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第二章 1
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「ああ、やっぱりここだったか。非番のときに、ここにおまえがいないことはないな」
あまりにも文字を追うことに集中していたため、アストリットは声をかけられると始めて本から顔を上げた。
薄緑の樫の葉に指先で触れながら、同僚であるレヴァン・アーシャ大尉が近づいて来た。ただでさえ大男のレヴァンが木の幹に手を付き、覆い被さるように見下ろしてくると、それだけでかなりの迫力がある。そんな同僚に、アストリットは幹に背を預けたまま本を閉じ、親しげに微笑んだ。
「レヴァン。戻ったのか。長旅ご苦労だったな。堅苦しい勤めで肩が凝っただろう」
職務から戻ったその足でアストリットを探しに来たのだろう。彼のブーツは土埃で白くなっていた。
「まあな。でも王の護衛だ。自分が任命されただけでも名誉だと思わんとな」
レヴァンは彼女の横にどっかと膝を立てて座った。その拍子に帽子を被った青い樫の実がぽとぽと、と二つ三つ、アストリットの伸ばした足の先に落ちた。非番なので上着は着ていない。綿のシャツに紺のベストを引っ掛けただけのその姿は、少女にも少年のようにも見える。レヴァンは自分よりだいぶ年下の同僚に悟られぬよう目の端でじっと観察したあと、まだ「女」ではないな、と密かに確認した。
「で、葬儀はどうだった。バルバス国の王が崩御されたのだからな。人の出入りもすごかったのではないか。あの国は女王君主制とはいえど、だからといって国王の葬儀がおろそかにされるということはあるまい」
彼は遠い目の先を行く、訓練を上げた軽騎士を見るとも無しに見ながら頷いた。
「もちろん、近隣諸国から護衛を付けた王や女王が参列するわけだからな。ものすごいなんてもんじゃなかった。街中も窓という窓から黒い布と国旗が吊り下がっているし、棺の置かれた街で一番でかい教会の外も中も黒百合で溢れかえっていた。皆黒装束に身を包み、坊さんだらけだ。葬儀の場はひっきりなしに行き来する人で巣を突かれた蟻ん子を見てるようだったな。まあ、無事に済んで何よりだ」
「そのたとえもどうかと思うが、それでも情景が目に浮かんでくるな」
アストリットは拾った樫の葉を指先で弄びながら苦笑いを見せた。
「そうそう、女王陛下がさ、おまえのこと聞いて来たぞ」
「私のことを? というより、そんな#最中_さなか_#に女王陛下と拝謁の機会があったのか?」
「機会があったと言うか……わざわざ茶の席を女王陛下が用意してくださったんだ。それもおれのために」
「副指揮長ももちろん、同席したんだろう?」
「いや、副指揮長は一時も我が国王の側から離れることは出来なかったから、おれ一人だ」
「へえ……、それで、何を聞かれたのだ?」
さすがに自分のことが女王陛下の口に上ったと聞くと気になり、アストリットは身を寄せ、同僚の顔を覗き込んだ。
「え……あ、『リューベンスブルグには女性の大尉がいると聞きましたが』から始まってだな、髪の色とか、目の色とか、性格とか、特技とか趣味とか……」
「なんだそれは。まるで身上調査じゃないか。まてよ? 引き抜きとか?」
「ありえんな」
「なんでだ」
あまりの即答に、アストリットの眉間に皺が寄る。
「おれが許さんからだ」
「なんだ、それは」
レヴァンの日に焼けた顔いっぱいに笑いが広がる。
「まあ、それは冗談としても、そういう感じではなかったな。なんだか本当に女の騎士が珍しいみたいだ。バルバスには女騎士が一人もいないんだとよ」
