政略結婚のエリート御曹司は蜜愛をご所望です

有允ひろみ

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1巻

1-3

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 けれど、この先自分に理想的な結婚相手が現れるとは思えない。
 そうであれば、いっそこの話を受けてしまったらどうだろう?
 敦司の言うとおり、彼とはしょっちゅう喧嘩はするが、長年付き合ってきて気心も知れている。
 何より、彼と結婚すれば崩壊寸前の「武本旅館」を立て直せるし、環と恋人の結婚話を邪魔されずに済むのだ。
 ビジネスに重点を置いた考え方をすれば、この話は素直に受けてしかるべきだ。
 買収ではなく、業務提携。
 ならば、敦司との結婚だってその一環のつもりで受け入れたらいいのだ。
 理沙は座卓の一点を見つめながらひとしきり考え込んでいたが、ふと顔を上げて敦司を見た。

「話の内容は、よくわかった。でも、どう考えてもうちのほうにメリットがありすぎない? もしかして、ほかにも何か狙いがあるんじゃない?」

 探りを入れるような目で敦司を見ると、彼はにっこりと微笑んで軽やかな笑い声を上げた。

「さすが理沙だ。実は、ひとつ交換条件がある。仮にも夫婦になるんだから、妻としての役割をきちんと果たしてもらいたいんだ」
「えーっと、それは具体的にはどういうこと?」
「理沙も知ってのとおり、俺は今まで何人かの女性と付き合ってきたが、誰とも本格的な恋愛には発展しなかった。それには、いくつか理由があるんだが……まあ、それは置いておくとして――」

 敦司がおもむろに居住まいを正したのを見て、理沙も改めて座布団の上に座り直した。

「俺は将来的に室月家を継いで『室月ホテル&リゾート』のトップに立つつもりだ。後継ぎであるからには結婚して子供をもうけることを期待される。俺もできたらその期待に応えたいと思ってる。つまり、理沙に俺との子供を産むことに前向きになってほしいんだ」
「あ……あぁ、そういうことね」

 要は、夫婦の間で子供を作りたいということだ。
 ごく普通の考えではあるけれど、驚きすぎて変な声が出た。
 なるほど、「室月ホテル&リゾート」の御曹司である敦司の妻になるなら、後継者を望まれるのは当然だ。
 しかしそうなると、敦司と男女の関係になる必要がある。
 いや、夫婦になるのだからそれは当たり前だが、如何いかんせん、この結婚には双方とも恋愛感情が皆無だ。
 あるとすれば腐れ縁的な友愛か、積年つちかってきたきずなくらいのものだろうか。
 理沙にとって、敦司は幼馴染であり長年の喧嘩友達だ。
 これほどの美丈夫だから、ほんのたまにだが彼に異性を感じることはある。けれど、セクシャルな感情を抱いたことなど一度たりともなかった。

「むろん、夫婦になったからといって子供ができるとは限らないし、結婚前にブライダルチェックをするっていうのもいいかもしれないな」

 敦司があれこれと言っている間も、理沙は彼との結婚について目まぐるしく考えを巡らせていた。
 予想だにしない展開に気持ちが追い付かず、話を聞けば聞くほど頭の中は混乱するばかりだ。それでもなんとか落ち着こうと努力し、現実的な考え方をしようと必死になる。

「敦司との子供を作る……ってことは、つまり、そういうことよね?」
「そういうことって、セックスのことを言っているのか? まあ、子作りにはいろいろと方法があるだろうが、それが一番手っ取り早いし確実だろうな」
「ぐっ……」

 またしても変な声が出そうになり、理沙は唇をグッと噛みしめて鼻孔を膨らませた。さりげなく湯呑茶碗を手に取り、残っていたお茶をぜんぶ飲み干した。
 冷静になって考えてみると、敦司は普通ならどう頑張っても得られないほどハイクオリティな男であり、彼との結婚はまさにたま輿こしと言える。
 それはともかく、敦司とベッドをともにする――そう思うと、にわかに顔が赤くなり鼓動がとんでもなく速くなった。
 さっきから感じていたことだが、彼との結婚が現実味を帯びるにしたがって、理沙の中で敦司の存在が急激に変化し始めている気がする。
 はっきりとはわからないが、彼に対する自分の意識が変わりつつあるのかもしれない。
 その証拠に、にわかにソワソワして落ち着かなくなってきている。それを誤魔化すように咳をすると、敦司が座卓の端に置いてあったお茶のペットボトルを手渡してきた。

