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波乱万丈の後は、ご褒美を。
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背中から剣に貫かれたとたん、体の中に向かっていろんな感情が押し寄せてきた。
まるで世界中の人たちの感情を注がれているみたい。
たくさんの人たちから同時に話しかけられて、どれがだれの声で何を言っているのか理解できなくなるのと同じ感じ。
ひとつひとつを言葉にして理解するよりも先に、次から次へといろんな感情で上書きされてしまう。
感情の起爆剤になっている記憶もセットになって注入されるから、いくつもの映画を同時に見ているみたいだ。
どれが何で、どうなってるのかなんてわかんない。
ただただ激しい感情と記憶の中を漂うしかなかった。
父親に叩かれる母親を助けようと、泣き叫ぶ幼い子供が見えた気がした。
その直後には年老いた父親と語りあう息子の笑顔が見えたかと思えば、薄汚い路上で身を寄せ合う痩せた子供たちが泣いている。
脈絡も共通点もない、だれがだれかもわからない記憶と感情に俺という意識がかき消されてしまいそうだった。
俺ってだれだったっけ?
こうなる前に何をしていたんだ……ここはどこ?
それすらどうでもよくなってきて、流れ込む濁流のような感情に身を任せた時だった。
まるで水を堰きとめていた壁を壊し、そこから水が流れ出していくように感情の流れが俺の中から出ていくのがわかった。
水位が下がったおかげで俺自身に余裕ができたみたい。
俺は日向貴幸あらため、キュカ=オリテイルだ。
嘘みたいだけど本当の話で、異世界に就職した日本人。
そしてかなり厄介なサイカと言う化け物を封じる役目を任されて、その為に剣で刺されたんだ。
あ~ようやく思い出せたよ。
と少しばかり安心したところで、目にどこかの部屋が映っていることに気がついた。
薄暗い部屋だけど内装はとても凝っている。くるくる渦巻く草花をモチーフにした装飾が柱や壁紙に用いられて、陽光石を支える燭台も細工が細かく施されていた。
広さも手伝ってここが一般家庭の部屋じゃないってことがわかる。
さらに異様なのは、窓に鉄格子が嵌まっていること。
こんなの一般家庭には用がないものじゃん。
掴んで揺すってみたけど、太い格子は揺れもしない。
何なんだ、ここは……。
女神と会った場所とも違うし、いつの間にここに来て、ここはどこなんだろうと思いながら周りを見ていたら、足を何かに掴まれた。
ぎょっとしながら見下ろすと、足元に小さな子供がいた。
とても痩せた子供だった。たぶん三歳くらいだと思うんだけど、ふっくら丸みを帯びてるはずの子供のほっぺはこけて、骨の形がわかる。
髪はほとんどなく、俺の足を掴んだ手には力がほとんど感じられない。
俺を見上げる紫色の目も曇っていた。
その目の色に心臓がとくりと鳴った。
まさか、この子は……。
もう一度よく子供を見て、細い足首に木の足枷がついていることに気づいた。
大人の力なら壊せないこともないだろうけど、こんなに痩せた子供ではそれもできないだろう。
足枷で足首の皮が擦り切れたらしく、赤く爛れて血が滲み出ているじゃないか。
「なぜ、こんなことに……」
子供の前に屈んで、せめて足首に何か巻いてあげようと思った時、物音が聞こえた。
思ったよりもすぐ近くにだれかがいるみたいで、耳を澄ますと人の声も聞こえる。
「すみませ……」
手伝ってくださいと言いかけて、声の方を向いた俺は凍りついた。
子供のそばに来てようやく見えた衝立の向こう側は、続き部屋になっている。
そこに大きなベッドが置かれ、明らかに情事の真っ最中なのだった。
狂ったように腰を振り息を乱す男の下で、両足を開き揺らされる女性がいた。
乱れた髪が覆い隠す顔はすべてが見えなくても造形美がわかる。
暗がりに浮かびあがるような白い肢体も美しい脚線美を描き、甘い嬌声はもうひとりの男が吸いつく唇の奥から漏れてくる。
衝立なんかあったって、何の役にも立ってないじゃないか。
子供が見える位置でいい大人が何してんだよ。
思わず子供の前に場所を移動して、ベッドが見えないようにしたけど。
ここから出してあげたい。だけど足枷は窓の格子と太い鎖で繋がっていた。
その時、ぼんやりとした目で俺を見上げていた子供が、ふわりと笑った。
何も言わず俺の体に抱きついて、満足そうに息を吐き出す。
痩せた体を包む服は、あちこち擦れて破れている。
あまり頻繁に洗っていないらしく、服から変な匂いがするし、子供の体もあちこち黒ずんで荒れていた。
足枷の隣に置かれたままの欠けた食器は空だ。
汚れたままのそこにゴキブリに似た黒い虫が這いまわっていた。
罪人のように繋がれている紫色の目をした子供。
その目の前で犯されている女性。
涙が出てきて、止まらない。
これがどこでいつなのか、だいたいわかってきたから。
俺がいまここで何もできないことも。
ただ腕の中で安心しきって寝息を立ててる子供を、そっと抱きしめる。
ごめん、何もしてやれなくて。
これからも辛いと思う。だけどお願いだから、生き延びて欲しい。
ずっと先で、俺がまたこうして抱きしめてあげるから、どうか。
祈るしかできないことが苦しい。
過去は変えられない。その重みを痛いほど感じる。
腕の中で眠っていたはずの子供が、ぽんぽんと胸を叩いた。
「戻っておいで、貴幸」
「……え?」
「抱きしめてくれるのなら昔の僕じゃなくて、いまの僕を抱きしめて欲しいんだけどな」
痩せた子供がなめらかに話す光景は、ちぐはぐな印象を見る人に与えた。
えっと、つまりこれってどういうこと?