「そうか……。それで、おまえはなんと答えたんだ? もちろん、私の印象を悪くするようなことは言わなかっただろうな?」
「同僚をそこで貶してどうする。それこそ騎士団の恥じゃないか。勇敢で頭脳明晰、容姿端麗、街の人気者、おまけに本の虫でスタイル抜群と言っておいたぞ」
「な、なんだその最後のは」
アストリットの頬にさっと血の気が上がるのをレヴァンは目を細めてにやにやと口元を緩める。
「だって、おまえ入団したての頃から比べたら、最近やたらに尻の線とか目立って来たみたいだし」
「ばっ……馬鹿かおまえ、どこ見てるんだ! それに、子供の頃と比べるな!」
アストリットは手の下の砂利を掴み、ためらうことなくレヴァンの顔に投げつけるとさっと立ち上がり、本を抱えてその場を後にした。
「おい、待てよ……アストリット、冗談だって。最後のは……」
「今日はおまえ、冗談が過ぎるぞ。やっぱり長旅で疲れてるんじゃないか。風呂につかってゆっくり休め。なんなら、囚人の鉄枷を手脚にはめてやろうか。一生そこから出てこなくてもいいようにな」
「だから、悪かったって……あ、そうだ。さっき珍しいもの見たんだけどさ……」
熊のような大男が、猫なで声を出しながらアストリットの後ろを宥め賺して歩くのは訓練所敷地内でそう珍しい光景ではない。そんな上役二人の姿をみとめた訓練中の軽騎士が交える剣の動きは一時止まったものの、すぐに小気味よい音が響きわたる。
「おまえの”珍しい”は、たかがしれているだろうな」
振り向きもせずにアストリットは宿舎の方へ大股で行く。
「いや、そうでもないぜ? 王室からの使いなんだけどさ……、馬車が#小哨_しょうしょう_#付きで門をくぐるのを見たぜ」
「王室からの使いなら小哨くらいついて当然だろう」
そうは言いつつも、自然とその歩みが緩む。
王室から帝国騎士団へ使いが来る際には、城の催し物の警備や国王の外国来訪の護衛依頼、隣国の内偵調査の指令などいくつか考えられるが、そのような場合、一枚の令状を持った使い走りが一人馬に股がってくるのが常であった。
他国からの援軍要請だろうか。そうなると、どこだろう。バスーラとルブザンの国境が緊張しているが、あそこはバルバス国が圧力をかけているはずだ。まさか国王崩御直後に不穏な動きが……?
「アストリット大尉、少しよろしいですか」
歩きながら考え込んでいたアストリットが声のする方を見ると、弓を持った騎士の一人が目礼をした。気がつけば壁際にいくつもの的の並ぶ、弓の訓練所の脇まで来ていたのだった。
「どうした」
「弓のコツを教えていただきたいのですが……」
「それならおれが」
「なんだ、レヴァン。まだいたのか」
上から落ちてきた声を払うように振りかぶり、同僚をひと睨みしてその手に本を持たせると、軽騎士に近寄った。
「構えて」
その背に胸を沿わせるように立つ。体と体の隙間はほとんどない。矢の先は的に向かっている。アストリットは騎士の耳元で囁くように指示を与える。
「全ての力で引ききって……肩甲骨を寄せるように。そう。的に集中する。深く息を吸って……止めて、……離す!」
矢は見事に的の中心に突き刺さった。依然、矢を放ったままの姿勢のままでいる騎士の肩を彼女は軽く叩いた。
「ほら、ごらん。君にはもともと素質がある。構え、呼吸、静止、離す。この調和のとれた動きが弓の全てだ。忘れないで。とにかく百パーセント的を射ることが出来るように集中して練習を重ねるように」
指南を受けた騎士は丁寧に礼を言って頭を深々と下げた。
「なあ、おまえ何やったの。あいつ、顔まっ赤だったぜ」
アストリットは本を受け取りながら、隣を歩くレヴァンに煙たげな視線を投げる。
「何もしていない。弓を教えただけだ」
その時、本部館からイール中尉がこちらにまっすぐ駆けてくるのが見えた。何度かアストリットの名を呼び、目の前で立ち止まると右拳を胸の前に当てた。
「アストリット大尉、総指揮長がお呼びです。至急にと」
アストリットは思わずレヴァンの顔を仰ぎ見た。目が合う。その瞳に自分の緊張が映っているのを認めた。
本部館前にはレヴァンの話していた件の馬車と、馬から下りた王室警備隊の兵士三人が控えていた。
宿舎の方を見ると、レヴァンが凝然と立ってまだこちらを見ている。顔に浮かんだ表情は遠目で見ることは出来ないが、それが厳しいものなのは容易に想像出来た。
客人は父の執務室にいて自分を待っている。同じ大尉の身であるレヴァンはなぜ呼ばれないのだろう。
王室からわざわざ使者が来て叱責を受けるような失態が自分の管轄領で起こったのだろうか。それとも、先週の酒場の件か。私があの暴漢を逮捕しなかったのがいけなかったのか。しかしあの後、男を留置した際の反省ぶりを認めて、副指揮長が釈放したのだ。それに、あの件はもともと殿下のお忍び遊楽が原因ではないか。お叱りを受けるなら、私ではなく殿下のはずだ。
それでも今から王室の者と対峙する事実は変わらない。アストリットは執務室のドアをノックをする前に静かに深呼吸をし、気を引き締めた。
昼下がりの頃をだいぶ過ぎたと言うのに、開かれた執務室の窓からは風がそよとも入ってこない。空気はむっと淀んでいたが、自分に向けられた王室の使者たちの視線は異様に冷たく感じた。
使者は二人。一人は中老で痩せぎす一見穏やかだが、その直線の肩に伝統と自信とが載っている。もう一人はやや若く小柄であったが、炭でくっきり描いたような眉が利発を見せていた。どちらも、金糸で裾を彩られた新緑のビロードのお仕着せを、顎の下にやや大袈裟な白い飾り襟を広げている。先の尖った絹の靴。馬に乗らぬものの靴だ。
「今日は休みをいただいていたのでこのような恰好で失礼致します」
非礼を詫びるように使者に頭を下げるが、使者の顔からはなにも読み取れない。それが却って気持ちを不安にさせる。アストリットは正面、執務机の向こうの父に向き直ると、総指揮長はそれを合図に口を開いた。
「ローゼナウ大尉、こちらが王室筆頭執事ダウソン殿、そのお隣がマーリング殿だ」
ガレスの紹介に二人はほとんど同じ角度で顎を小さく引くも、傲然な表情は消えない。
「執事殿は第一王子殿下の護衛依頼のために、わざわざこちらまで足を運ばれたのだ」
「殿下の護衛でしたか……」
援軍要請ではないとわかると、アストリットはほっと胸を撫で下ろした。
「城内の園遊会でしょうか。それとも殿下のお好きな狩猟でしょうか。この時期ならマルセローの森ですね。そうなると、第三団からまだ外に不慣れな何人かを連れて行こうと思いますが……」
「その必要はございません。大尉殿お一人でおいでください」
アストリットの饒舌に冷や水を浴びせるような一言に、思わず声の主に顔を向けた。ダウソンはそんな彼女を無視しておもむろに立ち上がり、ガレスに言った。
「失礼ですが、総指揮長のお言葉がやや足りないように思われます……それでは大尉殿に事の重大さがご理解いただけないかと。恐縮ながら、#私_わたくし_#からご説明させていただいてもよろしいでしょうか」
「こちらこそ失礼致しました。どうぞ、執事殿のお気に召されるままに」
ダウソンは小さく頷くと上着の内側から封書を出し、その場でアストリットの方へ差し出した。つまり、取りに来いと言うことだった。
数歩歩み寄り、筆頭執事からそれを受け取ると、彼女はガウスとダウソンを交互に見てからその厚みのある封筒を開いて中の紙を広げた。刹那、アストリットはそのたった一行の文字の羅列に目を見張る。
あまりにも文字を追うことに集中していたため、アストリットは声をかけられると始めて本から顔を上げた。
薄緑の樫の葉に指先で触れながら、同僚であるレヴァン・アーシャ大尉が近づいて来た。ただでさえ大男のレヴァンが木の幹に手を付き、覆い被さるように見下ろしてくると、それだけでかなりの迫力がある。そんな同僚に、アストリットは幹に背を預けたまま本を閉じ、親しげに微笑んだ。
「レヴァン。戻ったのか。長旅ご苦労だったな。堅苦しい勤めで肩が凝っただろう」
職務から戻ったその足でアストリットを探しに来たのだろう。彼のブーツは土埃で白くなっていた。
「まあな。でも王の護衛だ。自分が任命されただけでも名誉だと思わんとな」
レヴァンは彼女の横にどっかと膝を立てて座った。その拍子に帽子を被った青い樫の実がぽとぽと、と二つ三つ、アストリットの伸ばした足の先に落ちた。非番なので上着は着ていない。綿のシャツに紺のベストを引っ掛けただけのその姿は、少女にも少年のようにも見える。レヴァンは自分よりだいぶ年下の同僚に悟られぬよう目の端でじっと観察したあと、まだ「女」ではないな、と密かに確認した。
「で、葬儀はどうだった。バルバス国の王が崩御されたのだからな。人の出入りもすごかったのではないか。あの国は女王君主制とはいえど、だからといって国王の葬儀がおろそかにされるということはあるまい」
彼は遠い目の先を行く、訓練を上げた軽騎士を見るとも無しに見ながら頷いた。
「もちろん、近隣諸国から護衛を付けた王や女王が参列するわけだからな。ものすごいなんてもんじゃなかった。街中も窓という窓から黒い布と国旗が吊り下がっているし、棺の置かれた街で一番でかい教会の外も中も黒百合で溢れかえっていた。皆黒装束に身を包み、坊さんだらけだ。葬儀の場はひっきりなしに行き来する人で巣を突かれた蟻ん子を見てるようだったな。まあ、無事に済んで何よりだ」
「そのたとえもどうかと思うが、それでも情景が目に浮かんでくるな」
アストリットは拾った樫の葉を指先で弄びながら苦笑いを見せた。
「そうそう、女王陛下がさ、おまえのこと聞いて来たぞ」
「私のことを? というより、そんな#最中_さなか_#に女王陛下と拝謁の機会があったのか?」
「機会があったと言うか……わざわざ茶の席を女王陛下が用意してくださったんだ。それもおれのために」
「副指揮長ももちろん、同席したんだろう?」
「いや、副指揮長は一時も我が国王の側から離れることは出来なかったから、おれ一人だ」
「へえ……、それで、何を聞かれたのだ?」
さすがに自分のことが女王陛下の口に上ったと聞くと気になり、アストリットは身を寄せ、同僚の顔を覗き込んだ。
「え……あ、『リューベンスブルグには女性の大尉がいると聞きましたが』から始まってだな、髪の色とか、目の色とか、性格とか、特技とか趣味とか……」
「なんだそれは。まるで身上調査じゃないか。まてよ? 引き抜きとか?」
「ありえんな」
「なんでだ」
あまりの即答に、アストリットの眉間に皺が寄る。
「おれが許さんからだ」
「なんだ、それは」
レヴァンの日に焼けた顔いっぱいに笑いが広がる。
「まあ、それは冗談としても、そういう感じではなかったな。なんだか本当に女の騎士が珍しいみたいだ。バルバスには女騎士が一人もいないんだとよ」
「そうか……。それで、おまえはなんと答えたんだ? もちろん、私の印象を悪くするようなことは言わなかっただろうな?」
「同僚をそこで貶してどうする。それこそ騎士団の恥じゃないか。勇敢で頭脳明晰、容姿端麗、街の人気者、おまけに本の虫でスタイル抜群と言っておいたぞ」
「な、なんだその最後のは」
アストリットの頬にさっと血の気が上がるのをレヴァンは目を細めてにやにやと口元を緩める。
「だって、おまえ入団したての頃から比べたら、最近やたらに尻の線とか目立って来たみたいだし」
「ばっ……馬鹿かおまえ、どこ見てるんだ! それに、子供の頃と比べるな!」
アストリットは手の下の砂利を掴み、ためらうことなくレヴァンの顔に投げつけるとさっと立ち上がり、本を抱えてその場を後にした。
「おい、待てよ……アストリット、冗談だって。最後のは……」
「今日はおまえ、冗談が過ぎるぞ。やっぱり長旅で疲れてるんじゃないか。風呂につかってゆっくり休め。なんなら、囚人の鉄枷を手脚にはめてやろうか。一生そこから出てこなくてもいいようにな」
「だから、悪かったって……あ、そうだ。さっき珍しいもの見たんだけどさ……」
熊のような大男が、猫なで声を出しながらアストリットの後ろを宥め賺して歩くのは訓練所敷地内でそう珍しい光景ではない。そんな上役二人の姿をみとめた訓練中の軽騎士が交える剣の動きは一時止まったものの、すぐに小気味よい音が響きわたる。
「おまえの”珍しい”は、たかがしれているだろうな」
振り向きもせずにアストリットは宿舎の方へ大股で行く。
「いや、そうでもないぜ? 王室からの使いなんだけどさ……、馬車が#小哨_しょうしょう_#付きで門をくぐるのを見たぜ」
「王室からの使いなら小哨くらいついて当然だろう」
そうは言いつつも、自然とその歩みが緩む。
王室から帝国騎士団へ使いが来る際には、城の催し物の警備や国王の外国来訪の護衛依頼、隣国の内偵調査の指令などいくつか考えられるが、そのような場合、一枚の令状を持った使い走りが一人馬に股がってくるのが常であった。
他国からの援軍要請だろうか。そうなると、どこだろう。バスーラとルブザンの国境が緊張しているが、あそこはバルバス国が圧力をかけているはずだ。まさか国王崩御直後に不穏な動きが……?
「アストリット大尉、少しよろしいですか」
歩きながら考え込んでいたアストリットが声のする方を見ると、弓を持った騎士の一人が目礼をした。気がつけば壁際にいくつもの的の並ぶ、弓の訓練所の脇まで来ていたのだった。
「どうした」
「弓のコツを教えていただきたいのですが……」
「それならおれが」
「なんだ、レヴァン。まだいたのか」
上から落ちてきた声を払うように振りかぶり、同僚をひと睨みしてその手に本を持たせると、軽騎士に近寄った。
「構えて」
その背に胸を沿わせるように立つ。体と体の隙間はほとんどない。矢の先は的に向かっている。アストリットは騎士の耳元で囁くように指示を与える。
「全ての力で引ききって……肩甲骨を寄せるように。そう。的に集中する。深く息を吸って……止めて、……離す!」
矢は見事に的の中心に突き刺さった。依然、矢を放ったままの姿勢のままでいる騎士の肩を彼女は軽く叩いた。
「ほら、ごらん。君にはもともと素質がある。構え、呼吸、静止、離す。この調和のとれた動きが弓の全てだ。忘れないで。とにかく百パーセント的を射ることが出来るように集中して練習を重ねるように」
指南を受けた騎士は丁寧に礼を言って頭を深々と下げた。
「なあ、おまえ何やったの。あいつ、顔まっ赤だったぜ」
アストリットは本を受け取りながら、隣を歩くレヴァンに煙たげな視線を投げる。
「何もしていない。弓を教えただけだ」
その時、本部館からイール中尉がこちらにまっすぐ駆けてくるのが見えた。何度かアストリットの名を呼び、目の前で立ち止まると右拳を胸の前に当てた。
「アストリット大尉、総指揮長がお呼びです。至急にと」
アストリットは思わずレヴァンの顔を仰ぎ見た。目が合う。その瞳に自分の緊張が映っているのを認めた。
本部館前にはレヴァンの話していた件の馬車と、馬から下りた王室警備隊の兵士三人が控えていた。
宿舎の方を見ると、レヴァンが凝然と立ってまだこちらを見ている。顔に浮かんだ表情は遠目で見ることは出来ないが、それが厳しいものなのは容易に想像出来た。
客人は父の執務室にいて自分を待っている。同じ大尉の身であるレヴァンはなぜ呼ばれないのだろう。
王室からわざわざ使者が来て叱責を受けるような失態が自分の管轄領で起こったのだろうか。それとも、先週の酒場の件か。私があの暴漢を逮捕しなかったのがいけなかったのか。しかしあの後、男を留置した際の反省ぶりを認めて、副指揮長が釈放したのだ。それに、あの件はもともと殿下のお忍び遊楽が原因ではないか。お叱りを受けるなら、私ではなく殿下のはずだ。
それでも今から王室の者と対峙する事実は変わらない。アストリットは執務室のドアをノックをする前に静かに深呼吸をし、気を引き締めた。
昼下がりの頃をだいぶ過ぎたと言うのに、開かれた執務室の窓からは風がそよとも入ってこない。空気はむっと淀んでいたが、自分に向けられた王室の使者たちの視線は異様に冷たく感じた。
使者は二人。一人は中老で痩せぎす一見穏やかだが、その直線の肩に伝統と自信とが載っている。もう一人はやや若く小柄であったが、炭でくっきり描いたような眉が利発を見せていた。どちらも、金糸で裾を彩られた新緑のビロードのお仕着せを、顎の下にやや大袈裟な白い飾り襟を広げている。先の尖った絹の靴。馬に乗らぬものの靴だ。
「今日は休みをいただいていたのでこのような恰好で失礼致します」
非礼を詫びるように使者に頭を下げるが、使者の顔からはなにも読み取れない。それが却って気持ちを不安にさせる。アストリットは正面、執務机の向こうの父に向き直ると、総指揮長はそれを合図に口を開いた。
「ローゼナウ大尉、こちらが王室筆頭執事ダウソン殿、そのお隣がマーリング殿だ」
ガレスの紹介に二人はほとんど同じ角度で顎を小さく引くも、傲然な表情は消えない。
「執事殿は第一王子殿下の護衛依頼のために、わざわざこちらまで足を運ばれたのだ」
「殿下の護衛でしたか……」
援軍要請ではないとわかると、アストリットはほっと胸を撫で下ろした。
「城内の園遊会でしょうか。それとも殿下のお好きな狩猟でしょうか。この時期ならマルセローの森ですね。そうなると、第三団からまだ外に不慣れな何人かを連れて行こうと思いますが……」
「その必要はございません。大尉殿お一人でおいでください」
アストリットの饒舌に冷や水を浴びせるような一言に、思わず声の主に顔を向けた。ダウソンはそんな彼女を無視しておもむろに立ち上がり、ガレスに言った。
「失礼ですが、総指揮長のお言葉がやや足りないように思われます……それでは大尉殿に事の重大さがご理解いただけないかと。恐縮ながら、#私_わたくし_#からご説明させていただいてもよろしいでしょうか」
「こちらこそ失礼致しました。どうぞ、執事殿のお気に召されるままに」
ダウソンは小さく頷くと上着の内側から封書を出し、その場でアストリットの方へ差し出した。つまり、取りに来いと言うことだった。
数歩歩み寄り、筆頭執事からそれを受け取ると、彼女はガウスとダウソンを交互に見てからその厚みのある封筒を開いて中の紙を広げた。刹那、アストリットはそのたった一行の文字の羅列に目を見張る。
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