政略結婚のエリート御曹司は蜜愛をご所望です

有允ひろみ

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1巻

1-2

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 理沙がハクモクレンの香りを胸いっぱいに吸い込んでいると、飛び石の先にある玄関の引き戸が開き、中から敦司が出てきた。

「よう、久しぶり。そんなところで道草食ってないで、早く入れ」

 敦司に呼びかけられ、理沙は仏頂面ぶっちょうづらで玄関に急いだ。

「あいかわらず、口が悪いわね」

 文句を言いつつ飛び石の上を歩き、玄関に入ったところで敦司をじろりと睨みつけた。
 それにしても、いつもながらビジュアルが良すぎる。
 理沙の身長は百六十センチだが、敦司はそれよりも三十センチ以上高い。
 敦司が理沙の顔を見てニッと笑う。その余裕ある態度に眉を吊り上げると、彼は「おお、怖い」と言ってわざとらしく身震いをした。
 背を向けた彼のあとをついて縁側を進みながら、綺麗に手入れされた庭の景色を眺める。
 ふと懐かしい気分になったけれど、今は昔の思い出にひたっている時ではない。

「今日は俺一人だから、気兼ねはいらないよ。大声を出すなり暴れるなり、好きにしてくれ。その様子からして、俺に何かしら文句があるんだろう?」
「当たり前でしょ。どうして買収の件を私に一言も言わなかったの?」
「いろいろと忙しくてね」
「いくら忙しくても連絡くらいできたよね? どうして秘密にしてたの? さっき両親に聞いて、目が飛び出るほど驚いたんだから!」

 つい大きな声を出してしまい、理沙はハッとして口をつぐんだ。
 少し前を歩いていた敦司が、理沙を振り返ってフンと鼻を鳴らす。どこか面白がっているような彼の顔を見るなり、理沙は床を思い切り踏み鳴らしたくなった。

「まあ、落ち着けよ。とりあえず座って」

 敦司に促され、理沙は縁側を挟んで庭に面した居間に入る。
 八畳の和室の真ん中には長方形の座卓が据えられており、理沙は勧められるままに座布団の上に腰を下ろした。すぐにでも問いただしたい気持ちを抑え、ゆっくりと深呼吸をする。

「それで、条件って何? どんな取引をしたらうちに経営権を残したまま『武本旅館』を危機的状況から救ってくれるの?」

 理沙が訊ねるも、敦司は悠々ゆうゆうとした態度を崩さない。彼はトレイから湯呑茶碗を載せた茶托ちゃたくを持ち上げると、理沙の前に置いてくれた。

「まずは、お茶をどうぞ。美味い緑茶の茶葉が手に入ったんだ。一口飲んでみて感想を聞かせてくれないか」

 わざと挑発するようなことを言ったかと思えば、急に違う話をして出鼻をくじいてくる。
 敦司との会話はいつもこんな感じだし、油断していると彼のペースに巻き込まれてしまいがちだ。
 しかし、湯呑茶碗から立ちのぼる湯気からは、確かに深みのある茶葉の香りがする。
 理沙は憮然としたまま湯呑茶碗にふうふうと息を吹きかけ、適温になるのを待った。
 それにしても、いい香りだ。
 深く感じ入りながら一口お茶を飲み、その芳醇ほうじゅんな香りに鼻孔を膨らませる。

「美味しい……。深みがあって甘さもある。これ、どこで手に入れたの?」

「武本旅館」では、宿泊客がやってくると女将おかみみずからお茶をれて歓迎の挨拶をするのが慣例になっている。
 お茶はいわばウェルカムドリンクであり、そこには旅館のこだわりともてなしの気持ちが込められているのだ。
 経営には口出しをしない理沙だが、その代わり任されていることに関しては、一切の妥協を許さない姿勢を貫いてきた。お客様に出すお茶の選定もそのひとつで、何度か敦司に相談を持ち掛けたこともある。
 理沙の問いに敦司は惜しげもなく生産地などの詳細な情報を明かし、必要なら自分の名前を出して詳しく話を聞けばいいと言ってくれた。
 ひとしきりお茶の話で盛り上がり、ふと気がつけば時計の長針が半周している。
 いつものことではあるけれど、敦司の話のはぐらかし方は見事と言うしかない。
 理沙は気を取り直して居住まいを正し、ごほんと咳払いをした。

