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第四章 1
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ミカの護衛に就いてから一週間ほど経ったが、王子の生活に不穏な影は見えず、アストリットの想像以上に穏やかに日々は過ぎていた。
朝食後、ミカが執務室にいる間は庭で王室警備隊の騎士と剣を合わせたり、執務後の殿下の午後の遠乗りや狩りの供をしたり、貴族に招待された夜会や園遊会の同伴にとアストリットの仕事はいたって普通の身辺護衛のそれだった。
城外を守るのが帝国騎士団ならば、城内を守るのは主として王室警備隊である。
その憲兵たちには貴族の出が多い。大抵趣味の延長で、私立の武術学校にてそこそこの剣術、護身術を心得た者が王室警備隊に志願する。アストリットは時間を見つけてはそれらの憲兵たちを鍛えることに専念した。
彼女が帝国騎士団に入団して今年で十一年になる。入団は父、ガレスの独断であったが、彼女が騎士群の軍服を着るようになってからはガレスは父ではなく上司という立場に一貫し、娘として一切の甘えを許さず、他の騎士たちと同様に接した。それでもアストリットはそれを寂しいとは思わず、正義を愛する公明正大な父の娘であることを常に誇りに思いながら今日までその背中に付いて来た。
そんな彼女にとって、病で死に別れた母の面影は薄い。
母はアストリットが六歳になると街でも伝統ある女学校に姉フリーダに続けて入れ、ガレスが次女を七歳で騎士団に入団させた時には、当時の副指揮長ガレス・ローゼナウに向かってこれまで見せたことのない憤慨を表した。
結局、ガレスは妻の気持ちを考慮し、アストリットは十六で卒業するまで女学校と騎士団寄宿舎を往復する生活を強いられることになった。
そのために母親の記憶は七歳からほとんどなかったが、ペトラの柔らかなドレスの絹ごしに伝わる温もりと、焼き菓子の香り、風邪薬の茶色い小瓶を持つ白い手、頬や額に触れる唇の柔らかさ、得意の手料理の数々。それらは少なくとも、愛情という形見としてアストリットの胸にしっかり残されていた。
ある朝、アストリットは小食堂へ向かう途中に側近や侍女たちが普段よりも忙しく動き回っているのに気がついた。衣装箱を二人がけで運ぶ近臣たちが何組もすれ違い、城の出口へ向かって行く。
「あの……、これは何の騒ぎです?」
ちょうど向かいから来た侍女を呼び止めると、彼女は美しい刺繍の入った掛布を胸の前に積み重ねたそれに、顎を埋めるようにして答えた。
「本日より殿下が夏の離宮で過ごされるということで、その準備でございます。外の馬車に殿下のご入用になるものをすぐに積み込まなくてはなりません。準備が整い次第出発とのことですので。それでは失礼して……」
侍女は黒いスカートの裾を翻し、足早に行ってしまう。
夏の、離宮……? 寝耳に水だった。数日前にダウソンと打ち合わせした殿下の『本日の予定』に、そんな事項はなかった。ダウソンが言い忘れたのだろうか。家臣がこれだけ慌てているのなら、ミカにも出発の準備があるだろう。早々に食事を済まされているかもしれない。
料理人たちが野菜や腸詰めの入った籠を運んで行くのを見ながらアストリットも食堂へ急いだ。
「おはようございます、大尉殿」
ダウソンがいつも通りの形式張ったお辞儀で迎える。
朝日のたっぷり射し込んだ食堂にミカの姿は無く、テーブルに用意された二人分の食器もまだ空のまま、その金で装飾された縁が光輝いていた。
「殿下は……」
「ただ今いらっしゃいます」
主よりも先に席に着くわけにはいかない。彼女は椅子の後ろに立ったまま、隣のダウソンに顔を向けた。
「あの、今日は殿下が夏の離宮に……」
アストリットが言いかけた時、ちょうどミカが食堂に入って来た。慌てて膝を折る。
「おはようございます、殿下。ご機嫌麗しく」
「大尉殿も元気そうで何より」
そよ風ほども気にならない様子でアストリットをあしらうと、席に着いたミカは上機嫌で両手を広げた。
