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すべてが変わる誕生日
英雄の娘
しおりを挟む洗い終えたグラスの最後の一個を拭き終えて、セシリアは自分の完璧な仕事に頷いた。金のまとめ髪をほどいて、エプロンを外す。
「それじゃ、アンリおばさん。これで上がるわ。お疲れ様でした」
「ああ、お待ち、シャオ!」
幼い頃からずっと使われている、親しみを込めた名で呼び止められて、セシリアは機敏に振り返った。目尻が少し跳ね上がった空色の瞳を興味深げに見開いて、女将の言葉を待つ。
「今晩は客として、ご飯を食べにおいで。今日はあんたの誕生日だろう? ご馳走するからさ。ゼノも一緒に連れておいで」
「いいの?」
「ああ、あんたはあたしの娘も同然なんだ。遠慮しないでおいで!」
「嬉しい! アンリおばさん、大好き!」
アンリは腕を広げて、飛び込んできたセシリアを抱きとめた。
かつて武闘家として戦場を舞ったアンリの腕は、中年を迎え引退した今でも、そこらの若衆より逞しい。
母を亡くしたばかりの頃も、セシリアはこの腕の中で泣いた。今も、その温もりに甘えてしまう。
「まったく、ダンテも今日くらい帰ってきたらいいのにねぇ! 王都の大司教様ってのは、そんなに偉いのかい!」
「そう言わないで、おばさん。お父さんは迷える人々をお導きになっているのだから。それに、お祝いの手紙はもう届いたもの。わたし、じゅうぶん嬉しいわ」
「ああ、なんていい子なんだろうね。リリスが生きていたら、あんたの成人を誰よりも喜んだろうよ」
セシリアは胸に下げた首飾りを撫でる。朝焼け色の輝きを放つ小さな石がくくられた、手作り感のあるアクセサリーは、母の形見だ。
「ねぇ、おばさん。わたしって、少しはお母さんに似てきたかしら?」
「残念だけど、あんたは完全にダンテ似だね。リリスに似ていたら、もっと落ち着いた美人だったろうさ。この酒場の看板娘になれるくらいにね!」
「ひどいわ、おばさんったら」
「あんたにはあんただけの可愛さがある、って言ってんだよ。怒るとツンって尖る口、あたしは大好きだよ」
ちょん、と指先で唇に触れられて、セシリアはますますむくれた。
「そういうところだよ、あんたの可愛いところは。ああ、この唇がいつか、そこいらの男に奪われちまうなんて考えたくもないね」
「な、なんの心配をしているのよ。そんないつかは来ないわ! じゃあ、おばさん。また夜にね!」
「……来ないは来ないで心配なんだけどねぇ」
アンリのお節介な呟きは聞かなかったことにして、セシリアは逃げるように店を後にした。
セシリアは、酒場の厨房で働く娘だ。
好きなこと――
人の喜ぶ顔を見ること。
焦げた鍋をピカピカに磨き上げた時の達成感。
得意なこと――
整理整頓と、少しの治癒魔法。
苦手なこと――
卵を片手で割ること。
ごくごく普通の娘である。
唯一、他人と違うことと言えば――
父親が、魔族を退けた勇者パーティの一員であったことくらいだ。
母は、朴念仁で一生独身に違いないと言われた治療師の心を癒した、唯一の女性だったという。
二人の馴れ初めを成人の日に話してくれるという約束は果たされぬまま、セシリアの母は熱病に冒され帰らぬ人となった。
胸元で揺れる首飾りが、本物の朝焼けにも負けじと輝く。その眩しさがやけに目に刺さって、涙が滲んでいることにセシリアは気付いた。
「いけない、いけない! 今日は良い日なんだから、涙なんて似合わないわ!」
ふっくらと柔らかな頬を、両手でぱんぱんと叩き、気合いを入れる。目覚め始めたばかりの町を、これから眠りにつくために、セシリアは帰路を辿った。
