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第六章 2

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 翌朝早く、アストリットは衣装棚の奥から帝国騎士軍の制服を取り出すと、硬い生地を撫で、その感触を懐かしんだ。
 さらしを胸に巻く時、ふと胸の膨らみが以前よりもふくよかになったように感じた。しかし、すぐにそれは王室生活の豪華な食事のせいで脂肪がついてしまったのだと思い直す。武術の訓練は普段と変わらないが、やはり余分に体を動かさないといけないようだ。
 糊のきいた折り目のついたシャツに腕を通す。上着を着て、鏡の前で髪をまとめた。右に、左に姿を映し、乱れは無いか確認する。
 久々に古巣に戻る嬉しさに気持が高揚し、頬が色づいている。そんな彼女の目は、白い首筋に浮く赤い小さな”印”を捕らえた。思わず指先で触れる。
『魔除けだ』
 この印を付けたときのミカの言葉が、まだ不可解だった。魔除け……魔物とは一体何をさすのだろう。
 高い襟の縁のきわにぽっと咲く小さな花は、人が話す距離に近づけば容易に見つかってしまいそうだった。そして、どうしたのかと尋ねられたら、目を泳がせながらしどろもどろに言い訳する自分の姿が目に浮かんだ。彼女は一度まとめた髪を下ろした。最後に長剣を肩から斜めに掛けると、厩で用意された馬に股がった。
 昨日の夕方、”あんなこと”があったのにも関わらず、執務室を出てからフリーダにはすぐに使いを出しておいた。
 急な訪問だが、一夜で姉の心の準備はできているはずだ。
 葉の色の変わりかけた梢が漉した秋陽は、朝の清々しい空気を斜めに切っていた。その光線をいっぱいに浴びながらアストリットは馬の背に揺れた。
 そして、当然のことながら思考は自然と”不意打ちの夜”に流れた。
 あの男たちは一体どうして殿下がお忍びで街に来ることを知ったのか。目の利かない闇の中、そしてあの霧で偶然殿下を目にしたというのは考えにくい。
 それに、誘拐するための布まで用意していた。それはつまり、殿下があの道を通ることを知っていた証拠だ。時間さえも正確に。すると、アリアス卿の差し金? 殿下と約束をしていたのは彼ただ一人だ。卿の屋敷を出たときから付けられていたのか? いや、その気配は感じなかった。待ち伏せに間違いない。
 そして今までと決定的に違うのは、単独ではなく複数犯と言うことだ。組織か? 二人だけではない? その規模は?
 思案している間に街に着く。
 久々に目にする町並みに、懐かしさが胸に込み上げる。視線を、店の屋根の下に吊るされた看板に泳がせながら本通りを目指す。
「騎士様!」
 子供の高い声が上がったかと思うと、細い路地から子供たちが駆け寄って馬を囲んだ。良く知った年長の女の子が目を輝かせてアストリットを仰ぐ。
「騎士様! おひさしぶりです。お城のおつとめのお帰りでしょう? おかえりなさい!」
「ありがとう。だが、ちょっと立ち寄っただけなんだ。おまえたちも元気そうで何よりだ」
 そういってアストリットは前夜から用意していた菓子の包みを年長の子に渡した。子供の着ている服は最後に会ったときと同じ物で、違うのは、薄いショールが肩にかかっていることだった。
「すまないな。菓子もなかなか持って来てやれないで……」
 菓子を持った女の子の周りに子供たちがわいわいと集まる。
「ううん、レヴァンさまやフリーダさまが持って来てくれてるよ。ほかの騎士様もね。それで、アシトリットさまがおしろにおつとめって聞いたんだ。さみしかったよ」
 前髪がもつれて固まった男子は前歯が一本抜けていて、アストリットを”アシトリット”と呼んだ。
「私もおまえたちの顔が見れなくて寂しかったよ。そうか……。姉上たちが。それを聞いて安心した」
 意外と見られているものだな、と部下たちの心憎い任務の引き継ぎに苦笑する。そして別れを惜しむ可愛い声に送られ、彼女は馬を進めた。
 街の中心の教会裏が帝国騎士団の本部だった。
