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クッキーを作って……デート?
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ディアンと出掛ける日の早朝、アリーシアがいつものように部屋を訪れるよりもずっと早い時間に、マルガリータは既に厨房に居た。
「本当に来たんだな」
「もちろんです、よろしくお願い致します」
笑うバルトの横で、アルフが化け物でも見るような顔で、口をあんぐり開けて固まる。
どうやらアルフが、どんな状況でも誰に対しても冷静で丁寧な対応が出来るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「おう。俺は朝食と昼食を一気に作っちまうから、嬢ちゃんはそっち使ってくれ。手が足りなければ、アルフを好きに使って良いぞ」
「はい。ありがとうございます」
「ちょちょちょっと待って下さい! え、何ですかこの状況!」
笑顔で会話を交わすマルガリータとバルトの間で、アルフが一人焦っている。
どうやら毎朝料理の手伝いをしているらしいアルフに、バルトは今日マルガリータが来る事は伝えていなかった様だ。
面白そうに笑っているから、わざとだろう。
とはいえ、朝の厨房は戦場と言って良い。
何せこの屋敷の料理人はバルト一人なのだし、今日は昼食も同時に作らねばならないとあって、特に忙しいのだろう。
バルトは、さらりとアルフへの説明を流す事にしたらしい。
「ま、後でゆっくり話してやるから、今は手を動かせ」
「え、えぇぇ……?」
「バルトさん、アルフさん、ご協力感謝致します」
ちなみに、マルガリータも説明を投げた。
ディアンへのお礼を思いついたのは昨日。
誘って貰えたのが一昨日なのだから仕方の無い事なのだろうけれど、真奈美としては何度か経験していても、マルガリータにとっては初めてのお菓子作り。
正直失敗する可能性も視野に入れると、時間はいくらあっても足りない。
材料は本で調べてみた限り、流石に日本で作られた乙女ゲームの世界というか何というか、ほぼ変わらないものだったのは良かったけれど、多少味の違いや粉末の荒さや料理器具等はあるだろうし、日本そのままを望むのは難しいだろう。
けれどせっかく食べて貰うのなら、少しでも美味しい物を作りたい。
外へ連れ出して貰うお礼も兼ねているのだから、尚更だ。
更にディアンだけではなく、出来ればいつも良くしてくれている使用人の皆にもお裾分けしたいという欲もある。
だからこそ、多少失敗したとしても再度チャレンジ出来る様に、少し早めに足を運んだのだ。
忙しいバルトの様に作業が山積みという訳ではなかったけれど、アルフに一から説明している時間は惜しい。
(忙しい時間帯を乗り切ったら、バルトさんがアルフさんにはちゃんと説明してくれるはずだし、私も帰ってきたらちゃんと説明とお礼はしますから、今この場での状況確認は諦めて下さい!)
「もう、何なんですかー!」
アルフの叫びを聞きながら心の中で謝りつつ、バルトとマルガリータは各自粛々と作業を続けたのだった。
「実際の所、ある程度は手伝うつもりだったんだがな……」
出来上がった数種類のクッキーをラッピングして、バルトの作った昼食と同じバスケットに入れつつ、それとは別に余分に作ったクッキーを、使用人達におやつとして差し入れる為に少量ずつ小分けにする。
そんなマルガリータの様子を眺めながら、心から感心したという表情のバルトと、化け物を見る目ではなくなったものの、まだ「こいつは何者だ」と言わんばかりのアルフの視線が、戦場を脱した厨房の中に漂っていた。
「場所と材料を提供して頂けただけで、充分です。むしろ私の方がお手伝いしたいと思っていた位なのに、結局何も出来ませんでした……流石ですね」
どう考えても、マルガリータがクッキーを焼き上げる時間よりも、朝食昼食を一気に作らねばならないバルトの方が作業量が多かったはずなのに、終わったのはバルトの方が少し早いくらいだった。
毎日、ほぼ一人で厨房を回している料理人の手際の良さは、計り知れない。
「嬢ちゃんの腕前も見た事だし、今度は手伝って貰うとするか」
「バルトさん!」
