23 / 47
初暁の章
前
しおりを挟む
好きだよ、と言われて。
私もですよ、とは。
――状況が状況なので、なかなか言えない。
後悔というのも少し違う。言えば良かったのか、言わずに済んで良かったのか。どちらとも言いがたいこの気持ちが。
人生の表舞台を去った人間に、はたして相応しいものだろうか? と。
湊は、繰り返し考える。
* *
「呆れた。まだ答えてないの」
「うっ」
律に庭掃除を手伝ってもらった翌日、月曜日。
粛々と進む職業訓練の休憩は十分間。
湊は、以前までは女性受講者のグループに混じっていたが、最近はなぜか篁と一対一で過ごすことが増えていた。
仲間外れ…………、ではないと思う。
(勘弁してください)
内心複雑ではあったが、篁のほうから「瀬尾さん、さっきのとこ、わかった?」などと名指しで爽やかに近づかれては、何かを察した周囲の大人女子が、さぁぁ……と引けてゆくのも分からなくはない。
例えるならば磁石のSとS。
そんな、並み居るS極女子を余裕で蹴散らかすS極男子・篁裕一は、艶のある声を低めてさらに「意気地無し」と追い込む。
――立つ瀬がない。
というより、今日は移動教室がないので窓際の席に座ったままだ。篁は窓の下に設置してある箱状の暖房機の端に腰かけ、悠然と腕を組んでいる。
湊は、ぼそぼそと反論した。
「だって、答えようがありません。……かれも、踏み込んでは来なくなりました。意思表示はされますが」
「意思。あぁ、『好きです』とかは言われてんだね」
「!」
図星過ぎて、ぎょっとした。何気なさ過ぎて刺さる。
思わず素直に息を飲んでしまった湊に、篁がにやにやと悪い表情をした。
「ってことは、ちゃんと会ってるんだ。へぇ。辛うじて前進ってことにしておこうか。よしよし。よく頑張りました」
「!! ……え。あのっ??」
超弩級に驚いた。たいへん良い笑顔の篁に、やさしく頭を撫でられている。
湊は表情筋も忙しく目を白黒させた。
(いやいや。友人としてもあるまじき接触――ですよね、これ?)
篁がくすくすと機嫌よく喉を震わせる。
「あの子の気持ちわかるなぁ。瀬尾さん、可愛いから。弄りたくなる」
「篁さん。冗談はそれくらいで」
――他の受講者さん達もいます。
怖くて周りを見渡せないが、みんな意図して距離を置いてくれているようにしか思えない。
それに、自分は可愛くはない。可愛がられるいわれもない。そこだけは、はっきりさせようと眉間に皺を寄せ、頭上の手を押しやった。
「おっと」
簡単に退けてくれた手は、一本一本が節の目立つ男のひとっぽい太い指。表面はさらり、と乾いて温かかった。
(! しまった)
不覚にも、自分から触れてしまったことに思ったより動揺する。
対する篁はどこ吹く風。いっこうに変化がない。湊の戸惑う気配は受け流し、飄々と呟いた。
「オレ、瀬尾さんのこと気に入ってるよ。できれば好きな奴とちゃんと幸せになってほしい。そこは全力で応援するけど、『口説かない』とは言ってないから。なびいてくれたら、それはそれで楽しいかなって」
「呆れた。それ、二枚舌って言いません?」
休憩時間の最初にドヤ顔で掛けられた言葉を、形を変えてそのまま投げ返す。
篁はやはり、フフッ、と笑って受け流した。
「確かめてみる?」
「勘弁してください」
先ほどからの心の声も漏れてしまった。
――――これ、すごく高度なセクハラなのでは。
そう思い始めた矢先、換気のためにひらかれたドアが閉まり、次の講義の先生が入室した。
講義の終了後。
ひらひらと手を振って帰宅の途につく篁を会釈で見送ったあと。
手荷物をまとめて、ふぅ、と吐息。重たい鞄を肩に掛けて席を立つと、既婚女性四名が一所に集まり、和気あいあいと話に興じているのが見えた。手元にはテキストではなく、スマホや手帳が広げられている。
