『「女は黙って従え」と婚約破棄されたので、実家の軍隊を率いて王都を包囲しますわ』

放浪人

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第一章:偽りの王都

第3話 偽りの婚約指輪

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テラスで一人夜風に当たっていると、背後から静かな足音が聞こえた。振り向く気にもなれず、私は眼下の庭園を見つめたままでいた。どうせ私の失態を笑いに来た、意地の悪い誰かだろう。

「……ひどい仕打ちだ。兄上もどうかしている」

しかし聞こえてきたのは予想外に穏やかで、同情に満ちた声だった。驚いて振り返ると、そこに立っていたのはアルフォンス殿下の弟君。

エリオット第二王子殿下だった。

「エリオット殿下……」

「ヴィクトリア嬢、驚かせてしまったかな。いや、兄上のあの態度は王族としてあるまじき行為だ。君に心から詫びたい」

そう言って、彼は私に対して深々と頭を下げた。王族が一介の公爵令嬢に頭を下げるなど、前代未聞のことだ。

「おやめください、殿下!貴方様が謝ることではございませんわ」

慌てて制止する私に、エリオット殿下は憂いを帯びた瞳で静かに微笑んだ。彼は兄アルフォンスとは全く違う。知的で穏やかで、そして何より物事の本質を見抜く聡明さを持っている。

「君が、ローゼンベルク家が、この国のためにどれほどの犠牲を払ってきたか、私は知っている。……それを理解せず、ただ自らの権力欲のために君を利用しようとする兄上と宰相が、私には許せないのだ」

彼の言葉は、乾いた私の心へじんわりと染み渡っていく。この王都に、私とローゼンベルク家の真価を理解してくれる人がいたとは。

「……もったいないお言葉です」

「事実を言ったまでだ。……ああ、そうだ。これを」

そう言って、エリオット殿下は一枚のハンカチを差し出した。その時、私は初めて気づいた。自分の頬を一筋の涙が伝っていることに。

「……!」

悔し涙だった。アルフォンス殿下に受けた屈辱が、今になって涙となって溢れ出したのだ。私は慌てて涙を拭い、彼のハンカチを丁重に受け取った。

「ありがとうございます、殿下」

「無理はしないでくれ。君が一人で多くのものを背負っていることは、分かっているつもりだ」

そう言い残し、エリオット殿下は静かにその場を去っていった。一人残されたテラスで、私は彼から受け取ったハンカチを強く握りしめる。仄かに香る上品な香りが心を落ち着かせてくれた。

(エリオット殿下……)

暗闇に差し込んだ一筋の光。彼の存在は、私のささくれ立った心を少しだけ癒してくれた。

しかし、夜会はまだ終わらない。私は気を取り直し、再びあの偽りに満ちた戦場――夜会の会場へと戻った。

会場に戻ると、アルフォンス殿下は私がテラスにいたことなど気にも留めない様子で、取り巻きの貴族たちと高笑いしていた。その輪の中心には、妖艶な笑みを浮かべた伯爵令嬢が寄り添っている。

私の存在など、まるで無いもののように扱われている。

(これが、現実)

エリオット殿下の優しさにわずかに浮かれていた心が、急速に冷えていくのを感じた。

私は無言でアルフォンスの隣へ戻る。すると彼は、まるで思い出したかのように鬱陶しそうな視線を私に向けた。

「どこへ行っていた?」

「……少し夜風に当たっておりました」

「そうか。まあいい。ヴィクトリア、お前の指輪を見せろ」

唐突な命令に、私は一瞬戸惑う。言われるがまま、私は左手をそっと差し出した。薬指にはアルフォンスから贈られた婚約指輪。大粒のダイヤモンドがシャンデリアの光を反射しまばゆいほどに輝く。

彼は私の指から乱暴に指輪を引き抜き、隣の伯爵令嬢の前に突き出した。

「どうだ、美しいだろう?これは次期王妃となるべき女性にこそ相応しい」

その言葉が何を意味するのか、私にはすぐに理解できた。周りの貴族たちが息を呑むのが分かった。

伯爵令嬢は勝ち誇ったような笑みを浮かべ、うっとりとその指輪を眺めている。

ドクン、と心臓が大きく跳ねた。

これはただの侮辱ではない。私とローゼンベルク家に対する明確な意思表示だ。この婚約はもはや意味をなさないのだ、と。

婚約の証である指輪はただのアクセサリーでしかなく、私たちの間に心の繋がりなど欠片も存在しないのだと、満座の面前で突きつけられたのだ。

「殿下、それは……」

「何だ?文句でもあるのか?」

アルフォンス殿下はせせら笑う。その目は私を完全に見下しきっていた。

(ああ、そう……。そうだったのですね)

今まで我慢してきた。ローゼンベル-ク家のため、民のために、どんな屈辱も耐え忍んできた。

でも、もう限界だ。

私の心の中で、張り詰めていた糸がぷつりと切れる音がした。自分を縛り付けていた、我慢という名の鎖が断ち切れた音だった。

顔を上げる。もう、俯くのはやめだ。

私の瞳に宿った光の変化に、アルフォンスが一瞬怯んだように見えた。

「……いいえ、殿下。何も文句などございません」

私は自分でも驚くほど落ち着いた声で言った。そして、ゆっくりと続ける。

「ええ。その指輪は、今の私には相応しくありませんので」

私の言葉に、会場が水を打ったように静まり返る。

「何……?」

アルフォンスが怪訝な顔で私を見る。

私は彼から視線を外し、会場の全貴族を見渡すようにゆっくりと宣言した。

「本当に価値あるものは、偽りの輝きを放つ宝石などではございません。……そうでしょう?」

それは誰に向けた言葉だったのか。アルフォンスか、リヒター宰相か、あるいはこの場にいる全ての人間か。

いや、違う。

これは私自身に向けた、決別の誓いだった。

偽りの婚約指輪はもういらない。 偽りの淑女を演じるのも、もう終わりだ。

これから始まるのは、私、ヴィクトリア・フォン・ローゼンベルクの真の戦い。 この腐敗した王都に鉄槌を下すための戦いが、今、幕を開けようとしていた。
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