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本編 第一部
74. 最悪の裁判官
しおりを挟むこの皮肉のかたまりみたいな法廷に、シオンが現れた。
僕はとっさに駆け寄りたくなって、椅子を立つ。
シオンは頭に包帯を巻き、粗末な麻の衣服を着て、手首に鉄かせをはめられている。アカシアがシオンの無事を教えてくれても、実際に目にするまで、僕は不安でしかたなかった。
アルフレッド王子には腹立たしいことかもしれないが、シオンを一目見れば、誰もが無実だと確信するに違いない。
粗末な服を着て罪人扱いされていても、背筋をまっすぐ伸ばして立つ姿は、誇りと威厳に満ちている。その青い目は、いましがた湧いたばかりの泉のように、清冽に輝いていた。
シンと静まり返る法廷で、シオンが僕を見た。彼が目だけで微笑み、僕の胸に安堵が広がる。
(大丈夫。何もされてない)
それに、僕がシオンを陥れる気はまったくないことも、ちゃんと分かってくれているようだ。
「ディル様」
「……はい」
タルボにうながされ、僕は椅子に座りなおす。
そこへ、礼装をまとった豚が――いや、太った男が広間に入ってきた。灰色の髪はヘアワックスでガチガチに固められ、トンカチで叩いたら金属みたいな音がしそうだ。垂れ下がった目は青く、鼻筋は通っているのに、歩き方は道化師じみている。
裁判官を名乗るのは、レイブン家の遠縁、ハント・ドナスだ。
「ドナスが裁判官だって、ふざけてやがる」
「計算だってままならないのに、あのすかすか頭に、法律が入ってるわけないだろ」
傍聴席に集まったレイブン領の領民達が、うめくように言った。
それだけでなんとなく分かるようなものだが、僕は振り返って問う。
「どんな人です?」
「朝日が出てる時に東に行けと言って、東はどっちだと聞くような奴です」
ちょっと驚いた顔をしたものの、領民の男が答えた。僕の顔が引きつったので、気持ちはよく分かると言いたげに、同情たっぷりに頷かれた。
「つまり、馬鹿ですか」
タルボがつぶやく。
「そうでなきゃ、誰が長の裁判を引き受けます? あいつは、ちょっと牛が迷子になっただけで、誰かが盗んだと大騒ぎしては、周りをうんざりさせてます」
「……最悪だ」
僕もうんざりした。周りがいっせいに頷く。誰もがそう感じているようだ。
「遅れてごめんなさい」
憔悴しきった顔で、マリアンがホールに入ってくると、誰もが同情して道を開ける。マリアンはシオンを見てよろめいた。
「奥方様!」
領民の女性がすぐさま駆け寄って、マリアンを支える。僕はマリアンに声をかけた。
「マリアン様、こちらへ」
「ディル様! ああ、こんなことになって申し訳ございません。お詫びのしようもございませんわ」
「いいえ、こちらがお詫びすべきです。シオンは悪くありませんから」
マリアンを隣に座らせると、僕の答えを聞いたマリアンは、それで何もかも察した様子だった。
「悪いことしか聞こえてこなくて。無実で良かった。レイブン家の男は愛情深い反面、とても嫉妬深いので、もしかしてと心配していたのです」
どうやらマリアンの不安は、彼女の経験談にもとづいていたようだ。
「実は僕を兄と慕うオメガが、王子と組んで暴走しているんです。僕は被害者にされてしまって、何を言っても聞いてもらえない」
「聞く耳をふさいでいるのですわ。まあ、ドナスが裁判官なんですの。最悪」
マリアンが顔をしかめる。
満場一致で最悪な裁判官の座を得たドナスはというと、優越感たっぷりに裁判官の席についた。
それから、アルフレッドとアカシアが来て、上座――本来なら領主の椅子に座る。立会人の席だ。
アルフレッドは手ぶりで裁判を始めるように示すと、ドナスが咳払いをする。
「静粛に!」
これ以上、どう静かにするっていうんだ。言ってみたかっただけだろう。僕はイライラとドナスを見つめる。
シオンの表情が、無になった。たぶん、彼も最悪だと思っているに違いない。
「これより、シオン・エル・レイブンの裁判を始める」
ドナスは書類に視線を落とす。
「えー、被告人は、婚約者候補にもかかわらず、オメガであるディル・エル・サフィールを……これはなんて読むんだ?」