「ぜひ、いつでもお呼び立て下さい」
「えぇぇぇぇぇ……」
アルフが慌てて咎めようとする言葉を押しのけるようにして、マルガリータの期待に満ちた言葉が被さり、バルトの可笑しそうな笑い声とアルフの深いため息が重なる。
「後、これを皆さんで」
「お、ありがとな」
「アルフさんも、よろしければおやつに食べて下さい」
「……ありがとうございます」
クッキーの入った袋を、他の使用人達の分も含めてバルトに渡す。
もちろん、この場に居るアルフには別に手渡した。
マルガリータから直接手作りクッキーを渡されたアルフは、戸惑いの表情を深くしながらも気力を振り絞るようにして、感謝の言葉を口に乗せている。
マルガリータが厨房に居る事に加えて、自ら誰の助けも必要とせずにクッキーを作り上げた上に、自分に手渡されるとも思っていなかったのだろう。
疑問がオーバーヒート気味になったのか、心ここにあらずという様相になってしまっている。
もしかしたらマルガリータもこの屋敷に連れて来られた時は、こんな顔をしていたのかもしれない。
実のところ、未だにマルガリータは自分の置かれている立場には疑問だらけで、黒仮面の男に避けられ続けている現状でもあるから、マルガリータの疑問のオーバーヒート具合も負けてはいないのだけれど。
顔に出なくなって来たのは、訳がわからないまま流れていく日々に、慣れてきてしまっているのかもしれない。
奴隷として連れて来られたのに、甘やかされるばかりの生活慣れてしまっている場合ではない。それは絶対良くない。
気合いを入れ直して、また何とか黒仮面の男に会ってマルガリータの立場を明確にして貰うべく努力をしなければと思うけれど、どうか今日だけはもう少しこの甘やかされた空気を甘受させてほしい。
そう思うくらいには、マルガリータはディアンとの外出を楽しみにしていた。
「ディアンも、喜んでくれれば良いのですけど」
「そりゃ、喜ぶに決まってるだろう」
「はい。旦那様も絶対に、お喜びになりますよ」
「…………?」
何故マルガリータがディアンへクッキーを渡すと、黒仮面の男が喜ぶのかはよくわからなかったけれど、アルフが真剣な顔で訴えてきたので、とりあえず頷いておく。
ディアンは黒仮面の男と仲が良いようなので、後からこっそり渡して貰えるかもしれないと多めに用意してあるのは事実だったし、それをアルフは察したのかもしれない。
あんなに混乱していたのに、見ているところは見ているという事だろうか。
さすがは黒仮面の男の侍従を、務めているだけはある。
クッキーを作っている間に、てきぱきとバルトが用意してくれた朝食を食べ始めた頃。
マルガリータが部屋に居なかった事で、大騒ぎになっていたらしいアリーシアを始めとするダリスとハンナの三人が、食堂で優雅に食事を取るマルガリータを見つけ脱力していて、大変申し訳ない気持ちになった。
(これは……反対されるかもって、今日の事をバルトさんにしか言っていなかった、私が悪い……)
せめて、部屋に書き置きを残しておけば良かった。
半泣きのアリーシアの手を握って謝罪と同時に事情を説明すると、何故かそのまま号泣に発展した上に、心配させたはずなのに感極まった様にお礼まで言われて、混乱もしたけれど。
そして食後には、やたら念入りに外出の支度をされた。
最近やっとドレスの贈り物が止んだと思っていたのに、アリーシアが持ち出してきたのが見慣れないドレスだったので顔が引き攣りかけたけれど、どうやら外出用の動きやすいワンピースの様だ。
それを黒仮面の男が用意してくれたと言う事は、本当に外出の許可をくれたのだと確信に変わって良かったけれど、ここからまたドレスの無限配給が復活してしまわないかと、若干心配にもなる。
そんなマルガリータの不安をよそに、アリーシアは「せっかくのデートですから!」と、いつもと違ったアップの髪型にしてみたり、化粧もいつもより施し方に余念が無い。
デートじゃなくて仕事の手伝いなのだと口を挟む隙は与えられず、日焼け対策のボディークリームをしっかりと塗り込められ、爪もぴかぴかにされる。
限られた時間の中で、よくここまでと感心してしまう仕事っぷりだけれど、出来上がったマルガリータの姿は、まかり間違っても奴隷とは言えない位につやつやだ。
