その刹菜に

焼魚圭

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第二幕 ――パンドラ――

救出

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 いつも通るはずの道、きっと今まで何度でも身を運んだ事のある場所。向かっている場所はそのような所であるはずが楓は得体の知れない恐怖を覚えていた。記憶には残されていないはずの、この身体が一度たりとも経験したことのないはずの出来事への感情が時を超えて届いているような感覚。楓の身体は訴えていた。
――近寄りたくない、でも
 恐怖に打ち勝たなければ里香を救う事など出来ない、里香を救うにはあらゆる負の感情をも追い抜いて先へ先へと進まなければならない。当然のように想って当然のように出来ない、そんな自分自身に嫌悪感がもたらされる。
 きっと前の運命から誤って持ち帰りしてしまったものだろう。
 その様なことが出来るはずもない、本来の法則からしてあり得ない。頭では分かっていたものの、心は科学の外側の存在を予感して訴えていた。
 背筋を走るのはただ一色の感情。頭に抱くは別の一色の感情。心に張られたものもまた、異なる一色の感情。
 楓は他人と比べて単純なのだと自覚を持っていた。しかしその単純な人間の中ですら多色の想いが混ざり合って異様な風景を描いている。目の前を歩いている絵海はどのようなことを想っているのだろうか。
――分からない、分かりようが無い
 そうして想像を巡らすこともなくただ結論を提げてしまうこと、それこそが絵海の感情の不明を産む原因のひとつなのだと分かっていても尚、無駄なことは考えない。楓の人生に刻みつけられた癖のひとつだった。
「そろそろ着く、準備は大丈夫かな」
 絵海に訊かれて深く頷く。ただそれだけで運命の針が進むのならば安いもの。自分で回すのが恐ろしい。山が近付く度に得体の知れない恐怖は大きくなって近寄りたくない、目を背けたい、そんな気持ちが大きくなり始めていた。
 逃げようと、現実から目を背けようと弱い選択を取ろうとする己の心など置き去りにして無理やり進む。これから向かう場所に弱さを持ち込むなど愚かそのものでしか無かった。
 やがてたどり着いた公園。昨日はアイドルが客を集めてライブを行っていた場所。楓はアイドルが好きでは無かったものの、里香は充分楽しかったそう。楓としてはあの空間の隅で襲ってくる敵の方が印象に残っていた。様々な個性を持ち合わせた能力者たち、彼女らは今日も無事に生きているのだろうか。敵ではあったものの脅威ではない。そんな相手に恨みや鋭い敵対感情を向けるつもりは無かった。寧ろ仲良くしていた方が争いは起こらない、それが楓の見解。
「凄い景色」
 絵海の言葉に操られるように公園を挟んだ向こう側、山が聳えているはずのそこへと目を向ける。
「山は……どこに行った」
 楓もまた、驚かずにはいられなかった。そこにあったはずの山ひとつ、その姿は昨日とは打って変わっていた。豊かな自然はどこへ行ってしまったのだろう。美しい紅葉の始まりは、燃えるような紅と橙、その中に混ざり合う美しい黄色は昨日という時間の中に取り残されたのだろうか。
 楓は直感だけで否定する。
 あり得ない話だが、今日の夕方、ここと同じはずの別の場所に置き去りにしてしまったらしい。
 そこには歪な更地が広がっていた。
「山ひとつ消し飛んでるのか」
 それは何者の仕業なのだろう、全く予想すらつかない。異能の力のひとつやふたつ、それどころか五つほど掛け合わせてみても山からこの地形を作ることは出来ないだろう。
 あまりにも大きな脅威の訪れ、それは自然現象ですらないことは明らか。
「更地に穴」
 絵海はどこまでも冷静である種の尊敬を覚えてしまう。前の世界の記憶を残しているはずなのに、この地形が出来上がる過程を見ている可能性すらあるはずなのに、どうして感情を揺らされることすらなく向かい合っているのだろう。
「何があったのだろうね」
 絵海の呟き、誰に向けたわけでも無い問いかけのようなものが独りよがりな空気の中を流れる。
 絵海も楓も、世界でさえもが独りよがり自分勝手。少なくとも現状の中に居合わせる誰もがそこにいる誰も思いやる事が無い。そんな思考を持ち込みながら大切な人を救おうなどもはや滑稽な劇の一種だった。それでも救いたい人物の一致がどうにか纏め上げてくれる。ただひとつの支えがこの世界に平和をもたらしてくれることを信じて、公園にすら踏み入れないまま竦む足に鞭を打つ想いで公園へと足を踏み込む。
 恐怖は最も根本的な感情、生きるために必要な感情。しかしそれを抑えなければならない。
 現実的に考えると決して起こりえない現象が立ちはだかっている。果たして何があったのか、何かを引き起こした元凶はまだどこかに、下手したら地下の研究所の中に潜んでいるのでは無いだろうか。思うだけで震えが止まらない。しかし、恐怖を乗り越えなければ里香との再会は許されない、そんな気がしていた。
 公園を歩き続ける。何が現れるのか分からない、もしかすると地下研究所が空洞化でもしていれば突然土地が沈み込んでしまうかも知れない。
 想像は想像を、恐怖の後ろに並んだ更なる恐怖を呼ぶ。そんな感情が楓の真ん中に堂々と立っていた。
 進む足は震え、山があったその地の震えのようだと錯覚する。
 それでも進み、更地の中の入り口に身を滑り込ませた。


