かの騎士、王子殿下専属につき

久保 ちはろ

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第五章 2

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 自室に控えるアストリットの横顔が、書き物机のランプの光で浮かび上がる。彼女はヨシュアに借りた本を読んでいたが、だいぶ読み進んだところで喉の渇きを覚えて部屋の中央の丸テーブルまで行くと、水差しから杯に注いだ水を飲んだ。マントルピース上の時計を見ると十一時を回った所だった。
 その時、ごとん、と隣の部屋から音がした。絨毯に何か重いものが落ちた音。
 アストリットは水差しの脇に置いてあった短剣を手にすると身を固くし、耳を澄ませた。やがてかちゃりとドアを閉める微かな音がその耳に届いた。アストリットは廊下に躍り出る。黒マントの長身の背中を見つけると、声を張った。
「曲者! 止まれ! 止まらぬとおまえの背にこの刃が食い込むぞ」
 意外にも素直に男は足を止め、ゆっくりと体の向きを変えた。
「それを投げるのは止めてくれ。私だ、大尉殿」
 黒いマントのフードがぱさりと払われ、ミカの顔が現れた。アストリットは確認のために主人に近づいた。
「殿下、こんな時間にどこへ行かれるのです」
「おまえこそ大体どうして寝ていないのだ」
 質問を質問で答えるのは、ミカの後ろめたさを十分物語っていた。
「夜勤の憲兵が体調を崩したので、私が今夜は彼の替わりに。殿下のお部屋から物音がしたので、刺客かと」
「ああ、ワインのボトルが肘に当たって落してしまった」
「すぐに塩をお持ちしましょうか。絨毯の染みを……」
「よい。どうせ空だった。しかし余計なことを。警備隊員など腐るほどいるだろうが……」
 舌打ちまでし、忌々しげにアストリットを見下ろしたが、すぐに手で口元を押さえると平常の顔に戻る。
「おまえは見なかったことに」
「そうは参りません。お部屋にお戻りください」
「重大な用だ。どうしても行かねばならぬのだ」
 その真剣な様子がいかにも白々しい。
「こんな夜中にですか」
 なんて諦めが悪いのだろう。遊びに行くのは自明の理であるのに。それでも彼女は、内心呆れながらもこのやりとりを楽しんでいた。そしてふと悪戯心が湧いてくる。まさかとは思いつつ、その妙案をつい口にしていた。
「私を同伴されるのなら、このことは口外致しませんが」
 目が慣れた暗がりで、ミカが驚きに口を薄く開けたのがわかった。それでも彼はその申し出を受けて出る利益と不利益とを天秤にかけているようだ。
「よかろう。だが、おまえは私の影だ。邪魔はするな。早く支度をして来い」
「御意」
 ミカの言葉に、今度は驚かされたのはアストリットの方だったが、それを顔には出さず、急いで部屋に戻ると短剣を脚に装着し、マントを被った。
 城の裏手には、石壁に埋まった大人一人がやっと通り抜けられるほどの鉄扉があった。ミカは鍵を持っていて、それを使って難なく外に出るとすぐ、アストリットの手を取った。
「転んで声をあげられても困るからな」
 確かに城の裏は手入れがおろそかになっていた。踏みならされ、かろうじて出来た道には大きさの不揃いな石が転がっており、その間からは雑草が伸び放題である。ぐるりと城壁を半分ほど周って正面の馬車道に出た。馬を使わないのは、馬丁に気づかれない用心だろう。
 新月の夜だった。なだらかな下り坂で、木の影がぽつんぽつんと視界に入る。
 殿下はこの闇に紛れて出掛けているのか。
 手を取られたときは、柔らかな革はさらりと滑らかであったのに、今は肌に吸い付くような感触に、自分は手に汗をかいているのだと知らされた。砂利道に出れば転ぶ心配も無いのに、ミカは依然、手を握ったままだ。しばらくそのままで彼の半身ほど後ろを付いていたアストリットだったが、気恥ずかしさから鼓動が高まり、息苦しい。そして、とうとう切り出した。
「殿下、もうお手を放していただいても大丈夫です……道は平ですし……」
「手を放したとたん、闇にまぎれておまえを巻くということもありうるぞ? 私を見失ってもいいのか?」
 殿下を見失う……。
 この場でミカを失ったとて、道に迷う心配は無い。背後にそびえ立つ城はさらに色濃く闇の中でその形を切り抜いている。そうではない。子供の頃から見つめ続けて来たミカを……、やっとこんなに近くまで来たのに、ここで見失うなどと考えただけでもアストリットの心は冷え固まった。それに、こうして手を握ってもらうことなど今後果たしてあるのだろうか。きっと、これが最後だ。
「嫌です。それだけは嫌です」
 そう答えたとたん、握られた手にぐっと力がこもる。それに強い安堵を覚えてから、ふと、自分はミカの言葉の意味を履き違えたと気がついた。殿下は護衛が主人を見失うことがあってはならないだろうと示唆したのだ。――どうかしている。もう少し冷静にならねば。自分さえすでに見失っている。
 アストリットもミカの手を握り返し、歩みを合わせた。

「ここで、ワインを調達していこう。招待されたのだから手ぶらではな」
 街に入り、まだこうこうと窓から明かりが漏れている酒場兼宿屋の前でミカは足を止めた。彼はそこで初めて護衛の手を放した。
 木の扉を開けて中に入ると、長いカウンターと、その向かいにテーブルが三つほど窓際に並んだ食堂があった。その奥に二階の宿泊部屋に続く階段が見える。客はその階段の手前の四人がけのテーブルに三人、カウンターに二人いるだけだった。
「主人、ここで一番上等の酒を一本譲ってくれないか」
 むっつりと頷いた宿の亭主が床板を上げ、地下へ下りて行った。
「景気がいいね、旦那。その羽振りの良さをあっしや仲間に少しくれえ分けてくれても、罰はあたらんと思うがねえ」
 ごろごろと雷の響くような声が近くで聞こえた。ややカウンターの方へ身を傾け、アストリットが主人の影からそちらを見ると、奥で飲んでいた男がいつの間にかミカに近づいていた。王子はフードを被った顔を伏せたまま、体はやや男の方へ向けて言った。
「二マシェルだ。それぐらいは恵んでやろう。しかし、それ以上は無しだ」
「ありがてえ。言ってみるもんだね。確かに二マシェル。気持よく酔えそうだ」
 ミカはマントの下から出した銀貨のうち二枚を赤ら顔の男の前に置き、その時丁度差し出された注文の品と引き換えに代金を亭主に渡した。
 昼間の喧噪はどこへやら、役場の前には野良犬の姿さえ無かった。そこから二つほど角を曲がると、目の前にこざっぱりとした、だが華麗な屋敷が現れた。屋敷の窓からは薄布越しに黄色い明かりが漏れている。
 ここは確か、アリアス卿の別宅だ。
 そうしている間にもどこから現れたのか従僕が使用人用の門柵を開け、ミカはそこをくぐっていた。慌てて主人について行く。
 案内されるままに屋敷に入ったところで、主人を呼んで来ると言う彼の申し出をミカは断り、その足で部屋まで案内させた。
 従僕が白塗りのドアの前で立ち止まる。女の鈴を転がしたような笑い声と、男の低い声が洩れている。
「アリアス様、お客様をお連れしました」
 ぴたりと室内の笑い声は消え、すぐに金のノブが回り、大きく開かれたドアからギヨーム・アリアス卿が現れた。
 しばらく見なかったが、その細面の鼻の下には相変わらず絵筆で書いたような細い髭が左右に伸びていた。それでも、艶男の代表のような卿には非常に合っているとアストリットは思った。
 おもむろにフードを取り、顔を見せたミカの前にアリアスは腰を深く折った。そして出迎えに行かなかった非礼を詫びた。
「これは殿下、大変なご無礼を……」
「よい。予定より遅くなったので手間を省いたまでだ。これは土産だ」
 差し出された酒瓶をアリアスは顔を伏せたまま恭しく受け取った。そして顔を上げた彼は、ミカの後ろに立つ知った者の姿を目にし、表情を固まらせた。ぴくぴくと動く髭の先で、卿の気持が手に取るようにわかる。
「今宵はまた珍しいお連れ様が……」
「護衛だ」
 ミカが短く言った時、二人の女がわさわさと衣擦れの音をさせて部屋から出てくると、彼とアリアスの間に割って入った。一人はアリアスの肩に縋るように、もう一人はしなだれかかるようにミカの胸に手を添えた。
「殿方のご挨拶はいつも長くて困りますわ。宵の更けるのはあっという間。こんな所で立ち話よりも、早くお部屋で遊びましょうよ……」
 鼻にかかった声でアリアスにぶら下がっている方の一人が言い、もう片方もそれに頷き、さらにミカに体をすり寄せた。二人ともレースが縁取った胸の深く開いたドレスからこぼれんばかりの胸を見せ、プラチナのブロンドには紫やピンクの髪粉が振られていた。見るからに玄人の、夜の女王たちだった。
 そして、二人はアストリットを見つけると両者とも同じような鋭い敵視で迎えた。ミカはアストリットの方を一瞥することもなく、従僕に言った。
「供の者は図書室にでも案内してくれないか。勝手に付いて来たのだ。もてなしは不要」
 アストリットは主人のあまりの扱いに唇を噛んだ。しかし、影だと約束をした手前、何も言い返すことはない。そして、アリアスはミカを室内へ促した。閉まりつつあるドアの隙間に、女がミカのマントを脱がすのが一瞬見えた後、それはぴたりと閉まった。
 アストリットを図書室に案内し、明かりを灯した後、出て行った従僕はすぐに一杯の熱い茶を持って戻って来ると、また足音も立てずに退室した。
 マントを近くの椅子にかけ、立ったまま一口二口、茶を飲んだ。蜂蜜の入ったそれを飲むと、やっと人心地が付いた。そして天井まで壁を埋める本棚の前に行き、一冊の昔語りの本を選んでテーブルに戻った。
 しばらく文字を追っていたが、ふと顔を上げるとランプの火をじっと見つめた。時折、身をくねらせて誘うような炎の中に、先ほどの女たちの手の動きが現れた。
 爪の先からも女の色香が漂うその柔らかな動き。男の腕に軽く手を添え、小首を傾けて相手を見上げるその眼差し。それらを自分が持ち合わせないことを、アストリットは今、改めて自覚した。
 こんな私を殿下が一人の”女”として見てくださらないのも当然だ。体を求められたのも、それは男をまだ知らなかった自分に興味が湧いただけだろう。
 男は”処女”にこだわるということを、アストリットは部下の猥談から聞き知っていた。そして、恋人でもない限り、陥落された女たちはもはや興味の対象にはならないことも。
 もう少し女らしい振る舞いをすれば、殿下は少しでも長く私に視線を留めてくださるだろうか。ほの明かりの中でアストリットはくるりくるりと手を泳がせてみたが、それも空しくなり、手は開いたページに枯れ葉のように落ちた。
 置き時計を見ると一時半を過ぎた所だった。
 まだ殿下は遊びに興じておられるのだろうか。それとも、女に誘われるまま……。アストリットは本がその続きを語って聞かせるのを恐れるかのように、慌ててそれを閉じた。
「失礼致します、ご主人様がお帰りになるそうです。どうぞお支度を……」
 ノックされたドアの向こうで召使いのくぐもった声が聞こえた。アストリットは短く応え、本をもとの場所に戻すとマントを羽織って部屋を出た。
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