「さあ、これから半日ほど遠出することになる。しっかり食べておかねばな」
「私は何も聞いておりませんが……」
ちらりと横目でミカをみながら、彼女は礼儀を欠かない程度に漏らした。王子の眉間に薄く皺が浮かぶ。
「今言っただろう。どんな予定にも臨機応変に行動するのが身辺警護ではないのか」
そう言われてしまえば何も返せない。アストリットは小さく吐息をもらした。
「この場合は”予定”というよりも”思いつき”という感が否めませんが、それでもまだ事前に私にお知らせしてくださっただけでもありがたいことでございます」
すかさず割り込んで来たダウソンの言葉にミカは虚をつかれたように一瞬、表現を固まらせて筆頭執事を見たが、すぐに平静を繕い、用意されたオートミールに取りかかった。
ダウソンの言葉には暗にミカの”お忍び”に対する小さな非難が含まれていたのだろう。王室に仕えて既に四十年を数えているダウソンの前に、そのミカの姿は伯父に咎められた少年のようで、アストリットは自然と笑みの浮かんでくる口元に慌てて紅茶のカップを付けた。
朝食後に自分の旅支度も整えようと部屋に戻れば、それはすでにモニカの手によって済まされており、早く外に出るよう急き立てられた。
庭の萌える緑を背にして、王族の紋章の付いた十台の豪華絢爛な馬車がそれぞれに、これまた美しい装いの御者と馬丁を従えて列をなしていた。そのあまりのきらびやかな様子に目を奪われたアストリットは、石段を降りる時、思わずスカートの裾を踏み、前にいたマーリングの肩に手を付いた。
「大丈夫ですか、大尉殿」
「すみません、靴がいつもより少し踵が高いものでして。慣れていないとこのような不体裁な姿をお見せすることになりますね。お恥ずかしいです。私には剣術よりも歩く訓練が必要かもしれません」
今や、紳士然とアストリットの手を取るマーリングに微笑むと、若い執事も同じように笑みを返した。
「いえ、必要なのは大尉殿の手をこうして常に握ってくださる殿方ではありませんか? その方がいつも隣にいれば、どんなに高い靴を履いていても転ぶ心配はいりません」
「そう言われればそうですね」
そのやり取りを前で聞いていたらしいミカは、石段を降りる足を止めると肩越しに振り向き、笑みを交えて談笑を続ける二人に冷ややかな視線を流した。
「男を捜す手間をかけるより、大尉殿の場合、剣を杖代わりにしたら一石二鳥ではないか」
ミカの機嫌の良くないことはその声音から瞭然だ。自分たちの他愛無い会話がどうしてか主人の機嫌を損ねたことに戸惑いながら、その不機嫌な背中のあとを黙って追った。
馬車が走り出す。ミカと隣り合わせに、しばらく揺られていたアストリットは、むっつりと口を結んだ主を横目で見ながら、この気詰まりな雰囲気を変えようと当たり障りの無い話題を探した。
そして、本来の仕事も兼ねていくつか質問をしようとアストリットは、体ごとミカに向いた。
「あの……、殿下は脅迫状の届いたと思われる時間は国王と謁見中とのことでしたが」
「それはダウソンが証言しただろう。なんだ、おまえは国王を疑っているのか。好き勝手をして王室の秩序を乱す私が邪魔だと。脅迫状で私が怯えて大人しくなると思っていれば、国王の平和主義も少し度が過ぎるているというものだ」
「いえ、そこまでは言っておりませんが……」
ミカの拳が膝の上でぴくりと動いたのに気づいた彼女は怯えに両肩を寄せた。
「ならば、私を疑っているのか」
「いえ! そんなことは少しも……。なぜ殿下ご自身がそんな悪戯を? 動機が無いではありませんか。申し訳ございません……、質問を変えましょう。それでは殿下に恨みを持たれている女性に……」
言いかけたアストリットは、自分の方へゆっくりと殿下が顔を動くのを見て、失言を悟った。しかし、飲み込むにはもう遅い。
また同じ過ちを繰り返してしまった……。どうして私は女性のことを聞こうなんて思ったのだろう。他にも聞くべきことはあるのに……。よりによって……。
