かの騎士、王子殿下専属につき

久保 ちはろ

文字の大きさ
2 / 29

第一章 2

しおりを挟む
「この件は本部に報告し、この辺りの巡回も強化しよう」
 再び馬の背に股がったアストリットは馬の首を城と反対の森の方へ向けた。少し馬を走らせたい気分だった。
 巡回は、既にガースローが終えているはずだ。少しくらい遠回りをして帰っても構わないだろう。
 王子殿下の、本来ならその身分であまり感心されない数々の所業は――お忍びで街を遊び歩くのもその一つだが――あまりにも有名だった。それには警護の騎士たちも城の側近も頭を悩ませていたが、それを見逃すようなところがあったのは、今日のような騒ぎがこれまでに一度もなかったからだ。
 騒ぎを起こしたのは自分で無いにも関わらず、彼女は酒場での話を報告することを思うと、自然とその滑らかな眉間の間に皺を寄せずにいられなかった。
 そしてさらに困ったことには、今朝の姉の詮索から続き、酒場の主人から聞かされたその名がアストリットの頭に渦巻いていた。職務でその名を聞くのとは明らかに違って胸を騒がす。その感情は、蓋をして心の奥に閉じ込めていたはずなのに無理矢理こじ開けられた感があった。
――ミカ・フォン・オールソン。
 この名を頭から振り払わない限り、今日は仕事に集中出来る自信が彼女には無かった。
――姉上が、『心に秘めた殿方』などと言うから……
 この寄り道で滞る職務があればそれは全て姉のせいだと、アストリットは自分に言い訳をした。
 初夏の強い日差しが遮られた薄暗い森に入ると、木々のみずみずしい匂いを肺一杯に吸い込み、ほっと息をついた。それからアストリットは馬の腹に踵を入れ、森の奥に向かって馬車道を走らせた。幼い頃の記憶が蘇える。
 第一王子との初対面はアストリットが七歳、ちょうど騎士団に入団したての頃だった。
 まだ体に馴染まない軍服を着た幼いアストリットは、当時騎士団副指揮長だった父の供として王室の催す園遊会の護衛に付いていた。
 供と言ってもまだ大したことが出来るわけではない。城内の厩舎で騎士たちの馬番をしているだけのお役目であった。
 ちょうど父の愛馬スフィアがイライラと地面を搔き出したのに気が付き、彼女がその手綱を持ったときだった。
「それ、おまえの馬か」
 肩越しに振り向けば、そこには紫紺の丈の長い上着と、白いズボンを履いた少年が立っていた。ブーツは今日足を入れたばかりのように濡れたような艶を放っている。透き通るような白い肌にブロンズ色の髪、目は雨上がりの空のような爽やかな青だ。薄い唇は子供らしく鮮やかな赤だった。一目見て上流階級の子供なのは瞭然だ。
「それ、おまえの馬か」
 突然の訪問者を観察するのに気を取られ、返事をしないアストリットに少年は歳に似合わぬ苛立を露骨に見せた。
「あ、父の馬です。スフィアといいます」
 体を少年に向け失礼の無いように努めながら答えを返した。
「おれに乗させろよ」
「そ……それは……」
 突然の要求に、対応に困ったアストリットは手綱を持つ手に力を入れた。スフィアは馬の中でも特別賢い父自慢の芦毛である。賢すぎるので乗り手を選び、乗り手が初心者や慣れていない者とわかると、馬鹿にする素振りさえ見せる。たぶん、暴れはしないだろうがやはりこの”お坊ちゃま”をスフィアの背に乗せるのはあまりよい判断でないことは、幼いアストリットにもわかった。
「この馬は、だめです。乗り手を選びますから」
 予想していなかった拒否の言葉に少年はややたじろいだようだったが、すぐに高慢さを取り戻し、小さな騎士に食って掛かった。
「おまえ、おれが馬に乗れないとでも思ってるのか。おれはもう十二だぞ。馬術は七歳から始めてるんだ。おれに乗れない馬など無い! 手綱をよこせ!」
 詰め寄る相手に、アストリットは一歩退いた。自分よりも頭一つほど背の高い少年はそんな彼女をせせら笑うように見下ろした。
「おまえ、大体女のくせになんで騎士団の制服着てるんだ? そうか、おまえの父親が騎士団にいるんだな? うん、わかった。おまえがおれにその手綱をよこさなければ、おまえの父親を騎士団から追い出してもいいんだぜ?」
「そ、そんなことが!」
 副指揮長の父をこの十二歳の少年の一言で辞めさせることなど出来るのだろうか。子供の考える嘘にしてもあまりにも度を超している。
「あっ……」
 一瞬のわずかな隙をついて、少年は彼女の手から素早く手綱を奪い、馬の鞍に飛び乗ってしまった。
「よく見てろよ」
 強い日差しを背に、逆光に黒い影となった少年を彼女は見上げた。少年は勢いよく馬の腹を蹴る。スフィアは驚いたように前足をあげたが、すぐに大人しく歩みを進めた。堂々と華麗に。
 威勢良く走らせるつもりでいた少年に取ってそれは大人し過ぎたのかもしれない。何度も腹を蹴るが、スフィアは歩みの速度を上げようとはしなかった。そして、次に二人が予想もしなかったことが起こった。
 やはりこの乗り手は自分の背に股がる者ではないと判断したのだろう。スフィアは突然、地面に四つ足を折って座り込んでしまったのだ。
 こんな光景を目にしたのはアストリットも初めてだったし、きっと少年にも同じだったに違いない。彼は馬の背に股がったままどうしていいか当惑しているのは十分その背から読み取れた。
 一瞬呆然としたアストリットだったが、はっと気がつくと少年に慌てて駆け寄り、その上着を掴み、必死に馬から下ろそうとした。そのときは少年がどんな身分かもすっかり忘れていた。
「何をしている! 早く下りるんだ! 馬が体を横たえたらどうする! 下敷きになるぞ!」
 少年は呆気にとられてアストリットを見たまま動かない。どうやら彼のあまり素直でない性格がアストリットの言葉に従うのを躊躇っているようだった。
 しかし、そんなことに構っていられない。本当に下敷きになったら子供の足の骨は折れてしまうかもしれないのだ。アストリットは力の限り少年を馬から引きずり下ろした。その拍子に少年は地面に叩き付けられるように転がり落ちた。その時、中庭に雷のような声が響いた。
「何をしている!!」
 声の方に顔を向けると、父親が駆けつけてくるところだった。
「申し訳ございません、お怪我はございませんか」
 ガレスは急いで少年を助け起こすと、上着の土埃を丁寧に払い落した。そして横に立つ娘に向き直るといきなり手を振り上げてその頬を力任せに打った。今度はアストリットが地面に叩き付けられる番だった。
「こんな無礼が王子殿下に許されると思っているのか!」
 彼女は自分の耳を疑った。――王子殿下。
 それなら父親を騎士団から追い出すことも可能なはずだ。アストリットは膝をつき、地面に目を落したまま王子の言葉を思い出していた。殴られた頬はずきずきと痛むのに、合点のいった胸の清々しさのほうが強かった。
「申し訳ございません……」
 そのままの姿勢で王子を見上げ、許しを請う。いきなりの、幼い娘に対する父親の剣幕の前に、まるで王子自身が頬を張られたかのように少年はその場に立ち尽くしていた。そして、上着のポケットから白いハンカチを出し、無言でアストリットに差し出す。アストリットはその時初めて口に広がる血の味に気がついた。そして、それを受け取るか躊躇していると、父親の手が二人の間に割って入った。
「殿下、それはお治めください。勿体のうございます」
 王子は何か言いたげにガレスを見上げたが、大人しくポケットにそれをしまった。
「おまえ、名はなんという」
 拳で口元を拭りながら立ち上がったアストリットに王子は冷ややかに尋ねた。
「アストリット・ローゼナウと申します、王子殿下」
「アストリット・ローゼナウ……。おまえも騎士の一人なら、せいぜい帝国騎士団を名乗るに恥じぬ騎士になれ。おれは、おまえみたいな生意気な女が一番嫌いだ」
 王子はそれだけ言うと、ふいと背を向けて中庭を去って行った。

 アストリットは馬車道をそれ、木々の間を抜けて空き地を目指した。やがて泉が見えてくると馬を降り、手綱を引いて水を飲ませた。自分も隣で冷たい水で手と顔を洗う。水面に顎から落ちた水滴が波紋を広げる。それが消えて行くまでじっと見つめた。まるで自分の心が鎮まるのをその目で確かめるように。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

完結 辺境伯様に嫁いで半年、完全に忘れられているようです   

ヴァンドール
恋愛
実家でも忘れられた存在で 嫁いだ辺境伯様にも離れに追いやられ、それすら 忘れ去られて早、半年が過ぎました。

初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】

星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。 だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。 しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。 王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。 そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。 地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。 ⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。

【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。

五月ふう
恋愛
 リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。 「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」  今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。 「そう……。」  マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。    明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。  リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。 「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」  ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。 「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」 「ちっ……」  ポールは顔をしかめて舌打ちをした。   「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」  ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。 だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。 二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。 「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」

王子を身籠りました

青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。 王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。 再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。

「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある

柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった 王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。 リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。 「わかりました。あなたには、がっかりです」 微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。

私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました

放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。 だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。 「彼女は可哀想なんだ」 「この子を跡取りにする」 そして人前で、平然と言い放つ。 ――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」 その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。 「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」

つまらない妃と呼ばれた日

柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。 舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。 さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。 リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。 ――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。

王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る

家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。 しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。 仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。 そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。

処理中です...