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赤ちゃんの供養に行った数日後、また穂高から連絡があった。
最後にもう一度会いたいと言われた。
もう会いたくないと断ったけど、これが最後、一生のお願いだからと言われて渋々会うことにした。
もうこれで本当に穂高から離れられるのなら、一回程度の我慢ならする。
「やめておきなよ。何されるかわからないし」
霜田が不安そうな顔であたしを止めた。
「今日でもう終わらせてくるから。これからは絶対に会わない。これから二人で過ごすためにも今日は行かなくちゃ」
「だったら、僕も付き添うよ」
「だめ。穂高が霜田に何をするかわからないから。霜田に何かあったらあたし生きていけない。この間の感じからすると、さすがに乱暴はしないと思う。大丈夫だよ」
放課後、霜田を説得してあたしは一人で待ち合わせ場所に向かった。
待ち合わせ場所のいつもの公園では既に穂高がベンチに座って本を読んでいた。
声をかけると、外じゃ話しづらいから少しドライブをしようと言われ、大人しく従った。
「今日は何の用なの?」
あたしは感情のこもっていない声で尋ねた。
もう穂高には何の感情も抱いていない。
穂高にもそれが伝わるように淡々と接するよう努めた。
「お互いの隠し事を打ち明けた方が後腐れがないだろう?」
「隠し事?」
あたしは訝った。
この後に及んで話すことなんて何もないし、妊娠、流産の話をしたところで何も変わらない。
穂高の隠し事というのは気になるけど、興味を持たせて関係を続けることが穂高の策略かもしれないし、とにかくこちらの感情を見せないことが大事だ。
「奈緒にも心当たりがあるだろう?」
「全然。お互いの隠し事なんてもうどうでもいいじゃん」
気づくと、穂高は人通りの少ない倉庫の影に車を停めていた。
ここは前に殺人事件が起きたと霜田から教えてもらった場所、あたしが寺島万里子に殺されかけた場所だった。
あたしは急に怖くなり、穂高と二人で車に乗っているのが気味悪く慌てて車から降りた。
穂高もゆっくりと車から降りた。
ドアを閉める音があたしの恐怖心を逆撫でする。
「俺にはどうでも良くないんだよ。俺の隠し事を聞いた時の奈緒の顔を見たくて仕方がない」
穂高は嗜虐的な笑みを浮かべた。
穂高との距離を縮めるのは抵抗があったため、車越しに話した。
「まずは奈緒の話からだ。言う事があるだろう?」
「話す事なんてなにもない!」
あたしは恐怖を振り切るように叫んだ。
「誤魔化しても無駄だよ。奈緒、俺に大事な事を話してないよな?妊娠したんだろう?」
穂高の目には不気味な光が宿っていた。
あたしは穂高の言葉と視線に硬直した。
妊娠していたことは、霜田とパパにしか話していないから穂高が知っているはずがない。
どうして?
「そして、流産したんだよね。階段から落ちて」
穂高がにやついた顔で、言葉であたしをいたぶるように一言一言ゆっくりと話した。
「どうして、知っているの?」
震える唇でなんとか声を出す。
「気づかなかった?それ」
穂高はあたしが持っている鞄を指差した。
穂高からもらったテディベアが目に入った。
「GPS付きの盗聴器を仕掛けていたんだ、ずっと昔から。奈緒も馬鹿だね。今まで俺にとって奈緒が不都合に動いていた時に駆けつけていたのが不思議だと思わなかった?」
確かに穂高はあたしが霜田や寺島万里子と一緒にいる時、絶妙なタイミングで現れた。
偶然だと思っていたけど、寺島万里子に殺されそうになった時なんて、狙っていないとあんなタイミングで来られない。
だからといって監視されているなんて誰が思うだろうか。
あたしは自分の足元がバラバラと崩れていくような錯覚に陥った。
あたしはずっと穂高の監視下にいたってこと?
穂高と会ってテディベアをもらってから、数年間ずっと?
霜田のことも妊娠のことも、狸おじさんや蛇弁護士とのやりとりまで知っていたの?
穂高の次の言葉はあたしをさらに絶望の底に突き落とした。
「気づかなかったみたいだけど、奈緒を階段から突き落として流産させたの、俺だから」
穂高は鼻で笑った。
「本当はさ、流産させる薬を飲ませようとしたけど、上手くいかなかった。お前は案外用心深いね。クソガキを流すのにかなり手間取ったよ」
穂高が少しずつ近づいてくる。
あたしは距離を取ろうと後退りしたが、穂高はもっとあたしより少し早いスピードで近づいてくる。
「それにしても、霜田だっけ?あのガキも変わっているね。普通、自分の子じゃない子どもを妊娠した女なんて、汚らしいと思って当然なのに、奈緒とも別れず子どもも育てようとするなんて。しかも流産したあとも奈緒と一緒にいようとするなんて、頭おかしいんじゃないか?」
あたしは後ろに下がり続けた。
気づくと廃倉庫がそばにあり、とにかく穂高と距離を取りたくて壊れた扉から中に入った。
入ってから、失敗だったと気づいた。
建物の中じゃ逃げ場がない。
倉庫の中はひんやりと冷たく、あたしの恐怖心を肥大させた。
狭い室内で逃げる事は不可能だと思い、中に入ってきた穂高に向き直った。
他に何もできないし、だったらダメ元で立ち向かってやる。
「なんでそんなことをしたの?」
「そんなの、奈緒に母にならず一生独りでいてもらうためだよ。そのためにはお腹の子と霜田とかいうガキは邪魔だからね。排除しようとしたんだ。そうすれば奈緒は一人ぼっち。寂しさからまた俺との復縁を望むと思ったんだ。俺は余計なものを全て取り払った綺麗な奈緒を抱くことができる」
「なんでそこまであたしに執着するの?」
「勘違いするなよ。お前じゃないよ。俺は、お前のお母さんに執着しているんだ」
穂高はあたしを心底バカにしたような笑みを浮かべた。
ジーンズのポケットに手を入れて身体を目障りに揺らしている。
「そうそう、言っておかないとね。奈緒のお母さんを殺したのはね、俺だよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
ショックで声を出すことができなかった。
あたしからママと弟を奪った相手が目の前にいる?