ミカはそれが気の利いた冗談であるかのように口を歪めた。それはアストリットの微かな勇気を呼び戻した。
「なんだ、私の女関係が気になるのか」
「いえ、男か女か絞られるだけでも犯人の目星をつけるのに大いに役立ちます」
そうだ、無意識だったがそれが質問の意図だったのだ。アストリットは思わず胸中で大きく頷く。一方のミカは、あまりにもきっぱりと否定した彼女に向かって「ふん」と鼻白んだように顎を上げた。
「それならヨシュアはどうだ。動機は王位継承権だ。私を消せば邪魔者はいなくなる。脅迫状は犯人は外部にいると思わせるためだ。ヨシュアを捕らえれば、私の身に何も起こらないだろう。試してみればいい」
「それはどうでしょう。ヨシュア様は城の中でも外でも不自然でなく殿下のお側にいられます。それなら、ご自分に容疑がかかりにくい機会を見てお酒や食事に毒を盛ってしまった方が、わざわざ脅迫状をちらつかせて警護を強化されるよりよっぽど簡単に、手っ取り早く目的が果たせます」
「……手っ取り早い……」
専属護衛の口から初めて聞く、王子殿下に対して乱暴とも思える発言にミカは珍しく当惑の表情を浮かべたが、相手の胸元に目を落しながら熱く自説を説きだしたアストリットはそれに気づかない。それどころか高揚する気持ちを抑えきれない様子で先を続ける。
「そうは申しましたが、殿下、お言葉を返すようですが、ヨシュア様はそんな悪事を企むようなお方でないのは殿下が一番ご存知のはず。たった一人の血の繋がった弟君をお疑いになるなど、殿下もやはり今回のことではかなり心痛されておられるのですね……。あの、利発で美しく、天使のように素直なヨシュア様をお疑いになるなど……お顔立ちでそんなことをされるお人柄ではないことは一目瞭然です……」
ため息をついたアストリットの耳に、くっくっと低い笑い声が届いた。
「顔で良人と悪人を決めるのか。人を外見で判断するのは騎士精神としてどうなのだ?」
「いえ、顔を見ればわかります」
はっきりと肯定したあと、一呼吸置いた。
「その顔を見れば、殺意をもっているか、もっていないか。怯えているか、許しを請うているか……そういったことが一瞬でわかるのです。特に、闘っている兵士の顔には彼の生きて来た人生そのものが浮かぶのです。本当の悪人かそうでないか。それは自然と顔に出るのです。ですから、一番近くにいらっしゃる殿下がヨシュア様をお疑いになるなど……非常に残念です」
アストリットが静かに話し終えても、ミカは未だ笑いに口元を歪めたままだった。
何か私は誤解したのだろうか。笑われる理由が思い当たらず、彼女は、拳で口を抑えるミカを見上げて首を傾げた。
「わかったぞ、おまえは私を挑発しているのだな? 先ほどから随分大胆なことを言うと思って聞いていたが、その重なる、端で聞けば『不躾』とも取れる発言の数々は、怜悧な大尉殿の不注意ではなく、この間のように口を封じてもらいたいがためなのだな。気が付かず悪かった……」
「えっ……、それは、ちが……っ」
慌てて後ずさりするも、相手はにじり寄る。狭い馬車で二人の距離はあって無いようなものだ。
「近臣の願いに応えるのも、君主として持ち合わせたい配慮の一つだろう」
ゆっくりと伸びて来た両手が、壁際で体を固まらせているアストリットの頬を挟む。ミカの顔が傾き、近づく気配にアストリットは目をしっかりと閉じた。柔らかな息が唇にかかると、彼女の上唇は食まれていた。
「……んっ」
ぽうっと目の奥が熱くなり、ミカに上下の唇を啄まれている間に体の力が抜けて行く。ふっと緩んだ口に舌が乗る。アストリットは自らそれを迎えていた。森でたった一度与えられた快感が、瞬く間に呼び起こされる。
今度は伺うような素振りを全く見せず、割り込んで来たミカは、緩慢とも言える動きでアストリットの舌を捕らえ、大胆に絡み付かせた。その刹那、アストリットの全身が愉悦に粟立つ。口内では二つの肉片がしとどに濡れながらすでに抱き合い、もみ合って、まるで再会を喜んでいるかのように身を擦り合わせている。