混乱したまま動けない俺に向かって、子供が笑いかけてくる。
痩せた顔立ちだったはずなのに、映像を早送りするように顔が丸みを帯びて、少しずつ形を変えていく。
そして気がついたらハイヤスが目の前にいた。体も大人になって、騎士団員の制服を着ているじゃないか。
「……あ、れ……?」
さすがの俺も理解不能です。何が起きたわけ?
ハイヤスを見上げて、何度もまばたきする。ハイヤスは実に楽しそうに笑っているけど、俺は全然まるでわかってないんですけど。
「ようやくお目覚めですね、姫様」
「……だれが姫ですか、だれが」
顔を覗きこんで、ふざけたことを言ってくるハイヤスを睨みつけることだけは忘れません。
ハイヤスはまた楽しそうに笑って、軽くキスした後。
「おはよう、貴幸。何を見たのか知らないけど、もう泣かないで」
と言って目尻をぺろっと舐めてくる。
おまえ、寝起きから何をしやがる……あれ、俺は寝てたのか?
相変わらず状況が理解できない俺は、ハイヤスを突き離すのも忘れてただ顔を見上げていた。
すると王子さまスマイルが似合う顔に、苦笑いを浮かべる。
「少しは落ち着いた? 説明しても大丈夫?」
「あ……ええっと、私は女神と会って……それから」
「剣でお互いの心臓を刺した。そこまでは覚えてる? あの後すぐに僕も気を失って、あの部屋に倒れた。しばらく夢を見て……気がついたらサイカは大人しくなっていた。副団長たちが僕らを取り囲んでいてね、ユーザの部屋に僕と貴幸を運んでくれたんだけど……」
ハイヤスが急に真顔になって、しばらく俺を見つめた後抱きついてきた。
「ずっと貴幸が眠ったままで……もう、目覚めないのかと思った……」
「……すみません」
耳の横で、しみじみと声を吐き出したハイヤスの背中に、おそるおそる手を伸ばして触れる。
冗談じゃなく、本気で心配していたんだろう。
俺を抱きしめたまま、ハイヤスは疲れ切ったみたいで動かない。
「本当にすみませんでした。ご心配をおかけして……」
謝ると、もう黙ってと言いたげに抱きつく腕に力がこめられて、それきりだった。
どうしていいのかわからず、ハイヤスの背中を軽く叩きながら天井を見上げる。
高い天井はガラスで出来ているみたいで、明るい陽射しがさんさんと部屋の中を照らしている。
だけどたくさんあった観葉植物がひとつもなくなっていて、歩くのもやっとだった部屋の中はベッドとテーブルにソファがひとつ、衣装棚くらいの質素さに代わっていた。
部屋の中を見回して、ここが本当にユーザの部屋なのか、信じられないくらい変わっている。
「……どれくらい私は眠っていたのですか?」
まさかリアル浦島太郎になっちゃいないよな。部屋の変わりように心配になった俺がハイヤスに聞いてみると、顔を埋めたままハイヤスが答えた。
「……十年」
「えっ!」
助けに来てくれたラインに向かって、十年は眠り続けられそうだって言ったけど、まさか本当に寝てたのか?
