『婚約破棄された悪役令嬢ですが、嫁ぎ先で“連れ子三人”の母になりました ~三人の「ママ」が聞けるまで、私は絶対に逃げません~』

放浪人

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第二十二話「家の儀式:母の席」

審問の間は、冷ややかな静寂と、数百人の貴族たちの熱っぽい視線で満たされていた。 高い天井。磨き上げられた石の床。 そして正面の壇上には、この国の法と秩序を司る裁判官たちと、その中央にふんぞり返る王太子ルドルフ殿下の姿があった。

「――これより、グレイフ公爵家の継嗣保護に関する特別審問会を開廷する」

裁判官の重々しい声が響く。 私、レオンハルト様、そして三人の子供たちは、被告席に立った。 本来なら、公爵家当主をこのような場所に立たせること自体が不敬にあたるが、今回は「子供の人権保護」という大義名分が掲げられているため、形式上は従わざるを得ない。

「被告人、クラリス・フォン・グレイフ」

検察官役の男が、侮蔑を隠そうともせずに私を指差した。 王太子派の貴族だ。

「貴殿には、継子であるアルフォンス、ミレイユ、ノアの三名に対し、心理的虐待および育児放棄を行った疑いがかけられている。また、貴殿の過去の素行――いわゆる『悪役令嬢』としての悪評から、教育者として著しく不適格であるとの告発がある」

「異議あり」

間髪入れずに声を上げたのは、私の隣に立つレオンハルト様だった。 その低く響く声は、マイクなどなくとも会場の隅々まで届いた。

「虐待など事実無根。妻は、我が家の子供たちに献身的な愛情を注いでいる。それは、ここにいる子供たちの健康状態を見れば明らかだ」

「公爵閣下、発言は許可しておりません」

裁判官が事務的に遮る。 そして、ルドルフ殿下がニヤリと笑った。

「レオンハルトよ。君は騙されているのだ。あるいは、不在の間に家庭を顧みなかった罪悪感から、妻の悪行に目をつぶっているだけではないか?」

「なんだと……」

「まあまあ、殿下。まずは証拠を提示しましょう」

リディア様が扇子で口元を隠し、甘い声で割り込んだ。 彼女は、まるで悲劇のヒロインのように目を潤ませて私を見た。

「クラリス様。あなたが子供たちに無理やり笑顔を作らせていることは、先日の夜会で証明されましたわ。あの子たちは、あなたの顔色を窺って怯えていましたもの」

「怯えていたのではありません。見知らぬ大人たちに囲まれて、緊張していただけです」

私が静かに反論すると、リディア様は大袈裟に首を横に振った。

「いいえ。……証拠は、もっと根本的なところにありますの」

彼女は合図を送った。 すると、会場の扉が開き、古びた椅子が一脚、運ばれてきた。 背もたれにグレイフ家の紋章が刻まれた、重厚な椅子だ。

ざわっ、と会場がどよめく。 レオンハルト様の眉がピクリと動いた。

「あれは……我が家の礼拝堂にある、『母の椅子』か?」

「いかにも」

ルドルフ殿下が頷く。

「グレイフ公爵家には、古くからの習わしがあるそうだな。礼拝堂にあるその椅子は、歴代の公爵夫人――すなわち、家と子供たちを守る『真の母』だけが座ることを許される聖なる席だと」

殿下の言う通りだ。 それは単なる家具ではない。 グレイフ家において、妻が「契約上のパートナー」を超えて、「家族」として認められた証となる象徴的な席。 前妻様が亡くなって以来、誰も座ることのなかった場所だ。

「クラリス。お前はこの椅子に座ったことがあるか?」

殿下の問いに、私は沈黙した。 座ったことはない。 礼拝堂には行ったし、子供たちと祈りを捧げたけれど、あの椅子には触れなかった。 それは、まだ私が自分を「本当の母親」だと名乗るには早いと思っていたからだ。 子供たちから「ママ」と呼ばれるその日まで、あの席は空けておくつもりだった。

「……ありません」

私が答えると、殿下は勝ち誇ったように手を叩いた。

「見ろ! これこそが動かぬ証拠だ! 彼女自身、自分が母親として相応しくないと認めているのだ!」

会場から、「おお……」という納得の声が漏れる。 貴族社会において、伝統や儀式は絶対だ。形式を満たしていないことは、実質がないことと同義とみなされる。

「所詮は契約結婚。愛のない後妻。……そんな女に育てられる子供たちが不憫でならない」

リディア様がハンカチで嘘泣きをする。 空気が、完全にアウェーに傾いた。 「やはり悪役令嬢か」「子供が可哀想だ」という囁きが、波のように押し寄せてくる。

アルフォンス様が、悔しそうに唇を噛んで私を見上げる。 ミレイユ様が、私のドレスをぎゅっと握る。 反論したい。でも、ここで子供たちが叫べば、「躾がなっていない」と揚げ足を取られるだけだ。

「よって、王家は命じる」

ルドルフ殿下が立ち上がり、高らかに宣告しようとした。

「クラリス・フォン・グレイフの親権を停止し、子供たちを……」

「――お待ちください」

静寂を破ったのは、私でもレオンハルト様でもなかった。 被告席の後ろに控えていた、一人の初老の男。 グレイフ家の執事、ギルベルトだった。

「……なんだ、執事風情が。発言の許可など……」

「グレイフ公爵家の家政を取り仕切る執事として、事実誤認を訂正させていただきたく存じます」

ギルベルトは、裁判官の制止も聞かず、一歩前へ進み出た。 その背筋は定規のように真っ直ぐで、老齢とは思えないほどの威厳を放っていた。 彼は、運ばれてきた『母の椅子』の横に立ち、恭しく一礼した。

「この椅子は確かに、歴代の奥様方が座られてきたものです。しかし、座ることで母になるのではありません。……母となった者だけが、自然とここに座るのです」

「屁理屈を言うな!」

「いいえ、事実です。そして」

ギルベルトは、ゆっくりと顔を上げ、会場を見渡した。 その瞳は、いつもの冷徹な業務用の光ではなく、熱い誇りに満ちていた。

「私が仕えてきた中で、クラリス様ほど、この『席』にふさわしい方はいらっしゃいませんでした」

「……ギルベルト?」

私が驚いて彼を見ると、彼は私に向かって、今までで一番深い最敬礼をした。

「亡き前妻様が去られてから、この屋敷は凍りついておりました。旦那様は心を閉ざし、お子様方は孤独に震えておられた。……私は無力でした。ただ屋敷を維持するだけで、それを『家庭』に戻すことはできなかった」

彼は声を震わせた。

「ですが、クラリス様はいらっしゃったその日から、戦われました。冷たいスープを温かいものに変え、凍りついた部屋を『灯』で溶かし、不器用な旦那様と意固地なお子様方の手を、繋ぎ直してくださった」

ギルベルトの手が、『母の椅子』の背もたれに触れる。

「形式など関係ありません。座ったかどうかも些末なことです。……クラリス様は、すでにこの家の『中心』なのです。この方がいなければ、今のグレイフ家は存在しません」

執事の言葉は、貴族たちの胸に重く響いた。 長年仕える使用人の証言は、時として家族の証言以上に重みを持つ。 彼が嘘をつく理由がないからだ。

「……ギルベルト」

レオンハルト様が、目頭を押さえるように俯いた。 私も、視界が滲むのを止められなかった。 あの厳格で、最初は私を「甘い」と批判していた彼が。 一番近くで見ていてくれた彼が、こうして公の場で認めてくれた。

「……ふん。美談だな」

ルドルフ殿下が、不快そうに鼻を鳴らした。 感動的な空気が気に入らないのだ。

「だが、それは使用人の主観だろう? いくら口で取り繕おうと、客観的な事実は変わらん。彼女は『悪役令嬢』として断罪された女だ。その本性は……」

「ならば!」

私が声を上げた。 もう、黙っていられない。 私はギルベルトに目配せで感謝を伝え、一歩前へ進み出た。 そして、あの『母の椅子』の前まで歩み寄った。

「私が、証明すればよいのでしょう?」

「証明だと?」

「ええ。この椅子に座る資格があるかどうか。今ここで、皆様の目の前で」

会場がどよめく。 私は深呼吸をし、椅子に手をかけた。 古びたビロードの感触。 歴代の母たちの想いが染み込んだ、重みのある座面。

「クラリス……」

レオンハルト様が心配そうに私を見る。 大丈夫。 私は、子供たちと交わした約束を胸に、ゆっくりと腰を下ろした。

その瞬間。 ふわっ、と温かい風が吹いた気がした。 私の魔力ではない。 椅子そのものから、淡い光が溢れ出し、私を包み込んだのだ。

「な、なんだ!?」

「光った!?」

それは、グレイフ家に伝わる守護の魔法だったのかもしれない。 あるいは、亡き前妻様が残した残留思念か。 敵意はない。 むしろ、「頼んだわよ」と背中を押されるような、優しい温もり。

光の中で、私は顔を上げ、凛と言い放った。

「見えますか、殿下。……この椅子は、私を拒絶しませんでした」

私は黒革の手袋をした左手を胸に当てた。

「私は、アルフォンス、ミレイユ、ノアの母です。契約書や血の繋がりではありません。共に泣き、共に笑い、同じ食卓を囲んだ日々が、私を母にしてくれたのです」

光に包まれた私の姿は、誰の目にも神々しく映ったはずだ。 リディア様が「そ、そんな……ただの椅子が光るなんて……!」と後ずさる。

「認めません!」

ルドルフ殿下が、バン! と机を叩いた。 顔は真っ赤で、理性のタガが外れかけている。

「そんなものはトリックだ! 手品だ! お前が得意な生活魔法で小細工をしたに決まっている!」

「殿下、見苦しいですよ」

レオンハルト様が冷ややかに告げる。

「誰の目にも明らかだ。これ以上の言いがかりは、王家の品位を落とすだけだ」

「黙れ! 黙れ黙れ!」

殿下は立ち上がり、狂乱したように叫んだ。 もはや、継嗣保護の理念などどこへやら。 ただ私を屈服させたい、その一心だけが暴走している。

「いいだろう。そこまで言うなら、最終手段だ!」

殿下は懐から、一枚の黒い羊皮紙を取り出した。 それを見た瞬間、裁判官たちの顔色が変わった。 レオンハルト様の表情も、険しいものへと一変する。

「……まさか、それは」

「『王都特別審査令』だ!」

殿下が紙を掲げる。 そこには、王家の紋章と共に、禍々しいほどの魔力が込められた封印が施されていた。

「これより、グレイフ公爵家の子供たちを『王家直轄の保護下』に置く! 魔力適性、精神状態、すべてを王宮魔術師団が徹底的に解剖……いや、検査する!」

「なっ……正気か!?」

レオンハルト様が叫ぶ。 特別審査。 それは建前上の検査だが、実態は「洗脳」に近い強制的な魔力干渉を行い、子供の記憶や人格を書き換えることすら可能な、禁断の措置だ。 かつて、反逆者の子供に行われたという歴史の闇。 それを、罪もない公爵家の子息に使おうというのか。

「拒否権はない! これは王命に等しい権限だ!」

殿下の合図で、審問の間の扉が乱暴に開かれた。 入ってきたのは、黒いローブを纏った集団。 王宮魔術師団の、さらに裏の仕事を担当する「暗部」たちだ。

「子供たちを確保せよ!」

「させるか!」

レオンハルト様が抜刀しようとする。 しかし、ここは王城内。 剣を抜けば、その瞬間に反逆罪が成立してしまう。 彼の手が震える。

「パパ……!」 「お母様!」

子供たちが悲鳴を上げ、私に駆け寄ってくる。 私は椅子から立ち上がり、両手を広げて彼らを庇った。

「下がりなさい! この子たちに指一本触れさせません!」

「ふん、無駄なあがきだ。やれ!」

暗部たちが魔力を練り上げる。 攻撃魔法の光が、私たちに向けられる。

絶体絶命。 法も、正義も、ここにはない。 あるのは、権力という名の暴力だけ。

その時だった。

ゴゴゴゴゴ……ッ!!

地響き。 いや、違う。 もっと遠く、もっと深い場所から響いてくる、世界の悲鳴のような音。

「な、なんだ!?」

城が揺れる。 シャンデリアが激しく揺れ、悲鳴が上がる。 窓の外、北の空が、ありえない色――ドス黒い紫に染まっているのが見えた。

「……まさか」

レオンハルト様が、血相を変えて窓に駆け寄る。

「境界が……崩れたのか?」

審問どころではない。 私の予感通り、王都での茶番劇の裏で、本当の破滅が幕を開けようとしていた。 そしてその混乱は、私たち家族にとって、最後の、そして最大の試練の始まりでもあった。

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