斎王君は亡命中

永瀬史緒

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1.追われる理由、あるいはルカの状況

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 ルカは父なし子である。
 母であるソーヤ姫はオリハン大公家直系、しかも大公家は女系継承だから、もしもルカが女児であれば、たとえ父親が知れずとも次々代のオリハン大公として本家で大切に育てられただろう。
 だが、残念ながらルカは男児だった。その時点で本家の継承者としては失格であり、いかな「アスカンタ宮廷の華」ソーヤ姫の子であっても、父親が知れぬとあれば本家での養育は難しかっただろう。
 その上、ルカの容貌はソーヤ姫に生き写しだった。四族最大の王国たるアスカンタ、その絢爛たる宮廷の、数多いる貴族の誰もが認める美貌の姫君。白銀の髪に銀の瞳、陶器のような白い肌を引き立てる赤い唇。どのような手練れの画家でもその美貌を画布へ写し取ることは能わず、希代の詩人ですら詩歌に彼女の姿を伝えること叶わず。
 そう謡われた華は、だが彼女が十八の年に忽然と姿をくらませる。オリハン大公は娘の不在を病気療養のためと発表して、宮廷の貴族たちは皆、彼女の不在を嘆いた。
 そして五年が経過し、ソーヤ姫は星都の大公家屋敷へ戻り、彼女とそっくりの容貌をした幼子が谷へ神官見習いとして上がった。
 谷の神官達は、神職者となる誓を拙く宣ずる幼子を見て、初めてソーヤ姫の療養の真相を知ったし、その噂はじわじわとアスカンタ宮廷へと広まった。
 ほどなくして、ソーヤ姫と瓜二つの容貌をした男児が、いずれ大神官を継ぐ斎王となったという報が神殿より発布される。混乱する王族と貴族らを睥睨しつつ、当代のオリハン大公(彼は女系継承のオリハン大公としてはめずらしく男性だった。入り婿の彼と三人の娘を成した先代オリハン大公ファリアは、三人目の出産のおりに命を落としていた)が即座に斎王の後見となったことを公表すれば、そこにはもうオリハン大公家と星教の総本家たる大神殿―通称「谷」、それに対抗する王家、という危うい構図が出来上がっていた。
 以来十三年間、谷はオリハン大公家という心強い味方を得たが、一方ではアスカンタ王家と水面下での睨み合いが続いていた。
「――っと、薪が足りないか」
 ユディは小鍋にレンズ豆と削いだ干し肉を入れてから、竈の下の薪を改めた。絶え間なく流れる湯を使って調理するから、薪はあまり使わない。それが判っているから、竈の下の薪の蓄えはおざなりで、初めてここで調理をするユディには心もとなく見えた。
「外に行くのは、億劫だな」
 隧道を出てこの寮へ着くまでの間の、外の吹雪を思い返しつつ小さく呟く。火が通りきらなかったら、その時に取りに行くかと算段をつけて、竈にかけた鍋に重たい蓋を乗せた。
 手早く料理をしてしまえば、竈の火を眺めつつとりとめなく浮かぶ事象に心を浸すばかりで、ユディは無意識に小さく息を吐いた。
 ルカの厄介事はまず、父なし子であることだった。
 そして、ソーヤ姫に生き写し――あるいは、ソーヤ姫をも凌ぐほどの美貌の持ち主であること。
 そういう意味では、幸運にもルカは男児に生まれついた。オリハン大公本家の直系跡取りにはなれずとも、ある意味、ルカは幸運といえた。
 少なくとも、アスカンタ宮廷の華ともてはやされたソーヤ姫のように、「父なし子」を孕んでしまうことはない。アスカンタ王国の、権勢を誇るオリハン大公家の息女であっても、図抜けた美貌がゆえソーヤ姫は、不名誉にも父なし子をもうけるに至った。
 王国随一の権勢を誇るオリハン大公であってさえ、美貌の娘が間違いを犯すのを防ぐことは叶わなかった。もしルカが女児であったならば、たとえ本家の深窓で育ったとしても、その抜きんでた美貌ゆえに同じ間違いを防ぎきるのは難しかったろう。
