16 / 60
第二章:侮辱と決別
第16話 追手の刃
しおりを挟む
父、ゲルハルト・フォン・ローゼンベルクの胸の中で、私は子供のように声を上げて泣いた。王都で溜め込んでいた全ての不安と恐怖、そして孤独が涙となって溢れ出して止まらない。父の大きく分厚い胸板が、鎧越しにでも分かる温もりで私の全てを受け止めてくれた。
「……よく戻ってきた、ヴィクトリア」
父の厳しくも優しい声が、頭上から降り注ぐ。その声を聞くだけで、ささくれ立っていた心が安らぎを取り戻していくようだった。
「父上……!私……私は……!」
「もう何も言うな。お前の戦いは全て見ていた。お前はローゼンベルクの娘として、何一つ恥じることはない」
駆け寄ってきたコンラートや、見知った騎士たちの顔が見える。彼らの瞳は皆、私への心配と無事に再会できたことへの喜びに濡れていた。
ここは私の居場所。私の、本当の故郷だ。
しかし感傷に浸っていられる時間は長くはなかった。父は私の背中を優しく叩くと、すぐに将軍の顔に戻った。
「ヴィクトリア、感傷は後だ。ルドルフの敗残兵から報告を受けた王都が、本格的な追討軍を差し向けた。もうすぐそこまで迫っている」
「……!やはり来ましたか」
私の表情から涙は瞬時に消え失せた。今は戦姫として、為すべきことを為さねばならない。
「敵の数は?」
「およそ二千。率いるのはグスタフ辺境伯だ」
グスタフ辺境伯。その名を聞いて私は眉をひそめた。彼はリヒター宰相に心酔している王都派の貴族。戦の経験は豊富で、特に猪突猛進型の力押しを得意とする猛将として知られている。
「我らの数はおよそ千五百。数では我らが不利です」
コンラートが厳しい表情で補足する。
「いいえ、コンラート。数では不利でも、地の利はこちらにあるわ」
私は今しがた自分たちが抜けてきた深い渓谷を指差した。
「グスタフ辺境伯の性格からして、回り道などせず最短距離で我々を叩こうとするはず。つまり必ずこの渓谷を通るでしょう。そしてこの狭い一本道では、二千の兵力もその全てを展開することはできません」
「……なるほど。渓谷に誘い込み、分断して叩く、と」
父が満足げに頷く。私の意図を瞬時に理解してくれたのだ。
「その通りです、父上。渓谷の両側の崖に弓兵を配置し、敵が十分に深く入り込んだところで一斉に矢を浴びせかけて混乱に陥れる。そして先頭と最後尾を崖の上から岩を落として塞いでしまえば……」
「……敵は袋の鼠、というわけか」
コンラートの目が興奮に輝いた。
「素晴らしい作戦です、ヴィクトリア様!それならば我々の兵力でも十分に勝機はあります!」
「うむ。ヴィクトリアの言う通りだ。直ちに全軍に作戦を伝達!夜が明ける前に布陣を完了させるぞ!」
父の号令一下、ローゼンベルクの騎士団はまるで一つの生き物のように、統率の取れた動きで配置についていく。その精強さは王都の近衛騎士団など足元にも及ばない。これこそが王国最強と謳われる、我がローゼンベルクの軍だ。
私は父と共に崖の上にある臨時の作戦本部に立ち、眼下に広がる渓谷を見下ろした。これからここで、血で血を洗う戦いが始まる。王家に対する、私たちの最初の反撃が。
「……怖くはないか?ヴィクトリア」
父が不意に優しい声で尋ねた。
「敵は王家の紋章を掲げた正規軍だ。これに弓を引くということは、完全に王国に反旗を翻すということになる。もう後戻りはできんぞ」
「怖いとは思いませんわ」
私ははっきりと答えた。
「むしろ私の心は今、燃えています。不正を正し民の平和を守るために戦えるのなら本望です。……ただ」
「ただ、何だ?」
「私がこの戦いの引き金を引いてしまった。そのせいで多くの兵士たちの命が失われることになる……。その重さだけは、感じています」
私の言葉に、父は何も言わずただ私の肩に力強く手を置いた。その無言の励ましが、何よりも私の心を強くしてくれた。
やがて東の空が白み始める。霧深い渓谷の向こうから、地響きのような軍馬の蹄の音が聞こえてきた。
追討軍が、来たのだ。
「……来たな」
父が低く呟く。
「ヴィクトリア、お前が全軍の指揮を執れ」
「……!父上、しかし……」
