22 / 31
第二十二話「家の儀式:母の席」
しおりを挟む
審問の間は、冷ややかな静寂と、数百人の貴族たちの熱っぽい視線で満たされていた。 高い天井。磨き上げられた石の床。 そして正面の壇上には、この国の法と秩序を司る裁判官たちと、その中央にふんぞり返る王太子ルドルフ殿下の姿があった。
「――これより、グレイフ公爵家の継嗣保護に関する特別審問会を開廷する」
裁判官の重々しい声が響く。 私、レオンハルト様、そして三人の子供たちは、被告席に立った。 本来なら、公爵家当主をこのような場所に立たせること自体が不敬にあたるが、今回は「子供の人権保護」という大義名分が掲げられているため、形式上は従わざるを得ない。
「被告人、クラリス・フォン・グレイフ」
検察官役の男が、侮蔑を隠そうともせずに私を指差した。 王太子派の貴族だ。
「貴殿には、継子であるアルフォンス、ミレイユ、ノアの三名に対し、心理的虐待および育児放棄を行った疑いがかけられている。また、貴殿の過去の素行――いわゆる『悪役令嬢』としての悪評から、教育者として著しく不適格であるとの告発がある」
「異議あり」
間髪入れずに声を上げたのは、私の隣に立つレオンハルト様だった。 その低く響く声は、マイクなどなくとも会場の隅々まで届いた。
「虐待など事実無根。妻は、我が家の子供たちに献身的な愛情を注いでいる。それは、ここにいる子供たちの健康状態を見れば明らかだ」
「公爵閣下、発言は許可しておりません」
裁判官が事務的に遮る。 そして、ルドルフ殿下がニヤリと笑った。
「レオンハルトよ。君は騙されているのだ。あるいは、不在の間に家庭を顧みなかった罪悪感から、妻の悪行に目をつぶっているだけではないか?」
「なんだと……」
「まあまあ、殿下。まずは証拠を提示しましょう」
リディア様が扇子で口元を隠し、甘い声で割り込んだ。 彼女は、まるで悲劇のヒロインのように目を潤ませて私を見た。
「クラリス様。あなたが子供たちに無理やり笑顔を作らせていることは、先日の夜会で証明されましたわ。あの子たちは、あなたの顔色を窺って怯えていましたもの」
「怯えていたのではありません。見知らぬ大人たちに囲まれて、緊張していただけです」
私が静かに反論すると、リディア様は大袈裟に首を横に振った。
「いいえ。……証拠は、もっと根本的なところにありますの」
彼女は合図を送った。 すると、会場の扉が開き、古びた椅子が一脚、運ばれてきた。 背もたれにグレイフ家の紋章が刻まれた、重厚な椅子だ。
ざわっ、と会場がどよめく。 レオンハルト様の眉がピクリと動いた。
「あれは……我が家の礼拝堂にある、『母の椅子』か?」
「いかにも」
ルドルフ殿下が頷く。
「グレイフ公爵家には、古くからの習わしがあるそうだな。礼拝堂にあるその椅子は、歴代の公爵夫人――すなわち、家と子供たちを守る『真の母』だけが座ることを許される聖なる席だと」
殿下の言う通りだ。 それは単なる家具ではない。 グレイフ家において、妻が「契約上のパートナー」を超えて、「家族」として認められた証となる象徴的な席。 前妻様が亡くなって以来、誰も座ることのなかった場所だ。
「クラリス。お前はこの椅子に座ったことがあるか?」
殿下の問いに、私は沈黙した。 座ったことはない。 礼拝堂には行ったし、子供たちと祈りを捧げたけれど、あの椅子には触れなかった。 それは、まだ私が自分を「本当の母親」だと名乗るには早いと思っていたからだ。 子供たちから「ママ」と呼ばれるその日まで、あの席は空けておくつもりだった。
「……ありません」
私が答えると、殿下は勝ち誇ったように手を叩いた。
「見ろ! これこそが動かぬ証拠だ! 彼女自身、自分が母親として相応しくないと認めているのだ!」
