いのちうるはて、あかいすなはま。

緑茶

文字の大きさ
5 / 19

第5話 未払い案件②

しおりを挟む
 部屋を出て、食堂の椅子に座っていると、まもなく男性が現れた。

 ……ひどく疲れている。上下のジャージはよれていて、ひげも伸びっぱなしだった。
 おそらくは、仕事以外の大半の時間を、あの二人に割いているのだろう。

「すみません、みっともないところを……」
「いえ。お察しいたします」

 男性はテーブルにお茶を用意した後、向かい側に座った。
 山崎はきょろきょろしていたが、先輩が一口すすったのを見て、それにならう。
 一息ついたあと、男性がぽつぽつと話し始める。

「それで……今回の件は。一昨日、役所には行かせてもらったと思うんですが」
「ええ、ええ。伺っております。それで、ですね。今回について、なんですが」

 先輩は恭しい態度を崩さずに、タブレット端末と、オフィスで仕上げた資料をテーブルに出して、男性に見えるようにした。
 彼は食い入るように、それを見た。

「あの後、即時お返事いただくようにということで連絡差し上げたと思うのですが……その後、どうされました?」

 男性の表情が、こわばった。
 先輩は続ける。

「いや、それを今日改めて……」
「申し訳ございませんが、こちらも契約の関係がございますので、日付は『厳守』ということになっておりまして。ですので、ええと……再来月、からですね。課税のほうが、こちら、発生いたします」

 画面を見せる。
 男性がますます青ざめる。
 あまりにも、流れるように。
 いささかの、躊躇もなく。
 脳裏に、あの老人と……あの老婆が見える。あの二人の態度とは、何もかもが、逆で。

「え、でも。そんな……こっちは母が居て。そんなすぐには。それに、見てたでしょう。まだ元気なんです。わたしの収入と母の年金で、この家はまだ……」
「えぇ、えぇ」
「なのだから、ちょっと、父の引き取りは、もう少し、待って――」
「えぇ、えぇ。ですので、日付は厳守、ということで。それに、あなた様の、年収に関してで、言いますと……」

 そこでまた、先輩は画面を見せた。
 男性は口をぱくぱくさせながら、肩から力が抜けていく。

「そんな……」
「先日のサイン分です。今こちらで、タッチパネルに親指を触れるだけで完了いたしますので、お願いします」
「……――だ」

 男性が。小さく。

「……嫌だ。断る」

 そう、言った。
 先輩は少しだけ身を前に乗り出して、鷹揚な態度を崩さずに、聞き返す。

「すみません、もう一度おっしゃっていただいてもいいで――」
「断るって言ったんだ、聞こえなかったのか!」

 男性は、そこでテーブルを大きく叩いた。
 空虚な乾いた音が、響く。
 僕たちは少し背をのばしたが、先輩はまるで動揺していなかった。

「っ……すみません」

 男性はすぐにそう言って、茶を飲み干した。

「いえ」

 先輩は表情を変えない。

「……どうしても、ですか」
「はい。条例により、決定しております」
「もし、わたしがここで拒みきって、あなた方を追い返すようなことをしたら、どうなる」
「その状況自体、発生致しかねると思うのですが。今、ここで起きていることが、現状ですので」
「っ……」

 その言い方はないんじゃないのか、と、僕ですら思ったので、そこで男性がかっとなるのは当然だった。
 結果的に言えば、先輩が男性に殴られることはなかった。

 ……時計の音が、何度も響いた中で。
 しばらくした後、僕たちは席を立って、ダイニングを出た。
 男性のサイン済みデータを携えて。

 最期に屋敷を出る際、ふすまの奥から、老婆のすすり泣きの声が聞こえてきた。
 それに重なるように、機械の規則的な音が響く。

 全員乗車を確認すると、先輩はガレージから出庫した。
 男性はその誘導も手伝ってくれていたが、明らかに、先程よりも意気消沈した様子だった。

「今日はすみません、ありがとうございます……」
「いえこちらこそ。また何かございましたら、健康福祉課にまでご連絡ください」

 それだけ言うと、出発。
 屋敷がどんどん遠ざかっていく。完全に消えて見えなくなるまで、男性は、こちらを見続けていた。

 ……車内は静まり返っている。
 空気を察したのか、先輩はCDを途中で止めた。
 それから、バックミラー越しに、言った。

「……まぁ、こんな感じだ。誰もやりたがらないの、分かるだろ」

 先輩は、そこでははは、と笑った。
 僕が返事をする前に、山崎が、いささか食い気味に口を開く。

「先輩。内容は分かりましたし、やることは仕方ないと思いますけど」
「なんだ」
「ちょっと、ないんじゃないですか。あまりにも、冷たすぎませんか。いや、冷たいっていうか、その……」
「じゃあお前、あそこでどう出るのが正解だったと思う」
「それは……」