ハーブ苗を仕入れに行く使用人には到底見えない。街中にお忍びで出掛ける良いとこのお嬢様感が凄い。
マルガリータが伯爵令嬢だった頃でも、街に下りる際にこんなに気合いを入れた姿にされた事はなかった様に思う。
ちゃんと許可を貰えた一昨日の内に、ディアンと一緒にハーブ苗の仕入れに行くと伝えておいたはずなのだが、何故こうなったのか。
完全に、奴隷でも使用人風でもない姿に仕立て上げられてしまい呆然とするけれど、もっと普通の平民姿に直して下さいと言える雰囲気でもなく、あっという間に約束した時間が差し迫ってきていた。
「「「「「いってらっしゃいませ」」」」」
ディアンと黒仮面の男以外の全員が全員揃い、にこにこ笑顔で見送られて、マルガリータは屋敷からまるで追い立てられるように外に出た。
いつもより少し歩きやすい服装で、足取り軽く庭園へ向かう。
ディアンはまだ来ていなかったから、珍しく誰も居ない庭園でハーブの香りに包まれながら澄み渡る青空を見上げていると、馬の蹄の音がゆっくりと聞こえてきた。
音の鳴る方へと視線を向けて、マルガリータはぽかんと口を開けて絶句する。
(ど、どこの王子様ですか!?)
そこに現れたのは、白馬の王子様ならぬ黒馬の王子様だった。
黒馬にまたがってゆっくりと庭園へと向かってくるのは、確かにディアンに他ならないのだけれど、いつのも庭師の彼とは全く印象が違う。
後ろで一つに束ねた黒髪と、きりりと真っ直ぐ前を見つめる黒い瞳は同じはずなのに、つやつやの黒馬に映えていつもよりも輝いて見えた。
服装も動きやすそうではあるものの、いつものシンプルなシャツとズボンという作業着とは違い、上下セットのこちらも黒を基調とした騎士が纏うようなかっちりとした衣装を身に付けている。
乗馬用の服と言えなくもないけれど、ただの使用人の域を逸脱している格好の良さだ。
正直、釣り合いという意味では、お嬢様風に仕上げてくれたアリーシアにお礼を言わなければならないレベルだった。
ハーブ苗の仕入れに行くのに、まさかこんなにちゃんとした格好が必要だとは思いもしなかったので、戸惑う。
平民の普段着や使用人の制服等で充分だと思っていたのは、マルガリータの勝手な常識だったのだろうか。
いや、真奈美としてではなくマルガリータの貴族の記憶を探っても、庭の花苗を買い付けに行く庭師達が、めかし込んで街へ出掛けていく所など、見た事も聞いた事もない。
この屋敷だけの常識と考えた方が良いのではと思うけれど、ここの使用人達は皆が皆規格外過ぎて、何が普通なのか段々わからなくなってきた。
(私はこの先、何を基準に生きていけば良いのかしら……)
この屋敷の奴隷として連れて来られたからには、黒仮面の男の推奨する常識に会わせるべきだと言う事は頭ではわかるのだけれど、一般的だと思っていた知識が一切通用しなくて困る。
マルガリータだって、多少恋愛毎に関しては自由な家風の家に生まれはしたが、その他についてはとても一般的な伯爵家で育ってきたのだ。
貴族としての一般教養はしっかり身についているはずだし、時々街へ視察に行く兄に付いて何度か街へ足を運んだ事もあるから、使用人達や平民達の生活ぶりも詳しいところまではわからなくても、多少なりとも知っているつもりだった。
これでは確かに、デートと思われても否定できない気がする。
しかも、かなり身分の高い子息と令嬢が、二人でゆっくりと親交を深めるやつ。
今日は本当に、ハーブ苗の仕入れの為の外出で、合っているのだろうか。
「ごめん。遅れたかな?」
「いえ、私も今出て来たところですから」
ぐるぐると考え始めたマルガリータの目の前に、黒馬からディアンが降り立って、現実へと引き戻される。
「今日はいつもと、雰囲気が違うな」
「アリーシアが、せっかくの外出だからと張り切ってくれて……どこかおかしいですか?」
「いや、すごく可愛い」
「……っ!」
突然の真っ直ぐな褒め言葉に、声を失う。
本当はここで「ディアンもとても格好いいです」と、思ったままに言えたら良かったのだろうけれど、残念な事にマルガリータの恋愛経験値はゼロで、とても無理だった。
「では、行こうか」
赤くなってしまったマルガリータに釣られたのか、それとも格好いいと思っている事が伝わってしまったのか、ディアンから少し照れた様に差し出された手に素直に手を重ねると、そのまま反対の手がマルガリータの腰に回り、ぐんっと一気に引っ張られる。