「良いのだ。王都の連中に思い知らせてやれ。ローゼンベルクの獅子は老いた父親だけではない。気高く、誰よりも聡明な、若き雌獅子がいるのだと」
父の絶対的な信頼。それが私の最後の迷いを吹き飛ばした。
「……御意に」
私は深く頷いた。そして眼下の暗い渓谷を見据え、静かに、しかし力強く最初の命令を下す。
「全軍、戦闘配置。合図があるまで決して動くな。……これより、反逆者たちの狩りを始めるわ」
私の声は夜明け前の冷たい空気に、凛と響き渡った。ローゼンベルクの反撃が、今、始まろうとしていた。
「……よく戻ってきた、ヴィクトリア」
父の厳しくも優しい声が、頭上から降り注ぐ。その声を聞くだけで、ささくれ立っていた心が安らぎを取り戻していくようだった。
「父上……!私……私は……!」
「もう何も言うな。お前の戦いは全て見ていた。お前はローゼンベルクの娘として、何一つ恥じることはない」
駆け寄ってきたコンラートや、見知った騎士たちの顔が見える。彼らの瞳は皆、私への心配と無事に再会できたことへの喜びに濡れていた。
ここは私の居場所。私の、本当の故郷だ。
しかし感傷に浸っていられる時間は長くはなかった。父は私の背中を優しく叩くと、すぐに将軍の顔に戻った。
「ヴィクトリア、感傷は後だ。ルドルフの敗残兵から報告を受けた王都が、本格的な追討軍を差し向けた。もうすぐそこまで迫っている」
「……!やはり来ましたか」
私の表情から涙は瞬時に消え失せた。今は戦姫として、為すべきことを為さねばならない。
「敵の数は?」
「およそ二千。率いるのはグスタフ辺境伯だ」
グスタフ辺境伯。その名を聞いて私は眉をひそめた。彼はリヒター宰相に心酔している王都派の貴族。戦の経験は豊富で、特に猪突猛進型の力押しを得意とする猛将として知られている。
「我らの数はおよそ千五百。数では我らが不利です」
コンラートが厳しい表情で補足する。
「いいえ、コンラート。数では不利でも、地の利はこちらにあるわ」
私は今しがた自分たちが抜けてきた深い渓谷を指差した。
「グスタフ辺境伯の性格からして、回り道などせず最短距離で我々を叩こうとするはず。つまり必ずこの渓谷を通るでしょう。そしてこの狭い一本道では、二千の兵力もその全てを展開することはできません」
「……なるほど。渓谷に誘い込み、分断して叩く、と」
父が満足げに頷く。私の意図を瞬時に理解してくれたのだ。
「その通りです、父上。渓谷の両側の崖に弓兵を配置し、敵が十分に深く入り込んだところで一斉に矢を浴びせかけて混乱に陥れる。そして先頭と最後尾を崖の上から岩を落として塞いでしまえば……」
「……敵は袋の鼠、というわけか」
コンラートの目が興奮に輝いた。
「素晴らしい作戦です、ヴィクトリア様!それならば我々の兵力でも十分に勝機はあります!」
「うむ。ヴィクトリアの言う通りだ。直ちに全軍に作戦を伝達!夜が明ける前に布陣を完了させるぞ!」
父の号令一下、ローゼンベルクの騎士団はまるで一つの生き物のように、統率の取れた動きで配置についていく。その精強さは王都の近衛騎士団など足元にも及ばない。これこそが王国最強と謳われる、我がローゼンベルクの軍だ。
私は父と共に崖の上にある臨時の作戦本部に立ち、眼下に広がる渓谷を見下ろした。これからここで、血で血を洗う戦いが始まる。王家に対する、私たちの最初の反撃が。
「……怖くはないか?ヴィクトリア」
父が不意に優しい声で尋ねた。
「敵は王家の紋章を掲げた正規軍だ。これに弓を引くということは、完全に王国に反旗を翻すということになる。もう後戻りはできんぞ」
「怖いとは思いませんわ」
私ははっきりと答えた。
「むしろ私の心は今、燃えています。不正を正し民の平和を守るために戦えるのなら本望です。……ただ」
「ただ、何だ?」
「私がこの戦いの引き金を引いてしまった。そのせいで多くの兵士たちの命が失われることになる……。その重さだけは、感じています」
私の言葉に、父は何も言わずただ私の肩に力強く手を置いた。その無言の励ましが、何よりも私の心を強くしてくれた。
やがて東の空が白み始める。霧深い渓谷の向こうから、地響きのような軍馬の蹄の音が聞こえてきた。