「冷たいけど、飲むか?」

 理沙は無言で頷くと、急いでペットボトルの蓋を開けて、ごくごくと喉を鳴らしながらお茶を飲んだ。
 中身が半分ほどになったペットボトルを座卓の上に置くと、敦司がそれを手に取って悠然ゆうぜんと残ったお茶を飲み始めた。

(か、間接キス……)

 もしかすると、今までにもこういうことはあったかもしれない。けれどもしそうだとしても、今のように過剰反応などしなかったはずだ。
 それなのに、どうして――
 理沙はそんな自分に戸惑って、下を向いて視線をうつろわせた。

「あ……でも、加奈かなさんは?」
「加奈さん? ……ああ、和久井わくい課長のことか。どうして今、彼女の名前が出てくるんだ?」

 和久井加奈は「ホテル室月」の営業推進部内にあるマーケティング課の課長であり、温泉旅館ホテル組合にも頻繁に顔を出しているため、一応理沙とも顔見知りだ。

「敦司って、加奈さんと割と仲がいいよね。彼女、美人でバリキャリだし、結婚するなら私より彼女のほうがふさわしいんじゃないかなって」

 容姿端麗で仕事もできる加奈は、現在二十八歳のシングル。以前モデルをしていたというだけあって抜群のプロポーションをしており、ワンレングスのショートボブがよく似合うクールビューティーだ。
 とはいえ、理沙はほとんど彼女と話したことはないし、聞くところによると、かなり上昇志向が高くてきつい性格らしい。
 実際、どうしてだか理沙は彼女にあまりよく思われていないようで、用事があって話し掛けるとあからさまに迷惑そうな顔をされる。
 それはさておき、以前組合の飲み会で小耳に挟んだことだが、加奈は敦司とたいそう仲が良く、社内ではお似合いのカップルと言われているようだ。
 理沙がそう話すと、敦司が怪訝けげんな顔で首をひねる。

「俺と和久井課長の仲がいい? 誰がそんなデマを流したのか知らないが、俺と彼女はあくまでも仕事上の関係で、それ以外の関わりは一切ない」
「そうなの?」
「当たり前だ。彼女は確かに飛び抜けて優秀だけど、それが結婚する理由にはならないな。そもそも、そう考えるほど彼女のことを知らないしね。それに引き換え、理沙のことは昔から知っているし、扱い方も心得ている」
「それはつまり、私なら扱いやすいって言いたいわけ?」
「まあ、そういうことだ」
「やっぱり」

 一気に鼻白んだ顔をする理沙を見て、敦司が愉快そうに笑い声を上げる。
 結婚だの子作りだのと言われて、ついパニックにおちいってしまった。
 だが、結婚をビジネスの延長線上に考えるほどドライな敦司だ。彼にとっては理沙との間に子供を作ることでさえも、仕事の一環に過ぎないのだろう。
 だからといって、やることをやらなければ子供もできないわけで。
 それさえなければ、もっと楽にこの話を受け入れられるのだろうが……

(でも、敦司はさっき「子作りにはいろいろと方法がある」って言ってたし、必ずしも実際にするとは限らないのかも――)
「それに、俺と結婚すれば理沙の夢も叶うだろう?」

 唐突にそう言われ、理沙はキョトンとして敦司を見た。

「え……どういうこと?」

 理沙が首をひねると、敦司が飲み終えたペットボトルをポンと叩いて座卓の上に置いた。

「理沙だって、本当は『武本旅館』を継ぎたいんだろう? でも自分は次女で、次期女将おかみになるのは環だ。理沙はそれを仕方のないことだと割り切って、本音を抑え込みながら従業員の一人として日々業務に当たっている。そうじゃないか?」