驚く暇も無く、ディアンと共に馬上へ乗ったと気付いたのは、視線が一気に高くなったからだった。
「わぁ……!」
「おっと」
初めての高さに、歓声を上げると同時に身体がぐらついてしまったけれど、マルガリータの腰に回った手がしっかりと支えてくれて、すぐに安定する。
「ご、ごめんなさい」
謝りながらディアンへ視線を向けると、思った以上にその顔が至近距離にあって驚き、せっかく持ち直した体勢を再び崩してしまいそうになって、慌ててディアンの胸にしがみついて俯く。
くすくすと笑う声がすぐ頭上にあるのは、馬上で横抱きにされている上、密着しているからだ。
馬に乗れるかと聞かれた時には、こんな風に二人乗りをすることになるとは思ってもみなかった。
乗り物が必要な距離なのだろうという事は察せたけれど、乗れないなら馬車を手配するとか、そういう事の為の確認だと思っていたから。
「そのまま掴まっていて。視線は前に」
「は、はい」
指示されるがままに恥ずかしさを堪えて、ぎゅっと胸に掴まったまま身体を預け視線を上げると、ディアンが「ゆっくりな」と黒馬に声を掛けた。
初めて馬上に登ったマルガリータが怖がらない様に、慎重にけれど人間が歩くよりもずっと速いスピードで、綺麗な黒いたてがみを揺らしながら黒馬は、マルガリータとディアンを乗せて駆け始める。
びっくりしたのは最初だけだった。
しっかり支えてくれるディアンの安心感も相まって、屋敷を出て街とは逆方向の郊外へ出る頃には、マルガリータはすっかり乗馬を気に入ってしまっていた。
「本当に来たんだな」
「もちろんです、よろしくお願い致します」
笑うバルトの横で、アルフが化け物でも見るような顔で、口をあんぐり開けて固まる。
どうやらアルフが、どんな状況でも誰に対しても冷静で丁寧な対応が出来るまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。
「おう。俺は朝食と昼食を一気に作っちまうから、嬢ちゃんはそっち使ってくれ。手が足りなければ、アルフを好きに使って良いぞ」
「はい。ありがとうございます」
「ちょちょちょっと待って下さい! え、何ですかこの状況!」
笑顔で会話を交わすマルガリータとバルトの間で、アルフが一人焦っている。
どうやら毎朝料理の手伝いをしているらしいアルフに、バルトは今日マルガリータが来る事は伝えていなかった様だ。
面白そうに笑っているから、わざとだろう。
とはいえ、朝の厨房は戦場と言って良い。
何せこの屋敷の料理人はバルト一人なのだし、今日は昼食も同時に作らねばならないとあって、特に忙しいのだろう。
バルトは、さらりとアルフへの説明を流す事にしたらしい。
「ま、後でゆっくり話してやるから、今は手を動かせ」
「え、えぇぇ……?」
「バルトさん、アルフさん、ご協力感謝致します」
ちなみに、マルガリータも説明を投げた。
ディアンへのお礼を思いついたのは昨日。
誘って貰えたのが一昨日なのだから仕方の無い事なのだろうけれど、真奈美としては何度か経験していても、マルガリータにとっては初めてのお菓子作り。
正直失敗する可能性も視野に入れると、時間はいくらあっても足りない。
材料は本で調べてみた限り、流石に日本で作られた乙女ゲームの世界というか何というか、ほぼ変わらないものだったのは良かったけれど、多少味の違いや粉末の荒さや料理器具等はあるだろうし、日本そのままを望むのは難しいだろう。
けれどせっかく食べて貰うのなら、少しでも美味しい物を作りたい。
外へ連れ出して貰うお礼も兼ねているのだから、尚更だ。
更にディアンだけではなく、出来ればいつも良くしてくれている使用人の皆にもお裾分けしたいという欲もある。
だからこそ、多少失敗したとしても再度チャレンジ出来る様に、少し早めに足を運んだのだ。
忙しいバルトの様に作業が山積みという訳ではなかったけれど、アルフに一から説明している時間は惜しい。
(忙しい時間帯を乗り切ったら、バルトさんがアルフさんにはちゃんと説明してくれるはずだし、私も帰ってきたらちゃんと説明とお礼はしますから、今この場での状況確認は諦めて下さい!)
「もう、何なんですかー!」
アルフの叫びを聞きながら心の中で謝りつつ、バルトとマルガリータは各自粛々と作業を続けたのだった。
「実際の所、ある程度は手伝うつもりだったんだがな……」
出来上がった数種類のクッキーをラッピングして、バルトの作った昼食と同じバスケットに入れつつ、それとは別に余分に作ったクッキーを、使用人達におやつとして差し入れる為に少量ずつ小分けにする。
そんなマルガリータの様子を眺めながら、心から感心したという表情のバルトと、化け物を見る目ではなくなったものの、まだ「こいつは何者だ」と言わんばかりのアルフの視線が、戦場を脱した厨房の中に漂っていた。
「場所と材料を提供して頂けただけで、充分です。むしろ私の方がお手伝いしたいと思っていた位なのに、結局何も出来ませんでした……流石ですね」
どう考えても、マルガリータがクッキーを焼き上げる時間よりも、朝食昼食を一気に作らねばならないバルトの方が作業量が多かったはずなのに、終わったのはバルトの方が少し早いくらいだった。
毎日、ほぼ一人で厨房を回している料理人の手際の良さは、計り知れない。
「嬢ちゃんの腕前も見た事だし、今度は手伝って貰うとするか」
「バルトさん!」
「ぜひ、いつでもお呼び立て下さい」
「えぇぇぇぇぇ……」
アルフが慌てて咎めようとする言葉を押しのけるようにして、マルガリータの期待に満ちた言葉が被さり、バルトの可笑しそうな笑い声とアルフの深いため息が重なる。
「後、これを皆さんで」
「お、ありがとな」
「アルフさんも、よろしければおやつに食べて下さい」
「……ありがとうございます」
クッキーの入った袋を、他の使用人達の分も含めてバルトに渡す。
もちろん、この場に居るアルフには別に手渡した。
マルガリータから直接手作りクッキーを渡されたアルフは、戸惑いの表情を深くしながらも気力を振り絞るようにして、感謝の言葉を口に乗せている。
マルガリータが厨房に居る事に加えて、自ら誰の助けも必要とせずにクッキーを作り上げた上に、自分に手渡されるとも思っていなかったのだろう。
疑問がオーバーヒート気味になったのか、心ここにあらずという様相になってしまっている。
もしかしたらマルガリータもこの屋敷に連れて来られた時は、こんな顔をしていたのかもしれない。
実のところ、未だにマルガリータは自分の置かれている立場には疑問だらけで、黒仮面の男に避けられ続けている現状でもあるから、マルガリータの疑問のオーバーヒート具合も負けてはいないのだけれど。
顔に出なくなって来たのは、訳がわからないまま流れていく日々に、慣れてきてしまっているのかもしれない。
奴隷として連れて来られたのに、甘やかされるばかりの生活慣れてしまっている場合ではない。それは絶対良くない。
気合いを入れ直して、また何とか黒仮面の男に会ってマルガリータの立場を明確にして貰うべく努力をしなければと思うけれど、どうか今日だけはもう少しこの甘やかされた空気を甘受させてほしい。
そう思うくらいには、マルガリータはディアンとの外出を楽しみにしていた。
「ディアンも、喜んでくれれば良いのですけど」
「そりゃ、喜ぶに決まってるだろう」
「はい。旦那様も絶対に、お喜びになりますよ」
「…………?」