「そろそろ話をもとに戻しましょ。単刀直入に聞くけど、敦司は何をたくらんでるの? いったい、どんな魂胆こんたんがあって、うちを買収するなんて話になったのか教えてちょうだい」

 理沙が努めて冷静な声でそう訊ねると、敦司が座卓で頬杖をついていた手を膝の上に戻した。

たくらんでいるなんて、人聞きの悪い。買収の件を聞いたなら『武本旅館』が経営破綻はたんおちいっていることも、もう知ってるよな? 『武本旅館』はお前が思っている以上にヤバくて、今にも崖から真っ逆さまに落ちそうになっている。このままでは廃業はまぬがれない」

 敦司は険しい表情を浮かべ、座卓の上のタブレット端末を理沙の前に置いた。
 それからおもむろに立ち上がり、理沙の近くにやってきてすぐ隣に腰を据える。

「こういうのは数字を見ながら話したほうが理解しやすい。まずは、これを見てくれ」

 画面に次々に表示されるデータは、損益計算書やキャッシュフローなど、すべて「武本旅館」に関するものだ。

「この数字を見れば、わかるだろう? 利益は出ているけど、儲かってはいない。借入金と返済があって改築や設備投資に回す金がない。しかも年々支払い能力が低下しているから、追加の借り入れは無理だ」

 画面上の数字やグラフを示され、それについてわかりやすく説明する。
 数字があまり得意ではない理沙に対して、敦司は国内最高峰の大学をトップクラスの成績で卒業したほどの秀才だ。
 接客業務では負ける気がしないが、経営や資金管理に関する知識は彼のほうが豊富だし、太刀打ちできるレベルではなかった。
 経営難についての話は父から聞いていたが、理解できていたかと訊ねられたら首を傾げざるを得ない。
 けれど、敦司の説明の仕方が上手いのか、自分でも驚くほど彼の話が頭の中にスルスルと入っていくのがわかった。

「建物の老朽化もかなり進んでいるし、いくら料理が美味しくても客足が遠のく一方だ。外資系投資ファンド会社がどうして『武本旅館』に目をつけたのかが気になるが、それはさておき、事態は急を要する」

 敦司からわかりやすく説明されて、理沙は改めて「武本旅館」が崖っぷちの状態であるのを理解した。
 しかし、いずれにしても急な話すぎて、いったい何をどうすればいいのか見当もつかない。

「ごめん。もうちょっとだけ考えさせて」

 理沙は焦る気持ちを隠そうともせずに、唇をギュッと噛みしめた。
 敦司が言うことはもっともだし、「武本旅館」が自力で持ち直すのは明らかに無理だ。
 それはわかってはいるけれど、今さらながら「武本旅館」が買収のう現実に打ちのめされ、思考能力がゼロになる。
 敦司の説明を受けてようやく現状を正しく理解した今、何も気づかないままでいた自分自身をひどく情けなく思う。
 理沙がしょぼくれていると、敦司がいつの間にかからっぽになっていた湯呑茶碗に二杯目のお茶を注いでくれた。

「理沙が『武本旅館』をどうにかしたいという気持ちは、同業者としてよくわかる。その上で言うんだが、旅館を存続させたいと思うなら、うちからの提案を呑むしかない。そうじゃないか?」

 常に上から目線で、何かというとすぐにからかったりしてくる敦司だが、今の彼はそうではない。
 まるで教師みたいに丁寧で、こちらが理解できるように噛んで含めるように話してくれている。
 けれど、それがわかるだけに、自分の無能ぶりが際立って情けなさに拍車がかかる。その挙句、行き場を失ったいきどおりが自分の中で今にも爆発しそうになってしまう。

「……買収なんて、嫌よ。私は次女で旅館の従業員に過ぎないけど『武本旅館』は私の大切な宝物よ。心のどころだし、これまで生きてきた土壌どじょうであり、根っこなの。それを買収とか……。どこが相手だろうと、そんなの無理に決まってる……!」

 本当に無理なのは買収から逃れることであり、それは百も承知だ。
 そうとわかった上でこぼ愚痴ぐちは、もはやただ駄々だだねているに過ぎず、みっともないことこの上ない。
 しかし、一度言い始めたら、そう簡単に口を閉じることはできなかった。