そんなの急に受け入れられるわけがない。
きっとあたしを傷つけるために嘘を吐いているんだ!
「俺さ、昔は自分の母親が大好きだったんだよ。でも俺が十歳の時弟ができて、弟に母親を取られたんだよ。母親は弟にベッタリでさ、俺と遊んでいても、弟が泣くとそっちに行ってしまう。それが気に入らなかった。もどかしかった。そんな悔しい思いをしている俺の前に現れたのは、奈緒のお母さんだった。俺が公園で本を読んでいたら、目の前にハンカチが飛んできた。それがお前のお母さんのものだったんだ。お前のお母さんは、俺のところに来て、ハンカチを飛ばしてしまったことを謝った。それが初めての……いや、運命の出会いだったんだ。それから少し話をして、ご近所同士だということを知った。たまに道端で顔を合わせることもあって、その度にお前のお母さんは声をかけてくれた」
穂高は恍惚の表情でママとの思い出を語り始めた。
自分の世界に入り込んで、空想に耽っているようだった。
あたしの頭は鈍く痛みだした。
眩暈がして、身体の力が抜け、へたり込んでしまった。
足に力が入らない。
地面の冷たさが皮膚に伝わった。
「お前のお母さんはとても綺麗な人だった。俺にも優しく声を掛けてくれてね。笑顔がどことなく俺の母親に似ていた。自分の母親から蔑ろにされていた俺は、お前のお母さんに惚れてしまったんだよ。俺の母親なんてもうどうでもよかった。俺が弟の足の骨をわざと折った時も、なんで俺がそんな事をしたのかより弟の心配を真っ先にしたんだ。あとから俺の心配をしてももう遅いのに」
穂高はあたしを見つめた。
おそらくあたしを通してママの姿を見ているんだろう。
冷たいけどエネルギーを帯びた瞳に捉えられ、動けなかった。
「でも、しばらくしてお前のお母さんは、お前を妊って醜くなった。女から母になったんだよ。子どもが生まれたら、俺のことなんて忘れてお前を一番に大事にするはずだ。それが許せなかった。だから流産させようと事故のふりしてお前のお母さんを転倒させたんだ。つまづいたふりしてよろけてお前のお母さんを突き飛ばした。前に言っただろう?お前を殺そうとしたって。そういう事さ。でも失敗した。案外母胎って丈夫なんだな。お前は死ななかった。お前のお母さんは立ち上がって、俺に「怪我はない?」って言って心配して家まで送ってくれた。そして俺の母親に事情を話した。俺が怪我をしているかもしれないから目をかけてやってくれって。俺は母親にすごく怒られた。妊婦さんに迷惑をかけてはいけないって。でもお前のお母さんが俺を庇ってくれた。そんなお前のお母さんの優しさに触れ、俺はお前のお母さんをさらに深く愛してしまったんだ。お前のお母さんに、俺は狂わせられたんだ。その後は、しばらくお前のお母さんと会えない日々が続いた。お前の両親はいつの間にか引越していた。そういえば以前、家族が増えると今のアパートじゃ狭いと言っていたっけ。引っ越し先は分からなかった。離れ離れになってしまったんだ。愛していたのに俺の前から去ってしまった。そのもどかしさ、お前のお母さんへの恋心を書き綴って小説にしたら、文学賞を取ってしまってね。本になったんだ。タイトルは『少年の日の想い』。著者名は我孫子聡。言っていなかったけど、穂高は偽名で、俺の本名は我孫子聡、最年少で文学賞を取った小説家だよ」
そのタイトルを聞き、頭に雷が落ちたようにフラッシュバックが起こった。
全ての点が線でつながった。
そうだ、パパの書斎のゴミ箱に、誹謗中傷の手紙と一緒に捨てられていたのは、『少年の日の想い』、作者はアリゴでもアミドでもなく、アビコだ。
誰かが嫌がらせでパパに送ってきたのだろう。
妻を殺した少年が書いた小説を。
そっか、ママは少年に殺されたんだ。
だからパパは少年法を憎んでいたんだね。
本来未成年は罪を犯しても本名は報道されないけど、有名な少年小説家だっただけに、名前は周囲に瞬く間に広がったんだろう。
あたしとパパがバッシングを受けたのは、若い天才小説家を誑かして人生を壊した悪女の家族だからなんだね。
あたしのママが悪女ということにすれば、殺されても自業自得、事件は勧善懲悪の物語になる。
だけど現実は違う。
そんなフィクションのような美しい話ばかりではない。
ママは何もしていないのに一方的に殺されたのだ。
この穂高、いや、我孫子聡という男に!
