オレ様エリートと愛のない妊活はじめました

有允ひろみ

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1巻

1-1

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「男なんていらない。優先すべきは仕事で、ほかはぜんぶ後回しでいい」

 山久姫乃やまひさひめのは、少し前まで本気でそう思っていた。
 けれど、今はちょっとだけ違う。
 猛烈に、子供がほしい!
 そう考えるに至ったのは、つい先日、三十路みそじを迎えたのがきっかけだ。
 過去の経験から、すでに恋愛も結婚も諦めており、生涯独身なのは確定している。
 それも悪くないし、むしろそのほうが性に合っている。
 しかし同時に、どうしようもない寂寥感せきりょうかんが心の中で徐々に大きくなりつつあった。
 そこから、何かもっと別の生き方があるのではないかと思うようになり、最終的に子供を持つという考えに至ったのだ。
 もちろん、いろいろと考え抜いて出した結論であり、命をはぐくみ育てていく覚悟をした以上、この思いは真剣だ。
 それゆえ熟考の上に、一番現実的な方法を取る事にした。

「お願い! 私、どうしても子種がほしいの。誰か優秀な遺伝子を持った男の人を紹介して!」

 待ち合わせをしたカフェの窓際で、姫乃は親友の戸田祥子とだしょうこに一世一代の頼み事をした。
 テーブルに肘をついてかなり前のめりになっているのは、さすがにこの話を周りに聞かれるのはマズいと思ったからだ。

「ちょっと待ってよ! 優秀な遺伝子ってどういう事?」

 いきなりの頼み事に、祥子が口をあんぐりと開けたまま唖然とする。もちろん、そんな反応は予測済みだ。

「私、一生のパートナーはいらないけど、子供はほしいと思うようになったの。自分の分身をこの世に残したい――産んで育てて見守りたいっていう気持ちが膨らんで、抑えきれなくなっちゃったのよ」

 姫乃はこぶしを握りしめて、真剣な表情を浮かべた。

「はあ? いきなり何を言い出すのかと思えば……。そんな極端な事言ってないで、恋愛をしなさいよ。まだ若いんだし、姫乃さえその気になれば、きっといい人と出会えるわよ」
「ううん。祥子の気持ちはありがたいけど、恋愛なんてしてる暇ないし、する気もまったくないの」

 祥子に諭されるも、姫乃はかたくなに首を横に振る。

「第一、恋愛の仕方なんか、とっくの昔に忘れちゃったわよ。それでいいし、恋愛よりも仕事を優先させて、がむしゃらに頑張ってきたからこそ、今の私があるの」

 姫乃は都心の繁華街から少し離れた場所でジュエリーショップを営んでいる。
 店の名前は「HIMENOヒメノ」と言い、扱っている商品はすべて手作りの一点もので、デザインも完全オリジナルだ。商品は何度かメディアに取り上げられ、それがきっかけになって、ある恋愛ドラマのロケ地として店が使われたこともあった。おかげで、オープン以来売り上げは上々で、かなりの利益が出ている。
 今回の件は「HIMENO」の経営状態と信頼のおけるスタッフがいる事を踏まえた上で、実行可能だと判断した。

「姫乃が仕事を頑張ってきたのは、よく知ってるよ。でも、だからってパートナーなしで子供を持つとか……。ねえ、本当に恋愛する気ないの? もしよかったら、正光まさみつによさそうな人を紹介してもらおうか?」

 正光というのは彼女の夫であり、アパレルメーカー「ソリス」の代表取締役社長だ。「ソリス」は「HIMENO」の取引先でもあり、正光とは祥子を介して以前から面識があった。

「私が恋人より仕事を優先して、ことごとくしくじったのを知ってるでしょ? 私って恋愛に向いてないんだよ。もし仮に誰かと付き合ったとしても、また失敗するに決まってる」
「でも……」
「よくよく考えた上で出した結論よ。もちろん全責任は私が負うし、認知とか養育費とか面倒な事も一切なし。当然それなりの対価を払うつもりだし、妊娠に至るまでの費用も私がぜんぶ持つ。本当に、ただ子種を提供してもらうだけでいいの。祥子にはぜったいに迷惑をかけないって約束するし、本当に紹介してくれるだけでいいから」