「敦司がなんと言おうと、『武本旅館』はうちの家族が守るべき根城なの。家族全員、旅館を守るために精一杯努力してきたし、お姉ちゃんだって『武本旅館』の女将おかみになるために東京で修業しているのよ? それなのに……とにかく、買収なんかぜったいに無理。私がそうさせない……。ぜったいに、そうさせないんだから……!」

 ただそう言いたいだけの自分にうんざりしながら、理沙は下を向いて自分の左腕を痛いほど握りしめた。
 本当に、情けない。
 今にも涙がこぼれそうになり、理沙はそれを誤魔化すように、自分の腕を握りしめる右手にさらに力を込めた。

「わかってる。私がどうあがいても『武本旅館』は救えない。私にはどうにもできないし、そんな力があるはずもない。それはわかってるんだけど……」
「そんなに強く握ると、あざになるぞ」

 敦司がそう言いながら理沙の右手の上に掌を重ねてきた。手の甲をそっと撫でられ、反射的に腕を掴んでいた指の力が弱くなる。その隙をつくように右手を引きはがされ、そのまま敦司の左腕の上に導かれた。

「掴むなら、俺の腕を掴め。それだったらあざになる心配はないからな」

 日頃から鍛えているのか、敦司の腕は思いのほか筋肉質で、少しくらい強く握っても痛くもかゆくもなさそうだ。
 言われるがままに握ってみたが、指が肌に食い込まないどころか、硬さを増したような気がする。

「今、腕に力を入れてるでしょ」

 理沙が指摘すると、敦司が小さく笑い声を上げた。

「バレたか。だけど、このほうが握りがいがあるだろう?」
「まあ……そうだけど」

 理沙は鼻の頭にしわを寄せながら、さらに強く敦司の腕を握る。けれど、ふと気がついてサッと手を離し、あらぬほうに視線を向けて二杯目のお茶に口をつけた。

「熱っ!」

 あわてて湯呑茶碗から唇を離す理沙を見て、敦司がおかしそうに目を細める。

「そりゃあ、れ立てだからな。あいかわらずのあわて者だな。もともと猫舌なんだから、気をつけて飲まないとダメだろ」

 指摘され、理沙は素直に頷いて渋い顔をした。
 あわて者なのも猫舌なのも、長年の付き合いでバレてしまった理沙の弱点のうちのひとつだ。
 バレているのだから隠しようがないし、それゆえの気軽さもある。
 しかし、考えてみれば敦司の弱点はなんだろう?
 お茶を飲みつつチラリと考えてみるが、すぐに思い当たらないのは彼がそれだけ完全無欠だからだろうか。

「さっき、理沙は自分がどうあがいても『武本旅館』は救えないと言ったけど、それは違う。逆に、理沙だけが『武本旅館』を救えるし、救世主になれると言っても過言じゃない」
「え……それって、どういうこと?」

 敦司の言っている意味がわからず、理沙は湯呑茶碗を茶托ちゃたくに戻しながら怪訝けげんな表情を浮かべる。

「どういうことかって、それこそが理沙がここに来た理由であり、俺が理沙に説明しようと思っていた条件の詳細だ」
「そうだった! 私はそれを聞くためにここに来たんだった」

 うっかりいつものように話を逸らされて、本来の目的を忘れそうになっていた。
 旅館の命運がかかっているというのに、なんというていたらくだろう!
 理沙は自分を叱咤しったしながら敦司のほうに向き直り、彼の腕を掌でパンと叩いた。

「私、敦司に会って疑問に思うことをぜんぶ聞いて、納得がいくまで話し合いをするって両親に言ってきたの。それから、ぜったいに喧嘩腰にはならないって、母と約束したわ。だから、大丈夫。何を言われても、とりあえず聞く姿勢は崩さないから」

 自分に言い聞かせるようにそう話すと、理沙は背筋をシャンと伸ばした。
 敦司と向かい合わせになって対峙し、一瞬ピリリとした緊張が走る。
 これまでは、まだプライベートな感じだったが、ここからはもうビジネスの話し合いだ。

「さあ、どうぞ。うちが『武本旅館』の経営権を武本に残したまま資金提供を受けるには、どんな条件があるのか、詳しく話してちょうだい」

 理沙が意気込むのを見た敦司の顔から笑みが消え、一流ビジネスパーソンの表情にとって代わる。
 これほどの真顔は、組合の会合でもめったに見られない。
 そう確信した理沙はにわかに緊張して、ゆっくり深呼吸する。
 あまり効果が得られないまま、敦司が理沙のほうににじり寄ってきた。今にも膝がしらが触れ合いそうになり、理沙はいつの間にか口の中いっぱいになっていた唾をごくりと飲み込んだ。