追討軍が、来たのだ。
「……来たな」
父が低く呟く。
「ヴィクトリア、お前が全軍の指揮を執れ」
「……!父上、しかし……」
「良いのだ。王都の連中に思い知らせてやれ。ローゼンベルクの獅子は老いた父親だけではない。気高く、誰よりも聡明な、若き雌獅子がいるのだと」
父の絶対的な信頼。それが私の最後の迷いを吹き飛ばした。
「……御意に」
私は深く頷いた。そして眼下の暗い渓谷を見据え、静かに、しかし力強く最初の命令を下す。
「全軍、戦闘配置。合図があるまで決して動くな。……これより、反逆者たちの狩りを始めるわ」
私の声は夜明け前の冷たい空気に、凛と響き渡った。ローゼンベルクの反撃が、今、始まろうとしていた。
42
あなたにおすすめの小説
公爵令嬢 メアリの逆襲 ~魔の森に作った湯船が 王子 で溢れて困ってます~
薄味メロン
恋愛
HOTランキング 1位 (2019.9.18)
お気に入り4000人突破しました。
次世代の王妃と言われていたメアリは、その日、すべての地位を奪われた。
だが、誰も知らなかった。
「荷物よし。魔力よし。決意、よし!」
「出発するわ! 目指すは源泉掛け流し!」
メアリが、追放の準備を整えていたことに。
離婚したいけれど、政略結婚だから子供を残して実家に戻らないといけない。子供を手放さないようにするなら、どんな手段があるのでしょうか?
克全
恋愛
「カクヨム」と「小説家になろう」にも投稿しています。
カーゾン侯爵令嬢のアルフィンは、多くのライバル王女公女を押し退けて、大陸一の貴公子コーンウォリス公爵キャスバルの正室となった。だがそれはキャスバルが身分の低い賢女と愛し合うための偽装結婚だった。アルフィンは離婚を決意するが、子供を残して出ていく気にはならなかった。キャスバルと賢女への嫌がらせに、子供を連れって逃げるつもりだった。だが偽装結婚には隠された理由があったのだ。
私をいじめていた女と一緒に異世界召喚されたけど、無能扱いされた私は実は“本物の聖女”でした。
さくら
恋愛
私――ミリアは、クラスで地味で取り柄もない“都合のいい子”だった。
そんな私が、いじめの張本人だった美少女・沙羅と一緒に異世界へ召喚された。
王城で“聖女”として迎えられたのは彼女だけ。
私は「魔力が測定不能の無能」と言われ、冷たく追い出された。
――でも、それは間違いだった。
辺境の村で出会った青年リオネルに助けられ、私は初めて自分の力を信じようと決意する。
やがて傷ついた人々を癒やすうちに、私の“無”と呼ばれた力が、誰にも真似できない“神の光”だと判明して――。
王都での再召喚、偽りの聖女との再会、かつての嘲笑が驚嘆に変わる瞬間。
無能と呼ばれた少女が、“本物の聖女”として世界を救う――優しさと再生のざまぁストーリー。
裏切りから始まる癒しの恋。
厳しくも温かい騎士リオネルとの出会いが、ミリアの運命を優しく変えていく。
家族から虐げられた令嬢は冷血伯爵に嫁がされる〜売り飛ばされた先で温かい家庭を築きます〜
香木陽灯
恋愛
「ナタリア! 廊下にホコリがたまっているわ! きちんと掃除なさい」
「お姉様、お茶が冷めてしまったわ。淹れなおして。早くね」
グラミリアン伯爵家では長女のナタリアが使用人のように働かされていた。
彼女はある日、冷血伯爵に嫁ぐように言われる。
「あなたが伯爵家に嫁げば、我が家の利益になるの。あなたは知らないだろうけれど、伯爵に娘を差し出した家には、国王から褒美が出るともっぱらの噂なのよ」
売られるように嫁がされたナタリアだったが、冷血伯爵は噂とは違い優しい人だった。
「僕が世間でなんと呼ばれているか知っているだろう? 僕と結婚することで、君も色々言われるかもしれない。……申し訳ない」
自分に自信がないナタリアと優しい冷血伯爵は、少しずつ距離が近づいていく。
※ゆるめの設定
※他サイトにも掲載中
地味で器量の悪い公爵令嬢は政略結婚を拒んでいたのだが
克全
恋愛
「アルファポリス」「カクヨム」「小説家になろう」に同時投稿しています。
