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第5話 未払い案件②
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部屋を出て、食堂の椅子に座っていると、まもなく男性が現れた。
……ひどく疲れている。上下のジャージはよれていて、ひげも伸びっぱなしだった。
おそらくは、仕事以外の大半の時間を、あの二人に割いているのだろう。
「すみません、みっともないところを……」
「いえ。お察しいたします」
男性はテーブルにお茶を用意した後、向かい側に座った。
山崎はきょろきょろしていたが、先輩が一口すすったのを見て、それにならう。
一息ついたあと、男性がぽつぽつと話し始める。
「それで……今回の件は。一昨日、役所には行かせてもらったと思うんですが」
「ええ、ええ。伺っております。それで、ですね。今回について、なんですが」
先輩は恭しい態度を崩さずに、タブレット端末と、オフィスで仕上げた資料をテーブルに出して、男性に見えるようにした。
彼は食い入るように、それを見た。
「あの後、即時お返事いただくようにということで連絡差し上げたと思うのですが……その後、どうされました?」
男性の表情が、こわばった。
先輩は続ける。
「いや、それを今日改めて……」
「申し訳ございませんが、こちらも契約の関係がございますので、日付は『厳守』ということになっておりまして。ですので、ええと……再来月、からですね。課税のほうが、こちら、発生いたします」
画面を見せる。
男性がますます青ざめる。
あまりにも、流れるように。
いささかの、躊躇もなく。
脳裏に、あの老人と……あの老婆が見える。あの二人の態度とは、何もかもが、逆で。
「え、でも。そんな……こっちは母が居て。そんなすぐには。それに、見てたでしょう。まだ元気なんです。わたしの収入と母の年金で、この家はまだ……」
「えぇ、えぇ」
「なのだから、ちょっと、父の引き取りは、もう少し、待って――」
「えぇ、えぇ。ですので、日付は厳守、ということで。それに、あなた様の、年収に関してで、言いますと……」
そこでまた、先輩は画面を見せた。
男性は口をぱくぱくさせながら、肩から力が抜けていく。
「そんな……」
「先日のサイン分です。今こちらで、タッチパネルに親指を触れるだけで完了いたしますので、お願いします」
「……――だ」
男性が。小さく。
「……嫌だ。断る」
そう、言った。
先輩は少しだけ身を前に乗り出して、鷹揚な態度を崩さずに、聞き返す。
「すみません、もう一度おっしゃっていただいてもいいで――」
「断るって言ったんだ、聞こえなかったのか!」
男性は、そこでテーブルを大きく叩いた。
空虚な乾いた音が、響く。
僕たちは少し背をのばしたが、先輩はまるで動揺していなかった。
「っ……すみません」
男性はすぐにそう言って、茶を飲み干した。
「いえ」
先輩は表情を変えない。
「……どうしても、ですか」
「はい。条例により、決定しております」
「もし、わたしがここで拒みきって、あなた方を追い返すようなことをしたら、どうなる」
「その状況自体、発生致しかねると思うのですが。今、ここで起きていることが、現状ですので」
「っ……」
その言い方はないんじゃないのか、と、僕ですら思ったので、そこで男性がかっとなるのは当然だった。
結果的に言えば、先輩が男性に殴られることはなかった。
……時計の音が、何度も響いた中で。
しばらくした後、僕たちは席を立って、ダイニングを出た。
男性のサイン済みデータを携えて。
最期に屋敷を出る際、ふすまの奥から、老婆のすすり泣きの声が聞こえてきた。
それに重なるように、機械の規則的な音が響く。
全員乗車を確認すると、先輩はガレージから出庫した。
男性はその誘導も手伝ってくれていたが、明らかに、先程よりも意気消沈した様子だった。
「今日はすみません、ありがとうございます……」
「いえこちらこそ。また何かございましたら、健康福祉課にまでご連絡ください」
それだけ言うと、出発。
屋敷がどんどん遠ざかっていく。完全に消えて見えなくなるまで、男性は、こちらを見続けていた。