驚きすぎて思わず起き上がった……つもりだったけど、首から上が枕からちょっと浮いただけ。
そりゃ、ハイヤスに抑え込まれてるも同然だから、こうなるよな。
でもそれだけじゃなく、本気で体に力が入らない。
これはマジで十年冬眠説が有力になったな、とあきらめかけたところで耳元でハイヤスがため息をついた。
「十年くらい待った気分」
おまえな……。
そろりと顔を横向けて、ハイヤスがじっと間近で顔を見つめて言う。
「約一年間。あの日からずっと貴幸は眠ってたよ」
「……一年……」
「うん。何しても起きなかった」
何の部分を突っ込んで聞いてみたいところですが、聞かない方が身のためかもしんない。
「ほら……夢の中の僕じゃなくて、いまの僕をいっぱい抱きしめてよ」
と言ってハイヤスが顔を擦り寄せてくる。
くすぐったい……。
「しかし一年間眠っていたのならずいぶんと匂うと思いますし……」
「大丈夫。毎日欠かさず、僕がお世話いたしました」
俺のチキンハートが大丈夫じゃねぇ。
「貴幸~好きだよ~っ」
「ちょっ……離れてくださいっ……ハイヤスっ!」
「あぁ~怒ってる声も素敵~」
怒られてうっとりするの、気持ち悪いから。マジでやめろ。
「目覚めの口づけをしようよ、一年分の濃厚さで」
「しませんっ!」
ぐぐっと顔を近づけてくるのを腕を突っぱねて拒否するんだけど、本気で迫ってくるから俺も必死だ。
眠ってたわりに、そこそこ元気な俺の体。ありがとう。
しよう、しません。キスひとつで揉み合ってる俺たちの横で、いきなり笑い声が聞こえた。
げっ……まさか近くにだれかいたの?
顔面蒼白で俺が横を向いたら、半透明の女神さまが浮いていました。
俺たちを見下ろして、優雅に手を叩いてくださっている。
い、いつから見てマシタ……?
『お主が目覚めたあたりから見ておったとも……なんじゃ、不満か?』
「……私はもう一度眠ります……二度と目覚めません。止めないでください」
「ちょ、貴幸! 何言ってんの」
ハイヤスが慌てて俺の肩を掴んで揺すってくる。
俺が現実逃避したくなってる原因はおまえだよ!
『よいではないか。この一年間、その者は実に良くお主を守っておったよ』
それも見ていたのか。思わずハイヤスの顔を見上げてしまったら、真剣なまなざしで見つめられました。
俺、女の子じゃないから、そんなことされたって顔を赤らめたりしませんからね、あしからず。
鼓動がちょっと駆け足になってることは秘密だ。
『お主も無事に帰りつけたようじゃ。これで安心して……我も眠りにつける』
「女神さま?」
半透明の女神さまが深く息を吐き出した。
『我の役目は終わった……あとはただ静かに眠るのみじゃ』
「そんな……私は……?」
なんちゃって神子の俺を残して、勝手に休むのかよ。
だけど女神さまは首を横に振る。
『お主にはその者がおろう』
「…………」
『眠る前にお主らに褒美をと思って、ここに来たのじゃ。せめてもの詫び、受け取っておくれ』
そうして女神が手を叩いた。
音が鳴ったとたん、女神の姿が消えて白い霧が舞い上がった。
もわもわと白い霧が天井近くまで駆け昇って、ゆっくり降りてくる。
やがて白い霧が床を這う頃、ハイヤスの手を借りて体を起こした俺の前に、懐かしい人が立っていた。
白い霧の向こう。
黒い影になっていた人の姿がはっきり見えてくる。
厳つい顔立ち、白い髪と髭。
幅の広い肩と分厚い胸板。太い手足に傷跡の残る指。
「……爺さま……」
俺を見つめる目がいつだって優しかったことを、いまも覚えている。
たくさんのことを教わった。時に叱り、甘やかしてくれた恩人の姿を、何度夢に見ただろう。
サイカに飲まれて消えたはずの爺さまが、ゆったりと両腕を広げて笑ってみせた。
『おいで、キュカ』
懐かしい声。大きくて割れたその声が、はじめは怖かったのに。
弾かれたようにベッドを飛びおりて、爺さまに駆け寄って抱きついた。
しっかりと爺さまの体を感じる。
手で、全身で爺さまに触れることができる。
『よくやった。苦しかったろうに、本当によくやったな』
「爺さま……っ」
耳で爺さまの声を聞くことができる。
これは夢か、幻なんだろうか。
だって爺さまは……。
「ごめんなさい……爺さま、ごめんなさいっ!」
俺が拒んだから。過去に縛られ、幸福を見失った俺のせいで爺さまは死んでしまったんだ。
「私が、ちゃんと……していれば……あんなことに……」
『そうではないよ、泣くでない。キュカ……例えそなたがあの時体を開いていたとしても、心は開けなかったであろう……その原因は我々にある。そなたのせいではないのだから』
「しかしっ……」
『そなたはちゃんと正しい伴侶を選んでくれた。それだけでわたしは満足だよ』
「爺さま……」
大きな手が子供をあやすように、何度も頭を撫でてくれる。
その隣で、また別の声が聞こえた。
『よかったねぇ~坊主。これからは夜空の君を独占できるよ。さぞかし天にも昇る気分だろうね』
「……うるさい」