「条件は、理沙が俺に身売りすることだ」

 敦司が言い、理沙の目をまっすぐに見つめてくる。
 彼の目を見つめ返す理沙は、驚きのあまり眉を吊り上げて絶句した。

「……え? わ、私が敦司に身売りって……それ、どういう意味?」

 一瞬、聞き間違えたか、意味を取り違えたかと思った。けれど、彼の声ははっきりとしていたし、「身売り」という単語の意味も極めて明確だ。
 それでも意味がわからず、理沙は眉間にしわを寄せて首を傾げた。その顔を見て、敦司が唇に微かな笑みを浮かべる。

「わかりやすく言えば、俺と結婚して『武本旅館』を救えばいいってことだ」
「はあ?」

 ますますわけがわからなくなり、理沙は前のめりになって大声を出した。
 その途端、敦司が上体を反らしながらしかめっ面をする。

「そんなに大声を出すと、びっくりするだろ。まったく、理沙は昔から声だけはでかかったよな」

 敦司に言われて、理沙は無意識にいているほうの手で自分の胸元を押さえた。
『声だけはでかかった』とは、そのままの意味に過ぎない。けれど、日頃から自分の胸が小さいことを気にしているせいか、ついそんな行動をとってしまったのだ。

「べ、別に普通でしょ! それより、結婚って何? なんで私と敦司が結婚するのが『武本旅館』を救うことになるのよ」

 おかしな反応をしたことを誤魔化そうとして、さっきよりも大きな声を出してしまった。
 しかし、今はそれを気にしている場合ではない。
 いきなりの申し出に驚き、理沙は混乱して目をパチパチとまたたかせた。

「結婚して夫婦になれば、武本家は俺の義実家になる。妻の実家を支援するのはなんら不思議なことではないし、そもそも義実家であれば買収ではなく資金提供込みの業務提携に変更できる。うちの親父は今回の買収に関しては俺にすべてを一任しているんだ。だから、理沙がこの話に乗ってくれたら一事が万事、上手くいくんだが、どうする?」
「ど、どうするって……」

 敦司とは長い付き合いだが、今まで彼を恋愛対象として見たことなど一度もない。当然、彼もそうだろうし、そもそも第三者的な視点で見たらこの結婚は、明らかに格差婚だ。
 資産、スペックはもとより、ビジュアル的にも差がありすぎて、人が聞いたら冗談も大概にしろと言うだろう。
 だが、彼はいたって真面目な顔をしており、冗談で言っているわけではないようだ。

「びっくりしすぎて頭の中がゴチャゴチャだわ。もうちょっとわかりやすく説明してよ」
「いいよ。じゃ、これを見て」

 そう促されて座卓に向き直り、今一度タブレット端末を見た。
 提示された画面には、買収と業務提携の違いなどを説明した文やイラストが表示されている。
 条件なしの買収の場合、「武本旅館」の経営権は「室月ホテル&リゾート」側に移り、武本家はすべての権利を失う。
 しかし、敦司が提示する条件を呑めば、「武本旅館」は「室月ホテル&リゾート」の資金提供を受けて再建できる上に、経営権は武本家から動かない。
 それは栄一から聞いていた内容と同じだし、きちんと納得できた。
 だが、なぜ「室月ホテル&リゾート」がそこまでする必要があるのかという疑問は残ったままだ。

「買収と業務提携の違いは、よくわかったわ。でも、なんでそれが一事が万事、上手くいくことになるの? そもそも崖っぷちのうちと関わって、『室月ホテル&リゾート』にどんなメリットがあるの?」

 理沙が問うと、敦司はそんな質問は想定内だと言わんばかりに、タブレット端末の画面に別の資料を表示した。

「うちは今後、『武本旅館』のような純和風の宿泊施設を新たにオープンさせる予定なんだ。『武本旅館』への資金提供は、その足掛かりのひとつでもある」

 敦司が言うには、同じ宿泊施設ではあるけれど、旅館とホテルには様々な違いがある。
 頭ではわかっているが、実際に経営してみなければ知ることができない部分も存在するだろう。
『武本旅館』は彼にとって、旅館と言えば真っ先に思い浮かぶ場所であり、今の状況はさておき、その歴史や経験値からは学ぶべきことがたくさんあるらしい。