会場から、「おお……」という納得の声が漏れる。 貴族社会において、伝統や儀式は絶対だ。形式を満たしていないことは、実質がないことと同義とみなされる。
「所詮は契約結婚。愛のない後妻。……そんな女に育てられる子供たちが不憫でならない」
リディア様がハンカチで嘘泣きをする。 空気が、完全にアウェーに傾いた。 「やはり悪役令嬢か」「子供が可哀想だ」という囁きが、波のように押し寄せてくる。
アルフォンス様が、悔しそうに唇を噛んで私を見上げる。 ミレイユ様が、私のドレスをぎゅっと握る。 反論したい。でも、ここで子供たちが叫べば、「躾がなっていない」と揚げ足を取られるだけだ。
「よって、王家は命じる」
ルドルフ殿下が立ち上がり、高らかに宣告しようとした。
「クラリス・フォン・グレイフの親権を停止し、子供たちを……」
「――お待ちください」
静寂を破ったのは、私でもレオンハルト様でもなかった。 被告席の後ろに控えていた、一人の初老の男。 グレイフ家の執事、ギルベルトだった。
「……なんだ、執事風情が。発言の許可など……」
「グレイフ公爵家の家政を取り仕切る執事として、事実誤認を訂正させていただきたく存じます」
ギルベルトは、裁判官の制止も聞かず、一歩前へ進み出た。 その背筋は定規のように真っ直ぐで、老齢とは思えないほどの威厳を放っていた。 彼は、運ばれてきた『母の椅子』の横に立ち、恭しく一礼した。
「この椅子は確かに、歴代の奥様方が座られてきたものです。しかし、座ることで母になるのではありません。……母となった者だけが、自然とここに座るのです」
「屁理屈を言うな!」
「いいえ、事実です。そして」
ギルベルトは、ゆっくりと顔を上げ、会場を見渡した。 その瞳は、いつもの冷徹な業務用の光ではなく、熱い誇りに満ちていた。
「私が仕えてきた中で、クラリス様ほど、この『席』にふさわしい方はいらっしゃいませんでした」
「……ギルベルト?」
私が驚いて彼を見ると、彼は私に向かって、今までで一番深い最敬礼をした。
「亡き前妻様が去られてから、この屋敷は凍りついておりました。旦那様は心を閉ざし、お子様方は孤独に震えておられた。……私は無力でした。ただ屋敷を維持するだけで、それを『家庭』に戻すことはできなかった」
彼は声を震わせた。
「ですが、クラリス様はいらっしゃったその日から、戦われました。冷たいスープを温かいものに変え、凍りついた部屋を『灯』で溶かし、不器用な旦那様と意固地なお子様方の手を、繋ぎ直してくださった」
ギルベルトの手が、『母の椅子』の背もたれに触れる。
「形式など関係ありません。座ったかどうかも些末なことです。……クラリス様は、すでにこの家の『中心』なのです。この方がいなければ、今のグレイフ家は存在しません」
執事の言葉は、貴族たちの胸に重く響いた。 長年仕える使用人の証言は、時として家族の証言以上に重みを持つ。 彼が嘘をつく理由がないからだ。
「……ギルベルト」
レオンハルト様が、目頭を押さえるように俯いた。 私も、視界が滲むのを止められなかった。 あの厳格で、最初は私を「甘い」と批判していた彼が。 一番近くで見ていてくれた彼が、こうして公の場で認めてくれた。
「……ふん。美談だな」
ルドルフ殿下が、不快そうに鼻を鳴らした。 感動的な空気が気に入らないのだ。
「だが、それは使用人の主観だろう? いくら口で取り繕おうと、客観的な事実は変わらん。彼女は『悪役令嬢』として断罪された女だ。その本性は……」
「ならば!」
私が声を上げた。 もう、黙っていられない。 私はギルベルトに目配せで感謝を伝え、一歩前へ進み出た。 そして、あの『母の椅子』の前まで歩み寄った。
「私が、証明すればよいのでしょう?」
「証明だと?」
「ええ。この椅子に座る資格があるかどうか。今ここで、皆様の目の前で」
会場がどよめく。 私は深呼吸をし、椅子に手をかけた。 古びたビロードの感触。 歴代の母たちの想いが染み込んだ、重みのある座面。
「クラリス……」
レオンハルト様が心配そうに私を見る。 大丈夫。 私は、子供たちと交わした約束を胸に、ゆっくりと腰を下ろした。
その瞬間。 ふわっ、と温かい風が吹いた気がした。 私の魔力ではない。 椅子そのものから、淡い光が溢れ出し、私を包み込んだのだ。
「な、なんだ!?」
「光った!?」
それは、グレイフ家に伝わる守護の魔法だったのかもしれない。 あるいは、亡き前妻様が残した残留思念か。 敵意はない。 むしろ、「頼んだわよ」と背中を押されるような、優しい温もり。
光の中で、私は顔を上げ、凛と言い放った。
「見えますか、殿下。……この椅子は、私を拒絶しませんでした」
私は黒革の手袋をした左手を胸に当てた。
「私は、アルフォンス、ミレイユ、ノアの母です。契約書や血の繋がりではありません。共に泣き、共に笑い、同じ食卓を囲んだ日々が、私を母にしてくれたのです」
光に包まれた私の姿は、誰の目にも神々しく映ったはずだ。 リディア様が「そ、そんな……ただの椅子が光るなんて……!」と後ずさる。
「認めません!」
ルドルフ殿下が、バン! と机を叩いた。 顔は真っ赤で、理性のタガが外れかけている。
「そんなものはトリックだ! 手品だ! お前が得意な生活魔法で小細工をしたに決まっている!」
「殿下、見苦しいですよ」
レオンハルト様が冷ややかに告げる。
「誰の目にも明らかだ。これ以上の言いがかりは、王家の品位を落とすだけだ」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
殿下は立ち上がり、狂乱したように叫んだ。 もはや、継嗣保護の理念などどこへやら。 ただ私を屈服させたい、その一心だけが暴走している。
「いいだろう。そこまで言うなら、最終手段だ!」
殿下は懐から、一枚の黒い羊皮紙を取り出した。 それを見た瞬間、裁判官たちの顔色が変わった。 レオンハルト様の表情も、険しいものへと一変する。
「……まさか、それは」
「『王都特別審査令』だ!」
殿下が紙を掲げる。 そこには、王家の紋章と共に、禍々しいほどの魔力が込められた封印が施されていた。
「これより、グレイフ公爵家の子供たちを『王家直轄の保護下』に置く! 魔力適性、精神状態、すべてを王宮魔術師団が徹底的に解剖……いや、検査する!」
「なっ……正気か!?」
レオンハルト様が叫ぶ。 特別審査。 それは建前上の検査だが、実態は「洗脳」に近い強制的な魔力干渉を行い、子供の記憶や人格を書き換えることすら可能な、禁断の措置だ。 かつて、反逆者の子供に行われたという歴史の闇。 それを、罪もない公爵家の子息に使おうというのか。
「拒否権はない! これは王命に等しい権限だ!」
殿下の合図で、審問の間の扉が乱暴に開かれた。 入ってきたのは、黒いローブを纏った集団。 王宮魔術師団の、さらに裏の仕事を担当する「暗部」たちだ。
「子供たちを確保せよ!」
「させるか!」
レオンハルト様が抜刀しようとする。 しかし、ここは王城内。 剣を抜けば、その瞬間に反逆罪が成立してしまう。 彼の手が震える。
「パパ……!」 「お母様!」
子供たちが悲鳴を上げ、私に駆け寄ってくる。 私は椅子から立ち上がり、両手を広げて彼らを庇った。
「下がりなさい! この子たちに指一本触れさせません!」
「ふん、無駄なあがきだ。やれ!」
暗部たちが魔力を練り上げる。 攻撃魔法の光が、私たちに向けられる。
絶体絶命。 法も、正義も、ここにはない。 あるのは、権力という名の暴力だけ。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地響き。 いや、違う。 もっと遠く、もっと深い場所から響いてくる、世界の悲鳴のような音。