どうして、こんなに気持ちがいいの……。理性の抑制から逃避して、自分をあざ笑うように舌だけが淫らにミカと戯れている。
「ぁ……ふ……んっ」
くちゅりと音を立てて舌の裏側に潜り込んだミカの尖った舌先がアストリットをくすぐる。そして溢れた唾液がずっ、と音を立てて吸われた時、じん、と乳房の二つの尖端に熱が灯った気がした。
ミカは大きく顎を動かし、卑猥な水音をわざとたてながら、たっぷりと女の唇と舌を堪能した。
やっと顔を離した彼は、頬を火照らせながら広い開きの胸を大きく波打たせる護衛をちらりと一瞥して言った。
「靴よりもおまえはこっちに慣れた方がいいんじゃないか? これしきのことなら、いつでも私が相手になってやるぞ。男を捜す手間も省けるだろう」
「あ……、ありがたきお言葉……。しかし、そのお心遣いは私のようなものには過分でございます。殿下のお手を煩わせるなど……」
「必要ない、というのだな」
「え……」
「慣れる必要がないと言うくらい達者であれば、それを証明してみろ」
「証明……といいますと」
「おまえから私にしてみせろと言うのだ。その頭は飾りか」
ふん、とミカは今一度鼻を鳴らした。
「口では一人前のことを言っておきながら、いざ自分の無能さが露呈されるとなると尻込みをする。そんな臆病者の大尉に付いている部下も同じようなな者の集まりなのだろうな。総指揮長も人選を誤ったようだ。帝国騎士団を名乗るものが……嘆かわしい」
アストリットは奥歯を噛んだ。
ミカの言葉が、憎い。今まで自分を甘く覆っていたミカの唇が、憎い。いや、そのキスに酔っていた自分が憎い。
あまりにも理不尽だ……殿下の要求はただ私を辱めるだけのものだと、子供でも気がつくだろう。私だけを愚弄するならまだ耐えられる。しかし、私の部下や父までも侮辱するとは……。
私が要望に応えることで今の発言が殿下の心中で撤回されるなら……。
「目を……閉じていただけますか……」
両手でぎゅっとスカートを掴む。決意したものの、彼女は消え入りそうな声でやっとそれだけ言った。
返事の代わりにミカは素直に瞼を閉じた。薄青の瞳が消えると彼女はミカの胸に手を添え、顔を上げてまだ濡れている唇に自分のをそっと吸い付かせた。
朝食後、ミカが執務室にいる間は庭で王室警備隊の騎士と剣を合わせたり、執務後の殿下の午後の遠乗りや狩りの供をしたり、貴族に招待された夜会や園遊会の同伴にとアストリットの仕事はいたって普通の身辺護衛のそれだった。
城外を守るのが帝国騎士団ならば、城内を守るのは主として王室警備隊である。
その憲兵たちには貴族の出が多い。大抵趣味の延長で、私立の武術学校にてそこそこの剣術、護身術を心得た者が王室警備隊に志願する。アストリットは時間を見つけてはそれらの憲兵たちを鍛えることに専念した。
彼女が帝国騎士団に入団して今年で十一年になる。入団は父、ガレスの独断であったが、彼女が騎士群の軍服を着るようになってからはガレスは父ではなく上司という立場に一貫し、娘として一切の甘えを許さず、他の騎士たちと同様に接した。それでもアストリットはそれを寂しいとは思わず、正義を愛する公明正大な父の娘であることを常に誇りに思いながら今日までその背中に付いて来た。
そんな彼女にとって、病で死に別れた母の面影は薄い。
母はアストリットが六歳になると街でも伝統ある女学校に姉フリーダに続けて入れ、ガレスが次女を七歳で騎士団に入団させた時には、当時の副指揮長ガレス・ローゼナウに向かってこれまで見せたことのない憤慨を表した。
結局、ガレスは妻の気持ちを考慮し、アストリットは十六で卒業するまで女学校と騎士団寄宿舎を往復する生活を強いられることになった。
そのために母親の記憶は七歳からほとんどなかったが、ペトラの柔らかなドレスの絹ごしに伝わる温もりと、焼き菓子の香り、風邪薬の茶色い小瓶を持つ白い手、頬や額に触れる唇の柔らかさ、得意の手料理の数々。それらは少なくとも、愛情という形見としてアストリットの胸にしっかり残されていた。
