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第四章:盤上の攻防
第36話 セドリック伯爵の賭け
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セドリック伯爵の使者が去った謁見の間には、重い沈黙が満ちていた。『獅子の巣の中にこそ罠はある』――その言葉が、私の頭の中で不気味に反響する。このローゼンベルクに裏切り者がいる。その疑念が、私の心に冷たい影を落とした。
私は進軍計画の一時凍結を決断した。父やコンラートには「王都側の新たな罠の情報を掴んだため、作戦を再考する」とだけ告げてある。内部に潜む裏切り者の存在で、彼らの結束を乱すわけにはいかない。
この戦いは、私の孤独な戦いだ。
私はまず、捕らえた諜報員らを収容した地下牢へ向かった。拷問にかけるつもりはない。肉体的な苦痛は偽りの自白を生むだけだ。私が欲しいのは、確かな情報。そのためには、彼らの心を砕く必要があった。
牢には三人の間諜がいた。私は彼らを別々の房に入れさせ、一人ずつ対峙する。
最初に話をしたのは、一番若い男だった。彼はただ恐怖に震えている。
「……名は?」
私は静かに問いかけた。椅子に腰掛け、威圧的な態度は取らない。
「……ハ、ハンス……」
「そう、ハンス。なぜ、このような仕事をしているの?家族のため?それとも宰相への忠誠心から?」
私の穏やかな口調に、ハンスは少し驚いたようだ。罵倒されるとでも思っていたのだろう。
「……金のためです。妹が、病気で……」
「そう。可哀想に」
私は心から同情するようにうなずいた。
「リヒター宰相はあなたにいくら約束したのかしら。きっと大金でしょうね。でも、考えてみて。あなたはここで捕まった。宰相は失敗した駒を助けたりはしない。あなたも、あなたの家族も、彼にとってはもう用済みよ」
「……っ!」
ハンスの顔が絶望に歪む。私は彼の心の隙間へ、するりと滑り込む。
「……でも、私ならあなたを助けてあげられるかもしれない」
私は甘い声でささやいた。
「病の妹君も、手厚い治療が受けられるよう手配しましょう。あなたには新しい名前とささやかな土地を与える。ローゼンベルクの民として、新しい人生を始めるのよ。……その代わり」
私は彼の目をまっすぐに見つめた。
「……あなたが知る全てを話してちょうだい。宰相はこのローゼンベルクに、あなたたち以外の協力者を用意していなかったかしら?」
ハンスはしばらく葛藤に俯いていたが、やがて顔を上げた。その目には決意の光が宿っていた。
「……分かりません。俺たち末端の者には何も……。ですが、一つだけ奇妙なことが」
「何?」
「俺たちがこの領地へ入る際、合言葉を使うよう指示されていました。特定の村の特定の商店でその言葉を告げれば、協力者が手引きをしてくれる、と」
「その合言葉とは?」
「……『北の空に、明けの明星は輝くか』です」
北の空に、明けの明星。詩の一節のような奇妙な合言葉。私はその言葉を胸に刻み、次の間諜の元へ向かった。同じように彼らの心を揺さぶり、情報を引き出していく。彼らもまた、同じ合言葉の存在を認めた。
しかし協力者の正体までは誰も知らない。手掛かりはこの合言葉だけ。だが、私にはそれで十分だった。
その夜、私は密かに城を抜け出した。間諜たちが名を挙げた国境近くの村へ向かうために。このことは誰にも告げていない。コンラートにも、父にさえも。
信じられるのは、私自身のみ。
その頃、王都ではセドリック伯爵が静かに動いていた。彼は宰相リヒターの呼び出しを受け、王宮の一室で対峙していた。
「伯爵。近頃、ローゼンベルクの小娘に肩入れしているとの噂を耳にするが……真かな?」
宰相の蛇のごとき目が伯爵を射抜く。
「ほう、それは初耳ですな。この老いぼれが今更誰に肩入れすると?」
伯爵は飄々と受け流す。
「ふん、まあ良い。伯爵、貴殿もはやお分かりだろう。ローゼンベルクの命運は尽きた。今どちらにつくのが賢明か、貴殿ほどの古狐であれば間違うことはあるまい?」
宰相は脅しと懐柔を織り交ぜ、伯爵を引き込もうとする。
しかし、伯爵は動じない。
「……ふぉっふぉっふぉ。宰相閣下。賭け事はお好きかな?」
「……何?」
「老婆心ながら忠告しておきますぞ。……若き獅子を侮られぬことだ。あの姫君は、あんたの想像を遥かに超え、したたかで恐ろしい。……わしは、もう少しこの盤上を楽しませてもらうとしますかな」
伯爵はそう言うと悠然と立ち上がり、部屋を後にした。残された宰相は忌々しげに舌打ちする。