「な、なんだ!?」
城が揺れる。 シャンデリアが激しく揺れ、悲鳴が上がる。 窓の外、北の空が、ありえない色――ドス黒い紫に染まっているのが見えた。
「……まさか」
レオンハルト様が、血相を変えて窓に駆け寄る。
「境界が……崩れたのか?」
審問どころではない。 私の予感通り、王都での茶番劇の裏で、本当の破滅が幕を開けようとしていた。 そしてその混乱は、私たち家族にとって、最後の、そして最大の試練の始まりでもあった。
「――これより、グレイフ公爵家の継嗣保護に関する特別審問会を開廷する」
裁判官の重々しい声が響く。 私、レオンハルト様、そして三人の子供たちは、被告席に立った。 本来なら、公爵家当主をこのような場所に立たせること自体が不敬にあたるが、今回は「子供の人権保護」という大義名分が掲げられているため、形式上は従わざるを得ない。
「被告人、クラリス・フォン・グレイフ」
検察官役の男が、侮蔑を隠そうともせずに私を指差した。 王太子派の貴族だ。
「貴殿には、継子であるアルフォンス、ミレイユ、ノアの三名に対し、心理的虐待および育児放棄を行った疑いがかけられている。また、貴殿の過去の素行――いわゆる『悪役令嬢』としての悪評から、教育者として著しく不適格であるとの告発がある」
「異議あり」
間髪入れずに声を上げたのは、私の隣に立つレオンハルト様だった。 その低く響く声は、マイクなどなくとも会場の隅々まで届いた。
「虐待など事実無根。妻は、我が家の子供たちに献身的な愛情を注いでいる。それは、ここにいる子供たちの健康状態を見れば明らかだ」
「公爵閣下、発言は許可しておりません」
裁判官が事務的に遮る。 そして、ルドルフ殿下がニヤリと笑った。
「レオンハルトよ。君は騙されているのだ。あるいは、不在の間に家庭を顧みなかった罪悪感から、妻の悪行に目をつぶっているだけではないか?」
「なんだと……」
「まあまあ、殿下。まずは証拠を提示しましょう」
リディア様が扇子で口元を隠し、甘い声で割り込んだ。 彼女は、まるで悲劇のヒロインのように目を潤ませて私を見た。
「クラリス様。あなたが子供たちに無理やり笑顔を作らせていることは、先日の夜会で証明されましたわ。あの子たちは、あなたの顔色を窺って怯えていましたもの」
「怯えていたのではありません。見知らぬ大人たちに囲まれて、緊張していただけです」
私が静かに反論すると、リディア様は大袈裟に首を横に振った。
「いいえ。……証拠は、もっと根本的なところにありますの」
彼女は合図を送った。 すると、会場の扉が開き、古びた椅子が一脚、運ばれてきた。 背もたれにグレイフ家の紋章が刻まれた、重厚な椅子だ。
ざわっ、と会場がどよめく。 レオンハルト様の眉がピクリと動いた。
「あれは……我が家の礼拝堂にある、『母の椅子』か?」
「いかにも」
ルドルフ殿下が頷く。
「グレイフ公爵家には、古くからの習わしがあるそうだな。礼拝堂にあるその椅子は、歴代の公爵夫人――すなわち、家と子供たちを守る『真の母』だけが座ることを許される聖なる席だと」
殿下の言う通りだ。 それは単なる家具ではない。 グレイフ家において、妻が「契約上のパートナー」を超えて、「家族」として認められた証となる象徴的な席。 前妻様が亡くなって以来、誰も座ることのなかった場所だ。
「クラリス。お前はこの椅子に座ったことがあるか?」
殿下の問いに、私は沈黙した。 座ったことはない。 礼拝堂には行ったし、子供たちと祈りを捧げたけれど、あの椅子には触れなかった。 それは、まだ私が自分を「本当の母親」だと名乗るには早いと思っていたからだ。 子供たちから「ママ」と呼ばれるその日まで、あの席は空けておくつもりだった。
「……ありません」
私が答えると、殿下は勝ち誇ったように手を叩いた。
「見ろ! これこそが動かぬ証拠だ! 彼女自身、自分が母親として相応しくないと認めているのだ!」
会場から、「おお……」という納得の声が漏れる。 貴族社会において、伝統や儀式は絶対だ。形式を満たしていないことは、実質がないことと同義とみなされる。
「所詮は契約結婚。愛のない後妻。……そんな女に育てられる子供たちが不憫でならない」
リディア様がハンカチで嘘泣きをする。 空気が、完全にアウェーに傾いた。 「やはり悪役令嬢か」「子供が可哀想だ」という囁きが、波のように押し寄せてくる。
アルフォンス様が、悔しそうに唇を噛んで私を見上げる。 ミレイユ様が、私のドレスをぎゅっと握る。 反論したい。でも、ここで子供たちが叫べば、「躾がなっていない」と揚げ足を取られるだけだ。
「よって、王家は命じる」
ルドルフ殿下が立ち上がり、高らかに宣告しようとした。
「クラリス・フォン・グレイフの親権を停止し、子供たちを……」
「――お待ちください」
静寂を破ったのは、私でもレオンハルト様でもなかった。 被告席の後ろに控えていた、一人の初老の男。 グレイフ家の執事、ギルベルトだった。
「……なんだ、執事風情が。発言の許可など……」
「グレイフ公爵家の家政を取り仕切る執事として、事実誤認を訂正させていただきたく存じます」
ギルベルトは、裁判官の制止も聞かず、一歩前へ進み出た。 その背筋は定規のように真っ直ぐで、老齢とは思えないほどの威厳を放っていた。 彼は、運ばれてきた『母の椅子』の横に立ち、恭しく一礼した。
「この椅子は確かに、歴代の奥様方が座られてきたものです。しかし、座ることで母になるのではありません。……母となった者だけが、自然とここに座るのです」
「屁理屈を言うな!」
「いいえ、事実です。そして」
ギルベルトは、ゆっくりと顔を上げ、会場を見渡した。 その瞳は、いつもの冷徹な業務用の光ではなく、熱い誇りに満ちていた。
「私が仕えてきた中で、クラリス様ほど、この『席』にふさわしい方はいらっしゃいませんでした」
「……ギルベルト?」
私が驚いて彼を見ると、彼は私に向かって、今までで一番深い最敬礼をした。
「亡き前妻様が去られてから、この屋敷は凍りついておりました。旦那様は心を閉ざし、お子様方は孤独に震えておられた。……私は無力でした。ただ屋敷を維持するだけで、それを『家庭』に戻すことはできなかった」
彼は声を震わせた。
「ですが、クラリス様はいらっしゃったその日から、戦われました。冷たいスープを温かいものに変え、凍りついた部屋を『灯』で溶かし、不器用な旦那様と意固地なお子様方の手を、繋ぎ直してくださった」
ギルベルトの手が、『母の椅子』の背もたれに触れる。
「形式など関係ありません。座ったかどうかも些末なことです。……クラリス様は、すでにこの家の『中心』なのです。この方がいなければ、今のグレイフ家は存在しません」
執事の言葉は、貴族たちの胸に重く響いた。 長年仕える使用人の証言は、時として家族の証言以上に重みを持つ。 彼が嘘をつく理由がないからだ。
「……ギルベルト」
レオンハルト様が、目頭を押さえるように俯いた。 私も、視界が滲むのを止められなかった。 あの厳格で、最初は私を「甘い」と批判していた彼が。 一番近くで見ていてくれた彼が、こうして公の場で認めてくれた。
「……ふん。美談だな」
ルドルフ殿下が、不快そうに鼻を鳴らした。 感動的な空気が気に入らないのだ。
「だが、それは使用人の主観だろう? いくら口で取り繕おうと、客観的な事実は変わらん。彼女は『悪役令嬢』として断罪された女だ。その本性は……」
「ならば!」
私が声を上げた。 もう、黙っていられない。 私はギルベルトに目配せで感謝を伝え、一歩前へ進み出た。 そして、あの『母の椅子』の前まで歩み寄った。