「栄一さんと美和子さんからは、いろいろと教わりたいと思ってるんだ。買収となると『武本旅館』はうちが完全支配することになるけど、業務提携なら同等な協力関係でいられる。そのほうがお互いにやりやすいだろう?」
「確かにそうだろうけど……」

 業務提携すれば「武本旅館」は「室月ホテル&リゾート」の資金提供を受けて施設を改修し、新たな顧客を獲得すべく何かしらのアクションを起こすことも可能だ。その手助けをする中で、敦司は旅館業務に関する知識を深め、同社の新規事業に活かすつもりでいるらしい。
 同時に「室月ホテル&リゾート」は「武本旅館」の立て直しに全面的に協力し、その後の支援についても完全に保障してくれるとのことだ。

「うちは今でこそ全国展開しているが、始まりは『ホテル室月』だ。俺はこの地で生まれ育ったし、温泉旅館ホテル組合の副理事長として、地域にそぐわない建物の建設を許すわけにはいかない」
「それについては私も両親も同意見よ。だけど、なんで私なの? どうせなら美人で才女のお姉ちゃんと結婚したほうがいいんじゃない?」

 理沙がタブレット端末から顔を上げると、同じタイミングでこちらを見た敦司と視線がぶつかった。
 思いのほか距離が近く、理沙は少なからず動揺して言葉を詰まらせる。
 今まで平気で軽いボディタッチをしていたのに、急になんだろう?
「結婚」という言葉が、急に現実味を帯びてきたから?
 戸惑いながらる理沙を見て、敦司が片方の眉尻を吊り上げ、ふっと笑う。

「仮に環にこの話を持ち掛けたとして、あいつが受け入れると思うか?」
「それ、どういう意味?」
「意味ってなんだ? 別にそのままの意味だよ」

 敦司はそう言うが、環は母譲りの美人で、かつて敦司と成績の良さを争ったことがあるほどの才女だ。
 かたや理沙の顔面偏差値は十点満点中、六か七程度。成績はおおむね平均的で、得意科目は特にない。
 環は昔から華奢きゃしゃな体形で、それは今も変わらない。
 一方の理沙は上半身こそほっそりしているが、下半身はどっしりとした安産型。
 中学から大学までバスケットボールに打ち込んでいた姉と、運動が苦手な妹。
 つまり、敦司が言わんとしているのは、すべてにおいて優秀な環よりも、全体的にイマイチな理沙のほうが受け入れられる可能性が高いということなのだろう。
 それがわかるなり、むかっ腹が立って表情がくもりそうになる。
 しかし、敦司の申し出を受けて条件を呑むよりほかに手立てがないときちんと理解した今、感情だけで突っ走るわけにはいかなかった。
 それに、すべて事実だから、怒っても仕方がない。

「無理でしょうね。そもそも、お姉ちゃんにはもう何年も付き合っている彼がいるし」

 環は自分の恋人を一度実家に連れ帰ったことがあり、理沙も顔を合わせている。彼は環が将来「武本旅館」を継ぐと承知しており、その上で結婚を望んでいた。

「その話なら知ってるよ。大学時代から付き合っている人のことだろう? 将来的に結婚して『武本旅館』を継ぐつもりだって聞いてる」

 驚いたことに、敦司は環の恋人の存在を知っているばかりか、ちょっとした知り合いでもあるらしい。
 それはともかく、彼は結婚というものをどう捉えているのだろう?
 自他ともに認めるおしどり夫婦である両親は、誰が見ても互いに深く愛し合っているのがわかる。
 そんな父母を見て育った理沙は、いつか自分もそんなふうに想い合える人と巡り合い、結婚したいと思い続けてきた。
 けれど、実際はそう上手くいかず、出会いはあってもなかなか恋愛に発展しない。過去、二人の男性と付き合ったが、結局別れてしまい、もう三年も男っ気なしだ。
 そのことは敦司にも話したし、逆に彼の過去の恋愛についてもいろいろと知っている。
 敦司とはそれほどざっくばらんな付き合いをしてきたので、まさか二人の間に結婚の話が出るなんて思ってもみなかった。

「どうだ? 環と『武本旅館』のためにも、この話は悪くないと思うぞ」
「お姉ちゃんのため? それってつまり、私が敦司との結婚を承諾しなければ、この話はお姉ちゃんにいくってこと?」