ある朝、アストリットは小食堂へ向かう途中に側近や侍女たちが普段よりも忙しく動き回っているのに気がついた。衣装箱を二人がけで運ぶ近臣たちが何組もすれ違い、城の出口へ向かって行く。
「あの……、これは何の騒ぎです?」
ちょうど向かいから来た侍女を呼び止めると、彼女は美しい刺繍の入った掛布を胸の前に積み重ねたそれに、顎を埋めるようにして答えた。
「本日より殿下が夏の離宮で過ごされるということで、その準備でございます。外の馬車に殿下のご入用になるものをすぐに積み込まなくてはなりません。準備が整い次第出発とのことですので。それでは失礼して……」
侍女は黒いスカートの裾を翻し、足早に行ってしまう。
夏の、離宮……? 寝耳に水だった。数日前にダウソンと打ち合わせした殿下の『本日の予定』に、そんな事項はなかった。ダウソンが言い忘れたのだろうか。家臣がこれだけ慌てているのなら、ミカにも出発の準備があるだろう。早々に食事を済まされているかもしれない。
料理人たちが野菜や腸詰めの入った籠を運んで行くのを見ながらアストリットも食堂へ急いだ。
「おはようございます、大尉殿」
ダウソンがいつも通りの形式張ったお辞儀で迎える。
朝日のたっぷり射し込んだ食堂にミカの姿は無く、テーブルに用意された二人分の食器もまだ空のまま、その金で装飾された縁が光輝いていた。
「殿下は……」
「ただ今いらっしゃいます」
主よりも先に席に着くわけにはいかない。彼女は椅子の後ろに立ったまま、隣のダウソンに顔を向けた。
「あの、今日は殿下が夏の離宮に……」
アストリットが言いかけた時、ちょうどミカが食堂に入って来た。慌てて膝を折る。
「おはようございます、殿下。ご機嫌麗しく」
「大尉殿も元気そうで何より」
そよ風ほども気にならない様子でアストリットをあしらうと、席に着いたミカは上機嫌で両手を広げた。
「さあ、これから半日ほど遠出することになる。しっかり食べておかねばな」
「私は何も聞いておりませんが……」
ちらりと横目でミカをみながら、彼女は礼儀を欠かない程度に漏らした。王子の眉間に薄く皺が浮かぶ。
「今言っただろう。どんな予定にも臨機応変に行動するのが身辺警護ではないのか」
そう言われてしまえば何も返せない。アストリットは小さく吐息をもらした。
「この場合は”予定”というよりも”思いつき”という感が否めませんが、それでもまだ事前に私にお知らせしてくださっただけでもありがたいことでございます」
すかさず割り込んで来たダウソンの言葉にミカは虚をつかれたように一瞬、表現を固まらせて筆頭執事を見たが、すぐに平静を繕い、用意されたオートミールに取りかかった。
ダウソンの言葉には暗にミカの”お忍び”に対する小さな非難が含まれていたのだろう。王室に仕えて既に四十年を数えているダウソンの前に、そのミカの姿は伯父に咎められた少年のようで、アストリットは自然と笑みの浮かんでくる口元に慌てて紅茶のカップを付けた。
朝食後に自分の旅支度も整えようと部屋に戻れば、それはすでにモニカの手によって済まされており、早く外に出るよう急き立てられた。
庭の萌える緑を背にして、王族の紋章の付いた十台の豪華絢爛な馬車がそれぞれに、これまた美しい装いの御者と馬丁を従えて列をなしていた。そのあまりのきらびやかな様子に目を奪われたアストリットは、石段を降りる時、思わずスカートの裾を踏み、前にいたマーリングの肩に手を付いた。
「大丈夫ですか、大尉殿」
「すみません、靴がいつもより少し踵が高いものでして。慣れていないとこのような不体裁な姿をお見せすることになりますね。お恥ずかしいです。私には剣術よりも歩く訓練が必要かもしれません」
今や、紳士然とアストリットの手を取るマーリングに微笑むと、若い執事も同じように笑みを返した。
「いえ、必要なのは大尉殿の手をこうして常に握ってくださる殿方ではありませんか? その方がいつも隣にいれば、どんなに高い靴を履いていても転ぶ心配はいりません」
「そう言われればそうですね」
そのやり取りを前で聞いていたらしいミカは、石段を降りる足を止めると肩越しに振り向き、笑みを交えて談笑を続ける二人に冷ややかな視線を流した。
