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第三章 亡霊、竜になる

第二十五話 スベる飛竜と飛ぶ蜘蛛女 #2

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 屋根の上に降り立つや否や、アリアは八本の脚を忙しくうごめかせて、一気に駆け出した。

「さあ、ついておいで! トカゲさん達!」

 空へ向かってそう呼びかけると、彼女はまるで白煙を噴き上げるかのように、背中の穴から白い糸を噴き出し始める。

 通常、蜘蛛の巣は粘性のない縦糸の間に、粘性のある横糸を張り巡らせて造られる。

 蜘蛛が自分の巣に引っかからないのは、粘性の無い縦糸の上だけを渡るからだ。

 今、彼女の背中から引っ切り無しに噴き出し続けているのは、その粘性の無い縦糸。

 それを羽衣の如く、風の中に泳がせながら、彼女は屋根から屋根へと慌しく飛び移っていく。

 だが、その動きは、軽やかというにはほど遠い。

 蜘蛛の巨体には、相当の重量がある。

 着地する度に足元で建物がきしむ音を立てて、砕けた砂礫されきがパラパラと地に落ちた。

 やがて、一際大きな建物の上に降り立つと、アリアは胸元のレイへと呼びかける。

首狩り兎ボーパルバニー! 飛ぶわよ! しっかり掴まってなさい」

 ――わかった。

 レイはこくりと頷くと、無造作に腕を伸ばして、二つの乳房をがっしりと小脇に抱える。

「あん! って、ちょっとは遠慮しなさいよ、アンタ! 金取るわよ!」

 ――我慢しろ。他に掴まる所が無い。

「このエロ兎ぃいい! 後でぼったくってやるからね!」

 ――請求はエルフの方へ回してくれればいい。

「結構クズね、アンタ……」

 間違いなくエルフの少女がブチギレるであろう一言に呆れながら、アリアは平らなマンサード屋根の上を滑走し始める。

 そして、硬い節足にえぐり取られた外壁を撒き散らしながら、大通りの方へと一気に跳躍した。

 余り知られていない事実だが、実は蜘蛛は空を飛ぶ生き物である。

 これは比喩では無い。

 実際、高い場所で網を振り回すと、稀に小さな蜘蛛がかかる事があるのだ。

 長く吹き流した糸に風を受けて、宙を舞うバルーニングと呼ばれる行動。

 小さな蜘蛛ならば、数百キロの飛行も可能なのだが、流石にアリア程の巨体となるとそうはいかない。

 せいぜい長距離跳躍の補助程度のものだ。

 それでも百メートルを超える大跳躍。

 背後から追ってくる飛竜ワイバーンの姿を視界の隅にとらえながら、人のざわめく大通りを一気に飛び越えて、彼女は通りの向こう側、いかがわしい店が軒を連ねる裏通りへと舞い降りた。

 アリアは八本の脚を大きく開いて、石畳の上を滑りながら勢いを殺すと、間髪入れずに細い通りを奥へと走り始める。

 ――逃げるだけでは、いつか追いつかれるぞ。

「お黙り! ちゃんと考えてるわよ。歓楽街こっちがアタシの庭なの!」

 見上げれば何匹かの飛竜ワイバーンが獲物を狙うかのように低い所を旋回している。

 アリアの肩越しに背後を覗き見ると、地面すれすれを土煙を上げて追ってくる一匹の姿が見えた。

 ――奴ら、人間には見向きもしないな。

「完全にアンタしか狙ってなさそうね。アンタを投げ出して逃げれば、私も大丈夫なんじゃないかって思い始めてるんだけど」

 ――やってみるか?

「ウソよ。アンタと私の仲じゃないの」

 ――だから、喰われるのは御免だと言っている。

 思わず渋い顔をするレイの姿に、アリアはクスリと笑うと、角を曲がる。

 そこから入り組んだ通りをいくつも通り抜けて、やがて二人は広めの通りに躍り出た。

「ここがかつてのメインストリート。『吸精鬼サキュバスの洞』よ」

 それは数十メートルにも渡る、長く真っ直ぐな通り。

 道の両側にはいかがわしい看板を掲げた店が軒を連ね、通りの途中には区画を区切るためか、道の上を横切る様に石造りのアーチが掛かっている。

 えた臭いと塗装の禿げた派手派手しい看板が、この通りのさびれきった雰囲気を、より一層濃い物にしていた。

 ――いかにも、という感じだな。

「……昔は賑わってたのよ、ほんとに」

 アリアはどこか懐かしむような顔になった後、

「まあ、あんまりらせても、えちゃうし……押し倒すんなら、そろそろかしら」

 どこかなまめかしい声音でそう呟くと、アリアはじゅるりと唇に舌を這わせる。

 その時、二人の背後で盛大に路地の壁を破壊する音を立てながら、飛竜ワイバーンが通りへと躍り出てきた。
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