 ユディは慎重に鍋をかき混ぜつつ、初めて会った時のルカの姿を思い出していた。
 けぶるような銀の髪は柔らかく肩から胸へと流れて、薄青く光って見える。生成りの衣は神官達のまとう裾の長いゆったりとした形で、十歳になったばかりの幼い子の着る服にしては動きにくそうに見えた。
 白く長いまつ毛は大きな銀の瞳を飾って、柳眉はあくまでも優雅に彼の整った容貌を際立たせる。柔らかい線を描く頬の、非の打ち所のない卵型の面立ちに、大きな銀の瞳、愛らしい唇と柔らかい頬は美少女そのもののように思えて、ぼんやりと魅入ってしまってから、ユディは己の主が男児であることを思い出す。
 秀でた額に質素な金属の額飾りを巻いて、鷹揚に頷いた子供はあいまいな微笑を浮かべていた。短剣どころか、匙以上の重いものは持ったことがなさそうな、と思ってから、ユディはこの儚げな主をいかにして守るか、に腐心することになった。
 実際のところ、ルカはそれなりに剣も使えるし、見かけによらぬ大食漢がゆえ、料理も器用にこなすのだが。
 そこらあたりの身分への拘りの無さは、乳母ノルチアの教育の賜物だろう、とユディは思っている。
 オリハン大公本家で、ソーヤ姫の乳母を務めた年嵩の侍女頭は歯に衣を着せぬ強いひと(彼女の四族を、ついにユディは知らぬままに分かれた)で、剣一筋だったユディをなだめあるいは説教して、数年で見事な侍従へと導いた。
「黒猫の坊や、よくお聞き」
 ふくよかな体形のノルチアが窘めるようにそう言うのは、決まってルディが失敗した時だった。鋭い爪を持つ黒豹であっても、彼女にかかれば猫の子も同じ。
 そうやって諭されて、たしなめられて、ほんの数年でユディはどこに出しても恥ずかしくない、斎王の侍従として仕えるようになった。
 ルカに仕え始めた頃、ユディはしょっちゅうノルチアにそうやって窘められた。
 なにしろ、彼の主の凄まじいまでの美少女ぶり(男児だが)は、身構えていてもなお、その容貌に魅入ってしまう。月光を形に現したような姿に魂を吸い寄せられて視線は釘付けに、子どもらしく細く高い声音は柔らかく耳を打って、言葉の意味を理解する前に耳朶をくすぐって零れてしまう。
 朝に主を起こしにいってしばし固まり、起きた主人のあどけなくも眠たげな顔を見てさらに魅入られ、気を取り直して着替えを手伝い髪を結う頃になれば、鏡越しにユディを伺う視線に身体の自由を封じられる。
「……今はもう、すっかり慣れたはずなんだが」
 それでもふとした仕草に、――今日はこてりと小首を傾げるという、何気ない動きに心臓を鷲掴まれて、ユディはしばし呼吸の仕方を忘れてしまった。
 幸いにも天然級におっとりした主人は、周辺の人々が度々動きを止めるのを「じっくりと吟味している」と理解して、返事が返るのを鷹揚に待っている。
 その姿はまさに「大神官」たる風格を備えて、最近では移動の道すがら垣間見るだけの下級神官からも篤い信仰の対象となっている、らしい。
 コトコトと沸騰する鍋を前にして、ユディはわずかに眉間にしわを寄せた。
 その実、傍近く使えるユディの知っているルカはといえば、ほっそりとした見かけに似合わず大食漢で(それは竜の姿が取れないとはいえ、本性が優れて大きい竜人ゆえであっても)、竜族の身を考慮した上で賄われる食事ですら足りずに自分でこそこそと専用の厨房で料理をしたり、朝夕に日差しを避けて薬草園で丹精する姿が板についていたり、ナキール老や師父たちに神学や気象学の指導を受ける傍ら、ただの神官「ルカ」として(ベールで髪を隠してはいるものの)、衣装部の刺繍部屋へ楽しげに通って低位神官である職人たちに交じって刺繍をする姿などを見慣れているせいで、篤い信仰の対象、と言われてもどこかピンとこなかった。
「……まあ、黙っていれば、確かに神々しい……か」