心優しいエヴァンズ公爵家の長女アマーリエは自ら王太子との婚約を辞退した。幼馴染でもある王太子の「ブスの癖に図々しく何時までも婚約者の座にいるんじゃない、絶世の美女である妹に婚約者の座を譲れ」という雄弁な視線に耐えられなかったのだ。それにアマーリエにも自覚があった。自分が社交界で悪口陰口を言われるほどブスであることを。だから王太子との婚約を辞退してからは、壁の花に徹していた。エヴァンズ公爵家てもつながりが欲しい貴族家からの政略結婚の申し込みも断り続けていた。このまま静かに領地に籠って暮らしていこうと思っていた。それなのに、常勝無敗、騎士の中の騎士と称えられる王弟で大将軍でもあるアラステアから結婚を申し込まれたのだ。
追放令嬢の発酵工房 ~味覚を失った氷の辺境伯様が、私の『味噌スープ』で魔力回復(と溺愛)を始めました~
メルファン
恋愛
「貴様のような『腐敗令嬢』は王都に不要だ!」
公爵令嬢アリアは、前世の記憶を活かした「発酵・醸造」だけが生きがいの、少し変わった令嬢でした。 しかし、その趣味を「酸っぱい匂いだ」と婚約者の王太子殿下に忌避され、卒業パーティーの場で、派手な「聖女」を隣に置いた彼から婚約破棄と「北の辺境」への追放を言い渡されてしまいます。
「(北の辺境……! なんて素晴らしい響きでしょう!)」
王都の軟水と生ぬるい気候に満足できなかったアリアにとって、厳しい寒さとミネラル豊富な硬水が手に入る辺境は、むしろ最高の『仕込み』ができる夢の土地。 愛する『麹菌』だけをドレスに忍ばせ、彼女は喜んで追放を受け入れます。
辺境の廃墟でさっそく「発酵生活」を始めたアリア。 三週間かけて仕込んだ『味噌もどき』で「命のスープ」を味わっていると、氷のように美しい、しかし「生」の活力を一切感じさせない謎の男性と出会います。
「それを……私に、飲ませろ」
彼こそが、領地を守る呪いの代償で「味覚」を失い、生きる気力も魔力も枯渇しかけていた「氷の辺境伯」カシウスでした。
アリアのスープを一口飲んだ瞬間、カシウスの舌に、失われたはずの「味」が蘇ります。 「味が、する……!」 それは、彼の枯渇した魔力を湧き上がらせる、唯一の「命の味」でした。
「頼む、君の作ったあの『茶色いスープ』がないと、私は戦えない。君ごと私の城に来てくれ」
「腐敗」と捨てられた令嬢の地味な才能が、最強の辺境伯の「生きる意味」となる。 一方、アリアという「本物の活力源」を失った王都では、謎の「気力減退病」が蔓延し始めており……?
追放令嬢が、発酵と菌への愛だけで、氷の辺境伯様の胃袋と魔力(と心)を掴み取り、溺愛されるまでを描く、大逆転・発酵グルメロマンス!
次期国王様の寵愛を受けるいじめられっこの私と没落していくいじめっこの貴族令嬢
さくら
恋愛
名門公爵家の娘・レティシアは、幼い頃から“地味で鈍くさい”と同級生たちに嘲られ、社交界では笑い者にされてきた。中でも、侯爵令嬢セリーヌによる陰湿ないじめは日常茶飯事。誰も彼女を助けず、婚約の話も破談となり、レティシアは「無能な令嬢」として居場所を失っていく。
しかし、そんな彼女に運命の転機が訪れた。
王立学園での舞踏会の夜、次期国王アレクシス殿下が突然、レティシアの手を取り――「君が、私の隣にふさわしい」と告げたのだ。
戸惑う彼女をよそに、殿下は一途な想いを示し続け、やがてレティシアは“王妃教育”を受けながら、自らの力で未来を切り開いていく。いじめられっこだった少女は、人々の声に耳を傾け、改革を導く“知恵ある王妃”へと成長していくのだった。
一方、他人を見下し続けてきたセリーヌは、過去の行いが明るみに出て家の地位を失い、婚約者にも見放されて没落していく――。
辺境のスローライフを満喫したいのに、料理が絶品すぎて冷酷騎士団長に囲い込まれました
腐ったバナナ
恋愛
異世界に転移した元会社員のミサキは、現代の調味料と調理技術というチート能力を駆使し、辺境の森で誰にも邪魔されない静かなスローライフを送ることを目指していた。
しかし、彼女の作る絶品の料理の香りは、辺境を守る冷酷な「鉄血」騎士団長ガイウスを引き寄せてしまった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる