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第四章 5
しおりを挟むもぞもぞと、腕から抜け出そうとしたアストリットの気配にミカは目を覚ますと、今まさにすり抜けようとする女のくびれを掴んで強く引き戻した。腕の中で頬を染めて気まずそうにしている逃亡者を閉じ込めながら、従者には必要の無いはずの懐柔を試みた。
「もう昼前だろう。さすがに腹が減ったな。何か持ってこさせよう。どんな国の料理でも食べたいものがあれば言ってみろ。料理人たちの腕はリューベンスブルグの財産と言っても過言ではない」
「それはもう、殿下のお側にお仕えした日から食事の度に自分の幸せを噛み締めずにいられません」
アストリットは胸元を気にしながらさらにシーツを引き上げた。
「なんだ、おまえの幸せは胃袋で決まるのか。随分単純だな。しかし、私が聞きたいのはそんなことではない」
そうは言いつつも、その目は穏やかだ。「おまえの好物は何だ」と、答えを急かす。もしかしたら殿下は相当空腹なのかもしれない。機嫌が悪くなれば八つ当たりの矛先は必ず自分へ向かってくるだろう。アストリットは少し考え、そしてすぐにぱっと瞳を輝かせた。
「殿下のお食事、私がご用意させていただいてもよろしいでしょうか。短時間で出来ますし、私の一番好きな朝食なのです」
鎧戸から射し込む黄色い光に、新鮮な色香を体から漂わせている専属護衛の申し出にミカは瞠目したが、次の瞬間にはそれは楽しむように細められた。
「よかろう。しかし、毒は盛ってくれるな」
「ご心配でしたら、殿下もご覧になりませんか? 実は、私が作ろうとするものはローゼナウ家の極秘レシピなのです」
「ほう。面白そうだな」
ミカの許可をもらい、早速張り切って身を起こした身体からシーツが滑り落ちる。ミカの目の前にまろやかな盛り上がりが露になると、彼は一晩かけて侵略した軌跡――それは身体中ほとんどの場所であった――を辿るように手を這わせながら、声に笑いを含めた。
「おまえの秘密は昨夜、全て暴いたと思ったが……?」
「で、殿下……!」
邪険に手を払おうにも払えず、彼女は眉尻を下げ、顔をまっ赤にしながら、蠢く指にそそのかされ始めた悦びを抑えるべく、シーツを掴んだ。
「お腹が……空かれて、いるのでは……」
吐息の合間にやっと牽制の言葉を紡ぎだすと、ミカは乳首を歯に挟んだまま思い出したように「ああ、」と口の中で言った。音を立てて赤い蕾を強く吸い、やっと体を起こす。
「少し待ってろ」
そう言って全裸のままベッドを下りて続きの間に姿を消したと思うと、やがて金のたらいに水を満たして戻って来た。ナイトテーブルにそれを置き、中に沈んでいた布を絞る。ベッドの上で、シーツを体に巻き付けて不思議そうに見ているアストリットの横に座ると、柔らかな手つきで彼女の頬を拭った。アストリットは思わず身を引いた。
「で、殿下! な、何をされて……!」
「わからぬか? 体を拭くのだ。それともおまえは私の残滓を全身に纏ったまま過ごしたいのか? 大尉殿にそんな趣味があるとはまた意外だ」
「そそそそうではなくて! じ、自分でします! いや、殿下のお体も私が清めますので!」
「どのように?」
「は?」
「おまえが口で、舌で私を清めるのなら任せよう。しかし、そうでなければおまえは何もしなくてよい」
薄く笑いを浮かべながらも、有無を言わさぬ語気でアストリットの申し出を払いのけたミカに結局体中を丁寧に拭われると、アストリットはやっと服を着けることが出来た。その後ミカも自分でさっさと支度を済ませ、二人は揃って部屋を出た。
どんな時間でも常に主人の舌と胃袋を満足させるために料理人が厨房に待機しているわけだが、そのときも八人のうち三人の料理人が大鍋を洗ったり、芋の皮を剥いていたりと勤勉に働いていた。
アストリットは自分が来た事情を、パン生地を捏ねている者に話し、昨日の残りの固くなったパンと、卵と、ミルク、バター、砂糖とバニラビーンズ、卵焼き専用のフライパンを借り、調理台に立った。もう一人はかまどに火を入れ始め、残りの一人は、芋を持ったままの手を止めて、この騎士らしからぬ――艶やかな――騎士が、剣の代わりにフォークを手にし、王子を人質に自分の聖域を占領しているのを不服そうに見ていた。
そして王子殿下の手が革手袋で包まれていないのに気がつくと、目を見開いた。しばらくその手を凝視し、そこに自分の記憶に残る革手袋の残像を無理矢理はめると、皮むきを再開した。
「『哀れな騎士』というのです」
彼女は手際よく材料を並べながらミカに微笑みかけた。
ミカはその隣に立ち、手品の仕掛けを見逃すまいといった面差しでその手元を見ている。
硬い皮に手こずる様子を見せて、パンを一センチほどの厚みに切ると、次に卵を器の縁に打ち付ける。
「戦が無ければ職のない騎士は貧しかったからな。固くなったパンをうまく食べるために工夫したものか」
「そうだと思います。そんな料理を殿下に食べていただくのはどうかと思ったのですが、これは私の亡き母が教えてくれた料理の一つなのです。私はこれが大好きで、熱が出て食欲の無いときでもこれだけは食べることができました。消化もよく、朝食にはぴったりです」
器に入ってしまった卵の殻をアストリットは慎重に指で取り出した。その手をミカが横からそっと取り上げ、関節に視線を落しながらそれを指の腹でゆっくりと撫でる。
「折れたのはどの指だ?」
「え……?」
唐突な質問に戸惑うも、アストリットは答えた。
「右手は中指と薬指、小指。左は人差し指と手首に何度かヒビが入りました。あとは肋骨が何度か」
「痛かったか」
ミカはアストリットの瞳を見据えたままだ。
「それはもう」
熱い眼差しとそのささやかな愛撫に、アストリットは困ったようにはにかむ。彼女は気にするように目だけで料理人たちを探したが、すでに彼らの姿は無かった。
「痛みを与えた男たちを覚えているか」
「そんな……。そのときは激痛が走りますが、なにしろ必死ですし、だいぶ昔のことなので覚えていません」
「それはよかった……。痛みを与えることでおまえの記憶に残るならそれを考えなくもない。しかし、私にはつらいところだからな」
そう言うと彼は小さな関節に軽く歯を立てた。
胸が、痛い。敵の兵の攻撃を真っ向から受けとめ指が折れても、今感じているような痛みは胸に響かない。
慌ててミカから手を抜くと、目を伏せた。
「お、お待たせして申し訳ございません。殿下はお腹が減ってるのですよね。すぐに焼いてしまいます」
それからフォークで手早く器の中でミルク、砂糖をかき混ぜた。バニラビーンズのさやにナイフで切れ目を入れ、扱きだした種をそこへ加える。
「これが、我が家だけの秘密なんです」
「この、ひからびた未熟な黒インゲンみたいなものがか」
王子は細いさやを摘んで珍しそうにしげしげと見た。
「バニラという植物の種子で、とても甘い香りがするのです。高価で庶民にはめったに手に入らないものなのですが……ほら、殿下がお好きでよく召し上がるプディングにも使われているのですよ。私の母は料理は人に全てを任せず、家族の食事は彼らと一緒に作っていました。香りや彩りにこだわるほうでして、特にバニラビーンズは、私たち子供がこの甘い香りを喜ぶというのも理由ですが、なんとか取り寄せていました。それにしても、当然のことながら王家の台所にはなんでも揃っているんですね」
話しながらもアストリットの手は動き続け、バターが溶け出し、黄色い泡がふつふつと湧き上がって来たフライパンの上に、液に浸したパンを並べ終えていた。
綺麗に薄く焦げ目の付いた『哀れな騎士』の載った皿が、拭かれて清潔で巨大な調理台の片隅に並べられた。
「せっかくですから、出来立てを食堂ではなく、温かいうちにここで召し上がるのはいかがですか」
アストリットがナイフとフォークを引き出しから出して振り向き様に尋ねると、ミカは「そうだな」と年期の入った木の丸椅子を二脚並べた。その一つは先ほどまで芋の皮を剥いていた料理人が座っていたものだった。
彼女は湯気を立てている釜から紅茶の葉を入れたポットに湯を注ぐとカップを持ってミカの隣に座った。
「お口に合えばよろしいのですが」
一口食べたミカは彼女を一瞥し、「うむ」と小さく唸った。そしてすぐに二口目にとりかかる。アストリットはほっとすると、自分もフォークを口に運び始めた。
会話はほとんどない代わりに、カップが受け皿に当たる音、フォークとナイフが皿を小さく擦る音がキッチンに小気味よく響いた。窓から降り注ぐ昼下がりの淡い光にバニラの香りが漂い、二人を優しく包んでいた。
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