「私が、証明すればよいのでしょう?」
「証明だと?」
「ええ。この椅子に座る資格があるかどうか。今ここで、皆様の目の前で」
会場がどよめく。 私は深呼吸をし、椅子に手をかけた。 古びたビロードの感触。 歴代の母たちの想いが染み込んだ、重みのある座面。
「クラリス……」
レオンハルト様が心配そうに私を見る。 大丈夫。 私は、子供たちと交わした約束を胸に、ゆっくりと腰を下ろした。
その瞬間。 ふわっ、と温かい風が吹いた気がした。 私の魔力ではない。 椅子そのものから、淡い光が溢れ出し、私を包み込んだのだ。
「な、なんだ!?」
「光った!?」
それは、グレイフ家に伝わる守護の魔法だったのかもしれない。 あるいは、亡き前妻様が残した残留思念か。 敵意はない。 むしろ、「頼んだわよ」と背中を押されるような、優しい温もり。
光の中で、私は顔を上げ、凛と言い放った。
「見えますか、殿下。……この椅子は、私を拒絶しませんでした」
私は黒革の手袋をした左手を胸に当てた。
「私は、アルフォンス、ミレイユ、ノアの母です。契約書や血の繋がりではありません。共に泣き、共に笑い、同じ食卓を囲んだ日々が、私を母にしてくれたのです」
光に包まれた私の姿は、誰の目にも神々しく映ったはずだ。 リディア様が「そ、そんな……ただの椅子が光るなんて……!」と後ずさる。
「認めません!」
ルドルフ殿下が、バン! と机を叩いた。 顔は真っ赤で、理性のタガが外れかけている。
「そんなものはトリックだ! 手品だ! お前が得意な生活魔法で小細工をしたに決まっている!」
「殿下、見苦しいですよ」
レオンハルト様が冷ややかに告げる。
「誰の目にも明らかだ。これ以上の言いがかりは、王家の品位を落とすだけだ」
「黙れ! 黙れ黙れ!」
殿下は立ち上がり、狂乱したように叫んだ。 もはや、継嗣保護の理念などどこへやら。 ただ私を屈服させたい、その一心だけが暴走している。
「いいだろう。そこまで言うなら、最終手段だ!」
殿下は懐から、一枚の黒い羊皮紙を取り出した。 それを見た瞬間、裁判官たちの顔色が変わった。 レオンハルト様の表情も、険しいものへと一変する。
「……まさか、それは」
「『王都特別審査令』だ!」
殿下が紙を掲げる。 そこには、王家の紋章と共に、禍々しいほどの魔力が込められた封印が施されていた。
「これより、グレイフ公爵家の子供たちを『王家直轄の保護下』に置く! 魔力適性、精神状態、すべてを王宮魔術師団が徹底的に解剖……いや、検査する!」
「なっ……正気か!?」
レオンハルト様が叫ぶ。 特別審査。 それは建前上の検査だが、実態は「洗脳」に近い強制的な魔力干渉を行い、子供の記憶や人格を書き換えることすら可能な、禁断の措置だ。 かつて、反逆者の子供に行われたという歴史の闇。 それを、罪もない公爵家の子息に使おうというのか。
「拒否権はない! これは王命に等しい権限だ!」
殿下の合図で、審問の間の扉が乱暴に開かれた。 入ってきたのは、黒いローブを纏った集団。 王宮魔術師団の、さらに裏の仕事を担当する「暗部」たちだ。
「子供たちを確保せよ!」
「させるか!」
レオンハルト様が抜刀しようとする。 しかし、ここは王城内。 剣を抜けば、その瞬間に反逆罪が成立してしまう。 彼の手が震える。
「パパ……!」 「お母様!」
子供たちが悲鳴を上げ、私に駆け寄ってくる。 私は椅子から立ち上がり、両手を広げて彼らを庇った。
「下がりなさい! この子たちに指一本触れさせません!」
「ふん、無駄なあがきだ。やれ!」
暗部たちが魔力を練り上げる。 攻撃魔法の光が、私たちに向けられる。
絶体絶命。 法も、正義も、ここにはない。 あるのは、権力という名の暴力だけ。
その時だった。
ゴゴゴゴゴ……ッ!!