 理沙の質問に、敦司は何も言わないままひょいと肩を竦めた。
 要は、環と恋人の仲を邪魔されたくなければ、申し出を受けろということだろう。
 なんだかジリジリと追いつめられていくような気持ちになったが、旅館を助けたいという強い思いが、自分の乙女心を凌駕りょうがしつつある。

「敦司自身はどうなの? 私と結婚して後悔しない?」
「しないな。すると思ってたら、そもそもこんな話は持ち出さないよ」
「ふーん……」

 敦司から聞いた彼の過去の恋愛を思い出してみると、どれも短期間であった上にサラリとした付き合いばかりだ。遊びで関係を持ったりはしなかっただろうが、将来を誓い合う感じでもなかったと思う。
 彼自身、今までに結婚を考えた女性は一人もいないと言っていた。
 しかし、ハイスペックな美男子ゆえに、黙っていても相応の女性からひっきりなしにアプローチをされているようだ。そのせいで、恋愛にうしろ向きになってしまったのだろうか?
 いずれにせよ、敦司にとって結婚は恋愛の延長線上にあるものではないということだ。

「敦司って、つくづくドライだよね。ちなみに、結婚の件は室月のおじさんやおばさんは承知しているの?」
「いや、まだ話してないから、承知してくれるかどうかはわからないな」
「まだって……。たぶん――ううん、ぜったいに反対されるわよ」
「子供じゃあるまいし、反対されてもどうってことないだろう。昔ならいざ知らず、今時親の承認がなければ結婚できないなんてことはないんだし」
「それはそうだけど……」
「理沙はどうなんだ? 俺との結婚は悪くないと思わないか?」

 敦司がいつになく魅力的な笑みを浮かべながら、理沙に顔を近づけて目をじっと覗き込んでくる。

「そりゃあ『武本旅館』のためを思うなら……って、ちょっと待ってよ。そうやって、そっちのペースに巻き込もうとしないでよ!」
「別に、そんなつもりはないよ。ただ、俺と理沙は気心が知れた仲だし、ずっと一緒にいても苦にはならなさそうだろう?」
「はあ? なにそのうしろ向きな恋愛観」
「いや、俺は至極前向きだよ」
「どこがどう前向きなの?」

 敦司とは口喧嘩もするが、彼とのテンポのいい会話は楽しいし、いつまでも話し続けていられる気がする。
 しかし、絵に描いたような格差婚だし、理沙の両親はともかく、室月夫妻がこの話に頷くとは到底思えない。だが反対されたからといって大人しく引き下がる敦司ではないし、彼がこれほど強硬な態度をとっているとなると、それだけ考えた末の結論なのだろう。
 どうであれ、すんなりと行く話ではないことだけは確かだ。

「要は本人同士の気持ちだし、『武本旅館』の件については俺が全責任をもって事に当たるつもりだ。初期投資は必要だけど、マイナスをプラスにする自信はある。もちろん、具体的な策については武本側と相談して決めることになるだろうが――」

 敦司から聞かされる話は、理沙にとって寝耳に水であり、信じられないようなものばかりだ。
 それは彼の両親も同じだろうし、突然こんな提案をされて、はいそうですかと聞き入れるはずがない。
 敦司の父親である室月肇は生真面目そのものの人で、経営者としての手腕は誰もが認めるところだ。性格は寡黙で、めったに笑顔を見せずかなり近寄りがたい。妻の咲子さきこは元不動産会社の社長令嬢で、肇とは見合い結婚だったらしい。
 かつて実父の秘書を務めていたという彼女は「室月ホテル&リゾート」の取締役の一人で、ゴルフ部門の責任者でもある。
 抜群のビジネスセンスを持つ夫婦は、ともに力を合わせて「室月ホテル&リゾート」の事業を拡大させてきた。そして今、彼らの一粒種である敦司が、それをさらに広げようとしているわけだ。
 その彼が、なぜか今、自分との結婚を望んでいる。
 家業に勤しむ者として、説明された事情はわからないでもない。
 しかし、いくらなんでもそのために夫婦になろうなんて、耳を疑うし常軌を逸している。しかも、姉がダメなら妹でいいという流れであり、理沙が密かに夢見ていた愛し愛されての結婚とは雲泥の差だ。

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