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第二章 2

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 ――ミカ・フォン・オールソンの命は我が掌中に。 マスティマ――

「こ、これは……脅迫状では……」
「さようでございます」
 アストリットの言葉を予測していたかのようにダウソンはあっさりと認めた。
「マスティマとは? 一体誰です? 心当たりがあるのですか? あるのでしたらすぐに逮捕状を……」
 右手に手紙を持ったまま、思わずダウソンに詰め寄った。
「マスティマと名乗る者に私が心当たりありますのは、かの”堕天使マスティマ”でございまして、さて、その堕天使とやらが帝国騎士団の逮捕状を受け取るかは、残念ながらわかりかねます」
「つまり堕天使の名を騙る何者かが第一王子殿下のお命を狙っている、という事実しか確認出来ていないのですね」
「今のところは」
「脅迫状は今日来たのですか。一体どのように?」
「今日ではございません。一昨日、十六時から十七時の間に私の机の上に置かれたものと思われます」
 動揺を隠そうともしないアストリットとは対照的に、ダウソンは極力顔の筋肉を動かさずに答えた。
「どうしてそこまで時間を限定できるのですか? それに、なぜすぐに騎士団に城内外の警備を要請されなかったのです」
「その手紙が置かれた時間――ちょうどその時間は#私_わたくし_#の休憩、いわゆるお茶の時間でございまして、席を外しておりました。戻ってくると、机上にそれを見つけたのでございます。城内外の警備強化は、王子殿下ご自身が必要ないとのことでしたので……」 
「なぜです!? お命が危ぶまれているというのに!」
「ですから、殿下は大尉殿をご指名されたのでございます」
「王子殿下が、私を……? 私、一人が……?」
「さようでございます」
「なぜ!?」
「それは殿下の一存ゆえ、私にはわかりかねます」
 アストリットは次の質問を続けようと口を開きかけたが、そこから言葉が出ることは無かった。混乱し、考えが全くまとまらない。そして、こんなに冷静を欠いている自分に驚いてもいた。自分に課される大役に対する不安か、はたまた刻一刻とその命を狙われている王子の身の上を案じてか。
「それでは、総指揮長殿。本日より犯人が捕まるまでの間、アストリット・ローゼナウ大尉に王子殿下の護衛を正式に任命致します」
「御意に」
 ガレス・ローゼナウは椅子から立ち上がり、右拳を胸に当てると深く頭を下げた。そして、「大尉、」とアストリットを呼び戻した。我に返ったアストリットは、慌てて同じように体を折った。
「この命に代えても王子殿下をお守り致します」
 もしかしたら、この場で一番緊張していたのはマーリングだったのではないか。彼はその言葉を聞くと、彼女の耳にも届くほどの大きなため息を漏らした。
「それでは参りましょう。殿下がお待ちです」
 目の前に立つアストリットの手から筆頭執事は手紙をそっと取り上げると、上着の元の場所に収めながら言った。
「え……今すぐに、ですか」
「さようでございます」
「この恰好で王室に上がることは……」
「王子殿下は一刻も早く大尉をお連れするようにと」
 ダウソンの口調はまるで議論の余地無し、だった。
 しかし筆頭執事がなんと言おうが、このあまりにも質素な装いでミカに会うことだけは避けたかった。
「三分で戻ります」
 アストリットも有無を言わさぬ語気でそれだけ言うと、執務室を後にし、部屋へ戻った。
 服を全て脱ぎ、引き出しから白い布を取り出すと胸に当てて幾重にもしっかりと巻き付ける。アストリットの引き締まった体に対して、完熟前のその二つの果肉はやや大振りに思えた。だから、彼女は軍服を着る際には必ずその部分に布を巻いて目立たなくするのが常だった。
「そうか、今日は何もしていなかったからか……」
 上着のボタンを掛ける指を忙しく動かしながら、弓の指導をした騎士が赤くなった理由が今さらながらに分かり、可笑しくなった。

 帝国騎士団の騎士であるならば、城内の部屋の配置、間取り、場外に通ずる隠し通路などはその頭に完全に叩き込まれている。
 だから、アストリットが絨毯の敷かれた階段を何回も折れ、金の額に収まった数々の肖像画に見下ろされながら、今ダウソンに連れてこられた部屋は南翼の三階にある客室の一つのはずだった。執事がドアをノックした。
「アストリット・ローゼナウ大尉をお連れしました」
「入れ」
 凛と張りのある若い男の声が、決して薄くないであろうドアの向こうから聞こえた。
 ミカ・フォン・オールソンは窓枠に寄りかかるようにして夕闇の向こうを見ていたが、筆頭執事とアストリットが部屋に入ってくると、気疎げに顔を二人に向けた。
 二つの豪奢な肘掛け椅子に挟まれた丸テーブルの上には本が開かれたままである。
 部屋に入ったアストリットは不躾と頭の片隅で思いながらも、目の前に立つミカの姿に視線を奪われ、それを外すことが出来なかった。
 もちろん、今までに何度も王室の警護はしており、その度にミカの姿を遠目に捕らえることはあった。しかしこの距離で、しかも正面から、自分だけに視線を注がれる機会に恵まれたのはこれが初めてだ。あの出会いから十年以上、姿を追っていた王子殿下が目の前にいる。
 緩く波打つ髪は、冬の夕日が湖畔に反射するブロンズの輝き、瞳は常に澄み切った青空を映す。幼少のみぎりにはふくよかだった頬もすっきり削げ、端正な男の輪郭が現れている。変わったのは広い肩幅と厚い胸、逞しい腰を支える長い脚。
 瞳の色と同じ、薄い空色の上着とズボン姿で、黒革のブーツはすっかり膝頭を隠すものだった。
 これが、あの時の少年なのか。
 やる気の無くした馬の上で呆然と座っていた少年。
 私に地面に引きずり下ろされた少年。
 きまり悪そうに、ハンカチを差し出した少年。
 姿には確かに当時の面影が残っている。しかし、成人したミカのその雰囲気はまるで別人だった。
――怖い
 思わず隣のダウソンの上着の袖に縋ってしまいそうなほどの恐怖を感じた。
 ミカから滲み出るのは、王子の貫禄や威圧というよりも、敵意に近い。それを滲ませている瞳は、自分が手を掛けた全ての兵士に見たものと同じだ。
「随分と時間がかかったな。ほう……、この者がかの女騎士、アストリット・ローゼナウか。そういえば何度か姿は見たことがあるな」
 まるで昔暗唱させられた詩の一節を、ふと思い出したような口調。
――何度か見たことがある。
 アストリットは、その言葉に愕然とした。アストリット・ローゼナウが求められてここへ呼ばれたわけではないのか?
 そして彼女に向けた眼差しに浮かんだ興味も、一瞬で消えたのがわかった。
 王子殿下の態度に、アストリットはミカの記憶には自分の存在など欠片も残っていないのだと悟った。
 幼くとも、殿下にとってあの記憶は恥ずべき汚点であり、消し去られるのが当然だったのだ。
「申し訳ございません。着替えに少々時間をいただきまして……。帝国騎士団、アストリット・ローゼナウと申します、王子殿下」
 ダウソンの先回りをし、自ら弁解した。それは筆頭執事の気に入らなかったのだろう。彼の左の頬がぴくぴくと震えるのを横目で捕らえた。
「着替え……? 無駄なことを」
 ミカは小さく鼻で笑った。アストリットもそれに倣い、うっすらと笑みを浮かべて自分に向けられた重なる侮辱を慇懃にかわすと、ミカを見据えて口を開いた。
「王子殿下、早速ですが一つだけお聞かせ願いたいのですが」
「なんだ」
 アストリットは、テーブルに尻を預け、腕を胸の前で組んでくつろぐ主人に一礼した。
「どうして私をご指名されたのでしょうか」
 ミカは濃紺の革の手袋をはめた手を胸の前で一振りし、馬鹿馬鹿しい、と無言で伝えた。彼女は怯むことなく、じっと答えを待った。攻撃されたと感じると、逆に活力が漲るのがこの女騎士の強みでもあり、若さだった。
「私の命が狙われている。だからおまえを護衛に指名した。おまえは私の護衛をする。その間に犯人が捕まる。おまえが私の側にいる限り、私の命は無事だ。そういうことだろう。それともおまえにはやはり荷が重すぎると怖じ気づいたか、大尉殿」
「そのようなことはございません。しかし……」
 彼女は食い下がったが、ミカは再び手を宙で苛立たしげに振った。
「ダウソン、下がってよい。この大尉殿には湯浴みをさせる。それから食事だ。モニカは」
「お側に」
 いつの間に控えていたのか、ドアの向こうから女の細い声が返って来た。
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