 教会には朝の礼拝のために、人々が吸い込まれるようにしてその大きく開かれた扉に向かって歩いていた。ほとんどが黒装束を身に纏い、その中で色のついた服を着た者は少ないながら目立っていた。周りの建物の壁を容赦なく叩く鐘の音さえ懐かしく聞きながら、彼女は先を急ぐ。
 本部の門をくぐり、寄って来た騎士の一人に馬を預けると、アストリットはその足で父親に挨拶をしに行った。父は娘の健全ぶりを悦び、定期的な報告を労った。
 建物の裏から聞こえてくる訓練中の若き騎士たちの声に誘われるまま、そちらへ進みそうになる足を別棟へ向け、最上階の姉の部屋をノックした。
「アスティ!」
 ドアを開け、妹の顔を見るや否やフリーダは体当たりの勢いで抱きついて来た。アストリットは一瞬の戸惑いの後、しっかりその体を抱きしめる。
「アスティ、顔を見せてちょうだい! ああ、元気そうだわ。本当に久しぶりね。ちゃんと食べてる? 眠れてる? 王室警備隊のいけ好かない奴らに虐められてない?」
 妹の肩に手を置いたまま、姉は矢継ぎ早に問う。
「姉上、お久しぶりです。私は大丈夫です。この通りぴんぴんしていますよ。それよりもお腹がすいて死にそうです」
 まあ、とフリーダは栗色の瞳を瞬かせた。それから笑みを弾かせ、妹の手を引いて、朝食の整った食卓に導いた。
 アストリットの思った通り、若草色のテーブルクロスの上には彼女の好物が所狭しと並んでいた。茶の入ったポット、ハム、チーズ、パン籠はもちろん、果物、ラディッシュなど野菜の他にクルミのケーキやチョコレート、十二月の聖夜にだけ食べる特別な焼き菓子まで用意してあった。その歓迎ぶりに思わず胸が熱くなる。
「姉上、私の好きな物ばかり……ありがとうございます」
「まあ、組み合わせは微妙だわね。でも気にしないで、始めてちょうだい」
 向かいに座った姉は粒ぞろいの歯を見せて笑うと、パン籠を差し出した。
 食事中、フリーダからは自分が留守中の団の様子を聞き、フリーダは城の様子――とりわけゴシップを――聞きたがった。フリーダはあらかた空になった皿を重ねてテーブルの隅に寄せると、人を呼んでそれらを下げさせてから、コーヒーを頼んだ。
「……今までに殿下を狙った刺客ですが。その行動が私には解せないのです。今日は姉上のお考えを聞こうとこうして訪ねたわけですが……」
 テーブルの上でコーヒーのカップを掌で包み、アストリットは姉を見据えた。
「殿下の身の回りで悪いことが”目立ちすぎる”のです。これではますます警護を強化しろと言っているようなもの。敵は目的に辿り着くための道に自らせっせといばらの株を植えている」
 彼女は、アリアス卿自宅からの帰りに襲われた話もした。
「アリアス卿の仕業なら狙いはなんでしょう」
「うーん、強いて言えば彼の父親、ゲオルギオス・アリアス卿はヨシュア様を推しているってことかしら。だから、第一王子殿下の存在が目障りと……」
 フリーダは二杯目のコーヒーにも砂糖とミルクをたっぷり入れ、スプーンでかき混ぜた。
「唯我独尊のミカ様より、若く、素直なヨシュア様なら自分の好きに操れると? それにしても行動が派手ではありませんか? もしアリアス卿が本当に黒幕ならば、あの夜、私が護衛についているとわかった時点で計画を中止しそうなものですが。あの何を考えているかわからない親子は、もっと用心深くことを進めそうな気がします」
「唯我独尊って。うまく言ったわね」
 フリーダは思わず笑いを噴き出した。アストリットも自分がまた、口を滑らせたことに気がつき、この場にミカがいなくて本当によかったと心から思った。そしてまさか後ろのドアが開いて殿下が入ってこないかと一瞬怯えに背中を強ばらせた。
「そういわれてみればそうねえ。焦っているのかしら。でも、ヨシュア様が王位継承出来る歳になるにはあと半年は待たないと……現国王もまだご健全だし、もし第一王子殿下から王位継承権が奪われたとしても、すぐにヨシュア様が王位に就くことは考えにくいわね。それはアリアス側もわかっているはずだわ。ちょっと調べてみるわね。何かわかったらすぐに知らせるわ」
「ありがとうございます」
 アストリットは、急に肩の荷が下りて体さえ軽くなったように感じた。まだ不安はある。しかし、やはり姉に話してよかった。