  ☆


 楓が恐怖に怯える姿を目にして絵海はその直感に感心していた。ありもしない想像でも膨らませているのだろうか。彼女の唇の動き、震え混じりの動きがとても印象的だった。
――楓は恐怖に対してこのような表情をするのか
 それは飽くまでもちょっとした情報。癖のひとつやふたつで性格の隅から隅まで暴くことなど出来ないことは分かっていたものの、そのちょっとした情報が大胆に感情を暴き散らすこともあるのだと言うことを絵海は己の人生から学んでいた。
――楓の感情を少しでも落ち着かせなきゃ
 絵海も得体の知れない恐怖の予感を心の底で触れていた。向こうから撫でに来るような心地が最悪だった。しかし今はその感情に浸され漬けられている場合ではない。今は楓の大切な里香を救うべき時。
「楓、戦闘の心構えは出来てるの」
 身を震わせながら口を動かす。その口がまた異なる震えを交えていて、ふたつは噛み合わない色合いをしているように思えた。
「言うまでも無い」
 言葉では強く反応してみせたものの、絵海には分かっていた。
――嘘。口が震えている
 きっと嘘をつくことに対する根本からの罪悪感だろう。里香も嘘をつくときにはちょっとした癖を持っていた。大半がなにかしらの反応を示す、嘘をつくと言うことはそれ程までに大きな出来事なのだろうか。
 絵海は今夜も悩むのだろう。自分もまた同じように隠しきれない癖を持っているのだと。
 そんな感情を置き去りにして進む。
 階段を降りて降りて降りて。一段一段、どれもこれもが爛れて階段という形を成していない。壁もまた不規則な浸食の跡を見せていて、より一層おかしな現象だと感じさせる。
――ここを進んで大丈夫か、戻れるかどうか
 もはや坂道と言っても差し支えない。段の形をしていたらしいそれはドロドロに溶けたのか溶けることすら許されずに削られたのだろうか。恐らく前者だろう。滑らかな跡は足に神経を集中させていなければ今にも転んでしまいそうだった。
「楓、気を付けて」
「滑りやすい」
 そう。誰でもすぐさま体感として感じ取る事の出来るそれはあまりにも簡単なもの。簡単で単純だからこそだろうか、誰もが同じような感想を述べてしまいそうにすら思えてくる。
「里香はきっとここ」
 きっと、そう呼ぶにはあまりにも強い確信が差し込んでいた。空気の歪み、里香が能力を行使した後特有の反応が彼女の居場所を大まかに告げていた。
「分かりやすい、私たちみたいに異能の察知が優れてるならすぐ見えてくる」
 異能力者の中にも異能の察知の強い者と弱い者、手に取りやすい周波数や性質がある。多色多彩な異能を持つ楓はもちろんのこと、時間を超えた記憶を読み込む絵海にも里香の異能の気配の読み取りは容易いものだった。
――確実に近付いてる
 言葉にするまでも無い。確認を用いるまでもなく楓の目の底に宿る明るさから同じように気が付いているのだと見て取った。
 一段降り、更に一段降り。その度に己の内で張り詰める乾いた空気と外にて乾き細かな破裂を繰り返す空気感の差を感じ取っていた。
 幾度となく滑りそうになる、バランスを崩しては立て直して、壁に手をついてなみなみの曲線を描く心地をなぞりながら。乾きに反して濡れを思わせる滑り心地はしかし、金属の階段の爛れによって引き起こされるだけの無機質な事実。そんな心地と共に歩み続けて地下へと降り続ける。
 長い階段に絵海はうんざりしていた。何度も同じ感覚を繰り返しては同じようにいつまでも新鮮に残し続ける。この階段を降りるという行動を思い出す度に反復される感覚が鮮明に蘇ってくるのだ。山が聳えている時よりは明らかに段数が減っているということには感謝の念を抱くべきだろうか。
 やがて目指していた場所、噂話ほぼそのものが居座っていたと思しき空間にたどり着いた。
 そこに広がる景色を目で触れて、情報は弾けて大いなる驚きを産み落とす。
 溶け落ちた機器類に残された配線の残骸。恐らく機器類の内部に用いられていたものだろう。残ってはいたものの線の断面は滑らかで機械の部品に使われていたことを疑う質感だった。
 ランプの消えたドアが残されている。絵海はそこを開いて向こう側は機能が完全に生きているのだと知ってキーボードに手を添える。
「私は調べ物をするから楓は里香を」
 言葉もなく頷いて、楓は絵海が通ったドアをくぐることなくただ愛しの君を探し続ける。
――どこにいるんだ、一体どこに
 その結末はいとも容易かった。
 残骸の向こうに更に爛れたドアの跡。恐らく何かが浸食しながら進んだ跡なのだろう。根本を目指している。脅威の進む向きも時間も反対向きに、ただただ辿って探して。
 やがて何もかもが溶けた部屋の中に横たわる里香の姿を見付け、しっかりと抱き締める。
「大丈夫か、大丈夫なら返事を」
 声を掛けられて薄らと目を見開く。彼女をお出迎えしたのは暗闇に充ちながらも軽い明かりが差し込む異様な空間。熱を帯びた物質が通ったとしか思えない溶け方をしたそこになぜか無傷で横たわっていた彼女。
「へへ……ありがと、来てくれたんだね」
 楓は胸を撫で下ろしながら息をついて、そんな中でも思考を止めない。
 もしかすると、その何かが世界を溶かすことそのものが里香の能力の発動を促してしかも時を超えて影響を与えている。そんな脅威にどのように立ち向かえばいいのか、打ち震えながら絶望に揺らされながら、震える瞳で今を見つめるしか無かった。
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