 ズバリと本心を言い当てられ、理沙は少なからず驚いて口を半開きにしたまま、まじまじと敦司の顔を見つめた。

「なんで、それを? 私、今までそんなふうに言ったことないよね?」
「ないけど、普段の理沙を見ていれば一目瞭然いちもくりょうぜんだ。俺と結婚すれば、将来『ホテル室月』の女将おかみになれる。なんなら、うちが経営するほかのホテルでもいいし、それでももの足りなければ新しくホテルか旅館を作るっていうのはどうだ?」

 敦司がグッと顔を近づけて、理沙と視線を合わせてくる。

「え? ええっ?」

 矢継ぎ早に予想外の提案をされて、理沙はまばたきをするのも忘れて彼の瞳に見入った。
 まさか、自分のひた隠しにしていた思いが敦司にバレていたなんて。
 理沙は驚くと同時に、彼の観察眼に舌を巻いた。

「もちろん、理沙の覚悟と努力次第だけど、もし理沙がそう願って努力した末に実現したなら、それは理沙の夢が叶ったことにならないか?」
「うん、そうだね」

 あまりに現実離れした話だから、さすがにピンとこない。けれど、それが実現することを想像すると、ワクワクが止まらなくなった。
 それが顔に出たのか、理沙を見る敦司の目が綺麗な三日月形に変わる。

「理沙がやる気なら、俺は協力を惜しまないし、全面的にバックアップをさせてもらう。前々から考えていたんだが、理沙は女将おかみに向いていると思う。あわて者だし、かなり抜けているけど、細かいところに気がついたり、物事をまったく別の角度から見たりするだろう?」
「ちょっ……それって、褒めてるの? それともけなしてるの?」
「もちろん褒めてるに決まってるだろ。人とは違う視点を持つのは望んでできることじゃないし、それもひとつの才能だと俺は思う」

 サラリとそう言い切られ、嬉しさに頬が緩む。

「そっか……ありがとう」

 昔からからかわれたり、余計な一言を言われたりするのに慣れているから、つい冗談めかして詰め寄ってしまった。
 それだけに、ストレートに褒められるとなんだか妙にこそばゆい。しかし、敦司に女将おかみに向いていると言ってもらったことが思いのほか嬉しかった。

(敦司に褒められるなんて、かなりレアだものね。いったい、どういう風の吹き回し?)

 ただ、思い返してみれば、敦司がからかう対象は理沙の知る限り、自分だけだ。
 子供の頃から元気で明るい性格の理沙は、割と誰とでもすぐ仲良くなるし、年齢を問わず人からよく慕われるタイプだ。その分、親しみを込めてからかわれることがあった。大人になった今は、さすがにそんなことはめったにないが。
 しかし、温泉旅館ホテル組合などで顔を合わせた時は、昔のノリで少々度が過ぎる軽口を叩いてくる者がいる。
 そして、その場に敦司が居合わせようものなら、彼は憤然ふんぜんとして抗議し、理沙に謝るよう相手に詰め寄るのが常だった。
 自分がからかうのはいいけれど、ほかの者がそうするのは許さない。
 そう考えると、敦司はからかいやくだらない冗談などから理沙を守ってくれる、自分本位な騎士ナイトと言えなくもない。
 ふと、そんなことを考えてニヤついていると、自分を見つめる敦司までなぜか口元を緩めているのに気づく。

「なあに? ニヤニヤして、変なの」
「理沙こそ。何かよからぬことを考えていたっぽいけど……どうだ、図星だろ?」
「ふふん」

 理沙が口を一文字にして黙っていると、敦司が小さく笑い声をらした。

「とにかく、ぜったいに悪いようにはしないし、後悔はさせない。『武本旅館』の立て直しについては、俺が責任をもって最後までやり遂げる。もちろん、理沙や武本家の人たちと話し合いながら進めさせてもらう。どうだ? 俄然がぜん、俺との結婚に前向きになったんじゃないか?」
「そうね。まぁ、そう言えなくもないかな」