……車内は静まり返っている。
空気を察したのか、先輩はCDを途中で止めた。
それから、バックミラー越しに、言った。
「……まぁ、こんな感じだ。誰もやりたがらないの、分かるだろ」
先輩は、そこでははは、と笑った。
僕が返事をする前に、山崎が、いささか食い気味に口を開く。
「先輩。内容は分かりましたし、やることは仕方ないと思いますけど」
「なんだ」
「ちょっと、ないんじゃないですか。あまりにも、冷たすぎませんか。いや、冷たいっていうか、その……」
「じゃあお前、あそこでどう出るのが正解だったと思う」
「それは……」
先輩は、そこで再びステレオの再生ボタンを押した。
ストリングスが流れるなか、かたる。
「命に値段はつけられないって言うだろ。でも、それなら、そこにかかわる、それぞれの人の苦労にも、値段がつかなきゃ、って思わないか」
「……」
「誰かが死ぬのが怖いのは、死ぬこと自体じゃなくて。死ぬことでリスクが発生するからってことだよ。それより、メリットのほうが大きかった場合、どうなるか」
「そんな、でも、そんなかんたんに……」
「簡単に命のことを扱えないってか。簡単じゃないさ。今日だって、殴られなかっただけマシだ。でもな」
一息おいて、それから言った。
「あのまま放っておけば、あの息子さん、二人巻き込んで、心中してたんじゃないか」
「っ……」
そこで、山崎は黙り込んだ。
先輩の声音が、少しやわらかくなる。
「山崎。確か、横のソイツの大学の後輩だったんだよな。よくここ入ってきたよ。凄いと思う」
答えは、ない。
「でも、なんだ。正直、ゴールはない。多分ずっと悩み続けなきゃならない。俺を恨んでくれていい。ただ、それだけは、覚えててくれな」
山崎は、黙り込んだままだ。
膝の上で、拳を握っている。
その様子を見て、入職式で彼女を見かけたときの驚きを思い出す。
あのときの、ちょっとだけ持て余し気味の彼女の感情は、今もその内側に生きているということなのだろう。それはきっと、何者にもかえがたい。
ミラー越しに、先輩と目が合う。
僕に聞いているようだった。
――お前はどうだ。
――お前は、『彼女』を、どうする?
……ひどく疲れている。上下のジャージはよれていて、ひげも伸びっぱなしだった。
おそらくは、仕事以外の大半の時間を、あの二人に割いているのだろう。
「すみません、みっともないところを……」
「いえ。お察しいたします」
男性はテーブルにお茶を用意した後、向かい側に座った。
山崎はきょろきょろしていたが、先輩が一口すすったのを見て、それにならう。
一息ついたあと、男性がぽつぽつと話し始める。
「それで……今回の件は。一昨日、役所には行かせてもらったと思うんですが」
「ええ、ええ。伺っております。それで、ですね。今回について、なんですが」
先輩は恭しい態度を崩さずに、タブレット端末と、オフィスで仕上げた資料をテーブルに出して、男性に見えるようにした。
彼は食い入るように、それを見た。
「あの後、即時お返事いただくようにということで連絡差し上げたと思うのですが……その後、どうされました?」
男性の表情が、こわばった。
先輩は続ける。
「いや、それを今日改めて……」
「申し訳ございませんが、こちらも契約の関係がございますので、日付は『厳守』ということになっておりまして。ですので、ええと……再来月、からですね。課税のほうが、こちら、発生いたします」
画面を見せる。
男性がますます青ざめる。
あまりにも、流れるように。
いささかの、躊躇もなく。
脳裏に、あの老人と……あの老婆が見える。あの二人の態度とは、何もかもが、逆で。
「え、でも。そんな……こっちは母が居て。そんなすぐには。それに、見てたでしょう。まだ元気なんです。わたしの収入と母の年金で、この家はまだ……」
「えぇ、えぇ」
「なのだから、ちょっと、父の引き取りは、もう少し、待って――」
「えぇ、えぇ。ですので、日付は厳守、ということで。それに、あなた様の、年収に関してで、言いますと……」
そこでまた、先輩は画面を見せた。
男性は口をぱくぱくさせながら、肩から力が抜けていく。
「そんな……」