 祥子はまだ難しい顔をしている。けれど、姫乃が言い出したら聞かない事や、一度こうと決めたら最後まで頑張り抜く性格である事を重々知っていた。

「姫乃が本気で子供をほしいと思っているのは、わかった。だけど、一人で産んで育てるって相当大変だよ?」
「それも覚悟の上だし、自分なりにシミュレーションして、なんとかなるって思えたから実行に移すことにしたの。当然、計画どおりにはいかないだろうし、やってみなくちゃわからない事も多々あると思う。だけど、頑張りたいの」

 姫乃の熱意が通じたのか、祥子が考え込むような表情を浮かべる。
 あと一押し――
 そう思った姫乃は、いっそう前のめりになって力説した。

「こんな事を頼めるの、祥子しかいないのよ。ネットを通じて精子の売買とかボランティアで提供してる人もいるけど、それだといろいろとリスクがあるでしょう? でも、祥子が紹介してくれる人なら安心だし、意思の疎通も取りやすいと思うの。だから、お願いっ!」

 姫乃は祥子に向かって両手をパンと合わせた。すると、祥子がため息をつきながら首を縦に振った。

「あなたってば、言い出したら聞かないんだから……。わかったわよ。正光にも力を借りて、なんとかして探してみる」

 祥子の承諾を受けて、姫乃はテーブルの上の彼女の手を両手でギュッと握った。

「ありがとう! 祥子ならそう言ってくれると信じてた! 一生感謝するし、頑張っていいママになるって約束する!」

 姫乃は興奮して鼻息を荒くする。それを見て、祥子が笑い声を漏らした。

「気が早いわね。それで優秀な遺伝子っていうのは、どの程度のものを指してるの?」

 祥子がスマートフォンを取り出して、メモを取るしぐさをする。

「紹介するからには、できる限り希望に沿った人をピックアップさせてもらうわよ。頭がいいのは絶対条件として、やっぱり、できるだけ容姿端麗なほうがいいでしょ? 運動神経もいいに越した事ないし、あとは人柄とか?」

 さすが元社長秘書だ。やると決めたらすぐに取り掛かってくれるのが嬉しい。

「お願いできるなら、贅沢ぜいたくは言わない。だけど、いくら恋愛抜きの妊娠が目的とはいえ、パートナーがいる人の精子をもらうのはさすがに気が引けるかな」
「それもそうね。ほかには何かある? どこまで希望に添えるかわからないけど、一応正直な気持ちを聞かせて」

 祥子にうながされ、姫乃は指折り数えながら希望する条件を挙げていった。

「さっき祥子が言ってくれたような人なら、文句なしだよ。あえて付け加えるなら、生まれてくる子供のためにも、目鼻立ちがはっきりしていたほうがいいかな」

 姫乃は奥二重おくぶたえであり、顔のパーツがすべて小ぶりだ。バランスはいい感じに配置されているものの、どちらかと言えば地味顔で華やかさに欠ける。
 昔からそれがコンプレックスだった姫乃は、プライベートはともかく、ビジネスの時は常にフルメイクだ。

「じゃあ、頭の良さと目鼻立ちを優先して探してみるわね。だけど、過剰な期待はしないでよ」
「わかった。よろしくお願いしますっ!」

 姫乃は、今一度祥子に向かって深く頭を下げた。


 それからひと月経った、六月の第三金曜日。
 姫乃は祥子から紹介された「神野友哉かみのともや」なる男性と顔を合わせるべく、都内にあるTホテルのプレミアムフロアを目指していた。

『いい人が見つかったわよ』

 そう祥子から連絡をもらったのは、ほんの二日前の事だ。
 心の準備は万端ではないものの、互いの都合をすり合わせたところ、今日を逃せば会うのは半月先になると言われた。
 それで急遽仕事終わりに会う事になったのだが、時間が経つにつれて緊張が高まってくる。せめて会う前に顔を見ておきたいと思ったが、適当な写真がないと言われ断念した。
 祥子が言うには、相手は姫乃の希望を完璧に満たしており、謝礼金や見返りなどは、いっさいいらないらしい。しかも高身長であるらしく、背丈に関する気遣いも不要だと言われた。
 これについては正直ホッとした。
 姫乃は、身長が一七三センチある。街ですれ違う男性の大半は姫乃よりも背が低く、必要に応じて靴のヒールの高さを調整する必要があるのだ。
 いずれにせよ、戸田夫妻の紹介なら余計な心配はいらない。

『事情が事情だし、初対面だけど、はじめから二人きりのほうが気まずくなくていいでしょ? 具体的な方法とか条件とか、その時に話し合って決めてね』

 祥子にそう言われ、初回のみ彼女を通じて連絡を取り合って、待ち合わせの場所を決めた。
 Tホテルは、平日でも予約がいっぱいの人気ホテルだ。ビジネス用のプランも充実しており、「HIMENO」から徒歩圏内という事もあって、日頃から商談などでよく使わせてもらっている。
 何はともあれ、初対面の印象はよくしておかなければ――
 そう思った姫乃は、閉店後の店のバックヤードで入念に化粧直しをした。
 鏡の前で胸元まで伸びたストレートヘアを丁寧にき、耳の高さでまとめてバンスクリップで留める。
 姫乃は色白で、顔にはシミひとつない。顔の作りがシンプルな分、アイラインで目尻を上げ、唇に色を差すだけで劇的に印象が変わる。
 アイブロウで眉を整え、目蓋まぶたにシックなブラウンのアイシャドウを入れる。次にブラックのアイラインとマスカラで目力をアップして、仕上げに愛用のルージュで唇を赤く塗り直した。

(これでよし!)

 鏡に映っているのは、スタイリッシュなキャリアウーマンである自分だ。すっぴんには自信のかけらもないが、フルメイクをした顔なら胸を張ってどこへでも行ける。
 それも大学に入学して以来、自分なりにおしゃれの研究を重ねてきたおかげだ。
 同時にファッションについても独学で学び、それらが今の職業に就くきっかけになったと言っても過言ではない。
 約束の時刻まで、あと二十分。
 本来ならもっと余裕を持って部屋に入り、彼が来るのを待つべきだった。しかし、出がけにお得意様から連絡が入り、出発が遅くなってしまったのだ。
 道を急ぎながら、姫乃は今さらながら用意した部屋について悩み始める。

(ジュニアスイートとか、気合入りすぎだと思われないかな?)

 面倒な依頼を引き受けてくれた人と会うのだから、それなりの場所を用意しなければならない。
 そう考えた姫乃は、ダメ元で当日Tホテルにハイクラスの部屋にきはないか問い合わせをした。すると、幸いにもジュニアスイートが一部屋だけいていたのだ。

(やっぱりワンランク下のエグゼクティブスイートあたりにしておいたほうがよかった? もしくはデラックスルームとか……)

 商談とは関係なく、姫乃は時折自分へのご褒美ほうびとしてTホテルのデラックスルームに泊まり、ルームサービスで食事をしたりして優雅な時間を過ごす事があった。
 しかし、いくらお気に入りの部屋でも二人では窮屈きゅうくつだ。かといって、エグゼクティブスイートだと広すぎる気がするし、ジュニアスイートくらいがちょうどいいと思ったのだが……
 いずれにせよ、悩んでも時すでに遅し。
 祥子から聞かされた話によると、神野は正光の幼馴染にして親友であるらしい。
 姫乃が望んだとおりの優秀な遺伝子を持つ彼は、頭脳明晰かつ容姿端麗である上に正光同様自分で立ち上げた会社の社長をしているそうだ。

『夫婦で付き合いがある人だから、安心して。超絶イケメンだし、スタイルも抜群の完璧な人よ。ただ、すごくクールなの。根は優しくていい人なんだけど、とっつきにくいところがあるかも。あと、多少俺様なところがあるから、その点は承知しておいてね』

 祥子から念を押されたが、条件さえクリアしていれば少しくらい性格に難があっても問題はない。
 仮にそれらが遺伝しても、育て方次第で素直で穏やかな子になってくれるだろう。
 約束の時間まで、あと十五分弱。エレベーターでプレミアムフロアに到着し、チェックインをするために専用のカウンターに向かう。
 そこで待っていた顔見知りの女性コンシェルジュと笑顔で挨拶あいさつを交わし、カードタイプのルームキーを受け取ろうと手を伸ばした。

「山久様、昨日戸田祥子様からご連絡をいただきまして――」

 コンシェルジュいわく、祥子が昨日ホテルに電話をしてきて、部屋のグレードアップを希望したのだという。
 戸田夫妻は、姫乃以上にTホテルを利用しているお得意様だ。姫乃が取っていたジュニアスイートは、祥子の計らいで知らぬ間にスイートルームに変更されていた。
 差額は祥子が負担すると言ったようだが、そういう問題ではない。
 妙に気を回すところがある祥子だ。もしや何かたくらんでの事かと思いながら部屋のドアを開け、中に入る。案の定、目の前に見えるパノラマの窓がある部屋には、深紅の薔薇ばらがそこかしこに飾られていた。部屋の照明はムードたっぷりのシャンパンゴールドで、窓の外には都会のきらびやかな夜景が広がっている。おまけに、窓際に置かれたテーブルには二人分のグラスとヴィンテージワインまで用意されていた。

(何これ! これじゃますます気合が入っていると思われちゃうよ!)

 別にロマンティックな夜を過ごすわけでもないのに……
 用意されたゴージャスな演出の数々を前に、姫乃は狼狽うろたえつつ頬を引きらせた。
 祥子にしてみれば、きっとよかれと思っての事なのだろう。けれどここに来たのは、ただ単に精子の受け渡しをするためであり、それ以上でも以下でもない。
 しかし、今からすべてを片付ける時間もないし、と思いながら隣のベッドルームを覗いた。
 するとあろう事か、真っ白なシーツの上に薔薇ばらの花びらでハートマークが描かれている。

(これじゃまるで、新婚初夜じゃないの!)

 明らかに過剰演出だし、目的との齟齬そごがある。
 そうこうしているうちに、約束の時刻まであと一分を切った。
 せめてハートマークだけでも壊しておこうとした時、部屋のドアが開く音が聞こえた。

「こんばんは」

 伸びやかで澄んだ男性の声に、姫乃はハタと動きを止めた。そして、くるりときびすを返し、部屋の入口に向かって声を上げる。

「はい、こんばんは!」

 思いのほか大声が出てしまい、それに驚きながら一歩踏み出して隣室に急いだ。ベッドルームを出た途端、部屋を見回している背の高い男性に出くわし、振り向いた顔を見て目をいて仰天する。
 くっきりとした二重の目にスッと伸びた鼻筋。緩く閉じられた唇の形は完璧で、それらがすべて非の打ちどころのない輪郭の中に綺麗に収まっている。
 姫乃は驚きの余り、絶句した。
 その美男ぶりは、仮に街ですれ違ったとしたら確実に二度見するほどだ。立っているだけで絵になるし、こちらを見る視線は、どことなく気怠けだるそうな色気まで帯びている。

「はじめまして。あなたが山久姫乃さん?」

 神野が姫乃に向き直り、まっすぐに視線を合わせてきた。
 彼の目の高さは、姫乃よりもかなり高い。ヒールの高さを差し引いても、神野の身長は少なくとも一八五センチ以上あるはずだ。
 正面斜め上から見つめられて、思わず一歩うしろに下がりそうになる。
 なんとか気を取り直し、口元にビジネスライクな笑みを浮かべた。そして、彼に近づいて右手を差し出す。

「はい、私が山久姫乃です。はじめまして。神野友哉さんですね?」

 話しながら、さらに口角を上げ、目を三日月形にする。

「そうだ。どうぞよろしく」

 神野が姫乃に一歩近づき、握手に応じた。そして、一秒も経たないうちに手を離し、視線を窓の外に向ける。
 いかにもそっけないし、愛想笑いひとつしない。それどころか、こちらを見る目は冷淡と言っていいほど冷たかった。
 クールで俺様――
 事前にそう聞かされていたが、第一印象で、神野の性格はおおよそ把握できたような気がする。
 それに、姫乃は彼がそっぽを向く前に、こちらの全身に視線を走らせたのを見逃さなかった。おそらく「デカい」とか「予想していたのと違う」とでも思ったのだろう。
 いくら無理なお願いを聞いてもらう立場であるとはいえ、値踏みされるような視線は、正直あまり気持ちいいものではない。
 とはいえ、窓の外を見る立ち姿がファッション誌から抜け出てきたかのように、かっこいい。祥子から超絶イケメンだと聞いていたが、顔面のみならずスタイルまでパーフェクトだった。
 これは、完全に想像の域を超えている。
 姫乃は笑顔を引きらせながら、今一度彼の全身に見入った。

「事情はすべて戸田夫妻から聞いてるよ。だが、お互いの詳しい経歴や素性については、会った時に直接確認しろと言われた。よかったらワインでも飲みながら、少し話さないか?」

 神野が姫乃を振り返り、てのひらでテーブルを示した。

「え、ええ。そうしましょう」

 姫乃は神野の誘いに応じて、テーブルを挟んで彼の正面に座った。その間に、神野がワインをグラスにぎ、姫乃の前に置いてくれた。

「じゃ、ひとまず無事顔を合わせた事に――」

 神野がグラスをかかげ、姫乃も同じようにしてからワインをひと口飲む。
 アルコールなら一応なんでも飲めるし、むしろ好きなほうだ。特に、美味おいしい食事を取りながらの飲酒はリラックス効果もあり、一人でホテルライフを楽しむ時は主にワインを頼む。
 これから妊活を始めるにあたり、今日を限りにしばらくの間アルコールともお別れだ。
 そんな事を思いながらグラスを傾けていると、視線が勝手に彼の手元に吸い寄せられ、長く形のいい指や綺麗に切り揃えられた爪に注目する。

(ゴツゴツしてるけど、すごく綺麗な手……。指も長いし、いろんな指輪が似合いそう)

 つい人の手に目が行ってしまうのは、職業病のようなものだ。
 姫乃はグラスを置き、神野のパーツの美しさに感嘆した。

「ワイン、お好きですか? もしご希望なら、追加で――」
「いや、ワインは好きだが、量は飲まない。それと、堅苦しいのはごめんだから、今後一切敬語はやめてもらいたい」

 出会ってすぐに、敬語なし?
 神野のほうが年上だし、こちらがお願いする立場なのに?
 しかし、彼がそう言うのなら従うしかない。
 姫乃はたじろぎつつも、相手の申し出を受け入れる事にする。

「わかりま……わかった。お言葉に甘えて、そうさせてもらうわね」

 神野が頷き、それからすぐに双方が用意してきた会社の概要なども記した身上書を交換して目を通した。
 それによると、神野は東京都出身で現在三十二歳。幼稚園から大学まであるエリート学校を卒業して渡英。五年間、同国の投資会社に勤務したのちに帰国して、投資コンサルタント会社「パランティアキャピタル」を創設。代表取締役社長として采配を振るい、毎年順調に利益を伸ばしている。
 趣味は仕事で健康状態は良好。
 家族に関しては、父方の祖父は某大手おろし売会社の現会長。実父は国内大手百貨店の代表取締役社長を務めており、実母は名の知れたフィットネスジムの経営者だ。
 一方、母方の祖父は長く法曹界におり、現在は弁護士事務所の経営者として活躍中であるらしい。

(何これ! 筋金入りのお坊ちゃまじゃないの! それに、会社の資本金は二十四億円、事業所は六か所で従業員数が八十二名って、うちと規模が違い過ぎる……!)

 姫乃は内心青くなりながら、自分の身上書を手にしている神野を見た。
 ごく普通の家庭に育った姫乃は、お受験には無縁の庶民だ。地元にある幼稚園と小中学校に通い、高校大学と中堅と言われる学校に入学し、卒業した。
 その後はジュエリーデザインを学ぶために専門学校に進学。在学中に自作のジュエリーをインターネットで販売するようになり、卒業と同時に実店舗の「HIMENO」をオープンさせた。
 開業に必要な資金はアルバイトで必死に貯めたもので、店舗は元々父方の曾祖父が本屋を営んでいた場所であり、それを姫乃が譲り受けた。
 神野と親友関係にある正光も良家の子息であり、彼の紹介ならそれ相応の人物だと思っていたが、まさかこれほどエリートだったなんて……
 身上書に視線を落としていた神野が軽く頷いたあと、ワインをひと口飲む。
 うつむいた状態からグラスを傾けるまでの動作が、優雅すぎる。首からあごにかけてのラインが息を呑むほど綺麗だし、上下する喉仏の動きに目が釘付けになってしまう。

(指だけじゃなくて、首も素敵……。あの首にネックレスをつけたい。金種はプラチナ……モチーフは……羽とかいいんじゃない?)
「どうかしたか?」

 声をかけられ、ハッとして我に返る。デザインを考えているうちに、いつの間にか、かなり前のめりの体勢になっている。

「あ……ご、ごめん。神野さんの首を見ているうちに、ネックレスのデザインが浮かびそうになったものだから……」

 彼の目力は、まるでこちらの頭の中を覗こうとしているかのように強力で、思わず目を逸らしたくなってしまう。
 しかし、目的をとどこおりなく達成するためには、いちいちひるんでいる場合ではない。
 姫乃は場を取りつくろうようにグラスを持ち、ワインをもう一口飲んだ。神野はと言えば、すでに身上書に視線を戻している。

「仕事熱心だな。だが、俺が普段身につけるのは腕時計くらいだ。ネックレスに限らず、装飾品は俺の趣味に合わないし、必要性も感じない。わずらわしいだけだ」

 低く響く声のトーンは、これまでと変わらない。けれど、真っ向から自分が扱っているものを否定され、微笑んだ口元が少しだけ強張こわばる。

(いけ好かない男。誰も身につけてくれだなんて言ってないし!)

 そう思うも、無理を聞いてもらっている手前、彼の機嫌を損ねるのは回避せねばならない。

「身上書、見終わった。仕事が趣味で健康状態が良好、出身地と会社をおこした年も同じだな」
「そうね」

 姫乃は短く返事をして、もう一度彼の身上書に視線を落とした。

(確かに、同じ。だけど、それ以外はぜんっぜん違いますけど!)

 神野の会社があるのは都心のビジネス街でも一等地と呼ばれる場所であり、「神野ビル」という名前からして自社が所有する建物だと思われる。
「HIMENO」の所在地も都心の自社ビルだが、駅近ながら面積は決して広くない。建物は築五十年超の四階建てで、一、二階を店舗にして、その上は姫乃が住まいとして使っている。
 異業種とはいえ、すべてにおいて格差があるし、資本金の額も三桁も違う。神野は一流の経営者としての余裕と風格をすでに身につけており、圧倒的なオーラを感じさせた。
「HIMENO」も順調に利益を伸ばしてはいるが、経営者として同列に並ぶとなると躊躇ちゅうちょせざるを得ない。

「店に置いている商品は、どのくらいの価格設定なんだ?」

 神野が、姫乃の身につけているネックレスやピアスを見ながら、そうたずねてくる。それからすぐに、彼の視線が姫乃自身に移った。さりげなく見ているようで、やはり自己紹介した時と同じ、値踏みするかのような目つきだ。

「使っている金種や石にもよるけど、だいたい二万円から五十万円の間。日常遣いのアクセサリーからブライダル用のリングまで、いろいろ扱ってるの。受注生産もしていて、お客様の要望を聞きながら理想のジュエリーを一緒に作りあげて、完成の喜びを分かち合うのよ。そのあとのケアも万全で――」
「商品は自社で製造しているのか? スタッフはぜんぶで何名だ? デザイナーは君のほかに何人いる?」
「商品はすべて自社製造よ。スタッフは私を含めて四名で、全員がデザイナー兼彫金師なの」

 つい熱く語っている途中で話をさえぎられ、矢継やつばやに質問をされた。口調は冷淡でそっけなく、まるで尋問を受けているような気分になる。

「なるほど」

 納得した様子の神野が、ようやく身上書から顔を上げた。

「大学で英文学を専攻したという事は、もともとジュエリーデザイナーを目指していたわけではないようだな」
「ええ。在学中に『ソリス』でアルバイトをしている時、店に置いてあるアクセサリーに興味を持ったのがきっかけだったわ」
「戸田正光と君は、その時からの知り合いか?」
「いいえ。正光さんとは、祥子が彼と結婚したタイミングで顔を合わせたの。祥子が『ソリス』の社長と結婚するって聞いて驚いたわ。だって、かつてのアルバイト先だし、私の人生が変わるきっかけにもなった会社だったから」
「『HIMENO』の取引先に『ソリス』が入っているが、これは祥子さんの後ろ盾のおかげか?」

 自社製品は、『ソリス』を含む二つのアパレルメーカーの店舗に置かせてもらっている。
『ソリス』に関しては祥子を介して正光に商品を見てもらったのがきっかけで、彼女の存在があってこその取引先であるのは事実だ。

「そうね。祥子がいなかったら、直接正光さんに会う事なんて叶わなかったでしょうから」
「そうか。ビジネスにおいて人脈は貴重だからな」

 軽く頷いた神野の様子は、これまでと同様に淡々としている。けれど、こちらを見る顔には、姫乃ばかりか「HIMENO」をも査定しているかのような表情が見て取れた。
 別に対抗意識を燃やしているわけではないが、どうも神野の言葉には若干のとげを感じる。


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