『「女は黙って従え」と婚約破棄されたので、実家の軍隊を率いて王都を包囲しますわ』

放浪人

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第四章:盤上の攻防

第34話 揺れ動く天秤

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エリオット殿下からの密書は私に宰相の罠の全貌を教えてくれた。それと同時に、もう一つ重要な武器をもたらしてくれた。それは王都の貴族社会の内情だ。

密書には追伸として、こう記されていた。

『宰相と兄上の強引なやり方に、多くの中立派貴族たちが不満を募らせている。特にセドリック伯爵を中心とする一大派閥は、今どちらにつくべきか決めかねている状態だ。彼らの動向が今後の戦局を大きく左右するだろう。君の言葉ならば、あるいは彼らの心を動かせるかもしれない』

セドリック伯爵。その名は以前エリオット殿下から見せてもらったリストの筆頭にもあった。七十歳を超える老齢ながら、今なお王国の政界に絶大な影響力を持つ老獪な大物貴族。

彼がどちらにつくか。それはまるで天秤のおもりのように、戦の趨勢を決定づける重要な要素だった。

(……動かすしかないわね。この天秤を、こちら側へ)

しかしどうやって?武力で脅すのは下策だ。彼はそのような脅しに屈するような小物ではない。金で釣るのも難しいだろう。彼はすでに有り余るほどの富を築いている。

彼が求めるもの。それはおそらく『名誉』と、『未来への確約』だ。

私は数日間書斎に籠もり、セドリック伯爵という人物について徹底的に調べ上げた。彼の性格、思想、そして過去の経歴。見えてきたのは、彼が根っからの現実主義者でありながら、心のどこかでは古き良き騎士道精神を重んじる一面も持っているということだった。

(……これなら、いけるかもしれない)

私は一通の手紙を書いた。それはセドリック伯爵に宛てた、正式な使者を送りたいという申し出だった。もちろん手紙は情報屋ギルドの秘密のルートを通じて、彼の元へと届けられる。

数日後、伯爵から『よかろう。話だけは聞こう』という短い返事が届いた。私は使者として、一人の意外な人物を選んだ。

それは先日の追討軍との戦いで負傷した、老騎士ゲオルグだった。

「……私めにございますか?」

ゲオルグは驚いたように私を見た。彼の肩の傷はまだ完治はしていない。

「ええ。あなたにしか頼めないの、ゲオルグ」

私は彼の実に実直な瞳を見つめて言った。

「セドリック伯爵は古い人間よ。口のうまい若造の弁舌よりも、あなたのような古き騎士の誠実な言葉の方を信用するはず。……そして何より」

私は彼の傷ついた肩にそっと手を置いた。

「あなたのその傷こそが、王都の不正を何よりも雄弁に物語る『証拠』となるのだから」

ゲオルグは私の言葉の意味を深く理解した。その顔には命を懸けてでもこの大役を果たそうという、固い決意が浮かんでいた。

「……ヴィクトリア様のお言葉、しかと胸に刻みました。このゲオルグ、必ずやセドリック伯を説き伏せてご覧にいれまする」

ゲオルグは数名の供だけを連れ、商人になりすまし王都へと旅立っていった。私は彼の無事を祈りながら、その吉報を待った。

天秤は今、まさに大きく揺れ動いている。宰相もまた必ずセドリック伯爵に働きかけているはずだ。甘い言葉と脅しを使い分けて。

どちらのおもりが重いのか。腐敗した王家の過去か。それとも我々が示そうとしている、新しい未来か。

その答えが出るまで私たちはただ待つしかない。しかしその静かな時間こそが、嵐の前の最も重要な攻防戦なのだ。

数日が経った。私の心は落ち着かなかった。ゲオルグの身に何かあったのではないか。交渉は失敗したのではないか。悪い想像ばかりが頭をよぎる。

そんなある夜、城の見張りの兵士が慌てた様子で私の部屋に駆け込んできた。

「も、申し上げます!城門の前に一人の老人が!セドリック伯爵からの使者であると名乗っております!」

「……何ですって!?」

私は弾かれたように立ち上がった。ゲオルグが帰ってきたのではない。伯爵の方から使者をよこしたというのか。一体どういうこと?

私は急いで謁見の間へと向かった。そこには一人の小柄な、しかし背筋のぴんと伸びた老執事が静かに佇んでいた。

彼は私を見ると、恭しく一礼した。

「……あなたがヴィクトリア・フォン・ローゼンベルク殿ですな」

その落ち着き払った態度は、ただの執事のものではない。長年大物貴族の側近として仕えてきた者だけが持つ、独特の風格があった。

「いかにも。あなたがセドリック伯爵のお使いの方?」

「はい。我が主セドリックより、言伝を預かってまいりました」

老執事は懐から一通の封書を取り出した。そこにはセドリック伯爵家の紋章が厳かに刻印されている。

「……我が主は申しております。『天秤は傾いた』と」

その意味深な言葉。私の心臓がドクンと大きく跳ねた。傾いたとは、一体どちらへ。

「そして、こうも付け加えておりました。『盤上の駒の一つとして老婆心ながら忠告させていただこう。……獅子を狩るための本当の罠は、森の中にあらず。獅子の巣の中にこそある』と」

「……何……ですって……?」

獅子の巣の中。つまりこのローゼンベルクの中に、罠があると?一体どういう意味なの。

老執事は私の動揺を見透かすように、静かに続けた。

「……我が主からの言伝は以上です。お返事は結構。では、これにて」

彼はそう言うと再び一礼し、踵を返して去っていこうとした。

「待ちなさい!」

私は思わず彼を呼び止めた。

「ゲオルグは!私の使者として向かったゲオルグは、どうしたのです!?」

老執事は足を止め、ゆっくりと振り返った。その無表情な顔に初めて、人間らしい憐憫の色が浮かんだように見えた。

「……ゲオルグ殿は無事です。今は我が主が身柄をお預かりしております。……しかし」

彼は一瞬言葉をためらった。そして残酷な事実を、私に告げたのだ。

「……彼が王都に入ったことは、すでに宰相の知るところとなっております。おそらく彼が城に戻ることは、二度と叶いますまい」

その言葉が、私の頭に突き刺さった。
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