 敦司に軽い調子で問われて、彼と同じトーンで返事をする。
 長年こうして付き合ってきた関係性は、伊達だてじゃない。
 理沙は、結婚という突拍子もない提案をしてきた幼馴染の顔をじっと見つめた。そして幾分冷静になって、彼の妻になる可能性を今一度よく考えてみた。
「室月ホテル&リゾート」は、業界ではトップスリーに入る大企業だし、彼の言うようにがむしゃらに努力すれば、理沙もいずれそれなりの役職につけるかもしれない。
 しかし、都会に居を構える敦司や環に対して、理沙は生まれてこの方、地元を離れたことがない。
 高校卒業後は自宅から通える場所にある短期大学で観光学をおさめ、その後はどこかに就職することもなく、当たり前のように「武本旅館」で働き始めた。
 もっとも、家業の手伝いは高校生の頃からしていたし、庭で繋がっていることもあって、旅館にはしょっちゅう顔出しをしていた。
 いわば「武本旅館」は理沙の生活の一部であり、そこから離れるなんて考えたことがなかった。
 これまで「武本旅館」が生活のほとんどだったが、敦司と結婚すれば自分の環境は激変し、世界は一気に広がるだろう。
 そう思うと、にわかに気分が高揚し、身体中がポカポカしてきた。
 むろん、まだ戸惑いのほうが大きい。けれど、実現したら想像もしなかった未来が開けてくるのだ。

「私、『武本旅館』が本当に大事なの。女将おかみにはなれないけど、あそこは私が一番多くの時間を過ごした場所であり、生きてきた証みたいなところなんだもの」
「うん」

 多くは語らないが、その一言で敦司が理沙の言わんとすることを理解してくれたのがわかった。
 きっと、敦司にとっては「ホテル室月」がそうであり、二人は同じくらい自分たちのその場所を愛している。

「だけど、本当に大丈夫? 結婚するとなると家族や親族も関わってくるし、彼氏とか彼女と違って簡単には別れられないんだよ? 私の記憶が正しければ、敦司って恋人ができてもいつも半年以内に別れちゃってたよね」
「確かにそうだな。原因は俺が恋人よりも仕事を優先したから。そう言う理沙も、俺と似たようなものだろう?」
「そうよ。『武本旅館』は万年人手不足だし、そうせざるを得なかったんだもの」

 調理場担当などの専門職は別として、「武本旅館」での業務は、そのほとんどを理沙と両親がになっていた。
 そのため、理沙はデートよりも仕事を優先させるしかなかったし、仮に両方を天秤にかけたとしても、迷わず旅館の仕事をとっていただろう。
 理沙はそれだけ「武本旅館」を大事にしてきたし、今もそうだ。
 かたや、敦司も恋愛そっちのけで「室月ホテル&リゾート」の仕事にあたっている。

「俺も理沙も仕事に熱を入れるあまり、恋人が二の次になってた。忙しくて基本、電話には出ない。メッセージが送られてきても返事をするのは仕事が一段落ついてから。仕事と恋人とどっちが大事か、と聞かれて迷わず仕事と答えてしまう――それが俺たちだ」
「そうだね……。そう考えると、私と敦司って、そういうところはすごく似てるのかも。もしかして、それもあって私と結婚しようと思ったとか?」
「それも理由のひとつかな。似た者同士は、夫婦になっても上手くいく確率が高い」

 敦司の言う確率の信ぴょう性はさておき、彼と話しているうちにに落ちることが多々あった。
 敦司はきっと、様々なことを考えた上で自分との結婚を決めたのだろう。

「さすが、業界でも一目置かれる一流のビジネスパーソンだなぁ。敦司にとって、恋愛も仕事のうちなんだね」
「いや、そればっかりじゃないな」
「え?」
「それと、これは俺から言い出したことだから、結婚にまつわるものはもちろん、今後の生活に掛かる費用はすべて俺が負担させてもらう。理沙の稼ぎは自分の好きにしていいし、俺は一切口出ししないって約束する」
「ちょっ……いくらなんでも、それは私に都合がよすぎない?」
「そうか? 俺はむしろ俺に都合がよすぎると思ってるくらいだよ」

 敦司はそう言って、タブレット端末の画面をトンと叩いた。新しく表示されたのは、妊娠から出産までの流れが書いてある図表だ。

「子供を作るからには、理沙は十カ月もの妊娠期間をたのちに、出産という大仕事をやり遂げなければならない。妊娠出産に関する辛さや痛みを代わることはできないけど、できる限りサポートをするつもりだ」

 図表には妊娠の月齢ごとに胎児や母体の様子がイラスト付きで記入してあり、別の枠には様々な注意点や、夫の役割について書かれている。

「子供が生まれたら、夫婦二人三脚で子育てが始まる。お互いにはじめてだから戸惑うことだらけだと思うし、仕事との両立にも苦労するだろうけど、その都度話し合って一緒に乗り越えていこう」

 そう話す敦司の顔はとても真摯しんしだった。
 世の中には口先だけの良き父親が大勢いると聞くが、敦司は昔から有言実行の人だ。
 それにしても、彼が夫としてここまで理想的な人だとは想像もしていなかった。
 彼の意外な面を知り、理沙はポカンと口を開けたままその顔をまじまじと見つめた。

「なんだか、ちょっとびっくり。敦司って、もっと亭主関白っていうか、古い考え方をする人なのかと思ってた。もしくは子育てもプロに任せるとか」

 敦司の両親はともに仕事熱心で、一人息子の子育ても住み込みで雇い入れた専任のナニーに一任していたと以前聞いたことがあった。

「俺はこう見えて子供好きだからな。理沙も知ってるだろう?」
「それは知ってるけど、自分の子供となると責任とか苦労が段違いだっていうでしょ」
「これから仕事がどんどん忙しくなることを考えると、プロに任せるのもひとつのやり方だ。だから、どうしても必要になったらその時にまた話し合って答えを出せばいいかな、と」
「うん、そうだね」

 外見からするとそうは見えないが、敦司は大の子供好きだ。組合主催の行事がある時でも、率先して子供たちの面倒を見る。しかも、仕事同様全力で相手をするから子供たちに大人気だ。
 理沙はといえば、正直あまり子供の相手は得意ではない。だからといって決して嫌いなわけではなく、むしろ可愛いと思う。ただ、扱いに慣れていないせいで不安が先に立ってしまうのだ。
 それに漠然ばくぜんとではあるけれど、結婚するなら子供は欲しいと思っていた。
 とはいえ、これまで具体的にはじっくり考えたことがなかったし、今は敦司との結婚自体が衝撃的すぎてそれどころではない。

「理沙は、どうだ? 俺が見たところ、子供の扱いがイマイチわからないって感じだけど」
「わかる? 実はそうなんだよね。……こんなんで、子育てなんかできるのかな?」
「大丈夫、俺がついてる」

 自信たっぷりにそう言われて、多少気が軽くなった。
 きっと、これからも考えなければならないことや悩みが出てくる。けれど、敦司とならどうにかやっていけるのではないだろうか。

「特に、子供が小さいうちなんて、あっという間だ。そんな貴重な時間を仕事だけについやすなんて、もったいなさすぎる。子育てを母親に任せきりの父親が多いと聞くけど、俺はまっぴらごめんだ」

 彼は自分との結婚を実現させるために、いろいろと調べたり考えたりしたのだろう。
 急な話で何かと頭が追い付かないが、敦司となら良きパートナーとして一生をともにできそうな気がする。
 何にせよ、いろいろと話をして、ようやく気持ちが固まった。

「わかった。私、敦司が出した条件を呑むわ。――いわば『身売り婚』? 受けて立つわ」
「『身売り婚』はさすがに聞こえが悪いな。まあいい。とにかく、よく決心してくれたな」

 敦司が嬉しそうに相好を崩しながら、理沙を見る。
 自分も彼も仕事第一人間であり、そこは気が合う者同士だ。
 大事なものが同じだとしたら、敦司との結婚はきっと上手くいく。
 そう考えた理沙は、差し伸べられた彼の手を強く握りしめると、未来の夫ににっこりと微笑みかけるのだった。


     ◇ ◇ ◇


 長年の片想いが、とうとう実を結ぶ時を迎えた。
 理沙は結婚を承諾してくれたし、あとは夫婦になれるその時を待つのみだ。
 一連の流れを振り返ってみると、「武本旅館」の買収の話は、敦司にとっては人生最大のチャンスだったのかもしれない。

(なんてことを言ったら、理沙に怒鳴られるだろうけど)