「男を捜す手間をかけるより、大尉殿の場合、剣を杖代わりにしたら一石二鳥ではないか」
ミカの機嫌の良くないことはその声音から瞭然だ。自分たちの他愛無い会話がどうしてか主人の機嫌を損ねたことに戸惑いながら、その不機嫌な背中のあとを黙って追った。
馬車が走り出す。ミカと隣り合わせに、しばらく揺られていたアストリットは、むっつりと口を結んだ主を横目で見ながら、この気詰まりな雰囲気を変えようと当たり障りの無い話題を探した。
そして、本来の仕事も兼ねていくつか質問をしようとアストリットは、体ごとミカに向いた。
「あの……、殿下は脅迫状の届いたと思われる時間は国王と謁見中とのことでしたが」
「それはダウソンが証言しただろう。なんだ、おまえは国王を疑っているのか。好き勝手をして王室の秩序を乱す私が邪魔だと。脅迫状で私が怯えて大人しくなると思っていれば、国王の平和主義も少し度が過ぎるているというものだ」
「いえ、そこまでは言っておりませんが……」
ミカの拳が膝の上でぴくりと動いたのに気づいた彼女は怯えに両肩を寄せた。
「ならば、私を疑っているのか」
「いえ! そんなことは少しも……。なぜ殿下ご自身がそんな悪戯を? 動機が無いではありませんか。申し訳ございません……、質問を変えましょう。それでは殿下に恨みを持たれている女性に……」
言いかけたアストリットは、自分の方へゆっくりと殿下が顔を動くのを見て、失言を悟った。しかし、飲み込むにはもう遅い。
また同じ過ちを繰り返してしまった……。どうして私は女性のことを聞こうなんて思ったのだろう。他にも聞くべきことはあるのに……。よりによって……。
ミカはそれが気の利いた冗談であるかのように口を歪めた。それはアストリットの微かな勇気を呼び戻した。
「なんだ、私の女関係が気になるのか」
「いえ、男か女か絞られるだけでも犯人の目星をつけるのに大いに役立ちます」
そうだ、無意識だったがそれが質問の意図だったのだ。アストリットは思わず胸中で大きく頷く。一方のミカは、あまりにもきっぱりと否定した彼女に向かって「ふん」と鼻白んだように顎を上げた。
「それならヨシュアはどうだ。動機は王位継承権だ。私を消せば邪魔者はいなくなる。脅迫状は犯人は外部にいると思わせるためだ。ヨシュアを捕らえれば、私の身に何も起こらないだろう。試してみればいい」
「それはどうでしょう。ヨシュア様は城の中でも外でも不自然でなく殿下のお側にいられます。それなら、ご自分に容疑がかかりにくい機会を見てお酒や食事に毒を盛ってしまった方が、わざわざ脅迫状をちらつかせて警護を強化されるよりよっぽど簡単に、手っ取り早く目的が果たせます」
「……手っ取り早い……」
専属護衛の口から初めて聞く、王子殿下に対して乱暴とも思える発言にミカは珍しく当惑の表情を浮かべたが、相手の胸元に目を落しながら熱く自説を説きだしたアストリットはそれに気づかない。それどころか高揚する気持ちを抑えきれない様子で先を続ける。
「そうは申しましたが、殿下、お言葉を返すようですが、ヨシュア様はそんな悪事を企むようなお方でないのは殿下が一番ご存知のはず。たった一人の血の繋がった弟君をお疑いになるなど、殿下もやはり今回のことではかなり心痛されておられるのですね……。あの、利発で美しく、天使のように素直なヨシュア様をお疑いになるなど……お顔立ちでそんなことをされるお人柄ではないことは一目瞭然です……」
ため息をついたアストリットの耳に、くっくっと低い笑い声が届いた。
「顔で良人と悪人を決めるのか。人を外見で判断するのは騎士精神としてどうなのだ?」
「いえ、顔を見ればわかります」
はっきりと肯定したあと、一呼吸置いた。
「その顔を見れば、殺意をもっているか、もっていないか。怯えているか、許しを請うているか……そういったことが一瞬でわかるのです。特に、闘っている兵士の顔には彼の生きて来た人生そのものが浮かぶのです。本当の悪人かそうでないか。それは自然と顔に出るのです。ですから、一番近くにいらっしゃる殿下がヨシュア様をお疑いになるなど……非常に残念です」