まさか、今日が――「普通の娘」でいられる最後の日になろうとは、夢にも思っていなかった。
「ふわぁ……。帰ったらゼノに今夜の予定を聞いて……、お風呂は一眠りしてからでいいわ」
昨夜から働き詰めの体は、心地よい疲労感と眠気で、ふわふわと宙に浮かんでいるようだった。
ぼんやり歩いていたせいで、前から来た少年と正面からぶつかってしまった。
「きゃっ! ごめんなさい!」
少年はぶつかった拍子に、尻餅をついてしまった。セシリアが慌てて助け起こそうとするも、反応が鈍い。
見れば、顔は真っ赤で、今日はいつもに比べたら肌寒い陽気なのに、髪が額に張り付くほどの汗をかいている。
「具合が悪いの!? あなた、どこの家の子? 名前は?」
少年はヘーゼルグリーンの瞳を潤ませて、渇いた唇をかすかに動かした。
「マ……オ……」
「マオくんね! お家はどこ? わかる?」
「……ごめん……眠く、て……」
マオはふっと意識を手放した。
胸にもたれかかる体温の高さが、セシリアの良心を急き立てる。
救護院よりは自宅のほうが近い。とりあえず休める場所に運ぼう、と抱えてはみるが……。
まだ成長途中の体つきの少年は、小柄に見えるが意外と重たい。とてもセシリア一人では運べそうになくて、困っていると――。
「お嬢様! 帰りが遅いので心配になって出てみたら……いったいどうしたんです?」
柳色の髪をした青年が駆け寄ってきた。朝食の準備中だったらしく、前掛けを付けたままだ。
「ゼノ。この子、熱があるみたいで倒れてしまったの。どこの子かも分からなくて、とりあえず家で休ませてあげたいのだけれど」
「わかりました。わたしが抱いていきましょう」
ゼノは言うより早く、脇に腕を差し入れて、少年を抱え上げた。困った時にはいつだって、難なく不安を取り除いてくれる彼に、セシリアは全幅の信頼を寄せている。
「本当に助かったわ。来てくれてありがとう。あなたも、よかったわね」
マオの額の汗を拭ってやると、すう……と軽やかな寝息が返ってきた。
・٭☾·̩͙⋆★·̩͙✧*・٭☾·̩͙⋆★·̩͙✧*・٭☾·̩͙⋆★·̩͙✧*・٭☾·̩͙⋆★·̩͙✧
マオを寝台に寝かせると、ゼノは途中になっていた朝食作りを再開した。その間にセシリアは着替えを済ませ、籠の中で干されるのを待っている洗濯物を、陽光の下へ連れ出した。
セシリアの父ダンテの生家であるこの家には現在、セシリアとゼノの二人で暮らしている。
ダンテが王都に単身で勤めるようになり、しばらくは母子で暮らしていた。リリス亡き後、セシリアの世話係兼用心棒としてやってきたのが、ゼノだ。
「お嬢様、朝食をどうぞ」
「ありがとう。今日は少し軽めにいただくわ。夜にアンナおばさんのところで、ご馳走になる予定なの。わたしの誕生日祝いよ。ゼノも来てくれるわよね?」
「今日は孤児院での奉仕活動が終われば、その後は空いておりますが……。ご一緒しても、よろしいので?」
雇われの身で――と、ゼノはへりくだるが、セシリアは彼を兄のように思って慕っている。
「もちろんよ。おばさんが誘ってくださっているのだから、ぜひ来て。ゼノにも一緒にお祝いしてもらえたら嬉しい」
セシリアの屈託のない笑みに、ゼノはどこかほっとしたような様子で、深みのある青い瞳を柔和に細めた。
朝食を終え、ゼノを送り出したら、セシリアの眠気もいよいよ限界を迎えた。
マオの手拭いを替えているうちに、うとうとし始める。しまいに、一緒になって眠ってしまった。
窓から射し込む陽射しに、朝焼け色の首飾りが命を灯すように輝いた。
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