「先日のサイン分です。今こちらで、タッチパネルに親指を触れるだけで完了いたしますので、お願いします」
「……――だ」
男性が。小さく。
「……嫌だ。断る」
そう、言った。
先輩は少しだけ身を前に乗り出して、鷹揚な態度を崩さずに、聞き返す。
「すみません、もう一度おっしゃっていただいてもいいで――」
「断るって言ったんだ、聞こえなかったのか!」
男性は、そこでテーブルを大きく叩いた。
空虚な乾いた音が、響く。
僕たちは少し背をのばしたが、先輩はまるで動揺していなかった。
「っ……すみません」
男性はすぐにそう言って、茶を飲み干した。
「いえ」
先輩は表情を変えない。
「……どうしても、ですか」
「はい。条例により、決定しております」
「もし、わたしがここで拒みきって、あなた方を追い返すようなことをしたら、どうなる」
「その状況自体、発生致しかねると思うのですが。今、ここで起きていることが、現状ですので」
「っ……」
その言い方はないんじゃないのか、と、僕ですら思ったので、そこで男性がかっとなるのは当然だった。
結果的に言えば、先輩が男性に殴られることはなかった。
……時計の音が、何度も響いた中で。
しばらくした後、僕たちは席を立って、ダイニングを出た。
男性のサイン済みデータを携えて。
最期に屋敷を出る際、ふすまの奥から、老婆のすすり泣きの声が聞こえてきた。
それに重なるように、機械の規則的な音が響く。
全員乗車を確認すると、先輩はガレージから出庫した。
男性はその誘導も手伝ってくれていたが、明らかに、先程よりも意気消沈した様子だった。
「今日はすみません、ありがとうございます……」
「いえこちらこそ。また何かございましたら、健康福祉課にまでご連絡ください」
それだけ言うと、出発。
屋敷がどんどん遠ざかっていく。完全に消えて見えなくなるまで、男性は、こちらを見続けていた。
……車内は静まり返っている。
空気を察したのか、先輩はCDを途中で止めた。
それから、バックミラー越しに、言った。
「……まぁ、こんな感じだ。誰もやりたがらないの、分かるだろ」
先輩は、そこでははは、と笑った。
僕が返事をする前に、山崎が、いささか食い気味に口を開く。
「先輩。内容は分かりましたし、やることは仕方ないと思いますけど」
「なんだ」
「ちょっと、ないんじゃないですか。あまりにも、冷たすぎませんか。いや、冷たいっていうか、その……」
「じゃあお前、あそこでどう出るのが正解だったと思う」
「それは……」
先輩は、そこで再びステレオの再生ボタンを押した。
ストリングスが流れるなか、かたる。
「命に値段はつけられないって言うだろ。でも、それなら、そこにかかわる、それぞれの人の苦労にも、値段がつかなきゃ、って思わないか」
「……」
「誰かが死ぬのが怖いのは、死ぬこと自体じゃなくて。死ぬことでリスクが発生するからってことだよ。それより、メリットのほうが大きかった場合、どうなるか」
「そんな、でも、そんなかんたんに……」
「簡単に命のことを扱えないってか。簡単じゃないさ。今日だって、殴られなかっただけマシだ。でもな」
一息おいて、それから言った。
「あのまま放っておけば、あの息子さん、二人巻き込んで、心中してたんじゃないか」
「っ……」
そこで、山崎は黙り込んだ。
先輩の声音が、少しやわらかくなる。
「山崎。確か、横のソイツの大学の後輩だったんだよな。よくここ入ってきたよ。凄いと思う」
答えは、ない。
「でも、なんだ。正直、ゴールはない。多分ずっと悩み続けなきゃならない。俺を恨んでくれていい。ただ、それだけは、覚えててくれな」
山崎は、黙り込んだままだ。
膝の上で、拳を握っている。
その様子を見て、入職式で彼女を見かけたときの驚きを思い出す。
あのときの、ちょっとだけ持て余し気味の彼女の感情は、今もその内側に生きているということなのだろう。それはきっと、何者にもかえがたい。
ミラー越しに、先輩と目が合う。
僕に聞いているようだった。
――お前はどうだ。
――お前は、『彼女』を、どうする?
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