アストリットが静かに話し終えても、ミカは未だ笑いに口元を歪めたままだった。
何か私は誤解したのだろうか。笑われる理由が思い当たらず、彼女は、拳で口を抑えるミカを見上げて首を傾げた。
「わかったぞ、おまえは私を挑発しているのだな? 先ほどから随分大胆なことを言うと思って聞いていたが、その重なる、端で聞けば『不躾』とも取れる発言の数々は、怜悧な大尉殿の不注意ではなく、この間のように口を封じてもらいたいがためなのだな。気が付かず悪かった……」
「えっ……、それは、ちが……っ」
慌てて後ずさりするも、相手はにじり寄る。狭い馬車で二人の距離はあって無いようなものだ。
「近臣の願いに応えるのも、君主として持ち合わせたい配慮の一つだろう」
ゆっくりと伸びて来た両手が、壁際で体を固まらせているアストリットの頬を挟む。ミカの顔が傾き、近づく気配にアストリットは目をしっかりと閉じた。柔らかな息が唇にかかると、彼女の上唇は食まれていた。
「……んっ」
ぽうっと目の奥が熱くなり、ミカに上下の唇を啄まれている間に体の力が抜けて行く。ふっと緩んだ口に舌が乗る。アストリットは自らそれを迎えていた。森でたった一度与えられた快感が、瞬く間に呼び起こされる。
今度は伺うような素振りを全く見せず、割り込んで来たミカは、緩慢とも言える動きでアストリットの舌を捕らえ、大胆に絡み付かせた。その刹那、アストリットの全身が愉悦に粟立つ。口内では二つの肉片がしとどに濡れながらすでに抱き合い、もみ合って、まるで再会を喜んでいるかのように身を擦り合わせている。
どうして、こんなに気持ちがいいの……。理性の抑制から逃避して、自分をあざ笑うように舌だけが淫らにミカと戯れている。
「ぁ……ふ……んっ」
くちゅりと音を立てて舌の裏側に潜り込んだミカの尖った舌先がアストリットをくすぐる。そして溢れた唾液がずっ、と音を立てて吸われた時、じん、と乳房の二つの尖端に熱が灯った気がした。
ミカは大きく顎を動かし、卑猥な水音をわざとたてながら、たっぷりと女の唇と舌を堪能した。
やっと顔を離した彼は、頬を火照らせながら広い開きの胸を大きく波打たせる護衛をちらりと一瞥して言った。
「靴よりもおまえはこっちに慣れた方がいいんじゃないか? これしきのことなら、いつでも私が相手になってやるぞ。男を捜す手間も省けるだろう」
「あ……、ありがたきお言葉……。しかし、そのお心遣いは私のようなものには過分でございます。殿下のお手を煩わせるなど……」
「必要ない、というのだな」
「え……」
「慣れる必要がないと言うくらい達者であれば、それを証明してみろ」
「証明……といいますと」
「おまえから私にしてみせろと言うのだ。その頭は飾りか」
ふん、とミカは今一度鼻を鳴らした。
「口では一人前のことを言っておきながら、いざ自分の無能さが露呈されるとなると尻込みをする。そんな臆病者の大尉に付いている部下も同じようなな者の集まりなのだろうな。総指揮長も人選を誤ったようだ。帝国騎士団を名乗るものが……嘆かわしい」
アストリットは奥歯を噛んだ。
ミカの言葉が、憎い。今まで自分を甘く覆っていたミカの唇が、憎い。いや、そのキスに酔っていた自分が憎い。
あまりにも理不尽だ……殿下の要求はただ私を辱めるだけのものだと、子供でも気がつくだろう。私だけを愚弄するならまだ耐えられる。しかし、私の部下や父までも侮辱するとは……。
私が要望に応えることで今の発言が殿下の心中で撤回されるなら……。
「目を……閉じていただけますか……」
両手でぎゅっとスカートを掴む。決意したものの、彼女は消え入りそうな声でやっとそれだけ言った。
返事の代わりにミカは素直に瞼を閉じた。薄青の瞳が消えると彼女はミカの胸に手を添え、顔を上げてまだ濡れている唇に自分のをそっと吸い付かせた。
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