何故マルガリータがディアンへクッキーを渡すと、黒仮面の男が喜ぶのかはよくわからなかったけれど、アルフが真剣な顔で訴えてきたので、とりあえず頷いておく。
ディアンは黒仮面の男と仲が良いようなので、後からこっそり渡して貰えるかもしれないと多めに用意してあるのは事実だったし、それをアルフは察したのかもしれない。
あんなに混乱していたのに、見ているところは見ているという事だろうか。
さすがは黒仮面の男の侍従を、務めているだけはある。
クッキーを作っている間に、てきぱきとバルトが用意してくれた朝食を食べ始めた頃。
マルガリータが部屋に居なかった事で、大騒ぎになっていたらしいアリーシアを始めとするダリスとハンナの三人が、食堂で優雅に食事を取るマルガリータを見つけ脱力していて、大変申し訳ない気持ちになった。
(これは……反対されるかもって、今日の事をバルトさんにしか言っていなかった、私が悪い……)
せめて、部屋に書き置きを残しておけば良かった。
半泣きのアリーシアの手を握って謝罪と同時に事情を説明すると、何故かそのまま号泣に発展した上に、心配させたはずなのに感極まった様にお礼まで言われて、混乱もしたけれど。
そして食後には、やたら念入りに外出の支度をされた。
最近やっとドレスの贈り物が止んだと思っていたのに、アリーシアが持ち出してきたのが見慣れないドレスだったので顔が引き攣りかけたけれど、どうやら外出用の動きやすいワンピースの様だ。
それを黒仮面の男が用意してくれたと言う事は、本当に外出の許可をくれたのだと確信に変わって良かったけれど、ここからまたドレスの無限配給が復活してしまわないかと、若干心配にもなる。
そんなマルガリータの不安をよそに、アリーシアは「せっかくのデートですから!」と、いつもと違ったアップの髪型にしてみたり、化粧もいつもより施し方に余念が無い。
デートじゃなくて仕事の手伝いなのだと口を挟む隙は与えられず、日焼け対策のボディークリームをしっかりと塗り込められ、爪もぴかぴかにされる。
限られた時間の中で、よくここまでと感心してしまう仕事っぷりだけれど、出来上がったマルガリータの姿は、まかり間違っても奴隷とは言えない位につやつやだ。
ハーブ苗を仕入れに行く使用人には到底見えない。街中にお忍びで出掛ける良いとこのお嬢様感が凄い。
マルガリータが伯爵令嬢だった頃でも、街に下りる際にこんなに気合いを入れた姿にされた事はなかった様に思う。
ちゃんと許可を貰えた一昨日の内に、ディアンと一緒にハーブ苗の仕入れに行くと伝えておいたはずなのだが、何故こうなったのか。
完全に、奴隷でも使用人風でもない姿に仕立て上げられてしまい呆然とするけれど、もっと普通の平民姿に直して下さいと言える雰囲気でもなく、あっという間に約束した時間が差し迫ってきていた。
「「「「「いってらっしゃいませ」」」」」
ディアンと黒仮面の男以外の全員が全員揃い、にこにこ笑顔で見送られて、マルガリータは屋敷からまるで追い立てられるように外に出た。
いつもより少し歩きやすい服装で、足取り軽く庭園へ向かう。
ディアンはまだ来ていなかったから、珍しく誰も居ない庭園でハーブの香りに包まれながら澄み渡る青空を見上げていると、馬の蹄の音がゆっくりと聞こえてきた。
音の鳴る方へと視線を向けて、マルガリータはぽかんと口を開けて絶句する。
(ど、どこの王子様ですか!?)