「近所の人に聞き込んで、数年後、お前のお母さんをやっと見つけた時には、お前は生まれていた。もう自分の足で歩くことが出来るくらい大きくなっていた。許せなかった。笑顔でお前を見つめるお母さんの顔、俺の母親が弟を見つめる時の顔と同じだった。しかも、お腹は膨れていた。さらに新しい子どもができたんだと絶望した。もう、あの時のような俺に優しい彼女はいない。俺を狂わせた女は自分だけ別の所へ行って幸せになろうとしていやがった!醜い母親となった彼女をひどく憎んだ。憎しみが爆発して、俺はお前のお母さんを殺しに行った。殺しに行った時、お前は父親と一緒に外出してたみたいで、いなかった。よかったね。いたら、真っ先にお前を殺してたよ。家のインターホンを鳴らして、玄関から出てきたお前のお母さんは、俺の事を思い出して、再会を喜んでくれた。殺されるなんてつゆ知らずにな。家の中に案内されて、お茶を淹れてくれた。話している間、お腹の子が動くのか、ずっとお腹を撫でていて、それが俺の神経を逆撫でした。他愛もない話をした後、お茶のおかわりを頼んで、彼女が後ろを向いた隙に押し倒して首を絞めた。人って案外簡単に死ぬんだな。あの時のお前のお母さんの恐怖と苦しみに満ちた目、忘れられないな。まあ、罪悪感なんてなかったよ。悪いのはお前のお母さんなんだから」
「いや!やめて!聞きたくない!穂高、やめて!」
あたしは震えを抑えるように自分の両腕を抱いた。
お母さんを殺した時の話なんて受け止められるはずがない。
聞きたくないと言う一方で、真実を全て知りたい、知らなければいけないという考えも頭にあった。
「俺は聡だよ。まあ、奈緒が呼びやすい方でいいよ。やっぱり穂高って名前の響きはいいね。あの両親がつけた名前より耳触りがいい」
「なんで偽名なんて……」
「寺島万里子に勧められたんだ」
「寺島……あのフリージャーナリストの?」
「ああ、そうだよ。彼女がジャーナリストとして駆け出しの頃、取材を受けたのが俺だったんだ。随分熱心な人だったよ。中学生で殺人を犯した俺を取材するために、足繁く少年院の俺の元に通ってくれて。よくよく聞いたら、しだいに俺の事を好きになったらしいね。大人ってちょろいもんだよな。ちょっとお行儀よくして、「僕は悪いことをしました。反省しています」なんて言えば簡単に騙される。寺島だって、少年院の法務教官だって、俺を『間違いを犯してしまった憐れな少年』くらいにとらえていたんだろう。そして、寺島は可哀想な我孫子少年に哀れみ以上の感情を抱いてしまいましたとさ。ジャーナリズム精神で我孫子聡という少年を追いかけて、好きになった。だから、少年院を出てからも随分面倒を見てくれたよ。お返しに抱いてあげたりした。俺は好きでもなんでもなかったけど、寺島を味方につけといた方が都合が良かったんだ。その寺島が、過去を捨てるため我孫子聡ではなく偽名を使うように提案してくれたんだ。お陰で奈緒にはバレなかったみたいだね、俺の正体が」
穂高は鼻をふんと鳴らして笑った。自分の策略が上手くいって喜んでいるようだった。
「少年院を出て、数年かけてお前の家を見つけた。お前達家族がどうなったのか気になってね。ちなみに、探している間に、俺の方の家族は崩壊した。俺が殺人犯だからか、家族は大変だったみたいだな。両親は放心して廃人みたいになってたし、弟は、加害者の弟って事で差別されていたらしくて、学校でも馴染めなかったんだとさ。中学に上がってすぐ自殺したよ。恨み言が遺書に残ってたよ、長々とね。まあ、俺には関係ないけど。もう随分実家に帰ってないな。帰る気もないけど。そんな家族を放置して探し回って、そしてお前を見つけた。お母さんそっくりに成長した奈緒をね。そして俺はいい事を思いついたんだ。お母さんのかわりにお母さんそっくりのお前を抱けば、俺の気持ちは満たされるんじゃないかって。そしてそれは当たりだった」
あたしはもう我慢できずに耳を塞いだ。
穂高の口から発せられる言葉があたしの脳を殴り、もう耐えられなくなっていた。
穂高はあたしの腕を掴んで耳から離した。
意地でも自分の言葉を聞かせたいようで耳元で囁くように言った。
「お前を抱いていると、お前のお母さんを抱いているような気分になるんだ。夢に思っていたけど決してできなかった事が、ついに実現できた。でも」
穂高はあたしを突き飛ばした。
あたしは倒れてコンクリートの床に頭をぶつけた。
鈍い音が倉庫内に木霊した。
痛みに悶え頭を抱えているあたしを蔑むように見て、穂高は続けた。
「奈緒も子どもを妊った。醜き母親になるところだった。それが許せなくて、俺は流産させる事を決意した。最初は、流産する薬を奈緒に飲ませようとして、喫茶店で紅茶に溶かした。でも、お前は思ったより注意深かったね。まあ、俺も妊婦はカフェインを避けるということを失念していたのが悪かったけど、一口も飲もうとしなかったから、頭にきたよ。仕方がないから今度は階段から突き落とした。これは成功だったね、お前は無事に流産した。子どもの排除は完了した。あとは霜田とかいうガキだけだ」
穂高は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「妊娠、流産とくればお前達の夫婦ごっこの関係も終わると思ったんだけど、霜田ってガキ、案外しぶといね。それにしてもあのガキも馬鹿だよな。自分以外の子どもを妊娠した女と結婚しようとして、不注意で流産したバカ女を支えようだなんて、気持ち悪くて反吐が出る。本当は時間がかかってもいいからあのガキと奈緒が離れるように仕向けたかったんだけど、さすがにもう諦めた。お前らの愛は本物だな。ははっ。だったらもう奈緒を壊すしかないね。この先、お前はまた子どもを身籠る可能性があるだろう?あのマザコン坊っちゃんの子どもを。そんなこと絶対に許さない。そんな姿を見るくらいなら、また赤ん坊に奪われるくらいなら、生きていない方がいい。だから今、この手でお前を殺す。お母さんと同じようにな!」
穂高はあたしの反応を楽しむように顔を覗き込んだ。
殺される恐怖も感じたけど、沸々と強い怒りが湧いてきた。
家族を奪われた苦しみ、霜田との幸せを邪魔することへの苛立ち、負の感情があたしを満たして、それは言葉として破裂した。
「霜田を馬鹿にしないで!マザコン?マザコンはあんたじゃない!自分の母親が思い通りにならないからって、あたしのママに目をつけて、あたしのママも自分の思い通りにならないからって殺して!今度はママに似たあたしを殺すですって?冗談じゃない!」
あたしは今までの怒りを爆発させた。
身体が動かない分、口だけは動いた。
少しでも穂高に傷を与えたい。
今まであたしが、あたし達家族が被ってきた苦しみを少しでも分からせてやりたい。
穂高にもそれが分かったのか、あたしの言葉に苛立ったようだ。
「本当はあの霜田ってガキを殺してもいいんだけどね、奈緒を殺してあのガキに絶望を味わわせた方が面白いと思ったんだ。奈緒が悪いんだよ?何度言っても聞かないから。お前の好きな『カルメン』のドン・ホセや『オペラ座の怪人』のエリックだって愛ゆえに狂ったんだ。お前ならわかるだろう?俺の気持ちも」
穂高が挑発してくる。
気持ちが恐怖で折れそうになるのを奮い立たせて、あたしは言い返す。
「ドン・ホセもエリックも苦しみ抜いたのよ。苦しみ抜いたけど、エリックは立ち止まった。殺してしまったドン・ホセは悲しみに打ちひしがれた。殺して当たり前と思っているあなたと一緒にしないで!あなたの人生をオペラにしたって、共感して涙を流してくれる人はいないでしょうね!」
穂高のこめかみのあたりがピクリと動いた。
「奈緒は生意気だね。友達がいないから歪んだのかな?」
穂高はあたしを挑発する。
「誰のせいだと思っているの?ママと弟の人生奪って、パパとあたしの人生壊して、勝手なことばっかり言わないでよ!あなたさえいなければ、ママとパパと弟と四人で幸せに暮らしていたのに」
「耳障りなことばかり言いやがって。その喉、潰してやる」
あたしの言葉に怒ったのか、穂高はあたしを殴りつけた。
あたしは立ちあがって逃げようとしたけど、腰が抜けて立ち上がれずに押し倒されてしまった。
穂高があたしの首を両手で絞めた。
指が首に食い込む。
なんとか穂高の手を解こうと、穂高の腕を掴んで爪を立てて引っ掻いた。
だけど全然意味がなかった。
女では男の腕力に敵わない。
助けを求めようにも、人通りのない廃墟には誰もいない。
息ができない。
視界が霞む。
いやだ、死にたくない。
ママ……
気を失いそうになった瞬間、すぐ近くで鈍い音が鳴り、穂高の腕を通して衝撃が伝わってきた。
穂高の手が緩んで、あたしは慌てて息を吸い、涙を流しながら咽せた。
肺に酸素が行き渡り、身体が正常に戻ろうとしているのがわかった。
穂高を見ると、後ろを向いて何か喚いていた。
あたしは穂高から距離を取るように後ずさった。
もう一度鈍い音がなり、穂高が倒れた。
後ろにいたのは、金属バットを持った霜田だった。
「霜田……?」
あたしは振り絞るような声で言った。
立っている霜田と倒れた穂高を交互に見る。
頭から血を流し倒れている穂高は動かなかった。
「ごめん、追いかけてきちゃった。諏訪部のことが心配で。でも、来て良かった。諏訪部を失わずに済んだから」
霜田は地面に金属バットを放り投げた。コンクリートに叩きつけられたバットは高い音を鳴らし、その音は廃倉庫内に響いた。
「あーあ、お母さんの言いつけ、また破っちゃった。法は守ることって言われてたのに。殺人は法律違反じゃん」
霜田はあえていつも通りに振る舞おうとしていた。
声は震えていたが、気をしっかり持とうとするその気丈さが、あたしの感情を揺さぶった。
「ありがとう、助けてくれて。でも、あたしなんかのために、人生を棒に振る事ないじゃない。せっかく良い高校に入って、楽しい学園生活を送っていたのに」
「諏訪部が死ぬ事の方が耐えられないよ」
あたしは痙攣する足で立ち上がり、霜田を抱きしめた。
抱きしめるというよりもたれ掛かった。
「ねえ、霜田。二人でどこかへ逃げようよ。ずっとずっと遠くへ。二人で暮らそう。あたしたちのことなんか誰も知らない場所で、新しい人生を始めよう」
もうあたし達は十分苦しんだ。
苦しんだ分、幸せになっても良いはずだ。
誰にも邪魔されずに、愛し合える場所をあたしは求めていた。
霜田はしばらくじっとあたしを抱きしめていたが、上半身を少し離して、あたしの目を見つめて言った。
「だめだよ。悪い事をしたら謝りに行かないと。それがお母さんとの約束だから」
霜田の眼から涙が一粒溢れた。
その涙で、あたしはこの現実を全て受け入れた。
「そっか」
もう一度、霜田を強く抱きしめた。
お互いの呼吸、体温を魂に刻み込むように、抱きあった。
長いようで短い抱擁の後、あたし達は身体を離した。
「あたし、待ってるから。霜田のこと、大人になってもおばあちゃんになっても、何年だって待ってるから、絶対に戻って来てね」
霜田は頷いて、震える手で携帯電話をポケットから取り出した。
「そうだ」
霜田は携帯電話を操作する手を止めて、あたしを見つめて言った。
「僕がいない間、アルジャーノンのお墓に花束をそなえてあげてください」
カタコトな口調でそういって霜田は微笑んだ。
こんな時にそんな軽口を叩かなくてもいいじゃない。
いや、こんな時だからこそあえて明るく振る舞うんだ。
それが霜田の強さと優しさだ。
あたしも答えるように笑った。
涙が溢れた。
大粒の涙が次々と流れ落ちたが、拭うことはしなかった。
頬を伝い、顎から滴る雫をそのままにした。
雫はコンクリートの上に落ちて震えた丸い染みをつくった。
この涙は悲しみじゃない、霜田への感謝の気持ちだ。
あたしの手を引いて、澱んだ世界から陽のあたる暖かいところへ連れ出してくれて、穂高という闇からあたしを救ってくれた霜田への愛が、涙として溢れているんだ。
新しい世界を霜田と共に生きるため、スタートラインにようやく立てたんだよ。
そう言い聞かせて、霜田の輝いていた生活を壊してしまった事への罪の意識と、霜田との別れへの悲しみで自分が覆い尽くされないよう堪えた。
少しでも油断すると絶望に包まれてしまう。
あたしは、同じように涙を流しながら、警察に電話をかけようとしている霜田の美しい横顔を眺めていた。
最後にもう一度会いたいと言われた。
もう会いたくないと断ったけど、これが最後、一生のお願いだからと言われて渋々会うことにした。
もうこれで本当に穂高から離れられるのなら、一回程度の我慢ならする。
「やめておきなよ。何されるかわからないし」
霜田が不安そうな顔であたしを止めた。
「今日でもう終わらせてくるから。これからは絶対に会わない。これから二人で過ごすためにも今日は行かなくちゃ」
「だったら、僕も付き添うよ」
「だめ。穂高が霜田に何をするかわからないから。霜田に何かあったらあたし生きていけない。この間の感じからすると、さすがに乱暴はしないと思う。大丈夫だよ」
放課後、霜田を説得してあたしは一人で待ち合わせ場所に向かった。
待ち合わせ場所のいつもの公園では既に穂高がベンチに座って本を読んでいた。
声をかけると、外じゃ話しづらいから少しドライブをしようと言われ、大人しく従った。
「今日は何の用なの?」
あたしは感情のこもっていない声で尋ねた。
もう穂高には何の感情も抱いていない。
穂高にもそれが伝わるように淡々と接するよう努めた。
「お互いの隠し事を打ち明けた方が後腐れがないだろう?」
「隠し事?」
あたしは訝った。
この後に及んで話すことなんて何もないし、妊娠、流産の話をしたところで何も変わらない。
穂高の隠し事というのは気になるけど、興味を持たせて関係を続けることが穂高の策略かもしれないし、とにかくこちらの感情を見せないことが大事だ。
「奈緒にも心当たりがあるだろう?」
「全然。お互いの隠し事なんてもうどうでもいいじゃん」
気づくと、穂高は人通りの少ない倉庫の影に車を停めていた。
ここは前に殺人事件が起きたと霜田から教えてもらった場所、あたしが寺島万里子に殺されかけた場所だった。
あたしは急に怖くなり、穂高と二人で車に乗っているのが気味悪く慌てて車から降りた。
穂高もゆっくりと車から降りた。
ドアを閉める音があたしの恐怖心を逆撫でする。
「俺にはどうでも良くないんだよ。俺の隠し事を聞いた時の奈緒の顔を見たくて仕方がない」
穂高は嗜虐的な笑みを浮かべた。
穂高との距離を縮めるのは抵抗があったため、車越しに話した。
「まずは奈緒の話からだ。言う事があるだろう?」
「話す事なんてなにもない!」
あたしは恐怖を振り切るように叫んだ。
「誤魔化しても無駄だよ。奈緒、俺に大事な事を話してないよな?妊娠したんだろう?」
穂高の目には不気味な光が宿っていた。
あたしは穂高の言葉と視線に硬直した。
妊娠していたことは、霜田とパパにしか話していないから穂高が知っているはずがない。
どうして?
「そして、流産したんだよね。階段から落ちて」
穂高がにやついた顔で、言葉であたしをいたぶるように一言一言ゆっくりと話した。
「どうして、知っているの?」
震える唇でなんとか声を出す。
「気づかなかった?それ」
穂高はあたしが持っている鞄を指差した。
穂高からもらったテディベアが目に入った。
「GPS付きの盗聴器を仕掛けていたんだ、ずっと昔から。奈緒も馬鹿だね。今まで俺にとって奈緒が不都合に動いていた時に駆けつけていたのが不思議だと思わなかった?」
確かに穂高はあたしが霜田や寺島万里子と一緒にいる時、絶妙なタイミングで現れた。
偶然だと思っていたけど、寺島万里子に殺されそうになった時なんて、狙っていないとあんなタイミングで来られない。
だからといって監視されているなんて誰が思うだろうか。
あたしは自分の足元がバラバラと崩れていくような錯覚に陥った。
あたしはずっと穂高の監視下にいたってこと?
穂高と会ってテディベアをもらってから、数年間ずっと?
霜田のことも妊娠のことも、狸おじさんや蛇弁護士とのやりとりまで知っていたの?
穂高の次の言葉はあたしをさらに絶望の底に突き落とした。
「気づかなかったみたいだけど、奈緒を階段から突き落として流産させたの、俺だから」
穂高は鼻で笑った。
「本当はさ、流産させる薬を飲ませようとしたけど、上手くいかなかった。お前は案外用心深いね。クソガキを流すのにかなり手間取ったよ」
穂高が少しずつ近づいてくる。
あたしは距離を取ろうと後退りしたが、穂高はもっとあたしより少し早いスピードで近づいてくる。
「それにしても、霜田だっけ?あのガキも変わっているね。普通、自分の子じゃない子どもを妊娠した女なんて、汚らしいと思って当然なのに、奈緒とも別れず子どもも育てようとするなんて。しかも流産したあとも奈緒と一緒にいようとするなんて、頭おかしいんじゃないか?」
あたしは後ろに下がり続けた。
気づくと廃倉庫がそばにあり、とにかく穂高と距離を取りたくて壊れた扉から中に入った。
入ってから、失敗だったと気づいた。
建物の中じゃ逃げ場がない。
倉庫の中はひんやりと冷たく、あたしの恐怖心を肥大させた。
狭い室内で逃げる事は不可能だと思い、中に入ってきた穂高に向き直った。
他に何もできないし、だったらダメ元で立ち向かってやる。
「なんでそんなことをしたの?」
「そんなの、奈緒に母にならず一生独りでいてもらうためだよ。そのためにはお腹の子と霜田とかいうガキは邪魔だからね。排除しようとしたんだ。そうすれば奈緒は一人ぼっち。寂しさからまた俺との復縁を望むと思ったんだ。俺は余計なものを全て取り払った綺麗な奈緒を抱くことができる」
「なんでそこまであたしに執着するの?」
「勘違いするなよ。お前じゃないよ。俺は、お前のお母さんに執着しているんだ」
穂高はあたしを心底バカにしたような笑みを浮かべた。
ジーンズのポケットに手を入れて身体を目障りに揺らしている。
「そうそう、言っておかないとね。奈緒のお母さんを殺したのはね、俺だよ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃を受けた。
ショックで声を出すことができなかった。
あたしからママと弟を奪った相手が目の前にいる?
そんなの急に受け入れられるわけがない。
きっとあたしを傷つけるために嘘を吐いているんだ!
「俺さ、昔は自分の母親が大好きだったんだよ。でも俺が十歳の時弟ができて、弟に母親を取られたんだよ。母親は弟にベッタリでさ、俺と遊んでいても、弟が泣くとそっちに行ってしまう。それが気に入らなかった。もどかしかった。そんな悔しい思いをしている俺の前に現れたのは、奈緒のお母さんだった。俺が公園で本を読んでいたら、目の前にハンカチが飛んできた。それがお前のお母さんのものだったんだ。お前のお母さんは、俺のところに来て、ハンカチを飛ばしてしまったことを謝った。それが初めての……いや、運命の出会いだったんだ。それから少し話をして、ご近所同士だということを知った。たまに道端で顔を合わせることもあって、その度にお前のお母さんは声をかけてくれた」
穂高は恍惚の表情でママとの思い出を語り始めた。
自分の世界に入り込んで、空想に耽っているようだった。
あたしの頭は鈍く痛みだした。
眩暈がして、身体の力が抜け、へたり込んでしまった。
足に力が入らない。
地面の冷たさが皮膚に伝わった。
「お前のお母さんはとても綺麗な人だった。俺にも優しく声を掛けてくれてね。笑顔がどことなく俺の母親に似ていた。自分の母親から蔑ろにされていた俺は、お前のお母さんに惚れてしまったんだよ。俺の母親なんてもうどうでもよかった。俺が弟の足の骨をわざと折った時も、なんで俺がそんな事をしたのかより弟の心配を真っ先にしたんだ。あとから俺の心配をしてももう遅いのに」
穂高はあたしを見つめた。
おそらくあたしを通してママの姿を見ているんだろう。
冷たいけどエネルギーを帯びた瞳に捉えられ、動けなかった。
「でも、しばらくしてお前のお母さんは、お前を妊って醜くなった。女から母になったんだよ。子どもが生まれたら、俺のことなんて忘れてお前を一番に大事にするはずだ。それが許せなかった。だから流産させようと事故のふりしてお前のお母さんを転倒させたんだ。つまづいたふりしてよろけてお前のお母さんを突き飛ばした。前に言っただろう?お前を殺そうとしたって。そういう事さ。でも失敗した。案外母胎って丈夫なんだな。お前は死ななかった。お前のお母さんは立ち上がって、俺に「怪我はない?」って言って心配して家まで送ってくれた。そして俺の母親に事情を話した。俺が怪我をしているかもしれないから目をかけてやってくれって。俺は母親にすごく怒られた。妊婦さんに迷惑をかけてはいけないって。でもお前のお母さんが俺を庇ってくれた。そんなお前のお母さんの優しさに触れ、俺はお前のお母さんをさらに深く愛してしまったんだ。お前のお母さんに、俺は狂わせられたんだ。その後は、しばらくお前のお母さんと会えない日々が続いた。お前の両親はいつの間にか引越していた。そういえば以前、家族が増えると今のアパートじゃ狭いと言っていたっけ。引っ越し先は分からなかった。離れ離れになってしまったんだ。愛していたのに俺の前から去ってしまった。そのもどかしさ、お前のお母さんへの恋心を書き綴って小説にしたら、文学賞を取ってしまってね。本になったんだ。タイトルは『少年の日の想い』。著者名は我孫子聡。言っていなかったけど、穂高は偽名で、俺の本名は我孫子聡、最年少で文学賞を取った小説家だよ」
そのタイトルを聞き、頭に雷が落ちたようにフラッシュバックが起こった。
全ての点が線でつながった。
そうだ、パパの書斎のゴミ箱に、誹謗中傷の手紙と一緒に捨てられていたのは、『少年の日の想い』、作者はアリゴでもアミドでもなく、アビコだ。
誰かが嫌がらせでパパに送ってきたのだろう。
妻を殺した少年が書いた小説を。
そっか、ママは少年に殺されたんだ。
だからパパは少年法を憎んでいたんだね。
本来未成年は罪を犯しても本名は報道されないけど、有名な少年小説家だっただけに、名前は周囲に瞬く間に広がったんだろう。
あたしとパパがバッシングを受けたのは、若い天才小説家を誑かして人生を壊した悪女の家族だからなんだね。
あたしのママが悪女ということにすれば、殺されても自業自得、事件は勧善懲悪の物語になる。
だけど現実は違う。
そんなフィクションのような美しい話ばかりではない。
ママは何もしていないのに一方的に殺されたのだ。
この穂高、いや、我孫子聡という男に!