地響き。 いや、違う。 もっと遠く、もっと深い場所から響いてくる、世界の悲鳴のような音。
「な、なんだ!?」
城が揺れる。 シャンデリアが激しく揺れ、悲鳴が上がる。 窓の外、北の空が、ありえない色――ドス黒い紫に染まっているのが見えた。
「……まさか」
レオンハルト様が、血相を変えて窓に駆け寄る。
「境界が……崩れたのか?」
審問どころではない。 私の予感通り、王都での茶番劇の裏で、本当の破滅が幕を開けようとしていた。 そしてその混乱は、私たち家族にとって、最後の、そして最大の試練の始まりでもあった。
17
あなたにおすすめの小説
冷遇妃マリアベルの監視報告書
Mag_Mel
ファンタジー
シルフィード王国に敗戦国ソラリから献上されたのは、"太陽の姫"と讃えられた妹ではなく、悪女と噂される姉、マリアベル。
第一王子の四番目の妃として迎えられた彼女は、王宮の片隅に追いやられ、嘲笑と陰湿な仕打ちに晒され続けていた。
そんな折、「王家の影」は第三王子セドリックよりマリアベルの監視業務を命じられる。年若い影が記す報告書には、ただ静かに耐え続け、死を待つかのように振舞うひとりの女の姿があった。
王位継承争いと策謀が渦巻く王宮で、冷遇妃の運命は思わぬ方向へと狂い始める――。
(小説家になろう様にも投稿しています)
お飾りの妻として嫁いだけど、不要な妻は出ていきます
菻莅❝りんり❞
ファンタジー
貴族らしい貴族の両親に、売られるように愛人を本邸に住まわせている其なりの爵位のある貴族に嫁いだ。
嫁ぎ先で私は、お飾りの妻として別棟に押し込まれ、使用人も付けてもらえず、初夜もなし。
「居なくていいなら、出ていこう」
この先結婚はできなくなるけど、このまま一生涯過ごすよりまし
公爵令嬢アナスタシアの華麗なる鉄槌
招杜羅147
ファンタジー
「婚約は破棄だ!」
毒殺容疑の冤罪で、婚約者の手によって投獄された公爵令嬢・アナスタシア。
彼女は獄中死し、それによって3年前に巻き戻る。
そして…。
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~
水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」
夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。
王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。
「左様でございますか」
彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。
子育てが落ち着いた20年目の結婚記念日……「離縁よ!離縁!」私は屋敷を飛び出しました。
さくしゃ
恋愛
アーリントン王国の片隅にあるバーンズ男爵領では、6人の子育てが落ち着いた領主夫人のエミリアと領主のヴァーンズは20回目の結婚記念日を迎えていた。
忙しい子育てと政務にすれ違いの生活を送っていた二人は、久しぶりに二人だけで食事をすることに。
「はぁ……盛り上がりすぎて7人目なんて言われたらどうしよう……いいえ!いっそのことあと5人くらい!」
気合いを入れるエミリアは侍女の案内でヴァーンズが待つ食堂へ。しかし、
「信じられない!離縁よ!離縁!」
深夜2時、エミリアは怒りを露わに屋敷を飛び出していった。自室に「実家へ帰らせていただきます!」という書き置きを残して。
結婚20年目にして離婚の危機……果たしてその結末は!?
追放先の辺境で前世の農業知識を思い出した悪役令嬢、奇跡の果実で大逆転。いつの間にか世界経済の中心になっていました。
緋村ルナ
ファンタジー
「お前のような女は王妃にふさわしくない!」――才色兼備でありながら“冷酷な野心家”のレッテルを貼られ、無能な王太子から婚約破棄されたアメリア。国外追放の末にたどり着いたのは、痩せた土地が広がる辺境の村だった。しかし、そこで彼女が見つけた一つの奇妙な種が、運命を、そして世界を根底から覆す。
前世である農業研究員の知識を武器に、新種の果物「ヴェリーナ」を誕生させたアメリア。それは甘美な味だけでなく、世界経済を揺るがすほどの価値を秘めていた。
これは、一人の追放された令嬢が、たった一つの果実で自らの運命を切り開き、かつて自分を捨てた者たちに痛快なリベンジを果たし、やがて世界の覇権を握るまでの物語。「食」と「経済」で世界を変える、壮大な逆転ファンタジー、開幕!
【完結】悪役令嬢ですが、元官僚スキルで断罪も陰謀も処理します。
かおり
ファンタジー
異世界で悪役令嬢に転生した元官僚。婚約破棄? 断罪? 全部ルールと書類で処理します。
謝罪してないのに謝ったことになる“限定謝罪”で、婚約者も貴族も黙らせる――バリキャリ令嬢の逆転劇!
※読んでいただき、ありがとうございます。ささやかな物語ですが、どこか少しでも楽しんでいただけたら幸いです。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる