9 / 29
第四章 2
しおりを挟む
ぴくん、と唇が震えたのは自分のか、相手のものか。
しかし、困ったことに次にどうすればいいかわからない。唇を押し付けているうちに胸の高鳴りは激しくなるばかりで、その息苦しさに、アストリットが離れようとしたそのとき、ミカが優しく彼女を吸った。そしてそれに倣うようにアストリットはミカの上唇を食んで、吸う。少しだけ相手の中に侵入させた舌先が、歯の硬い感触を拾う。その美しく並んだ歯列を辿るように舌を滑らせる。
美味しい。殿下の味……。
アストリットはやや大胆になり、ミカの舌を求めて潜り込ませた。しかし、柔らかな舌の表面をさらう間際に、相手はその小さな身を返して逃げてしまう。彼女は体を押し付けながら相手を捕らえようと無心にミカの口内を掻き回していた。しばらく逃げ回っていた相手は、今度はいきなりアストリットに挑み、絡み付いて飲み込まんとする勢いで吸い上げた。
「んぁ……っ……ン」
ぴりっと駆け抜けた戦慄に声を漏らす。強い刺激に思わず呆然としたアストリットの動きが止むと、密着していた唇が離れる。
「舌を出すんだ」
ミカの声は低く、艶かしい。
呪文に掛かったかのように、ぼうっとしたままアストリットは言われるままにくたりと舌を出す。その瞬間、主導権はミカに奪われ、口外に導かれた舌全体をぬるぬると何度も舐め上げられる。その感覚は、まるで体全体が粘膜の物の怪にでも侵されているかのようだ。ぞくりぞくりと繰り返し襲う官能の波に、ひくひくと、下腹部が戦慄く。
擦り合う粘膜の熱いうるみがそのまま体の中を通って脚の付け根から滲み出てくる錯覚にとらわれる。キスの数が重なる度、体の中で今まで知り得なかった小さな官能がぽっぽっと花を咲かせていく。
怖い。自分がこうして溺れて行くのが、怖い。キスだけではなく、もっともっと強い刺激を要求して体の奥が疼いている。
何が欲しいのか頭ではわからずとも、本能は全てを知っているようだ。そして本能は理性を打ち負かし、ただミカを求めてねだるようにその舌を吸っていた。
「ぁン……」
絡み付く舌と薄く開いた唇の狭間から甘い吐息が漏れる。すると、それに煽られたミカの舌は妖しく蠢く。もはや攻撃的と言ってもいい。
後頭部と背中にしっかり手を回され、甘美で堅牢な囲いの中で彼女はただミカに陵辱されるまま、その固い胸にしがみつく他術が無かった。
やっとミカが大人しくなった頃合いにアストリットが身を引くと、二人の間に甘いため息が小さく渦巻いた。すかさずミカは顔を傾け、首の根元から耳の下までその朱に染まった首をねっとりと舐め上げた。
「やぁっ……」
びくっと体をすくめ、思わず声を上げた。
「まだまだ、だな……」
そう言ってミカは眩しげに目をすがめると、彼女をぎゅっと強く抱き寄せ、髪に顔を埋めた。しかしそれもつかの間、すぐに自分から彼女を引き剥がした。
「このようなことで、私を恨む女性に心当たりがあるかと聞かれたら、答えは『いない』だ。……いや、それは正しくないな……」
そして潤んで揺れるエメラルドクリーンの瞳を見据えたまま継いだ。
「いるとしたら、それはおまえだろう」
ミカはそう言い捨てると、それから離宮に着くまでの間、ずっと窓の外を向いたまま女騎士を見ようとしなかった。
バスーラへ向かう本街道は、やがて連なる低い丘の奥へ入り込む道と分岐する。そこを鬱蒼とした森の方へ延々と進むと、やがてその道の終わりに屋根の四角い城館が姿を現す。
館の左翼と右翼の両翼には楼閣が突き出しており、どっしりと構えた邸宅の正面には湖と庭園、そして白い花が咲き乱れるりんご園を見下すテラスが張り巡らされている。二百年の時代を経た古い城館は、光をまき散らす湖を抱くようにひっそりと建っていた。
ミカの離宮滞在は十日ほどの予定であった。王族の休暇としては短い方だが、近い将来に王位を継ぐと噂されているミカには、その普段の公務の量から考えても贅沢である。
そして、たった十日の公休にしては用意周到で、俳優、音楽家、詩人、舞踏家、手品師、それらを合わせた他に料理人、侍女、馬丁、王室警備隊、五十名近い者が供に城館に”招かれて”いた。
そしてこの閉鎖された環境と限定された同居人を監視する憲兵は四人だった。しかもそのうち二人は夜勤のため昼間は休む。この広大な敷地に対してなんとものんきな警護であったが、それはもちろん全てミカの指示だ。
警備の数より音楽家の数が多いとは……。王子の無防備さに呆れつつ、一行が館につくと早速アストリットは敷地内外を点検して回った。
そしてその本人は、昼間から芝居を見たり、湖に船を浮かべて吟遊詩人の詩を聞いたり、散歩をしたり、湖に釣り糸を垂らしたと思えば、俳優や音楽家たちを集めてカード遊びやチェスに興じ(この遊びの場合のみ、手品師は排除された)、晩餐は踊り子の舞や楽団の音楽を心行くまで鑑賞し、休暇を満喫しているようだった。
そんなミカは、屋敷の外であろうが内であろうがアストリットに構うことは全く無く、朝夕の挨拶の他は言葉を交わすことはおろか、視線さえ合わせなかった。それは彼女にとってかなり辛い仕打ちだった。
十年以上も遠くから見つめるだけだった思い人が、ふと手を伸ばせば触れる距離にいる。地に伸びるミカの影の腕は、やや後ろを付いて行くアストリットのスカートの裾に触れさえする。それなのに。四六時中ミカの側にいても彼女はまるきり無視されているのである。むしろ”無視”というよりも、彼は身辺護衛の存在などすっかり忘れているかのようだった。
森での、馬車でのあの愛撫は、かき抱かれた手の感触、唇で受け止めた体温はもう一人の卑しい自分が見せた幻だったのか。
そんな考えに捕らわれてはアストリットは胸を痛め、ただ王子の背中を見守ることに日々努めた。
こんな放恣な生活で……こんな贅沢をしていていいのだろうか。
夕餉の後、王子はまだ客間でカード遊びに熱狂していたが、その彼の命令で憲兵と任務を交替したアストリットはベッドに入ると長いため息をついた。
国には飢えている者たちが今夜も夕食にありつけず、水を飲んで狭い寝床に家族身を寄せると言うのに……。
彼女は後ろめたさを感じつつ、客間にいるだろう次期国王の姿を瞼の裏に浮かべる。
部屋の至る所に置かれたランプの明かりは部屋の輪郭をぼんやりと演出するが、ミカの鼻梁はくっきりと美しい。薄く色づいた唇は、俳優たちが古《いにしえ》の喜劇作家から引用した、お世辞にも上品に聞こえない冗談にさえも婉然にほころぶ。いいカードが手持ちに来ると、手袋に包まれた長い指は軽くおとがいを撫でる。
前髪に隠れているが、きっと長い睫毛は瞳に影を落してその青を深めているに違いない。透明感のあるブロンズの髪は、うなじに沿ってその流れを止め、そこから肩の線が長く左右に広がる。カードに手を伸ばす度に動く肩甲骨の起伏。広い背。
その背中に刺客の矢が向けられた。
彼女の瞼に映し出された客間に、ミカの背中に向けて矢を構える刺客が姿を現す。供にテーブルを囲んでいた役者たちの姿は消え、ミカは一人、手の中のカードに見入っている。ぎりり、と弦の引かれる音が部屋に響く。アストリットは部屋の隅で金縛りにあったように動けない。自分は何かを叫ぶ。それでもミカは気がつかない。次の瞬間、矢が放たれる。
はっと目を見開くと、瞬く間にその弓も刺客の姿も部屋の闇に溶けた。うたた寝をしていたのか……。アストリットは大きく息を吐き、寝返りを打つ。すっかり目が覚めてしまった。
あれが本当に自分が心待ちにしていた”刺客”なのだろうか。
『人は見かけで決まる』
馬車の中でミカに豪語した自分の信条を曲げるつもりは無い。
森で矢を構えていた男は若かった。痩身。姿形はうろ覚えだ。それだけ特徴の無い男だった。しかし、その目は覚えている。黒い瞳。その眼差しだけははっきりと思い浮かべることが出来る。なぜなら
――その目には殺意が無かった。
アストリットの放った空砲が彼を驚かすと、まるで悪戯が見つかった子供のようにその瞳をくるりと巡らせたくらいだ。
そして、弓の構え。あれは独自に生み出したかたちだ。武術学校で教えられるものとは全く違う。
一体彼は何者なのだ。なぜ殿下を狙うのか。
ミカは逃げて行く刺客に気がついただろうか。それとも、あの場にいた他の者たちと同じように自分も『遊び』に加わったとでも思ったのだろうか。
『本気で臨まぬ遊びほど、無駄なものは無い』
ミカはきっぱりと言った。
そして……。
指先でふっくらとした唇に触れた。そして、それがミカのものであるかのように舌を這わせてみる。しかしそれは自分に応えもしないし、到底あの柔らかな感触とほど遠いと知り、落胆した。彼女は下ろされた天蓋の隙間から出て、窓を開けて空を仰いだ。夏でもひんやりとした夜風が気持ちよい。
無数の星に囲まれながら、細い三日月がひときわ明るく輝いていた。それが真下の湖の上で形を歪めて浮いている。りんご園は鬱蒼とした影の塊だった。
そう……月が常に空に浮かぶように、私の胸の中にはいつも殿下がいた。
そして月に決して手が届かないように、殿下にも私の手は決して届かない。ましてや私の気持ちなど、殿下にとって煩わしいだけ……。殿下にとって私はただのおもちゃでしかない。
それは馬車の中で弄ばれたときから気がついていたし、この離宮での自分へ対するミカの態度にもそれは瞭然だった。
アストリットはぽっかりと黒い口を開く湖に目を落した。
それでも……湖に、その水面に浮かぶ月になら手が届くはず。溺れても構わない。その月の光に触れることが出来たならば。その歪んだ月の中で溺れ死ぬのはまた、幸せなことかもしれない。
遊びでもいい。それが『本気』であれば、私も本気で殿下に遊ばれよう。もし、殿下が再び私を求められることがあれば……全身で応えよう……。
始めは違和感――それも反感に近い――しか持たなかったミカのその言葉も、今や全ての言い訳になるような気がした。
本気で打ち合えばたとえ折れた刃が跳ね返り、この胸に突き刺さっても悔いは無い。
しかし、困ったことに次にどうすればいいかわからない。唇を押し付けているうちに胸の高鳴りは激しくなるばかりで、その息苦しさに、アストリットが離れようとしたそのとき、ミカが優しく彼女を吸った。そしてそれに倣うようにアストリットはミカの上唇を食んで、吸う。少しだけ相手の中に侵入させた舌先が、歯の硬い感触を拾う。その美しく並んだ歯列を辿るように舌を滑らせる。
美味しい。殿下の味……。
アストリットはやや大胆になり、ミカの舌を求めて潜り込ませた。しかし、柔らかな舌の表面をさらう間際に、相手はその小さな身を返して逃げてしまう。彼女は体を押し付けながら相手を捕らえようと無心にミカの口内を掻き回していた。しばらく逃げ回っていた相手は、今度はいきなりアストリットに挑み、絡み付いて飲み込まんとする勢いで吸い上げた。
「んぁ……っ……ン」
ぴりっと駆け抜けた戦慄に声を漏らす。強い刺激に思わず呆然としたアストリットの動きが止むと、密着していた唇が離れる。
「舌を出すんだ」
ミカの声は低く、艶かしい。
呪文に掛かったかのように、ぼうっとしたままアストリットは言われるままにくたりと舌を出す。その瞬間、主導権はミカに奪われ、口外に導かれた舌全体をぬるぬると何度も舐め上げられる。その感覚は、まるで体全体が粘膜の物の怪にでも侵されているかのようだ。ぞくりぞくりと繰り返し襲う官能の波に、ひくひくと、下腹部が戦慄く。
擦り合う粘膜の熱いうるみがそのまま体の中を通って脚の付け根から滲み出てくる錯覚にとらわれる。キスの数が重なる度、体の中で今まで知り得なかった小さな官能がぽっぽっと花を咲かせていく。
怖い。自分がこうして溺れて行くのが、怖い。キスだけではなく、もっともっと強い刺激を要求して体の奥が疼いている。
何が欲しいのか頭ではわからずとも、本能は全てを知っているようだ。そして本能は理性を打ち負かし、ただミカを求めてねだるようにその舌を吸っていた。
「ぁン……」
絡み付く舌と薄く開いた唇の狭間から甘い吐息が漏れる。すると、それに煽られたミカの舌は妖しく蠢く。もはや攻撃的と言ってもいい。
後頭部と背中にしっかり手を回され、甘美で堅牢な囲いの中で彼女はただミカに陵辱されるまま、その固い胸にしがみつく他術が無かった。
やっとミカが大人しくなった頃合いにアストリットが身を引くと、二人の間に甘いため息が小さく渦巻いた。すかさずミカは顔を傾け、首の根元から耳の下までその朱に染まった首をねっとりと舐め上げた。
「やぁっ……」
びくっと体をすくめ、思わず声を上げた。
「まだまだ、だな……」
そう言ってミカは眩しげに目をすがめると、彼女をぎゅっと強く抱き寄せ、髪に顔を埋めた。しかしそれもつかの間、すぐに自分から彼女を引き剥がした。
「このようなことで、私を恨む女性に心当たりがあるかと聞かれたら、答えは『いない』だ。……いや、それは正しくないな……」
そして潤んで揺れるエメラルドクリーンの瞳を見据えたまま継いだ。
「いるとしたら、それはおまえだろう」
ミカはそう言い捨てると、それから離宮に着くまでの間、ずっと窓の外を向いたまま女騎士を見ようとしなかった。
バスーラへ向かう本街道は、やがて連なる低い丘の奥へ入り込む道と分岐する。そこを鬱蒼とした森の方へ延々と進むと、やがてその道の終わりに屋根の四角い城館が姿を現す。
館の左翼と右翼の両翼には楼閣が突き出しており、どっしりと構えた邸宅の正面には湖と庭園、そして白い花が咲き乱れるりんご園を見下すテラスが張り巡らされている。二百年の時代を経た古い城館は、光をまき散らす湖を抱くようにひっそりと建っていた。
ミカの離宮滞在は十日ほどの予定であった。王族の休暇としては短い方だが、近い将来に王位を継ぐと噂されているミカには、その普段の公務の量から考えても贅沢である。
そして、たった十日の公休にしては用意周到で、俳優、音楽家、詩人、舞踏家、手品師、それらを合わせた他に料理人、侍女、馬丁、王室警備隊、五十名近い者が供に城館に”招かれて”いた。
そしてこの閉鎖された環境と限定された同居人を監視する憲兵は四人だった。しかもそのうち二人は夜勤のため昼間は休む。この広大な敷地に対してなんとものんきな警護であったが、それはもちろん全てミカの指示だ。
警備の数より音楽家の数が多いとは……。王子の無防備さに呆れつつ、一行が館につくと早速アストリットは敷地内外を点検して回った。
そしてその本人は、昼間から芝居を見たり、湖に船を浮かべて吟遊詩人の詩を聞いたり、散歩をしたり、湖に釣り糸を垂らしたと思えば、俳優や音楽家たちを集めてカード遊びやチェスに興じ(この遊びの場合のみ、手品師は排除された)、晩餐は踊り子の舞や楽団の音楽を心行くまで鑑賞し、休暇を満喫しているようだった。
そんなミカは、屋敷の外であろうが内であろうがアストリットに構うことは全く無く、朝夕の挨拶の他は言葉を交わすことはおろか、視線さえ合わせなかった。それは彼女にとってかなり辛い仕打ちだった。
十年以上も遠くから見つめるだけだった思い人が、ふと手を伸ばせば触れる距離にいる。地に伸びるミカの影の腕は、やや後ろを付いて行くアストリットのスカートの裾に触れさえする。それなのに。四六時中ミカの側にいても彼女はまるきり無視されているのである。むしろ”無視”というよりも、彼は身辺護衛の存在などすっかり忘れているかのようだった。
森での、馬車でのあの愛撫は、かき抱かれた手の感触、唇で受け止めた体温はもう一人の卑しい自分が見せた幻だったのか。
そんな考えに捕らわれてはアストリットは胸を痛め、ただ王子の背中を見守ることに日々努めた。
こんな放恣な生活で……こんな贅沢をしていていいのだろうか。
夕餉の後、王子はまだ客間でカード遊びに熱狂していたが、その彼の命令で憲兵と任務を交替したアストリットはベッドに入ると長いため息をついた。
国には飢えている者たちが今夜も夕食にありつけず、水を飲んで狭い寝床に家族身を寄せると言うのに……。
彼女は後ろめたさを感じつつ、客間にいるだろう次期国王の姿を瞼の裏に浮かべる。
部屋の至る所に置かれたランプの明かりは部屋の輪郭をぼんやりと演出するが、ミカの鼻梁はくっきりと美しい。薄く色づいた唇は、俳優たちが古《いにしえ》の喜劇作家から引用した、お世辞にも上品に聞こえない冗談にさえも婉然にほころぶ。いいカードが手持ちに来ると、手袋に包まれた長い指は軽くおとがいを撫でる。
前髪に隠れているが、きっと長い睫毛は瞳に影を落してその青を深めているに違いない。透明感のあるブロンズの髪は、うなじに沿ってその流れを止め、そこから肩の線が長く左右に広がる。カードに手を伸ばす度に動く肩甲骨の起伏。広い背。
その背中に刺客の矢が向けられた。
彼女の瞼に映し出された客間に、ミカの背中に向けて矢を構える刺客が姿を現す。供にテーブルを囲んでいた役者たちの姿は消え、ミカは一人、手の中のカードに見入っている。ぎりり、と弦の引かれる音が部屋に響く。アストリットは部屋の隅で金縛りにあったように動けない。自分は何かを叫ぶ。それでもミカは気がつかない。次の瞬間、矢が放たれる。
はっと目を見開くと、瞬く間にその弓も刺客の姿も部屋の闇に溶けた。うたた寝をしていたのか……。アストリットは大きく息を吐き、寝返りを打つ。すっかり目が覚めてしまった。
あれが本当に自分が心待ちにしていた”刺客”なのだろうか。
『人は見かけで決まる』
馬車の中でミカに豪語した自分の信条を曲げるつもりは無い。
森で矢を構えていた男は若かった。痩身。姿形はうろ覚えだ。それだけ特徴の無い男だった。しかし、その目は覚えている。黒い瞳。その眼差しだけははっきりと思い浮かべることが出来る。なぜなら
――その目には殺意が無かった。
アストリットの放った空砲が彼を驚かすと、まるで悪戯が見つかった子供のようにその瞳をくるりと巡らせたくらいだ。
そして、弓の構え。あれは独自に生み出したかたちだ。武術学校で教えられるものとは全く違う。
一体彼は何者なのだ。なぜ殿下を狙うのか。
ミカは逃げて行く刺客に気がついただろうか。それとも、あの場にいた他の者たちと同じように自分も『遊び』に加わったとでも思ったのだろうか。
『本気で臨まぬ遊びほど、無駄なものは無い』
ミカはきっぱりと言った。
そして……。
指先でふっくらとした唇に触れた。そして、それがミカのものであるかのように舌を這わせてみる。しかしそれは自分に応えもしないし、到底あの柔らかな感触とほど遠いと知り、落胆した。彼女は下ろされた天蓋の隙間から出て、窓を開けて空を仰いだ。夏でもひんやりとした夜風が気持ちよい。
無数の星に囲まれながら、細い三日月がひときわ明るく輝いていた。それが真下の湖の上で形を歪めて浮いている。りんご園は鬱蒼とした影の塊だった。
そう……月が常に空に浮かぶように、私の胸の中にはいつも殿下がいた。
そして月に決して手が届かないように、殿下にも私の手は決して届かない。ましてや私の気持ちなど、殿下にとって煩わしいだけ……。殿下にとって私はただのおもちゃでしかない。
それは馬車の中で弄ばれたときから気がついていたし、この離宮での自分へ対するミカの態度にもそれは瞭然だった。
アストリットはぽっかりと黒い口を開く湖に目を落した。
それでも……湖に、その水面に浮かぶ月になら手が届くはず。溺れても構わない。その月の光に触れることが出来たならば。その歪んだ月の中で溺れ死ぬのはまた、幸せなことかもしれない。
遊びでもいい。それが『本気』であれば、私も本気で殿下に遊ばれよう。もし、殿下が再び私を求められることがあれば……全身で応えよう……。
始めは違和感――それも反感に近い――しか持たなかったミカのその言葉も、今や全ての言い訳になるような気がした。
本気で打ち合えばたとえ折れた刃が跳ね返り、この胸に突き刺さっても悔いは無い。
0
あなたにおすすめの小説
初夜に暴言を吐いた夫は後悔し続ける──10年後の償い【完結】
星森 永羽(ほしもりとわ)
恋愛
王命により、辺境伯ロキアのもとへ嫁いだのは、金髪翠眼の美しき公爵令嬢スフィア。
だが、初夜に彼が告げたのは、愛も権限も与えないという冷酷な宣言だった。噂に踊らされ、彼女を「穢れた花嫁」と罵ったロキア。
しかし、わずか一日でスフィアは姿を消し、教会から届いたのは婚姻無効と慰謝料請求の書状──。
王と公爵の怒りを買ったロキアは、爵位も領地も名誉も奪われ、ただの補佐官として生きることに。
そして十年後、運命のいたずらか、彼は被災地で再びスフィアと出会う。
地位も捨て、娘を抱えて生きる彼女の姿に、ロキアの胸に去来するのは、悔恨と赦しを乞う想い──。
⚠️本作はAIの生成した文章を一部に使用しています。
【完結】皇太子の愛人が懐妊した事を、お妃様は結婚式の一週間後に知りました。皇太子様はお妃様を愛するつもりは無いようです。
五月ふう
恋愛
リックストン国皇太子ポール・リックストンの部屋。
「マティア。僕は一生、君を愛するつもりはない。」
今日は結婚式前夜。婚約者のポールの声が部屋に響き渡る。
「そう……。」
マティアは小さく笑みを浮かべ、ゆっくりとソファーに身を預けた。
明日、ポールの花嫁になるはずの彼女の名前はマティア・ドントール。ドントール国第一王女。21歳。
リッカルド国とドントール国の和平のために、マティアはこの国に嫁いできた。ポールとの結婚は政略的なもの。彼らの意志は一切介入していない。
「どんなことがあっても、僕は君を王妃とは認めない。」
ポールはマティアを憎しみを込めた目でマティアを見つめる。美しい黒髪に青い瞳。ドントール国の宝石と評されるマティア。
「私が……ずっと貴方を好きだったと知っても、妻として認めてくれないの……?」
「ちっ……」
ポールは顔をしかめて舌打ちをした。
「……だからどうした。幼いころのくだらない感情に……今更意味はない。」
ポールは険しい顔でマティアを睨みつける。銀色の髪に赤い瞳のポール。マティアにとってポールは大切な初恋の相手。
だが、ポールにはマティアを愛することはできない理由があった。
二人の結婚式が行われた一週間後、マティアは衝撃の事実を知ることになる。
「サラが懐妊したですって‥‥‥!?」
王子を身籠りました
青の雀
恋愛
婚約者である王太子から、毒を盛って殺そうとした冤罪をかけられ収監されるが、その時すでに王太子の子供を身籠っていたセレンティー。
王太子に黙って、出産するも子供の容姿が王家特有の金髪金眼だった。
再び、王太子が毒を盛られ、死にかけた時、我が子と対面するが…というお話。
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
私の息子を“愛人の子の下”にすると言った夫へ──その瞬間、正妻の役目は終わりました
放浪人
恋愛
政略結婚で伯爵家に嫁いだ侯爵令嬢リディアは、愛のない夫婦関係を「正妻の務め」と割り切り、赤字だらけの領地を立て直してきた。帳簿を整え、税の徴収を正し、交易路を広げ、収穫が不安定な年には備蓄を回す――伯爵家の体裁を保ってきたのは、いつも彼女の実務だった。
だがある日、夫オスヴァルドが屋敷に連れ帰ったのは“幼馴染”の女とその息子。
「彼女は可哀想なんだ」
「この子を跡取りにする」
そして人前で、平然と言い放つ。
――「君の息子は、愛人の子の“下”で学べばいい」
その瞬間、リディアの中で何かが静かに終わった。怒鳴らない。泣かない。微笑みすら崩さない。
「承知しました。では――正妻の役目は終わりましたね」
つまらない妃と呼ばれた日
柴田はつみ
恋愛
公爵令嬢リーシャは政略結婚で王妃に迎えられる。だが国王レオニスの隣には、幼馴染のセレスが“当然”のように立っていた。祝宴の夜、リーシャは国王が「つまらない妃だ」と語る声を聞いてしまい、心を閉ざす。
舞踏会で差し出された手を取らず、王弟アドリアンの助けで踊ったことで、噂は一気に燃え上がる――「王妃は王弟と」「国王の本命は幼馴染」と。
さらに宰相は儀礼と世論を操り、王妃を孤立させる策略を進める。監視の影、届かない贈り物、すり替えられた言葉、そして“白薔薇の香”が事件現場に残る冤罪の罠。
リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
恋愛
王妃は自分の人生を憂いていた。国王が王子の時代、彼が六歳、自分は五歳で婚約したものの、顔合わせする度に喧嘩。
しかし王妃はひそかに彼を愛していたのだ。
仲が最悪のまま二人は結婚し、結婚生活が始まるが当然国王は王妃の部屋に来ることはない。
そればかりか国王は側室を持ち、さらに二人目の側室を王宮に迎え入れたのだった。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる