きして、身分が上の者としてルカを扱った)。
 この山荘に隠れて住み、母と過ごした5年間だが、何故かルカはソーヤ姫を母と呼ぶことはなかった。気づいたときには母を名前で呼んでいたし、主寝室に伏せるソーヤとは顔を合わせずに一日を過ごすことも多かった。儚く淡い色彩の女性は、今は鏡を見ればすぐ間近に視線を合わせはするけれども、記憶の中の彼女は、ルカには遠い存在だった。
「とりあえず、お風呂に入ってさっぱりしよう」
 堅牢な壁に覆われた屋内は、廊下であってもふんわりと暖かい。つい数刻前まで過ごしていた、山の裏側の岩屋とは大違いで、襲撃を避けたおかけで生活環境が改善されるのはおかしなものだとルカは小首を傾げた。
 暗い廊下を玄関の方へ戻って風呂場への扉を押す。玄関へ続く内扉の向うから、ほそく高く吹雪く風の音がかすかに届いた。
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