そこに現れたのは、白馬の王子様ならぬ黒馬の王子様だった。
黒馬にまたがってゆっくりと庭園へと向かってくるのは、確かにディアンに他ならないのだけれど、いつのも庭師の彼とは全く印象が違う。
後ろで一つに束ねた黒髪と、きりりと真っ直ぐ前を見つめる黒い瞳は同じはずなのに、つやつやの黒馬に映えていつもよりも輝いて見えた。
服装も動きやすそうではあるものの、いつものシンプルなシャツとズボンという作業着とは違い、上下セットのこちらも黒を基調とした騎士が纏うようなかっちりとした衣装を身に付けている。
乗馬用の服と言えなくもないけれど、ただの使用人の域を逸脱している格好の良さだ。
正直、釣り合いという意味では、お嬢様風に仕上げてくれたアリーシアにお礼を言わなければならないレベルだった。
ハーブ苗の仕入れに行くのに、まさかこんなにちゃんとした格好が必要だとは思いもしなかったので、戸惑う。
平民の普段着や使用人の制服等で充分だと思っていたのは、マルガリータの勝手な常識だったのだろうか。
いや、真奈美としてではなくマルガリータの貴族の記憶を探っても、庭の花苗を買い付けに行く庭師達が、めかし込んで街へ出掛けていく所など、見た事も聞いた事もない。
この屋敷だけの常識と考えた方が良いのではと思うけれど、ここの使用人達は皆が皆規格外過ぎて、何が普通なのか段々わからなくなってきた。
(私はこの先、何を基準に生きていけば良いのかしら……)
この屋敷の奴隷として連れて来られたからには、黒仮面の男の推奨する常識に会わせるべきだと言う事は頭ではわかるのだけれど、一般的だと思っていた知識が一切通用しなくて困る。
マルガリータだって、多少恋愛毎に関しては自由な家風の家に生まれはしたが、その他についてはとても一般的な伯爵家で育ってきたのだ。
貴族としての一般教養はしっかり身についているはずだし、時々街へ視察に行く兄に付いて何度か街へ足を運んだ事もあるから、使用人達や平民達の生活ぶりも詳しいところまではわからなくても、多少なりとも知っているつもりだった。
これでは確かに、デートと思われても否定できない気がする。
しかも、かなり身分の高い子息と令嬢が、二人でゆっくりと親交を深めるやつ。
今日は本当に、ハーブ苗の仕入れの為の外出で、合っているのだろうか。
「ごめん。遅れたかな?」
「いえ、私も今出て来たところですから」
ぐるぐると考え始めたマルガリータの目の前に、黒馬からディアンが降り立って、現実へと引き戻される。
「今日はいつもと、雰囲気が違うな」
「アリーシアが、せっかくの外出だからと張り切ってくれて……どこかおかしいですか?」
「いや、すごく可愛い」
「……っ!」
突然の真っ直ぐな褒め言葉に、声を失う。
本当はここで「ディアンもとても格好いいです」と、思ったままに言えたら良かったのだろうけれど、残念な事にマルガリータの恋愛経験値はゼロで、とても無理だった。
「では、行こうか」
赤くなってしまったマルガリータに釣られたのか、それとも格好いいと思っている事が伝わってしまったのか、ディアンから少し照れた様に差し出された手に素直に手を重ねると、そのまま反対の手がマルガリータの腰に回り、ぐんっと一気に引っ張られる。
驚く暇も無く、ディアンと共に馬上へ乗ったと気付いたのは、視線が一気に高くなったからだった。
「わぁ……!」
「おっと」
初めての高さに、歓声を上げると同時に身体がぐらついてしまったけれど、マルガリータの腰に回った手がしっかりと支えてくれて、すぐに安定する。
「ご、ごめんなさい」
謝りながらディアンへ視線を向けると、思った以上にその顔が至近距離にあって驚き、せっかく持ち直した体勢を再び崩してしまいそうになって、慌ててディアンの胸にしがみついて俯く。
くすくすと笑う声がすぐ頭上にあるのは、馬上で横抱きにされている上、密着しているからだ。
馬に乗れるかと聞かれた時には、こんな風に二人乗りをすることになるとは思ってもみなかった。
乗り物が必要な距離なのだろうという事は察せたけれど、乗れないなら馬車を手配するとか、そういう事の為の確認だと思っていたから。
「そのまま掴まっていて。視線は前に」
「は、はい」
指示されるがままに恥ずかしさを堪えて、ぎゅっと胸に掴まったまま身体を預け視線を上げると、ディアンが「ゆっくりな」と黒馬に声を掛けた。
初めて馬上に登ったマルガリータが怖がらない様に、慎重にけれど人間が歩くよりもずっと速いスピードで、綺麗な黒いたてがみを揺らしながら黒馬は、マルガリータとディアンを乗せて駆け始める。
びっくりしたのは最初だけだった。
しっかり支えてくれるディアンの安心感も相まって、屋敷を出て街とは逆方向の郊外へ出る頃には、マルガリータはすっかり乗馬を気に入ってしまっていた。
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