 幼い頃に会ったせいか、ユディにはどうしても護衛対象のぼんやりおっとりした主だとしか見えないが、信仰に篤い神官達にはまた違った様に見えるのかもしれない。
 重い蓋を開ければ、ふわっと広がる湯気の向うに、干し肉に火が通り始めたのか煮汁の中でひらひらと舞う。ユディは木匙で鍋の中をかき混ぜて、蓋を戻した。
「……ついでに、薄焼きパンを作るか。確か雑穀粉もあったはず」
 流し台の下の棚を漁って、薄焼きパンの材料を揃える。行料袋には木の実入りの固焼き菓子が入ってはいるが、すぐに移動することも考えて、この寮の材料を使う方がよいと考えた。
 備え付けの棚には、塩と黒糖、膨らし粉もちゃんと用意されている。この寮を任さている管理人は、信仰に厚く誠実な人柄らしい。もう十年以上使われていないのに、きちんと新しい食材が置かれていた。
「雪が少なくなる季節までは、ここに留まるしかないか」
 浅黒い指先で器用に粉を捏ねながら、ルディは独り言つ。
 国境を挟むとはいえ、一つの山の裏と表。谷を制圧した軍の名目は、「他国の軍が斎王君を脅かすとの情報が入ったので、いち早く保護せんがため」といったところか。
 それが第二王子派の擁する私軍なのか、それとも第一王子の近衛騎士団なのかは分からない。なにしろ、ユディとルカとは、襲撃の気配を感じただけで谷から少しばかり距離のある岩屋から、一目散に逃げて来てしまったのだから。
 もしも手勢に余裕があれば、谷の状況を探りにやらせるところだが、いかんせんたった二人。しばらくは近くに潜伏して、谷へ戻ったシェートラの使いが接触してくれるのを待つしかない。
 どちらにせよ、襲撃者の目的は斎王君の確保で、そしてユディはその身を賭して彼らを阻止せねばならない。
「ある意味、予定通りともいえる」
 数百年ぶりに擁立される大神官は、歴史を振り返っても、いつも王家との確執の原因になったから、ルカの即位が決まった時点でこうなるのは目に見えていた。ユディがルカに仕える誓いを捧げる時にも、長老院からありがたくもくだくだしいご高説をいただいた覚えがあった。
 ぶつぶつ呟くユディは、手早く鉄板を竈に置いて、玉杓子の背で豆油を塗り広げた。薄く成型した生地を丸く広げると、じりじりと焼ける音とともに香ばしい匂いが台所に広がる。
「ルカ様は、幸運と不運とを同時に持っておられるから」
 オリハン大公家に生まれ、類稀な美貌の持ち主の男児であること。それだけで吉と凶とが絡み合うのに、さらに彼は大神官を継ぐ決定的な資質を備えている。
 異能者であること。
 王家や大貴族の子孫の持つ、不可思議な力の発現。
 ある者は言葉を発せずとも他者との意思のやりとりを可能とし、またある者は民衆の心へと直接語りかける。さらにある者は、神を降ろして未知の技術を授け、隠された真実を暴く。
 ルカの持つ異能は、神降ろしの能力だった。


 畏怖され、忌まれ、隠されて継承されてきた異能者は、必ず神殿に上がって神官となり、場合によっては大神官として擁立されてきた。
 だが、この数世紀の間は、異能者もほとんどおらず、それゆえ大神官もまた擁立されることはなかった。
 ルカは、実に数百年ぶりに谷に擁立された斎王君であって、衆生は次の夏至に大神官が冊立されるのを無邪気に待っている。
 この数百年、アスカンタ王家は星教のくびきから離れてのびのびと、民衆からしてみれば青息を吐く程度には圧政を敷いていたので、王族からしてみれば大神官の出現はさぞかし頭の痛いことだろう。
 ルカの異能――神降ろしが発現したのは、ルカが神殿に入ってすぐ、5歳の時だったという。
 わずか齢5つにして神官の請願を適えたルカを、神殿はどう扱うかに迷った。神官見習いとしては幼すぎるが、星都にいくつか所在する孤児院に入れるには本人の身分が高すぎる。