 昨今の観光業界の低迷で、「ホテル室月」のある温泉地でも、ここ何年かの間にいくつかの宿泊施設が廃業を余儀なくされた。
 原因は物価の高騰こうとうや生活費の上昇、人々のライフスタイルの変化などの外的要因によるものが大きい。
 そのほかに、人手不足や後継者の不在。建物の老朽化や資金難等の施設ごとの問題が発端になっている場合もあった。
 それらについては組合内でも何度となく問題視されて議論してきているが、結局最終的にものを言うのは資金力であり、それなくしては現状を保つ以外に抜本的な問題解決は不可能に近い。
「武本旅館」に関しては、建物の老朽化はもとより、財政的な問題が長く続き、栄一が実情を明かしてくれた時にはもうどうしようもない状態におちいっていた。
 もっと早い段階で相談してくれていたらと思うが、今さらどうすることもできない。
 世代的に、本来話をすべきは双方の父親のはずだが、二人は普段まったく交流がなく、プライベートはおろか組合などで顔を合わせても挨拶だけで終わるのが常だ。
 聞くところによると、若い頃は親友と呼べるほど仲が良かったようだが、いったい何が原因でこれほど疎遠になってしまったのだろうか……
 交流がないのは母親同士も同じで、もとは同じ学年の子供を持つ者として普通に接していたのに、敦司が中学に進学するあたりからパタリと交流がなくなってしまったのだ。
 その一方で、敦司は武本姉妹とはずっと仲良くしていたし、親同士の思惑など子供には関係ないと割り切っていた。


「『武本旅館』の理沙ちゃん、今度お見合いするんだって?」

 二月なかばの平日、敦司は「ホテル室月」の事務を担当している古参の女性従業員からそんな質問をされて愕然がくぜんとした。
 結果的にただのうわさに過ぎなかったが、それを聞いた時の胸のざわつきといったら、言葉に尽くせないほど不快だった。
 もっとも、それ以前にも理沙に対する気持ちを自覚するきっかけになるはずだった出来事はいくつかあったが、よもや自分が本当に彼女に恋心を抱くなんて思いもしなかったのだ。
 理沙が十八歳になったばかりの時、彼女にはじめての恋人ができたと聞かされた。
 気がつけば、話してくれた環にあれこれと質問を浴びせかけ、相手が年上のフリーターだと聞くなり、理沙に「そんなやつとは今すぐに別れろ」と進言していた。
 結局、破局したけれど、それ以来、敦司は理沙の恋愛事情にあれこれと口出しをするようになる。
 その頃の敦司は、すでに実家を出て都内の大学に通っていたが、理沙に小言を言うためにわざわざ帰省したことも一度や二度ではない。
 しまいには、それまでめったにやり取りなどしなかったSMSで本人に恋人の有無を確認するようになり、頼まれてもいないアドバイスをしてかなり煙たがられ口喧嘩も増えた。
 それでも、それらのおせっかいが理沙に対する恋心のせいであるとは気づかず、告白されて何人かの女性と付き合ったり別れたりしていた。
 その間も、恋人そっちのけで理沙の恋愛に口出しをして、盛大に嫌がられたりして……
 ある時、それを大学時代からの親友に話したら、「お前、その子に惚れてるだろ」と笑われてしまった。
 自分が理沙を恋愛対象にしていたなんて、ぜったいにあり得ない。
 しかし、どんなに考えを巡らせて逃げ道を探しても、最後には親友の言葉に行きついてしまう。
 それまで誰と付き合っても淡白な関わりしか持てなかった自分が、理沙にだけは抑えきれない強い情動を感じる。
 観念して親友の言葉を素直に受け入れたら、すべてがに落ちて唖然としたものだ。
 それ以来、敦司はただ一途に理沙だけを想い続けている。
 だからこそ「武本旅館」が危機的状況にあることを知ってじっとしていられなくなり、なんとか救済できないかと知恵を絞った。
「武本旅館」のピンチを自分のチャンスに変えるのは多少なりとも気が引けたものの、背に腹は代えられない。私財を投げうっての対応も考えたが、そのせいで理沙との関係が微妙なものになるのは避けたかった。
 結局、外資系企業の参入を未然に防ぐことと、地域の景観保持を理由に「室月ホテル&リゾート」として「武本旅館」を買収するのが一番いいと判断し、決死の覚悟で社長に進言したら早々に決裁が下りた。

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