 先輩は、そこで再びステレオの再生ボタンを押した。
 ストリングスが流れるなか、かたる。

「命に値段はつけられないって言うだろ。でも、それなら、そこにかかわる、それぞれの人の苦労にも、値段がつかなきゃ、って思わないか」
「……」
「誰かが死ぬのが怖いのは、死ぬこと自体じゃなくて。死ぬことでリスクが発生するからってことだよ。それより、メリットのほうが大きかった場合、どうなるか」
「そんな、でも、そんなかんたんに……」
「簡単に命のことを扱えないってか。簡単じゃないさ。今日だって、殴られなかっただけマシだ。でもな」

 一息おいて、それから言った。

「あのまま放っておけば、あの息子さん、二人巻き込んで、心中してたんじゃないか」
「っ……」

 そこで、山崎は黙り込んだ。
 先輩の声音が、少しやわらかくなる。

「山崎。確か、横のソイツの大学の後輩だったんだよな。よくここ入ってきたよ。凄いと思う」

 答えは、ない。

「でも、なんだ。正直、ゴールはない。多分ずっと悩み続けなきゃならない。俺を恨んでくれていい。ただ、それだけは、覚えててくれな」

 山崎は、黙り込んだままだ。
 膝の上で、拳を握っている。
 その様子を見て、入職式で彼女を見かけたときの驚きを思い出す。
 あのときの、ちょっとだけ持て余し気味の彼女の感情は、今もその内側に生きているということなのだろう。それはきっと、何者にもかえがたい。

 ミラー越しに、先輩と目が合う。
 僕に聞いているようだった。


 ――お前はどうだ。


 ――
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

あるフィギュアスケーターの性事情

蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。 しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。 何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。 この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。 そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。 この物語はフィクションです。 実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。

ヤクザに医官はおりません

ユーリ(佐伯瑠璃)
ライト文芸
彼は私の知らない組織の人間でした 会社の飲み会の隣の席のグループが怪しい。 シャバだの、残弾なしだの、会話が物騒すぎる。刈り上げ、角刈り、丸刈り、眉毛シャキーン。 無駄にムキムキした体に、堅い言葉遣い。 反社会組織の集まりか! ヤ◯ザに見初められたら逃げられない? 勘違いから始まる異文化交流のお話です。 ※もちろんフィクションです。 小説家になろう、カクヨムに投稿しています。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

天才天然天使様こと『三天美女』の汐崎真凜に勝手に婚姻届を出され、いつの間にか天使の旦那になったのだが...。【動画投稿】

田中又雄
恋愛
18の誕生日を迎えたその翌日のこと。 俺は分籍届を出すべく役所に来ていた...のだが。 「えっと...結論から申し上げますと...こちらの手続きは不要ですね」「...え?どういうことですか?」「昨日、婚姻届を出されているので親御様とは別の戸籍が作られていますので...」「...はい?」 そうやら俺は知らないうちに結婚していたようだった。 「あの...相手の人の名前は?」 「...汐崎真凛様...という方ですね」 その名前には心当たりがあった。 天才的な頭脳、マイペースで天然な性格、天使のような見た目から『三天美女』なんて呼ばれているうちの高校のアイドル的存在。 こうして俺は天使との-1日婚がスタートしたのだった。

愛された側妃と、愛されなかった正妃

編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。 夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。 連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。 正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。 ※カクヨムさんにも掲載中 ※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります ※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。

ちょっと大人な体験談はこちらです

神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない ちょっと大人な体験談です。 日常に突然訪れる刺激的な体験。 少し非日常を覗いてみませんか? あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ? ※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに  Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。 ※不定期更新です。 ※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。

処理中です...