 通常、神官見習いの請願は十二歳くらいで立てるものだから、ルカの五歳というのはあまりにも早すぎた。
 星教の要、学者でもある中位から高位神官の集う谷では、そこまで幼い子供を育てた実績がない。突然幼子の養育を任された神官達は、とりあえず神官見習いの修行をルカに課した。ルカは健気に十二歳の神官見習いたちに交じって学び、割り当てられた仕事(さすがにこれは年齢を考慮して軽い労務に差し替えられた)をこなしたものの、環境の変化と竜人の幼児の体力を考慮しない労務のせいで、わずか三日目にして倒れてしまった。
 オリハン大公の孫が高熱に倒れた、との急報に慌てて駆け付けたナキール老と、ルカの勉学指導を任されたオッタル師父とが見守る前で、ルカは高熱に浮かされつつ神降ろしを行ったのだ。
 当時を知る神官の一人が、ユディにしみじみと述懐してくれたことがある。
「ルカ様が降ろされた神は、異界の、教育者と名乗られました」
 降りたのは、幼児教育に造詣が深く、幼い子供を指導するのに長けた女性だったという。ルカの枕元に、居住まいを正して控えるナキール老とオッタル師父に、幼子に労働を課す不手際をこんこんと諭し𠮟責するのが当の幼子本人であるという、端から見ると滑稽で、なおかつ恐ろしい光景だったらしい。
 年配女性の声で語る幼児の、明確な神降ろしを目の当たりにして、長老院は即座にルカを斎王として、いずれ大神官の位に着く身であることを発布した。
 以来十三年を、ルカは大神官になるための準備期間として谷の神殿の奥の院にて養育されてきたのだ。


「……いいお湯だった」
 ほんわりと頬を染めたルカが、毛先の濡れた髪を雑に整えながら台所へと戻って来た。
 風呂場へ向かった時と全く同じ服装なのは、すぐに移動する場合を考慮したからだと思われた。ユディは石鹸の香りを薄くまとうルカを眩しげに眺めてから、湯気を立てる鍋へと向き直った。すっかり火の通った干し肉と豆は塩味を調整した汁の中でうまそうに煮えている。
「ユディは、お風呂は?」
「食後で結構です」
 貴族向けの華奢な磁器ではなく、使用人の使う、もったりと厚みのある陶器の碗に干し肉と豆のスープを注いで作業台に置く。台の端に重ねてあった薄焼きパンをルカの前に引き寄せれば、ルカが湯上りで上気した頬を緩ませた。
「……実はお腹空いていたんだ」
「そろそろ日没ですしね」
 こっくりと頷いて、ルカは作業台の下に押し込まれていた丸椅子を引き出す。たった二人だけ、わざわざ居間に移動するまでもない。暖かい台所の作業台で摂る食事は、冷えた身体に染みて、喉の内側を落ちる温度を知覚できた。
「あー、あったかい。もう、暖かいだけでごちそうだな」
 2枚目の薄焼きパンを汁に浸しつつ、ルカが呟く。その気になれば贅沢な食卓を所望することも可能な地位にあるのだが、幼い頃から神殿で質素な食事を旨として育ったせいか、そこらあたりには彼は無頓着だった。薄焼きパンには薄緑色のカンランの実を絞った一番油がいいとか、乳酪を溶かしてつけたいとか、その程度のわがままはあったが、可愛らしい範疇といえた。大食漢のルカは、むしろ質よりも量を取ったので、いつも専属の料理人たちはせっせと大量の食事を作り続けていた。斎王院にいるルカ付きの使用人は他の神殿と比べてもさほど多くはないが、比較して作る料理の量は多かったので、谷の中では忙しい部署といえた。
「干し肉からもだけど、豆のお出汁が出て結構美味しい」
 碗を両手で持ち上げて、豪快に飲み切ってからルカが満足気に感想を述べる。
「御身様は、塩味だけでも好きでしょうに」
「うん。塩味もいいけど、魚醤とか豆醤とかの発酵調味料も好きだな」
「……好き嫌いがなくて、結構なことで」
 ルカがいそいそと席を立って、二杯目を碗に注ぐ。たっぷり注いでから、背後のユディを少しだけ振り返った。
「これって今晩食べきってもいい?」
「……そうですねぇ」
 ユディは優雅に木匙を動かしつつ、顎をわずかに上げて高窓の向う、とっぷり暮れたろうに雪の照り返しでわずかに青みを帯びた外を伺う。
「明日、晴れる時間があるなら、どうぞ」
 吹雪の中を氷室まで食材に取りに行くのは、たとえほんの少しの距離であっても避けたかった。命がかかっている今日のような場合は例外だが、ユディは大猫族だから、できれば暖かい寮内でぬくぬくと過ごしたい。
「午前中ならば大丈夫、かな」
 ルカは小首を傾げて、やけに断定的に告げてから、申し訳のように語尾を濁した。ユディの知る限り、ルカの天気予報は百発百中、絶対に外れることはない。
 ルカは自身の専門として、薬学と気象学を長老たちから学んでいる。したがって、天気予報はその勉学の成果である筈だが、本人いわく、なんとなく勘が働くらしい。専門を極めたオッタル師父であっても、「一度も外さない」というのはあり得ないことらしかった。
「……では、どうぞ心置きなく食べ切ってください。あ、私のおかわり一杯分は残して、です」
「もちろん」
 満面の笑みを浮かべて、新しい薄焼きパンを半分にむしった。ルカが二杯目を食べ終える前におかわりとパンをもう一枚確保しないと、と思い直して、ユディは自分の碗へと向き直った。
 しばらく静かに食事を進めて、ルカが思い出したように顔を上げる。
「今晩、ユディはどこで寝る? 客間も二つあるけど、主寝室は寝台が二つあるし」
「護衛が別室に下がっては、いざという時に間に合わないでしょうが」
 自分の碗にたっぷりよそっても、まだ鍋には少なくとも二杯分の汁が残っている。薄焼きパンも食べ切るには余裕があるので、どうやら一見華麗で小食風なユディの主人は、きっと満腹で眠れるだろうと、ひそかに安堵する。
「氷室に、カンラン油があるかな」
「さて、しばらくはこの寮にいるのならば、穀物粉に干し肉も出しておかないと」
 三人前をぺろりと平らげるルカに、ヒト族の成人男性と同じか、少し多く食べる自分では、行料袋の食料ではすぐに足りなくなってしまう。
「野菜の塩漬けもあるといいな。……酢漬けも」
 ほわほわとした笑みを浮かべるルカは、優雅な仕草で三杯目のスープを食べ切った。鍋をひっくりかえして底に残る具を碗に掻き入れて、何事かやり切ったような表情をする。
「明日の予定はそれでよいとして、御身様はこれからどうされますか」
「……どうと言っても、襲撃者の正体が分からないと具体的にはどうにも」
 煮崩れた具を匙ですくって、ルカは眉間にしわを寄せた。一見して、今後の方針を思案しているようにも見えるが、あれはきっと具と汁を食べる配分に迷っているだけだとユディは知っている。
「イスカは、大丈夫かな。……あれは、結構無謀なようだから」
 ぼそりと呟いて、ルカは残りの量を確かめるように椀を覗き込む。白湯を注いだ木杯を押しやってから、ユディは小首を傾げる。
「イスカは、御身様にお仕えしてまだ一年にもなりませんが、腕は確かなのは保証します。侍従見習いとはいえ御身様の側仕えとなるためには、谷の中でも抜きんでていなければ。それに、シェートラ師兄が匿ってくれるのならば、心配はありませんよ」
「うん、だといいけれど」
 ルカが十六になる前に乳母のノルチアと侍女たちがオリハン家に辞去して、ルカの傍に仕えるのは実質的にユディ一人となった。まだ大神官就任も先の話であり、のんびりと斎王をやっている間は、ユディがきちんと従僕らを差配していれば問題もなかったのだが、さすがに翌年の夏至には大神官の就任の大祭がある、となった時に、ルカを傍近く補佐し護衛するのが一人だけでは賄いきれないだろう、という事になった。
 その頃に、シェートラ師兄の推薦で御前に上がったのがイスカだった。ルカよりも一つ若い十六歳、あかるく輝く濃灰色の瞳にムラのある灰白の髪はゆるく波打つ。シェートラの故郷のさらに奥、ありていに言って辺鄙な田舎の出身だが、身元はシェートラの実家が保証してくれた。シェートラの家と同じ翼竜人の家系、いざとなれば本性の姿で空を駆ける事もできる。そして、背格好がルカに似ている事も採用の決め手になったという。
 つまり、周囲は何かあった時に、イスカがルカの替え玉を演じる事ができるところを買ったのだ。性格的にルカよりもずっと外交的で屈託がなく、たった一年勤める間に谷のあちこちの神殿に知り合いを作って、ルカが喜ぶような谷内の噂話や情報をちょこちょこ斎王院へ持ち帰ってくれる。実直一辺倒のユディにはできない形で、イスカもまたルカにとってはかけがえのない存在になりつつあった。
「さて、私たちはこの後どちらへ向かうべきか」
 自嘲気味に呟いたのは、一端は修羅場からは逃げはしたが、結局のところこの騒動の目的であって、さらには決着をつけるのも、斎王たる彼にしかできないのがルカにも判りきっているからでもある。
「雪の溶ける季節になるまでは、どちらにせよ動けません。けれども、雪解け後にポーラスタの首都に向かうか、それとも東イスタンハルを経由してアスカンタ星都に戻るか……、あるいは隧道を戻って岩屋から谷へ入るか」
 薄焼きパンの粉をはたいてから、指を折って示して見せれば、ルカが大きく首を傾げた。ほぼ無意識に、手に持った匙を唇に当てて、宙へと視線をさまよわせる。
 その仕草が意図せず稚く、そして嫣美であったのでユディは慌てて自分の碗へと視線を落とした。
 寝食を共にして早七年、いい加減どのような表情にも仕草にも、すっかり慣れたと自負していたのに、ふとした瞬間に胸を絞られるような感覚に陥って、自分の主に魅入ってしまう。
「……隧道経由はナシで。あそこの抜け道は、まだ露見させたくはない。このまま私がポーラスタの首都に姿を現せば、襲撃側は私が最初からそこに居た、と勘違いしてくれるだろうさ」
「東イスタンハルはいかがですか?」
「ポーラスタの現王は、今でもソーヤ姫にご執心とか。ならば、私の願いも聞き入れてくれそうだと思わないか」
「……ああ、そういう」
「いささか狡い手ではあるが」
 にっこりと、大輪の花の咲くように微笑んだ成人男子は、けぶるような睫毛を塞いでチラと横目で彼の侍従騎士を見た。
「ユディ、今晩は本性がいいな」
「……本性だとすぐ眠くなるんですけど」
「でも、寝が浅いからすぐ覚醒できるんだろう?」
 とろけるように微笑んで見せて、ルカがやや上目遣いをする。
 ええまあ、と曖昧に答えてから、ユディは卓上から食器を取り上げて立ち上がった。
「ここを片付けて、湯浴みをしてから寝室に上がりますので、ルカ様は先におやすみください」
 流し台へ流れ落ちる湯で碗をすすぐのを、ルカが隣から手を伸ばす。
「私がここは片付けるから、ユディは湯を使っておいで。……せっかくのもっふもふを、私が逃すと思うか?」
「では、遠慮なく」
 質素な食事だったから、使う食器も数が少ない。片付けにさほどの時間はかからないが、早くも眠くなったらしい斎王君は――なにしろ、修行の身の朝は早い――久しぶりに侍従騎士が本性の、黒豹の姿で添い寝してくれると判ってか、うきうきと支度を始めた。
「髪飾りは、今晩は外さずに。万が一追っ手がかかった場合を考えて、外套は寝室へ置いてください」
「わかっている」
 手際よく食器を洗って、作業台の端へ伏せたルカが歯切れのよい返事を返す。ユディは墨染の衣を止めるベルトを緩めつつ、廊下への扉を潜った。
 外から入って来た時には、ずいぶんと暖かく感じた廊下は、台所に比べてみれば肌寒い。扉を閉じればとっぷりと闇に沈んで、いかに夜目の効く大猫族であっても、不慣れな場所ではゆっくりと歩かざるを得なかった。

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