セドリック伯爵の賭け。彼が賭けたのは王都の腐敗した権力ではない。辺境で産声を上げた、若き革命の可能性に。彼はそのどちらが勝つか、最も高い場所から見定めようとしているのだ。そして天秤が大きく傾いた時、彼は勝者の側に全てを投じるだろう。
その古狐の思惑を、私はまだ完全には理解していなかった。私はただ、彼がくれた一つの手掛かりを頼りに、闇の中を進むしかなかった。裏切り者を見つけ出すために。
私は進軍計画の一時凍結を決断した。父やコンラートには「王都側の新たな罠の情報を掴んだため、作戦を再考する」とだけ告げてある。内部に潜む裏切り者の存在で、彼らの結束を乱すわけにはいかない。
この戦いは、私の孤独な戦いだ。
私はまず、捕らえた諜報員らを収容した地下牢へ向かった。拷問にかけるつもりはない。肉体的な苦痛は偽りの自白を生むだけだ。私が欲しいのは、確かな情報。そのためには、彼らの心を砕く必要があった。
牢には三人の間諜がいた。私は彼らを別々の房に入れさせ、一人ずつ対峙する。
最初に話をしたのは、一番若い男だった。彼はただ恐怖に震えている。
「……名は?」
私は静かに問いかけた。椅子に腰掛け、威圧的な態度は取らない。
「……ハ、ハンス……」
「そう、ハンス。なぜ、このような仕事をしているの?家族のため?それとも宰相への忠誠心から?」
私の穏やかな口調に、ハンスは少し驚いたようだ。罵倒されるとでも思っていたのだろう。
「……金のためです。妹が、病気で……」
「そう。可哀想に」
私は心から同情するようにうなずいた。
「リヒター宰相はあなたにいくら約束したのかしら。きっと大金でしょうね。でも、考えてみて。あなたはここで捕まった。宰相は失敗した駒を助けたりはしない。あなたも、あなたの家族も、彼にとってはもう用済みよ」
「……っ!」
ハンスの顔が絶望に歪む。私は彼の心の隙間へ、するりと滑り込む。
「……でも、私ならあなたを助けてあげられるかもしれない」
私は甘い声でささやいた。
「病の妹君も、手厚い治療が受けられるよう手配しましょう。あなたには新しい名前とささやかな土地を与える。ローゼンベルクの民として、新しい人生を始めるのよ。……その代わり」
私は彼の目をまっすぐに見つめた。
「……あなたが知る全てを話してちょうだい。宰相はこのローゼンベルクに、あなたたち以外の協力者を用意していなかったかしら?」
ハンスはしばらく葛藤に俯いていたが、やがて顔を上げた。その目には決意の光が宿っていた。
「……分かりません。俺たち末端の者には何も……。ですが、一つだけ奇妙なことが」
「何?」
「俺たちがこの領地へ入る際、合言葉を使うよう指示されていました。特定の村の特定の商店でその言葉を告げれば、協力者が手引きをしてくれる、と」
「その合言葉とは?」
「……『北の空に、明けの明星は輝くか』です」
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しかし協力者の正体までは誰も知らない。手掛かりはこの合言葉だけ。だが、私にはそれで十分だった。
その夜、私は密かに城を抜け出した。間諜たちが名を挙げた国境近くの村へ向かうために。このことは誰にも告げていない。コンラートにも、父にさえも。
信じられるのは、私自身のみ。
その頃、王都ではセドリック伯爵が静かに動いていた。彼は宰相リヒターの呼び出しを受け、王宮の一室で対峙していた。
「伯爵。近頃、ローゼンベルクの小娘に肩入れしているとの噂を耳にするが……真かな?」
宰相の蛇のごとき目が伯爵を射抜く。
「ほう、それは初耳ですな。この老いぼれが今更誰に肩入れすると?」
伯爵は飄々と受け流す。
「ふん、まあ良い。伯爵、貴殿もはやお分かりだろう。ローゼンベルクの命運は尽きた。今どちらにつくのが賢明か、貴殿ほどの古狐であれば間違うことはあるまい?」
宰相は脅しと懐柔を織り交ぜ、伯爵を引き込もうとする。
しかし、伯爵は動じない。
「……ふぉっふぉっふぉ。宰相閣下。賭け事はお好きかな?」
「……何?」
「老婆心ながら忠告しておきますぞ。……若き獅子を侮られぬことだ。あの姫君は、あんたの想像を遥かに超え、したたかで恐ろしい。……わしは、もう少しこの盤上を楽しませてもらうとしますかな」
伯爵はそう言うと悠然と立ち上がり、部屋を後にした。残された宰相は忌々しげに舌打ちする。
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