リアンとハイヤスの声だ。やけに明るいリアンとは対照的に、ハイヤスの声はずいぶんと苦々しい。
『こんなことになるのなら、もう一回くらい夜空の君と寝ておくんだった』
呑気に呟くリアンに間髪入れずふたつの声が突っ込んでくる。
『リアン、何言ってるんだ!』
「貴様、死んでも性根が治らないらしいなっ」
ユーザとハイヤス。ふたりから同時に責められても、リアンはあははと笑うばかりだ。
ほんと、あっぱれな性格してるよな、あの人。
『だってさ~夜空の君の可愛さったら。いつもは気づかないけど、腕に抱くとね……そりゃもう、愛らしのなんのって……痛いっ、ごめん。ユーザ、冗談だからつねらないでちょうだいなっ』
『これからじっくり時間をかけて絞めあげてやるから、覚悟しなよ……あぁ、ごめんね。こいつのこれは病気だから。いまさらだれが何を言っても治らないし、本気で実行するわけじゃないから聞き流しなさいね』
「…………」
さすがのハイヤスも絶句している様子だ。
あの人を親に持ったハイヤスは、ちょっと憐れかも。
『それはそれとして。おまえはわたくしをかなり恨んでいるだろうねぇ』
ちょっとだけ声を落としたリアンがしみじみと語る。
『結局、おまえたちの帰りを待てなかったし……まだおまえに伝えきれなかったことがたくさんある。それをすべて伝える時間も術も、わたくしにはもうない』
「……僕は……」
『謝りたいことだらけだ。母のこと、孤児院のこと、その後放置したこと。騎士団の都合でおまえを呼びつけたことも……おまえはいつだってわたくしに振り回された。そして夜空の君のことも……』
ハイヤスが俯いてリアンの話を聞いている。
その手に力がこもって、一瞬拳を握ってすぐに解けた。
「……恨んでいないわけがない」
『そうだろうね。だからわたくしはその恨みを持って逝くよ……』
「待てっ!」
いきなりハイヤスが顔を上げて、鋭く声を放った。
リアンとユーザが面食らった顔でハイヤスを見てる。
「……待ってくれ……」
ハイヤスがまた俯いて、複雑な胸中と戦うかのように小さく震える声を絞り出した。
「……貴様が……最善を尽くしたことは、いまならわかる……僕を殺さず、生かすことがどれだけ困難なことだったのか。存在意義を持たせるために騎士団に呼んだことも理解している。貴幸を抱いた理由も聞いた……だから……」
震えるハイヤスの肩にユーザがそっと手を載せた。
黙ったまま我が子を見つめるリアンの腕を引っ張って、ハイヤスへ導く。
『君たちはとてもよく似た親子だよ……ぼくはそれも妬ましかった。血のつながりを感じさせてくれるからね……でも否定しようがない事実だ』
にこりと笑ったユーザがリアンを促した。リアンがためらいながらハイヤスの肩を抱く。
『憎くて、愛しいリアンの子……幸せにおなり』
いろんな感情をすべて飲みこんだ、晴れやかな笑顔でユーザが言う。
『……すまなかった』
短い、けれど深い謝罪の言葉がリアンの唇からこぼれ落ちる。
ハイヤスは何も答えない。
すると、抱きついていた爺さまの体の感覚が、少しずつ薄れていくことに気づいた。
はっとして爺さまを向くと、優しく見下ろしていた爺さまがゆっくり頷く。
『そなたの幸せを祈っておるよ。ずっと……それだけを……』
「爺さまっ」
リアンとユーザの姿も少しずつ色を失い、影が消えていく。
『……おまえの恨みはわたくしが持っていく。だから……夜空の君を抱く腕に、少しも残してはいけないよ……わたくしだけを恨みなさい……』
リアンが切なく笑う。はじめて見せた、父親らしい情愛をにじませた悲しげな微笑みだった。
ハイヤスの手が、離れていくリアンを追うように伸ばされる。
ユーザと寄り添い、形を失いかけているリアンに向けて。
「……父さんっ」
たった一言、ハイヤスが投げかけた声が聞こえただろうか。
白い霧が三人を包む。
俺とハイヤスは弾き飛ばされて、目の前で膨らむ白い霧を見上げるしかできなかった。
そして霧は突然、跡形もなく消えて。
後には何も残らなかった。
俺とハイヤスはただ茫然と、三人がいた場所を見つめていた。
まるで世界中の人たちの感情を注がれているみたい。
たくさんの人たちから同時に話しかけられて、どれがだれの声で何を言っているのか理解できなくなるのと同じ感じ。
ひとつひとつを言葉にして理解するよりも先に、次から次へといろんな感情で上書きされてしまう。
感情の起爆剤になっている記憶もセットになって注入されるから、いくつもの映画を同時に見ているみたいだ。
どれが何で、どうなってるのかなんてわかんない。
ただただ激しい感情と記憶の中を漂うしかなかった。
父親に叩かれる母親を助けようと、泣き叫ぶ幼い子供が見えた気がした。
その直後には年老いた父親と語りあう息子の笑顔が見えたかと思えば、薄汚い路上で身を寄せ合う痩せた子供たちが泣いている。
脈絡も共通点もない、だれがだれかもわからない記憶と感情に俺という意識がかき消されてしまいそうだった。
俺ってだれだったっけ?
こうなる前に何をしていたんだ……ここはどこ?
それすらどうでもよくなってきて、流れ込む濁流のような感情に身を任せた時だった。
まるで水を堰きとめていた壁を壊し、そこから水が流れ出していくように感情の流れが俺の中から出ていくのがわかった。
水位が下がったおかげで俺自身に余裕ができたみたい。
俺は日向貴幸あらため、キュカ=オリテイルだ。
嘘みたいだけど本当の話で、異世界に就職した日本人。
そしてかなり厄介なサイカと言う化け物を封じる役目を任されて、その為に剣で刺されたんだ。
あ~ようやく思い出せたよ。
と少しばかり安心したところで、目にどこかの部屋が映っていることに気がついた。
薄暗い部屋だけど内装はとても凝っている。くるくる渦巻く草花をモチーフにした装飾が柱や壁紙に用いられて、陽光石を支える燭台も細工が細かく施されていた。
広さも手伝ってここが一般家庭の部屋じゃないってことがわかる。
さらに異様なのは、窓に鉄格子が嵌まっていること。
こんなの一般家庭には用がないものじゃん。
掴んで揺すってみたけど、太い格子は揺れもしない。
何なんだ、ここは……。
女神と会った場所とも違うし、いつの間にここに来て、ここはどこなんだろうと思いながら周りを見ていたら、足を何かに掴まれた。
ぎょっとしながら見下ろすと、足元に小さな子供がいた。
とても痩せた子供だった。たぶん三歳くらいだと思うんだけど、ふっくら丸みを帯びてるはずの子供のほっぺはこけて、骨の形がわかる。
髪はほとんどなく、俺の足を掴んだ手には力がほとんど感じられない。
俺を見上げる紫色の目も曇っていた。
その目の色に心臓がとくりと鳴った。
まさか、この子は……。
もう一度よく子供を見て、細い足首に木の足枷がついていることに気づいた。
大人の力なら壊せないこともないだろうけど、こんなに痩せた子供ではそれもできないだろう。
足枷で足首の皮が擦り切れたらしく、赤く爛れて血が滲み出ているじゃないか。
「なぜ、こんなことに……」
子供の前に屈んで、せめて足首に何か巻いてあげようと思った時、物音が聞こえた。
思ったよりもすぐ近くにだれかがいるみたいで、耳を澄ますと人の声も聞こえる。
「すみませ……」
手伝ってくださいと言いかけて、声の方を向いた俺は凍りついた。
子供のそばに来てようやく見えた衝立の向こう側は、続き部屋になっている。
そこに大きなベッドが置かれ、明らかに情事の真っ最中なのだった。
狂ったように腰を振り息を乱す男の下で、両足を開き揺らされる女性がいた。
乱れた髪が覆い隠す顔はすべてが見えなくても造形美がわかる。
暗がりに浮かびあがるような白い肢体も美しい脚線美を描き、甘い嬌声はもうひとりの男が吸いつく唇の奥から漏れてくる。
衝立なんかあったって、何の役にも立ってないじゃないか。
子供が見える位置でいい大人が何してんだよ。
思わず子供の前に場所を移動して、ベッドが見えないようにしたけど。
ここから出してあげたい。だけど足枷は窓の格子と太い鎖で繋がっていた。
その時、ぼんやりとした目で俺を見上げていた子供が、ふわりと笑った。
何も言わず俺の体に抱きついて、満足そうに息を吐き出す。
痩せた体を包む服は、あちこち擦れて破れている。
あまり頻繁に洗っていないらしく、服から変な匂いがするし、子供の体もあちこち黒ずんで荒れていた。
足枷の隣に置かれたままの欠けた食器は空だ。
汚れたままのそこにゴキブリに似た黒い虫が這いまわっていた。
罪人のように繋がれている紫色の目をした子供。
その目の前で犯されている女性。
涙が出てきて、止まらない。
これがどこでいつなのか、だいたいわかってきたから。
俺がいまここで何もできないことも。
ただ腕の中で安心しきって寝息を立ててる子供を、そっと抱きしめる。
ごめん、何もしてやれなくて。
これからも辛いと思う。だけどお願いだから、生き延びて欲しい。
ずっと先で、俺がまたこうして抱きしめてあげるから、どうか。
祈るしかできないことが苦しい。
過去は変えられない。その重みを痛いほど感じる。
腕の中で眠っていたはずの子供が、ぽんぽんと胸を叩いた。
「戻っておいで、貴幸」
「……え?」
「抱きしめてくれるのなら昔の僕じゃなくて、いまの僕を抱きしめて欲しいんだけどな」
痩せた子供がなめらかに話す光景は、ちぐはぐな印象を見る人に与えた。
えっと、つまりこれってどういうこと?
混乱したまま動けない俺に向かって、子供が笑いかけてくる。
痩せた顔立ちだったはずなのに、映像を早送りするように顔が丸みを帯びて、少しずつ形を変えていく。
そして気がついたらハイヤスが目の前にいた。体も大人になって、騎士団員の制服を着ているじゃないか。
「……あ、れ……?」
さすがの俺も理解不能です。何が起きたわけ?
ハイヤスを見上げて、何度もまばたきする。ハイヤスは実に楽しそうに笑っているけど、俺は全然まるでわかってないんですけど。
「ようやくお目覚めですね、姫様」
「……だれが姫ですか、だれが」
顔を覗きこんで、ふざけたことを言ってくるハイヤスを睨みつけることだけは忘れません。
ハイヤスはまた楽しそうに笑って、軽くキスした後。
「おはよう、貴幸。何を見たのか知らないけど、もう泣かないで」
と言って目尻をぺろっと舐めてくる。
おまえ、寝起きから何をしやがる……あれ、俺は寝てたのか?
相変わらず状況が理解できない俺は、ハイヤスを突き離すのも忘れてただ顔を見上げていた。
すると王子さまスマイルが似合う顔に、苦笑いを浮かべる。
「少しは落ち着いた? 説明しても大丈夫?」
「あ……ええっと、私は女神と会って……それから」
「剣でお互いの心臓を刺した。そこまでは覚えてる? あの後すぐに僕も気を失って、あの部屋に倒れた。しばらく夢を見て……気がついたらサイカは大人しくなっていた。副団長たちが僕らを取り囲んでいてね、ユーザの部屋に僕と貴幸を運んでくれたんだけど……」
ハイヤスが急に真顔になって、しばらく俺を見つめた後抱きついてきた。
「ずっと貴幸が眠ったままで……もう、目覚めないのかと思った……」
「……すみません」
耳の横で、しみじみと声を吐き出したハイヤスの背中に、おそるおそる手を伸ばして触れる。
冗談じゃなく、本気で心配していたんだろう。
俺を抱きしめたまま、ハイヤスは疲れ切ったみたいで動かない。
「本当にすみませんでした。ご心配をおかけして……」
謝ると、もう黙ってと言いたげに抱きつく腕に力がこめられて、それきりだった。
どうしていいのかわからず、ハイヤスの背中を軽く叩きながら天井を見上げる。
高い天井はガラスで出来ているみたいで、明るい陽射しがさんさんと部屋の中を照らしている。
だけどたくさんあった観葉植物がひとつもなくなっていて、歩くのもやっとだった部屋の中はベッドとテーブルにソファがひとつ、衣装棚くらいの質素さに代わっていた。
部屋の中を見回して、ここが本当にユーザの部屋なのか、信じられないくらい変わっている。
「……どれくらい私は眠っていたのですか?」
まさかリアル浦島太郎になっちゃいないよな。部屋の変わりように心配になった俺がハイヤスに聞いてみると、顔を埋めたままハイヤスが答えた。
「……十年」
「えっ!」
助けに来てくれたラインに向かって、十年は眠り続けられそうだって言ったけど、まさか本当に寝てたのか?