 妹に浮かんだ安堵の理由を読み、フリーダは真剣な顔で言った。
「あなたはずっとそう。考えているのはいつもお国の、お勤めのことばかり。そうして固く胸を縛り上げて、筋肉ばっかり鍛えているから、心も頭も固くなっちゃうのよ。あなたは敵ばかりではなく、あなたに恋心を抱く殿方まで切り捨ててしまうんだから。あのね、アスティ。お父様が言ってたわ。打てば響くからついつい騎士として厳しく躾すぎたが、やっぱりアストリットには女として幸せになって欲しいって。愛する人と、子供に恵まれて欲しいって。だから、この間あなたに思い人がいるって知って、お父様は喜ばれたはずよ。ね、その方とはうまくやってるの? お城の方なんでしょう?」
 父までも自分をそこまで心配していたのか。口にせぬとも自分の幸せを望んでいる。アストリットは全てを打ち明けたくなる自分をかろうじて抑えた。ミカのことを打ち明ければ、姉は妹の実らぬ恋物語の結末を予想して、眉尻を下げるだろうか。妹が弄ばれられている事実に胸を痛めることは確実だ。
 それでも、それが『お勤め』ならば任務が終わるまで歯を食いしばって耐えるほか無い。それは自分も承知している。誰にもこの状況を変えることなど出来ないのだ。出来るとすれば自分だけ。犯人を一日でも早く捕らえること。そしてそれには姉も動くと言ってくれた。これ以上何を望もう。
 アストリットは心を覆い始めた暗雲を払い、口の端に笑みを刻んだ。
「隠しても仕方が無いので白状しますが、どうやら、その方にはすでに決まった女性がいたようです。私の片思いでした。それに、姉上、私は今までに一度だって男性から口説かれたことはありませんし、姉上のおっしゃる『恋心を抱く殿方』が誰なのかさっぱり見当がつきません。兵たちも私が位をいただく前から一歩引いていたのは感じておりましたし、扱いは全く小僧のそれでしたよ」
「それは、父上が気をつけていたからだわ。あなたが二等、三等騎士なんかの手に落ちないように」
「中尉である姉上が、私たちの兵を卑下するのですか。ご自分が団を出られるから、急にそのような色眼鏡で彼らを見るのですか」
 アストリットは露骨に眉をひそめた。それでも姉は柔らかな物腰で妹の空になったカップにコーヒーを注ぐ。
「別に卑下しているわけじゃないわ。ただ、あなただって現実を知っているはずよ。この平和なリューベンスブルグで、騎士の仕事なんてたかが知れている。そして外地勤務さえない時期には、その暮らしは厳しく、商人以下の生活を強いられるときだってあるわ」
「しかし、そんな騎士たちでも昇進をし、位を授かれば父上のように安定した収入を得られるようになる……」
「ええ、昇進出来れば、ね。確かに父様は昇進されたわ。でも、それは実力だけではダメなこともあなたにはわかっているはず。実力以上にコネと、運の世界よ。父様はもちろん実力もあったし、才智も備えていた。でも、やっぱり総指揮長の座に着いたのは運も加勢したからよ……」
「それは……?」
「そうね、その話を私が父様から聞いたのはまだあなたがうんと小さかったときだわ。父様はね、バルバス国の王妃のお命を救っているの」
「バルバスの……?」
 予想もしなかった、遥か遠くの国名にアストリットは小首を傾げた。
「当時、二週間ほどバルバス国王夫妻が友邦を深めたいということで、リューベンスブルグ国王が招かれたの。父様はその護衛についていたわけ。そして、エディースの森で音楽会が開かれた時、ならず者たちが乱入して来て。その時に父様はお若い王妃のお命をお守りしたの。そのとき受けた肩の傷を私に見せてくれたことがあるのよ」
「そんなことが……」
「その後、何度か王妃様が直々にお見舞いにいらしたって、一度だけ私に話してくれた。私もまだ子供だったのね。とってもロマンチックなお話だってそのときは思ったわ。だから良く覚えてる。それで、きっと王妃様のお口添えもあって、今の地位が手に入ったのよ。だって、娘の自分が言うのもなんだけど、若くして異例の昇進でしょ」
「なるほど、そんなことが」
 確かに、と頷きながら、初めて聞かされた父の昇進のからくりに、騎士団総指揮長の制服の襟のほつれをみたような複雑な気持になった。父の実力を疑ったことは一度としてなかったが、裏切られたような寂しさを感じた。そんな気持を悟ったのだろう。フリーダはアストリットの手の上に自分のを重ねた。
「強運を持つ騎士は団の宝ですよ。戦は数じゃありません。運で勝敗が左右されることだって珍しくはないのですから」
 アストリットはしっかりと頷いた。実際に、いくつもの味方の勝ち戦も敵の負け戦も見て来た彼女は、それに異論は無かった。
「あなたに相応しい殿方を、とのお考えからよ。少しでも裕福で、学のある優しい殿方と幸せな家庭を持って欲しいって、手塩にかけて育てた子供に望むのは当然でしょう……たとえ、あなたが実の娘じゃなくても……」
「え? 姉上、今……なんと」
 部屋に入り込む光が、ひときわ白く感じた。一瞬姉の顔が見えなくなるほどに。
 そして、その目の前の輪郭が戻ってくると、姉は真剣な眼差しでアストリットを見据えて続けた。
「お母様との約束だったから……絶対に黙っている、って。でも……、あなたも嫁ぐことになったら、本当の自分の身の上を知っておいた方がいいんじゃないかって……。私なら、私があなたの立場だったら、やっぱり真実を知っておきたいと思うわ。自分が何者か、知りたいと思う。あなたは、赤ちゃんのときにどこかから連れて来られたのよ」
 フリーダは椅子から立ち上がると、壁際の衣装箪笥の二つ並んだ小引き出しを開け、中から木の小箱を出すと再びアストリットの向かいに座った。
 小箱を上から片手で包むようにしながら、彼女は妹の方へそれを押しやった。
 アストリットの頭の中で、教会の鐘が殺人的な勢いを持って鳴り響いている。
 アストリット・ローゼナウは、アストリット・ローゼナウではなかった……。葬り去られたのは今までの自分。今まで自分だと思っていた自分。
 蓋を開ける指が震えた。それでも小さな留め具をずらし、蓋を持ち上げた。どんなに重く感じただろう。
 朱のビロードの中敷に横たわっていたのはペンダントだった。赤子の首に合わせたのだろう。鎖はかなり短めだった。
 アストリットは慎重にそれを取り出し、目の前に垂らす。親指の先ほどの大きさの青い石。鎖は正真正銘の金であったが、石は高価な物ではないと一目で分かった。表面には人工的な艶がある。
「これは……」
「あなたの物よ」
「姉上は……」
 アストリットは口をつぐんだ。姉上。そう呼んで良いのだろうか。姉だと思っていたフリーダは、姉ではないのだ。その逡巡を見取ってフリーダは勇気づけるように促した。
「私が……? アスティ?」
「どこまで知っているのですか。私がどこから来たか、両親はどんな人たちなのか……なにか、何か小さなことでも……」
「ごめんなさい。本当に私が知っているのはこのペンダントのことと、あなたが連れてこられた、って言う事実だけ」
 フリーダは力になれない自分を自ら責めるような苦しげな顔を見せた。それを見たアストリットはわれに返った。気づかぬうちに、ペンダントと一緒に強く握っていたテーブルクロスから手を浮かすと、取り繕うように皺を伸ばした。
 フリーダが悪いわけではない。今までこの話を何年もの間隠し通した彼女の忍耐に感謝すべきだ。
「ありがとうございました。……ローゼナウ中尉」
「ばか。何を言い出すの。私は今までも、これからもあなたの姉です。たとえあなたが嫌だと言っても。それは父上も同じよ」
 フリーダは妹の手を握った。アストリットは感謝の気持をこめて握り返す。
「そろそろ戻らなくてはなりません」
 ベッド脇の時計はいとまの時間を告げていた。随分長居をしてしまった。しかし急げばミカとの約束の時間に間に合う。彼女はペンダントを木箱に戻し、上着のポケットに入れた。そして立ち上がろうとして、膝に力が入らないことに気がついた。そんなことでどうする。形だけでもその場は自分を取り戻し、部屋に入った時と同じように――ほぼ、同じように――フリーダと抱擁して別れを告げた。
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