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愛 玩 人 体〔40〕
しおりを挟む何か、躰に重たいものが乗っている。仮眠室で目覚めたバージルは、胸板にエイジの寝顔を見つけ、状況を把握した。
昨日の夕刻、エイジを送迎した後、帰還した際に激しい目眩に襲われ、それからの意識がない。
「……参ったな」
バージルは現状に呆れつつ、自身の胸板に頭を乗せて眠るエイジの躰を寝台へ横たえた。少年の健康状態を目で確認した後、すぐにでも愛玩人体の利用履歴更新と、昨日の報告書を制作するため、水道で顔を洗いデスクについた。パソコンの電源をONにした時、事務局の人事部から新着メッセージが届いていた。
{○○日 14:00~16:00 代理講師要請/場所=学棟21号AB室/科目=倫理原則}
時として、講師の依頼を引き受けなければならないバージルは、たんに、愛玩人体の管理に専念できる状態ではなく、外科医として意見を求められたり、相談話を持ちかけられる立場につき、ここ数ヵ月の疲労は蓄積されていた。さらに、教壇へ立つ以上、講義の資料を用意しなければならない。
「……参ったな」
バージルはため息を吐いてつぶやくと、年次休暇の申請を検討した。2、3日でいい。脳と躰には安息が必要だった。
手際よく作業を片付けていると、エイジが起きてきた。
「バージル! もう大丈夫なのか!? どこも具合悪くないのか!?」
デスクに駆け寄り、医師の顔を心配そうに見つめた。
「わたしなら、問題ない。キミに世話をかけたようで、すまないね」
「そんなことない。バージルが倒れたのは、オレの所為だろ!?」
「そうではない。利益なら得ているから心配するな」
「でも、バージルって、いつも忙しそうだし、少しくらい、休んでもいいはずじゃないのかよ」
「ああ。休暇を検討している。キミにも必要な頃合いだろう。互いに一息入れるとしよう」
「バージルと一緒に? それって、もしかして……」
エイジは何かを期待して胸がドキドキと高鳴ったが、バージルの手許を見て顔をしかめた。分厚い本が積み重なっている。
「また、難しそうなことやってた?」
「これは講義に使う資料を探していただけだ。それに、もう終わっている」
バージルはそう云って、1枚の紙を差し出した。エイジが目を通すと、そこには几帳面な筆致で講義内容がまとめてあった。エイジは声にだして読んだ。
「倫理原則とは、空間の構造と履歴の把握であり、人々の関心や……、ね、ねん?」
「懸念だ」
「人々の関心や、懸念を見抜くことである。……よ……よう?」
「汎用」
「汎用的なシステムの利点は、柔軟性と即応性であり、社会的視点でも適切であるように、相手を人間として尊重することが基本である」
エイジは途中で読めない漢字に口ごもるが、その都度バージルが(嫌な顔をせず)補ってくれた。
「社会的合意形成のために、問題点があれば当事者間で認識を深め、問題に対する方策の……、ま……まい……?」
「枚挙」
「問題に対する方策の枚挙と、各人に見込まれる益と害を調整する必要がある」
エイジは何とか読みあげていたが、まったく理解が追いつかない。
「……ごめん、バージル。もっと解りやすくたのむ」
紙から顔をあげてそう云うと、医師はデスクの角に頬杖をして話を進めた。
「倫理の原則は、相手にとってできる限り益となるように努めなければならない、と云うことだ」
「それだと自分はどうなるの?」
「害を引き受ける決断をする」
「えっ? そんなの狡くないか?」
「多数決の原理に頼らない場合、害を引き受ける当事者を、他の当事者が認め、手を貸してやらなければならない。問題の理解と共有は、個人の意思決定で解決するものだ。何事もね」
「意思決定……、オレの意思で問題が解決するのか?」
「行動の原因が本人の内面にあるか、外部の環境や、社会的状況にあるかという区別が重要だ」
「本人の内面って?」
「意図性、感情、性格、正当化可能性といったところだろう」
だんだん頭が痛くなってきたエイジは、学習能力の低さを残念に感じた。理解力の欠如により、バージルと共通の会話が続かない。
「……結局、何が云いたいわけ?」
などと、安直に問い返すことしかできなかった。医師は、左手頚に嵌めていたはずの腕時計が消えている点に気づいていたが、何も指摘せず、エイジの右手に視線を落とした。昨晩、医師の手頚から外した腕時計をエイジが嵌めている。そのことをすっかり忘れていたエイジは、バージルの視線に気づけなかった。
医師はデスクから離れると、書棚から1冊の本を抜き取った。内容をひらいて確認した後、
「読んでみるといい」
と云って、エイジに手渡した。本のタイトルは“Just World”(公平な世界)である。個々に、その人にふさわしい結果を受け取るような世界、あらかじめ予見できる結果に対する備え、実際にその結果を引き起こした当事者が責任を問われない事例、“公平な世界に対する信念”について綴られており、エイジに必要な知識だと判断した。
+ continue +
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