驚きすぎて思わず起き上がった……つもりだったけど、首から上が枕からちょっと浮いただけ。
そりゃ、ハイヤスに抑え込まれてるも同然だから、こうなるよな。
でもそれだけじゃなく、本気で体に力が入らない。
これはマジで十年冬眠説が有力になったな、とあきらめかけたところで耳元でハイヤスがため息をついた。
「十年くらい待った気分」
おまえな……。
そろりと顔を横向けて、ハイヤスがじっと間近で顔を見つめて言う。
「約一年間。あの日からずっと貴幸は眠ってたよ」
「……一年……」
「うん。何しても起きなかった」
何の部分を突っ込んで聞いてみたいところですが、聞かない方が身のためかもしんない。
「ほら……夢の中の僕じゃなくて、いまの僕をいっぱい抱きしめてよ」
と言ってハイヤスが顔を擦り寄せてくる。
くすぐったい……。
「しかし一年間眠っていたのならずいぶんと匂うと思いますし……」
「大丈夫。毎日欠かさず、僕がお世話いたしました」
俺のチキンハートが大丈夫じゃねぇ。
「貴幸~好きだよ~っ」
「ちょっ……離れてくださいっ……ハイヤスっ!」
「あぁ~怒ってる声も素敵~」
怒られてうっとりするの、気持ち悪いから。マジでやめろ。
「目覚めの口づけをしようよ、一年分の濃厚さで」
「しませんっ!」
ぐぐっと顔を近づけてくるのを腕を突っぱねて拒否するんだけど、本気で迫ってくるから俺も必死だ。
眠ってたわりに、そこそこ元気な俺の体。ありがとう。
しよう、しません。キスひとつで揉み合ってる俺たちの横で、いきなり笑い声が聞こえた。
げっ……まさか近くにだれかいたの?
顔面蒼白で俺が横を向いたら、半透明の女神さまが浮いていました。
俺たちを見下ろして、優雅に手を叩いてくださっている。
い、いつから見てマシタ……?
『お主が目覚めたあたりから見ておったとも……なんじゃ、不満か?』
「……私はもう一度眠ります……二度と目覚めません。止めないでください」
「ちょ、貴幸! 何言ってんの」
ハイヤスが慌てて俺の肩を掴んで揺すってくる。
俺が現実逃避したくなってる原因はおまえだよ!
『よいではないか。この一年間、その者は実に良くお主を守っておったよ』
それも見ていたのか。思わずハイヤスの顔を見上げてしまったら、真剣なまなざしで見つめられました。
俺、女の子じゃないから、そんなことされたって顔を赤らめたりしませんからね、あしからず。
鼓動がちょっと駆け足になってることは秘密だ。
『お主も無事に帰りつけたようじゃ。これで安心して……我も眠りにつける』
「女神さま?」
半透明の女神さまが深く息を吐き出した。
『我の役目は終わった……あとはただ静かに眠るのみじゃ』
「そんな……私は……?」
なんちゃって神子の俺を残して、勝手に休むのかよ。
だけど女神さまは首を横に振る。
『お主にはその者がおろう』
「…………」
『眠る前にお主らに褒美をと思って、ここに来たのじゃ。せめてもの詫び、受け取っておくれ』
そうして女神が手を叩いた。
音が鳴ったとたん、女神の姿が消えて白い霧が舞い上がった。
もわもわと白い霧が天井近くまで駆け昇って、ゆっくり降りてくる。
やがて白い霧が床を這う頃、ハイヤスの手を借りて体を起こした俺の前に、懐かしい人が立っていた。
白い霧の向こう。
黒い影になっていた人の姿がはっきり見えてくる。
厳つい顔立ち、白い髪と髭。
幅の広い肩と分厚い胸板。太い手足に傷跡の残る指。
「……爺さま……」
俺を見つめる目がいつだって優しかったことを、いまも覚えている。
たくさんのことを教わった。時に叱り、甘やかしてくれた恩人の姿を、何度夢に見ただろう。
サイカに飲まれて消えたはずの爺さまが、ゆったりと両腕を広げて笑ってみせた。
『おいで、キュカ』
懐かしい声。大きくて割れたその声が、はじめは怖かったのに。
弾かれたようにベッドを飛びおりて、爺さまに駆け寄って抱きついた。
しっかりと爺さまの体を感じる。
手で、全身で爺さまに触れることができる。
『よくやった。苦しかったろうに、本当によくやったな』
「爺さま……っ」
耳で爺さまの声を聞くことができる。
これは夢か、幻なんだろうか。
だって爺さまは……。
「ごめんなさい……爺さま、ごめんなさいっ!」
俺が拒んだから。過去に縛られ、幸福を見失った俺のせいで爺さまは死んでしまったんだ。
「私が、ちゃんと……していれば……あんなことに……」
『そうではないよ、泣くでない。キュカ……例えそなたがあの時体を開いていたとしても、心は開けなかったであろう……その原因は我々にある。そなたのせいではないのだから』
「しかしっ……」
『そなたはちゃんと正しい伴侶を選んでくれた。それだけでわたしは満足だよ』
「爺さま……」
大きな手が子供をあやすように、何度も頭を撫でてくれる。
その隣で、また別の声が聞こえた。
『よかったねぇ~坊主。これからは夜空の君を独占できるよ。さぞかし天にも昇る気分だろうね』
「……うるさい」
リアンとハイヤスの声だ。やけに明るいリアンとは対照的に、ハイヤスの声はずいぶんと苦々しい。
『こんなことになるのなら、もう一回くらい夜空の君と寝ておくんだった』
呑気に呟くリアンに間髪入れずふたつの声が突っ込んでくる。
『リアン、何言ってるんだ!』
「貴様、死んでも性根が治らないらしいなっ」
ユーザとハイヤス。ふたりから同時に責められても、リアンはあははと笑うばかりだ。
ほんと、あっぱれな性格してるよな、あの人。
『だってさ~夜空の君の可愛さったら。いつもは気づかないけど、腕に抱くとね……そりゃもう、愛らしのなんのって……痛いっ、ごめん。ユーザ、冗談だからつねらないでちょうだいなっ』
『これからじっくり時間をかけて絞めあげてやるから、覚悟しなよ……あぁ、ごめんね。こいつのこれは病気だから。いまさらだれが何を言っても治らないし、本気で実行するわけじゃないから聞き流しなさいね』
「…………」
さすがのハイヤスも絶句している様子だ。
あの人を親に持ったハイヤスは、ちょっと憐れかも。
『それはそれとして。おまえはわたくしをかなり恨んでいるだろうねぇ』
ちょっとだけ声を落としたリアンがしみじみと語る。
『結局、おまえたちの帰りを待てなかったし……まだおまえに伝えきれなかったことがたくさんある。それをすべて伝える時間も術も、わたくしにはもうない』
「……僕は……」
『謝りたいことだらけだ。母のこと、孤児院のこと、その後放置したこと。騎士団の都合でおまえを呼びつけたことも……おまえはいつだってわたくしに振り回された。そして夜空の君のことも……』
ハイヤスが俯いてリアンの話を聞いている。
その手に力がこもって、一瞬拳を握ってすぐに解けた。
「……恨んでいないわけがない」
『そうだろうね。だからわたくしはその恨みを持って逝くよ……』
「待てっ!」
いきなりハイヤスが顔を上げて、鋭く声を放った。
リアンとユーザが面食らった顔でハイヤスを見てる。
「……待ってくれ……」
ハイヤスがまた俯いて、複雑な胸中と戦うかのように小さく震える声を絞り出した。
「……貴様が……最善を尽くしたことは、いまならわかる……僕を殺さず、生かすことがどれだけ困難なことだったのか。存在意義を持たせるために騎士団に呼んだことも理解している。貴幸を抱いた理由も聞いた……だから……」
震えるハイヤスの肩にユーザがそっと手を載せた。
黙ったまま我が子を見つめるリアンの腕を引っ張って、ハイヤスへ導く。
『君たちはとてもよく似た親子だよ……ぼくはそれも妬ましかった。血のつながりを感じさせてくれるからね……でも否定しようがない事実だ』
にこりと笑ったユーザがリアンを促した。リアンがためらいながらハイヤスの肩を抱く。
『憎くて、愛しいリアンの子……幸せにおなり』
いろんな感情をすべて飲みこんだ、晴れやかな笑顔でユーザが言う。
『……すまなかった』
短い、けれど深い謝罪の言葉がリアンの唇からこぼれ落ちる。
ハイヤスは何も答えない。
すると、抱きついていた爺さまの体の感覚が、少しずつ薄れていくことに気づいた。
はっとして爺さまを向くと、優しく見下ろしていた爺さまがゆっくり頷く。
『そなたの幸せを祈っておるよ。ずっと……それだけを……』
「爺さまっ」
リアンとユーザの姿も少しずつ色を失い、影が消えていく。
『……おまえの恨みはわたくしが持っていく。だから……夜空の君を抱く腕に、少しも残してはいけないよ……わたくしだけを恨みなさい……』
リアンが切なく笑う。はじめて見せた、父親らしい情愛をにじませた悲しげな微笑みだった。
ハイヤスの手が、離れていくリアンを追うように伸ばされる。
ユーザと寄り添い、形を失いかけているリアンに向けて。
「……父さんっ」
たった一言、ハイヤスが投げかけた声が聞こえただろうか。
白い霧が三人を包む。
俺とハイヤスは弾き飛ばされて、目の前で膨らむ白い霧を見上げるしかできなかった。
そして霧は突然、跡形もなく消えて。
後には何も残らなかった。
俺とハイヤスはただ茫然と、三人がいた場所を見つめていた。
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