「近所の人に聞き込んで、数年後、お前のお母さんをやっと見つけた時には、お前は生まれていた。もう自分の足で歩くことが出来るくらい大きくなっていた。許せなかった。笑顔でお前を見つめるお母さんの顔、俺の母親が弟を見つめる時の顔と同じだった。しかも、お腹は膨れていた。さらに新しい子どもができたんだと絶望した。もう、あの時のような俺に優しい彼女はいない。俺を狂わせた女は自分だけ別の所へ行って幸せになろうとしていやがった!醜い母親となった彼女をひどく憎んだ。憎しみが爆発して、俺はお前のお母さんを殺しに行った。殺しに行った時、お前は父親と一緒に外出してたみたいで、いなかった。よかったね。いたら、真っ先にお前を殺してたよ。家のインターホンを鳴らして、玄関から出てきたお前のお母さんは、俺の事を思い出して、再会を喜んでくれた。殺されるなんてつゆ知らずにな。家の中に案内されて、お茶を淹れてくれた。話している間、お腹の子が動くのか、ずっとお腹を撫でていて、それが俺の神経を逆撫でした。他愛もない話をした後、お茶のおかわりを頼んで、彼女が後ろを向いた隙に押し倒して首を絞めた。人って案外簡単に死ぬんだな。あの時のお前のお母さんの恐怖と苦しみに満ちた目、忘れられないな。まあ、罪悪感なんてなかったよ。悪いのはお前のお母さんなんだから」
「いや!やめて!聞きたくない!穂高、やめて!」
あたしは震えを抑えるように自分の両腕を抱いた。
お母さんを殺した時の話なんて受け止められるはずがない。
聞きたくないと言う一方で、真実を全て知りたい、知らなければいけないという考えも頭にあった。
「俺は聡だよ。まあ、奈緒が呼びやすい方でいいよ。やっぱり穂高って名前の響きはいいね。あの両親がつけた名前より耳触りがいい」
「なんで偽名なんて……」
「寺島万里子に勧められたんだ」
「寺島……あのフリージャーナリストの?」
「ああ、そうだよ。彼女がジャーナリストとして駆け出しの頃、取材を受けたのが俺だったんだ。随分熱心な人だったよ。中学生で殺人を犯した俺を取材するために、足繁く少年院の俺の元に通ってくれて。よくよく聞いたら、しだいに俺の事を好きになったらしいね。大人ってちょろいもんだよな。ちょっとお行儀よくして、「僕は悪いことをしました。反省しています」なんて言えば簡単に騙される。寺島だって、少年院の法務教官だって、俺を『間違いを犯してしまった憐れな少年』くらいにとらえていたんだろう。そして、寺島は可哀想な我孫子少年に哀れみ以上の感情を抱いてしまいましたとさ。ジャーナリズム精神で我孫子聡という少年を追いかけて、好きになった。だから、少年院を出てからも随分面倒を見てくれたよ。お返しに抱いてあげたりした。俺は好きでもなんでもなかったけど、寺島を味方につけといた方が都合が良かったんだ。その寺島が、過去を捨てるため我孫子聡ではなく偽名を使うように提案してくれたんだ。お陰で奈緒にはバレなかったみたいだね、俺の正体が」
穂高は鼻をふんと鳴らして笑った。自分の策略が上手くいって喜んでいるようだった。
「少年院を出て、数年かけてお前の家を見つけた。お前達家族がどうなったのか気になってね。ちなみに、探している間に、俺の方の家族は崩壊した。俺が殺人犯だからか、家族は大変だったみたいだな。両親は放心して廃人みたいになってたし、弟は、加害者の弟って事で差別されていたらしくて、学校でも馴染めなかったんだとさ。中学に上がってすぐ自殺したよ。恨み言が遺書に残ってたよ、長々とね。まあ、俺には関係ないけど。もう随分実家に帰ってないな。帰る気もないけど。そんな家族を放置して探し回って、そしてお前を見つけた。お母さんそっくりに成長した奈緒をね。そして俺はいい事を思いついたんだ。お母さんのかわりにお母さんそっくりのお前を抱けば、俺の気持ちは満たされるんじゃないかって。そしてそれは当たりだった」
あたしはもう我慢できずに耳を塞いだ。
穂高の口から発せられる言葉があたしの脳を殴り、もう耐えられなくなっていた。
穂高はあたしの腕を掴んで耳から離した。
意地でも自分の言葉を聞かせたいようで耳元で囁くように言った。
「お前を抱いていると、お前のお母さんを抱いているような気分になるんだ。夢に思っていたけど決してできなかった事が、ついに実現できた。でも」
穂高はあたしを突き飛ばした。
あたしは倒れてコンクリートの床に頭をぶつけた。
鈍い音が倉庫内に木霊した。
痛みに悶え頭を抱えているあたしを蔑むように見て、穂高は続けた。
「奈緒も子どもを妊った。醜き母親になるところだった。それが許せなくて、俺は流産させる事を決意した。最初は、流産する薬を奈緒に飲ませようとして、喫茶店で紅茶に溶かした。でも、お前は思ったより注意深かったね。まあ、俺も妊婦はカフェインを避けるということを失念していたのが悪かったけど、一口も飲もうとしなかったから、頭にきたよ。仕方がないから今度は階段から突き落とした。これは成功だったね、お前は無事に流産した。子どもの排除は完了した。あとは霜田とかいうガキだけだ」
穂高は苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
「妊娠、流産とくればお前達の夫婦ごっこの関係も終わると思ったんだけど、霜田ってガキ、案外しぶといね。それにしてもあのガキも馬鹿だよな。自分以外の子どもを妊娠した女と結婚しようとして、不注意で流産したバカ女を支えようだなんて、気持ち悪くて反吐が出る。本当は時間がかかってもいいからあのガキと奈緒が離れるように仕向けたかったんだけど、さすがにもう諦めた。お前らの愛は本物だな。ははっ。だったらもう奈緒を壊すしかないね。この先、お前はまた子どもを身籠る可能性があるだろう?あのマザコン坊っちゃんの子どもを。そんなこと絶対に許さない。そんな姿を見るくらいなら、また赤ん坊に奪われるくらいなら、生きていない方がいい。だから今、この手でお前を殺す。お母さんと同じようにな!」
穂高はあたしの反応を楽しむように顔を覗き込んだ。
殺される恐怖も感じたけど、沸々と強い怒りが湧いてきた。
家族を奪われた苦しみ、霜田との幸せを邪魔することへの苛立ち、負の感情があたしを満たして、それは言葉として破裂した。