ドアの手前ということもあり、湊は「お疲れさまでした」と頭を下げて通り過ぎる。
すると。
「あっ、瀬尾さんも。良かったら、住所交換しない?」
「住所?」
小首を傾げた湊に、声をかけた女性がにこにこと手のひらサイズの手帳を取り、顔の横で振って見せた。
「せっかく、こうして一緒に勉強し合う仲になったわけだし。けっこう、みんな仲いいから。景気付けに年賀状とか送りたいし、試験が終わったら新年会を兼ねた打ち上げでも企画しようかなって」
「あぁ、なるほど。そういうことでしたら」
お邪魔します、とやんわり告げて輪に加わった。
湊は四名分の住所を書き付けたメモをもらい、ご婦人がたは何かと雰囲気が華やかな湊の連絡先を楽しそうに写しとる。
ご婦人、といっても、声をかけてくれた女性もまだ三十代半ばのはず。
彼女達が醸し出す、いわゆる女学生風の空気に湊はおっとりと微笑んだ。
(お年賀状……か。送りたいひとはいるけど。さて、どうしよう)
行き先も告げず、後にした。
秘密裏に抜け出すため、見送りさえなかった。そんな気遣いと慌ただしさに紛れて逃げ出すしかなかった、前の住まいに。
義母であり、養母でもあった恩人の老女将。あのひとは――……大丈夫だろうか。
自分が消えて、周囲の耳目は否応なく集まったろう。いくら小さくとも古参の旅館にとって、若女将が消えたとなれば醜聞でしかない。
(送れるかな。せめて無事だけでも。女将ったら、このご時世にスマホも携帯すら持ってないんだもの。…………番頭さん、さすがに勧めてくれたかしら)
とりとめのない過去へ、少しだけ前向きになった気持ちを抱きつつ。
湊は今度こそ「失礼します」と、柔和な笑顔で退室した。
私もですよ、とは。
――状況が状況なので、なかなか言えない。
後悔というのも少し違う。言えば良かったのか、言わずに済んで良かったのか。どちらとも言いがたいこの気持ちが。
人生の表舞台を去った人間に、はたして相応しいものだろうか? と。
湊は、繰り返し考える。
* *
「呆れた。まだ答えてないの」
「うっ」
律に庭掃除を手伝ってもらった翌日、月曜日。
粛々と進む職業訓練の休憩は十分間。
湊は、以前までは女性受講者のグループに混じっていたが、最近はなぜか篁と一対一で過ごすことが増えていた。
仲間外れ…………、ではないと思う。
(勘弁してください)
内心複雑ではあったが、篁のほうから「瀬尾さん、さっきのとこ、わかった?」などと名指しで爽やかに近づかれては、何かを察した周囲の大人女子が、さぁぁ……と引けてゆくのも分からなくはない。
例えるならば磁石のSとS。
そんな、並み居るS極女子を余裕で蹴散らかすS極男子・篁裕一は、艶のある声を低めてさらに「意気地無し」と追い込む。
――立つ瀬がない。
というより、今日は移動教室がないので窓際の席に座ったままだ。篁は窓の下に設置してある箱状の暖房機の端に腰かけ、悠然と腕を組んでいる。
湊は、ぼそぼそと反論した。
「だって、答えようがありません。……かれも、踏み込んでは来なくなりました。意思表示はされますが」
「意思。あぁ、『好きです』とかは言われてんだね」
「!」
図星過ぎて、ぎょっとした。何気なさ過ぎて刺さる。
思わず素直に息を飲んでしまった湊に、篁がにやにやと悪い表情をした。
「ってことは、ちゃんと会ってるんだ。へぇ。辛うじて前進ってことにしておこうか。よしよし。よく頑張りました」
「!! ……え。あのっ??」
超弩級に驚いた。たいへん良い笑顔の篁に、やさしく頭を撫でられている。
湊は表情筋も忙しく目を白黒させた。
(いやいや。友人としてもあるまじき接触――ですよね、これ?)