補佐官が横でひそひそと教える。法廷に失笑が落ちた。
「強姦した罪に問われている」
ドナスの唯一良いところは、アルフレッドとアカシアもイラつかせていることだ。
「被告人、申し開きはあるか」
「あります。あなたがたが強姦と呼んでいることは、同意の上でのことです」
「つまり和姦だって?」
ドナスが余計なことを言って、自分のこぼした冗談に自分でうけてにやりとした。
最初からとても聞いていられない状況に、僕は顔を赤くする。怒りと恥ずかしさで。
「被害者ディル・エル・サフィール、あなたにも意見を聞きましょう」
「被害者は精神的な傷を受けているため、代理人である僕が意見します」
僕が立つ前に、アカシアが割って入った。
「いいえ、僕が答えます!」
僕はすぐさま反発するが、アカシアは証人を呼んだ。
「彼は精神を病んでいて、まともな意見ができない状態にあります。裁判官、証人であるマクレガー医師が来ていますので、彼にご確認ください」
「ええ、それでは立会人の意見を尊重し、証人は前へ」
僕を黙殺して、マクレガー医師が証人の台へ移動する。
「誰だよ、マクレガーって! どうして被害者が何も言えないんだよ」
僕はぼそぼそとタルボに文句を言う。思わず口調が荒くなるのも、しかたないと思う。
立派なあごひげを生やした老人がゆったりと前に出る。
タルボがつぶやく。
「どこかで見たことがありますね」
「王家の犬だわ。王宮医よ」
「ああ、王都新聞だ。写真がのっていたことがあります」
マリアンが皮肉をこめてささやき、タルボが頷く。
それは準備が良いことで!
「どこまで準備してここまでしたんでしょう?」
「そりゃあ、オメガをおとしいれるんですから、最大限をして攻撃してきたんでしょうね」
タルボはそう答えながら、さらさらとメモ帳に書きつける。
「何をしているんですか?」
「敵が誰かメモしているんですよ。後でうやむやにしようとしても、無駄です」
「僕はタルボのことも敵にしたくありませんよ」
「あなたの敵になど、絶対になりませんから安心してください。弟のように思っている方を、ここまではずかしめられて黙っているわけないでしょう?」
僕だって怒っている。僕の声は完全に無視されるし、強姦容疑で裁いているくせに、被害者のことを失礼な冗談の的にするドナスにも。
「私が頭を打って大人しくしている状況でなければ、まだできることがあったんですが。その辺は、レフ先生を信じましょう」
「そういえば、レフは?」
「弁護側の証人として、書類をまとめておられましたよ。そろそろいらっしゃるのでは? ここにいなくて良かったです。怒って暴れそうだ」
僕は笑おうとして、失敗した。
「おかしな冗談ですね」
「レフ先生は若い頃は怒りっぽかったんですよ。最近は落ち着いていますが、怒るとできること全てでやり返そうとします。失礼、まったく落ち着いてないですね。先ほどの裁判官の冗談は最悪です。彼は食中毒に注意しないと」
毒を盛る発言に、僕は目を丸くし、マリアンは鼻で笑う。
「わたくし、喜んで領民に助けを求めますわ」
後ろから、「お任せを」と声をそろえる領民達。ドナスの未来に幸運を。思わず僕は祈ってしまった。
「殺しはしませんよ。腹痛で三日寝込むくらいです」
「……それでしたら安心ですけど」
安心していいのか分からないなりに、僕は無難なことを返した。
傍聴席で成り行きを見ていると、僕を診察すらしていないマクレガー医師は、堂々と偽の証言をする。
僕が暴行を受けて傷つき、宿に引きこもっていた、と。
「安全のために監禁しておいて、よく言いますね」
ようやく理解した。この裁判は形だけのもので、王家からすれば、裁判を開いた事実だけが欲しいのだ、と。
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すみません。
アドリアン・イングリッシュシリーズの三巻を読むのに使っちゃったので、昨日はお休みしました。
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