「霜田を馬鹿にしないで!マザコン?マザコンはあんたじゃない!自分の母親が思い通りにならないからって、あたしのママに目をつけて、あたしのママも自分の思い通りにならないからって殺して!今度はママに似たあたしを殺すですって?冗談じゃない!」
あたしは今までの怒りを爆発させた。
身体が動かない分、口だけは動いた。
少しでも穂高に傷を与えたい。
今まであたしが、あたし達家族が被ってきた苦しみを少しでも分からせてやりたい。
穂高にもそれが分かったのか、あたしの言葉に苛立ったようだ。
「本当はあの霜田ってガキを殺してもいいんだけどね、奈緒を殺してあのガキに絶望を味わわせた方が面白いと思ったんだ。奈緒が悪いんだよ?何度言っても聞かないから。お前の好きな『カルメン』のドン・ホセや『オペラ座の怪人』のエリックだって愛ゆえに狂ったんだ。お前ならわかるだろう?俺の気持ちも」
穂高が挑発してくる。
気持ちが恐怖で折れそうになるのを奮い立たせて、あたしは言い返す。
「ドン・ホセもエリックも苦しみ抜いたのよ。苦しみ抜いたけど、エリックは立ち止まった。殺してしまったドン・ホセは悲しみに打ちひしがれた。殺して当たり前と思っているあなたと一緒にしないで!あなたの人生をオペラにしたって、共感して涙を流してくれる人はいないでしょうね!」
穂高のこめかみのあたりがピクリと動いた。
「奈緒は生意気だね。友達がいないから歪んだのかな?」
穂高はあたしを挑発する。
「誰のせいだと思っているの?ママと弟の人生奪って、パパとあたしの人生壊して、勝手なことばっかり言わないでよ!あなたさえいなければ、ママとパパと弟と四人で幸せに暮らしていたのに」
「耳障りなことばかり言いやがって。その喉、潰してやる」
あたしの言葉に怒ったのか、穂高はあたしを殴りつけた。
あたしは立ちあがって逃げようとしたけど、腰が抜けて立ち上がれずに押し倒されてしまった。
穂高があたしの首を両手で絞めた。
指が首に食い込む。
なんとか穂高の手を解こうと、穂高の腕を掴んで爪を立てて引っ掻いた。
だけど全然意味がなかった。
女では男の腕力に敵わない。
助けを求めようにも、人通りのない廃墟には誰もいない。
息ができない。
視界が霞む。
いやだ、死にたくない。
ママ……
気を失いそうになった瞬間、すぐ近くで鈍い音が鳴り、穂高の腕を通して衝撃が伝わってきた。
穂高の手が緩んで、あたしは慌てて息を吸い、涙を流しながら咽せた。
肺に酸素が行き渡り、身体が正常に戻ろうとしているのがわかった。
穂高を見ると、後ろを向いて何か喚いていた。
あたしは穂高から距離を取るように後ずさった。
もう一度鈍い音がなり、穂高が倒れた。
後ろにいたのは、金属バットを持った霜田だった。
「霜田……?」
あたしは振り絞るような声で言った。
立っている霜田と倒れた穂高を交互に見る。
頭から血を流し倒れている穂高は動かなかった。
「ごめん、追いかけてきちゃった。諏訪部のことが心配で。でも、来て良かった。諏訪部を失わずに済んだから」
霜田は地面に金属バットを放り投げた。コンクリートに叩きつけられたバットは高い音を鳴らし、その音は廃倉庫内に響いた。
「あーあ、お母さんの言いつけ、また破っちゃった。法は守ることって言われてたのに。殺人は法律違反じゃん」
霜田はあえていつも通りに振る舞おうとしていた。
声は震えていたが、気をしっかり持とうとするその気丈さが、あたしの感情を揺さぶった。
「ありがとう、助けてくれて。でも、あたしなんかのために、人生を棒に振る事ないじゃない。せっかく良い高校に入って、楽しい学園生活を送っていたのに」
「諏訪部が死ぬ事の方が耐えられないよ」
あたしは痙攣する足で立ち上がり、霜田を抱きしめた。
抱きしめるというよりもたれ掛かった。
「ねえ、霜田。二人でどこかへ逃げようよ。ずっとずっと遠くへ。二人で暮らそう。あたしたちのことなんか誰も知らない場所で、新しい人生を始めよう」
もうあたし達は十分苦しんだ。
苦しんだ分、幸せになっても良いはずだ。
誰にも邪魔されずに、愛し合える場所をあたしは求めていた。
霜田はしばらくじっとあたしを抱きしめていたが、上半身を少し離して、あたしの目を見つめて言った。
「だめだよ。悪い事をしたら謝りに行かないと。それがお母さんとの約束だから」
霜田の眼から涙が一粒溢れた。
その涙で、あたしはこの現実を全て受け入れた。
「そっか」
もう一度、霜田を強く抱きしめた。
お互いの呼吸、体温を魂に刻み込むように、抱きあった。
長いようで短い抱擁の後、あたし達は身体を離した。
「あたし、待ってるから。霜田のこと、大人になってもおばあちゃんになっても、何年だって待ってるから、絶対に戻って来てね」
霜田は頷いて、震える手で携帯電話をポケットから取り出した。
「そうだ」
霜田は携帯電話を操作する手を止めて、あたしを見つめて言った。
「僕がいない間、アルジャーノンのお墓に花束をそなえてあげてください」
カタコトな口調でそういって霜田は微笑んだ。
こんな時にそんな軽口を叩かなくてもいいじゃない。
いや、こんな時だからこそあえて明るく振る舞うんだ。
それが霜田の強さと優しさだ。
あたしも答えるように笑った。
涙が溢れた。
大粒の涙が次々と流れ落ちたが、拭うことはしなかった。
頬を伝い、顎から滴る雫をそのままにした。
雫はコンクリートの上に落ちて震えた丸い染みをつくった。
この涙は悲しみじゃない、霜田への感謝の気持ちだ。
あたしの手を引いて、澱んだ世界から陽のあたる暖かいところへ連れ出してくれて、穂高という闇からあたしを救ってくれた霜田への愛が、涙として溢れているんだ。
新しい世界を霜田と共に生きるため、スタートラインにようやく立てたんだよ。
そう言い聞かせて、霜田の輝いていた生活を壊してしまった事への罪の意識と、霜田との別れへの悲しみで自分が覆い尽くされないよう堪えた。
少しでも油断すると絶望に包まれてしまう。
あたしは、同じように涙を流しながら、警察に電話をかけようとしている霜田の美しい横顔を眺めていた。
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