篁がくすくすと機嫌よく喉を震わせる。
「あの子の気持ちわかるなぁ。瀬尾さん、可愛いから。弄りたくなる」
「篁さん。冗談はそれくらいで」
――他の受講者さん達もいます。
怖くて周りを見渡せないが、みんな意図して距離を置いてくれているようにしか思えない。
それに、自分は可愛くはない。可愛がられるいわれもない。そこだけは、はっきりさせようと眉間に皺を寄せ、頭上の手を押しやった。
「おっと」
簡単に退けてくれた手は、一本一本が節の目立つ男のひとっぽい太い指。表面はさらり、と乾いて温かかった。
(! しまった)
不覚にも、自分から触れてしまったことに思ったより動揺する。
対する篁はどこ吹く風。いっこうに変化がない。湊の戸惑う気配は受け流し、飄々と呟いた。
「オレ、瀬尾さんのこと気に入ってるよ。できれば好きな奴とちゃんと幸せになってほしい。そこは全力で応援するけど、『口説かない』とは言ってないから。なびいてくれたら、それはそれで楽しいかなって」
「呆れた。それ、二枚舌って言いません?」
休憩時間の最初にドヤ顔で掛けられた言葉を、形を変えてそのまま投げ返す。
篁はやはり、フフッ、と笑って受け流した。
「確かめてみる?」
「勘弁してください」
先ほどからの心の声も漏れてしまった。
――――これ、すごく高度なセクハラなのでは。
そう思い始めた矢先、換気のためにひらかれたドアが閉まり、次の講義の先生が入室した。
講義の終了後。
ひらひらと手を振って帰宅の途につく篁を会釈で見送ったあと。
手荷物をまとめて、ふぅ、と吐息。重たい鞄を肩に掛けて席を立つと、既婚女性四名が一所に集まり、和気あいあいと話に興じているのが見えた。手元にはテキストではなく、スマホや手帳が広げられている。
ドアの手前ということもあり、湊は「お疲れさまでした」と頭を下げて通り過ぎる。
すると。
「あっ、瀬尾さんも。良かったら、住所交換しない?」
「住所?」
小首を傾げた湊に、声をかけた女性がにこにこと手のひらサイズの手帳を取り、顔の横で振って見せた。
「せっかく、こうして一緒に勉強し合う仲になったわけだし。けっこう、みんな仲いいから。景気付けに年賀状とか送りたいし、試験が終わったら新年会を兼ねた打ち上げでも企画しようかなって」
「あぁ、なるほど。そういうことでしたら」
お邪魔します、とやんわり告げて輪に加わった。
湊は四名分の住所を書き付けたメモをもらい、ご婦人がたは何かと雰囲気が華やかな湊の連絡先を楽しそうに写しとる。
ご婦人、といっても、声をかけてくれた女性もまだ三十代半ばのはず。
彼女達が醸し出す、いわゆる女学生風の空気に湊はおっとりと微笑んだ。
(お年賀状……か。送りたいひとはいるけど。さて、どうしよう)
行き先も告げず、後にした。
秘密裏に抜け出すため、見送りさえなかった。そんな気遣いと慌ただしさに紛れて逃げ出すしかなかった、前の住まいに。
義母であり、養母でもあった恩人の老女将。あのひとは――……大丈夫だろうか。
自分が消えて、周囲の耳目は否応なく集まったろう。いくら小さくとも古参の旅館にとって、若女将が消えたとなれば醜聞でしかない。
(送れるかな。せめて無事だけでも。女将ったら、このご時世にスマホも携帯すら持ってないんだもの。…………番頭さん、さすがに勧めてくれたかしら)
とりとめのない過去へ、少しだけ前向きになった気持ちを抱きつつ。
湊は今度こそ「失礼します」と、柔和な笑顔で退室した。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
上司、快楽に沈むまで
赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。
冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。
だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。
入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。
真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。
ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、
篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」
疲労で僅かに緩んだ榊の表情。
その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。
「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」
指先が榊のネクタイを掴む。
引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。
拒むことも、許すこともできないまま、
彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。
言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。
だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。
そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。
「俺、前から思ってたんです。
あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」
支配する側だったはずの男が、
支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。
上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。
秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。
快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。
――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
極上イケメン先生が秘密の溺愛教育に熱心です
朝陽七彩
恋愛
私は。
「夕鶴、こっちにおいで」
現役の高校生だけど。
「ずっと夕鶴とこうしていたい」
担任の先生と。
「夕鶴を誰にも渡したくない」
付き合っています。
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
神城夕鶴(かみしろ ゆづる)
軽音楽部の絶対的エース
飛鷹隼理(ひだか しゅんり)
アイドル的存在の超イケメン先生
♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡-♡
彼の名前は飛鷹隼理くん。
隼理くんは。
「夕鶴にこうしていいのは俺だけ」
そう言って……。
「そんなにも可愛い声を出されたら……俺、止められないよ」
そして隼理くんは……。
……‼
しゅっ……隼理くん……っ。
そんなことをされたら……。
隼理くんと過ごす日々はドキドキとわくわくの連続。
……だけど……。
え……。
誰……?
誰なの……?
その人はいったい誰なの、隼理くん。
ドキドキとわくわくの連続だった私に突如現れた隼理くんへの疑惑。
その疑惑は次第に大きくなり、私の心の中を不安でいっぱいにさせる。
でも。
でも訊けない。
隼理くんに直接訊くことなんて。
私にはできない。
私は。
私は、これから先、一体どうすればいいの……?
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる