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第八章 1
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森での一件から、ミカはアストリットの前からこつ然と姿を消した。
彼は食事の時間もずらし、外用には常に他の護衛を連れて出掛ける。ミカの留守の間は王室警備隊の指導という新しい任務が与えられた。
ダウソンやマーリングと予定を打ち合わせれば、『――以上が殿下のご予定ですが、外出の際はアストリット大尉は城にて待機、と仰せつかっております』そう締めくくられるのが常だった。
――殿下は私の忠心を疑っておられる。
殿下が自分を避ける理由はそれしかない。
レヴァンに会うために姉の訪問を口実に持ち出したと思っているのだ。確かに首飾りは姉から妹へ、と考えるより、男から贈られたと考えた方が易い。なにより、ミカは城の前で、アストリットの共をして来たレヴァン本人と搗ち合っている。直前に逢瀬があったと邪推されても無理は無い。
――しかし、本当に密会であったなら、誰に見られるかもわからぬ危険を冒してまで、レヴァンに送らせるなんてことは絶対にあり得ないのに……。
怜悧な殿下が、情事のそんな初歩的な観念を考慮に入れずに逆上したのは理解に苦しい。
それとも自分がそこまで厚顔無恥だと思われているのか。それが殿下を軽んじているような態度に見えたのか。いずれにせよ信用を失った事実は変えようが無い。
アストリットは隣のミカの寝室に神経を向けた。どんな微かな音も聞こえてきそうな静かな夜だったが、その静寂に全てが飲込まれたように、ミカの部屋からはその主人の気配は伝わってこなかった。今夜もまだ公務から戻られていないようだ。彼女は長い溜め息を一つつき、ワインの最後の一口を飲み干してから寝台脇のろうそくを消した。
朝食後、アストリットが席を立とうとしている所に、マーリングが姿を見せた。
彼が、王家の紋の入った革の帳面を勿体ぶって開き、手に持った鵞ペンを揺らしながら「今夜の国立劇場へは大尉殿もご同伴とのことです。護衛は大尉殿お一人でございます」と言った時、彼女は耳を疑った。
――なぜ、私一人が。 アストリットが聞き返そうと口を開きかけたが、下された命令に疑問を投げかけた所で、彼が答えられるとは思えなかった。
言葉を探しているうちに、若い執事は帳面を閉じ、「良い一日を」と一言添えながら一礼すると、上着の裾を翻しせかせかと出て行ってしまった。
日中の任務に就いている間中、突然の指名に半信半疑のアストリットだったが、夕食も終わって部屋へ戻った自分の元へドレスを抱えたモニカがやって来ると、密かに悦びで胸を震わせた。
仕度を整え、モニカとともに玄関まで下りると下男がゆっくりと重い扉を開ける。松明の炎に囲まれた車寄せには既に王室の豪奢な馬車が一台待っており、その前にミカが、その後ろに控えるように御者が二人立っていた。アストリットは小走りにミカに近づく。その装いは深緑でまとめられていた。まるで、アストリットの瞳の色をそのまま生地に映したように上質な生地には張りと艶があった。
「お待たせして申し訳ございません」
深々と頭を下げ、顔を起こした彼女の瞳にミカの眼差しが飛び込む。それははっとするほど穏やかで、先日見せた激情が幻だったのかと思うほどだ。
しばし見つめ合った後、ミカはふっと目を細めた。
「肌に黒が引き立つな」
漆黒のドレスは、ウエストまでのたおやかな曲線をくっきりと表し、細く絞られた腰から下は柔らかな生地が何層にも重なり、優美に広がっていた。
胸の開きが深いのは夜の装いであるから仕方が無いにしろ、デコルテを彩るレースの縁から覗くまろやかな膨らみが、女の媚を主張しているようで気になっていた所だった。それでもミカに褒められれば、嬉しい。刹那、鼓動が高鳴る。頬を染めながら視線を落すと、視界に差し伸べられた手が入る。アストリットは、革手袋に包まれていないそれに驚き、一瞬目を見開いたが、すぐに城の習慣に倣って指先をその上に指先を載せ、促されるままに馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出しても王子は言葉を発せず、窓の外を見ている。
――私を許してくださったわけではないのだ。
彼女は心の片隅で期待した分だけ、いや、それ以上に落胆した。しかし、それなら殿下に迷惑をかけるのだけは避けようと思い直し、少しでも自分の存在を消すことに努めた。
膨らんだスカートを手で抑え、ミカの脚に触れないようにさえ気を配った。
馬の闊歩する蹄の音、いくつもの車輪の音が騒々しい。ふと窓の外を見ると、ちょうど一台の馬車が隣を追い越して行く所だった。二人を乗せた馬車もすでに劇場の近くまで来ていた。
劇場の周りにはすでに豪奢な馬車や着飾った紳士淑女がひしめき合い、賑わっていた。
そこにひときわ目立つ王家の紋章付き馬車が行けば、さっと道は開く。
難なく正面玄関まで乗り付け、先に降りたミカに手を取られてステップを下りる。下りれば胸の高さに腕を差し出された。その、ミカの慇懃な仕草は逆に彼女を悲しませた。
無視をされたり、不機嫌な態度を少しでも見せられれば、ミカの中にまだ自分に対して何かしら動く感情があるという手がかりになりそうなものなのに……。
――もしかしたら。
アストリットは一つの考えに思い当たった。――私は解雇されるのか。
この観劇の誘いは、殿下の心配りの一つであって、最後の労いだ。私は殿下にとって決して優れた護衛ではなかった。しかし、そんな私にもこうして殿下は情けをかけてくださっている……。
――殿下と過ごす最後の夜……。
アストリットが小さく身を震わせると、腕に置いた彼女の手の上に、ミカの手が重なった。直に伝わる温もりに、切なさが募る。
劇場の支配人や劇団長に歓迎されると、早速二階の桟敷席に案内された。
手すりの下の観客たちは、一目でもミカ・フォン・オールソン第一王子を見ようと頭上を仰ぎ、オペラグラスを目に当てる者も一人や二人ではなかった。
上演されたのは、伝統的な恋愛喜劇だった。
アストリットの気に入っている話でもあり、本も何度か繰り返し読んでいたから、覚えている役者のセリフを胸の内で同時に唱えたりした。そんなふうに観劇を楽しんでいる最中だった。幕間の静かな音楽を伴奏に、ささやかなミカの低音の声がアストリットに届いた。
「おまえが側にいるときだけだ。心休まるのは」
それはあまりにもさりげなく、自分に向けられたものだとはすぐに気がつかなかった彼女は、一瞬ぽかんとミカの横顔を見た。そしてすぐに小さく顔を伏せた。
「ありがとうございます。殿下のご厚情賜り……」
まだ言いきらないうちに、ミカの言葉が重なる。
「礼を言うのは、私のほうだ」
アストリットは自分の膝に視線を落したまま、ぱちぱちと瞬きをし、ゆっくりと顔を起こした。ミカの視線は舞台に現れた役者たちに注がれている。
二人は黙ってしばらく舞台袖に立つ役者の口上に聞き入る。しかし、アストリットにはそれがどこか異国の言葉に聞こえた。ミカの短い言葉が頭の中を巡り、体のすみずみに染み渡っていった。
「手を……」
おもむろにミカは言った。視線を横に流すと、肘掛けの上に手を返されている。アストリットはおずおずとその上に自分のを重ねた。すっぽりと手は包み込まれ、まるで胸をぎゅっと掴まれたような苦しさを覚える。それでも、それは決して不快ではなく、むしろもっと強く握られればとさえ思う。ずっと、離れられないように。
すると、同時にミカに同情さえ覚えた。
やはり殿下は憂苦されているに違いない。普段は気丈に振る舞われていても、自分の命が狙われていて不安にならない者などどこにいよう。
たとえそれが一国の主であろうと情緒不安定になられるのは当然ではないか。森でのあの手荒な振る舞いも、不安が生み出した激情によって惑わされた行為に違いない。
その苦しみ。お可哀想に。私が護衛をすることでそれが少しでも軽くなるのであれば……。私が、一瞬でもその不安を取り除くことが出来れば……。こんな非力な私で出来ることがあるならば、お力になりたい。
解雇の懸念がミカの一言で瞬く間に霧散すると、代わりに大きな安堵と、一層の忠義心で胸が膨らんだ。
休憩になると、減らされたランプが元の数だけつり下げられた。観客はお喋りをしながら飲み物や軽食を求めて席を立ち始めている。
ミカの元にも劇場の者が銀の盆にボトルとグラスを二つ載せてやって来た。ミカは給仕に自分の側のテーブルにそれを置かせ、すぐに引き取らせた。
「ざくろのシロップをワインで割ったものだが、おまえも好きだったな」
自ら半身を回し、グラスを取ろうとした王子の膝からオペラグラスが滑り落ちた。アストリットはすかさず屈み、薄暗がりの中からそれを探し出すと、差し出されたグラスと交換した。
「すまない」
「いえ、当然のことです……」
人の熱気に当てられ、喉が渇いてい彼女は一気にグラスの中身を飲み干した。喉越しのよい甘酸っぱい酒が体の火照りを覚まして行く。
その後も、ミカに手を握られたまま観劇を続けた。
劇は終盤に近づいていた。
心を通い合わせている王子と姫を引き裂こうと、恋敵が散らした意地悪な罠や企み、誤解を乗り越えて二人は再会し、姫を胸に抱いた王子は顔をその髪に埋めている。
――せめて私が、姫と言う身分であったなら、殿下も少しは私を気にしてくれただろうか。夜会で会えば、一度は踊りの相手として声を掛けてくださっただろうか。
いや、と、そんな考えをすぐに打ち消す。
――なんておこがましい。何処の馬の骨ともわからぬ私がそんな考えを抱くなど。こうして殿下に触れていることすら罪なのに。それに……、私が姫になれるとしても、あのように舞台の上でだけ。幕が下りてしまえば、取るに足りない女に戻る……。
それでも、私に今出来るのは命をかけて殿下をお守りすること。専属護衛としての決意をいま一度心に刻み込む。その直後、場内に割れるような拍手が響き渡った。桟敷席の後ろのカーテンが開かれ、灯りがさっと入り込む。
「悪くなかったな」
数回、手を打ち合わせるとミカは立ち上がった。それに続いたアストリットだが、急に膝の力が抜け、慌てて椅子に手をつき体を支えた。
「どうした?」
目の前でミカは静かにアストリットを見下ろしている。
「灯りに目がくらんだようです……なんでもありません」
しっかり立ったつもりでも、逆上せたのか頭はぼうっとし、ふわふわと体に力が入らない。一歩踏み出せば、体はバランスを崩してミカの腕の中に飛び込んだ。
「も、申し訳ございません……」
胸に腕を突っぱね、体を離そうと努めたが、逆に彼はアストリットの腰に回した腕に力を込めた。
「足下が危ういな。私に掴まって行け。早くしろ。おまえがぐずぐずしているから、あいつが不審な顔をしているではないか」
カーテンの後ろから控えめだが、支配人が自分たちを伺うように顔半分覗かせていた。
「それではお言葉に甘えて……」
差し出されたミカの腕に掴まると、逞しいそれはぐっと身体を引き寄せ、支えた。遠巻きに、一目見ようと王子を待っている人々の前を足早に過ぎる。
「遠慮は無用だ。もとより私のせいだからな」
「え……?」
ミカにしがみつきながら歩いていたアストリットは、隣の顔を仰いだ。ミカの、悪戯を含んだ眼差しがちらりと注がれた。
「ワインは甘くてうまかっただろう? 眠り薬などではないから心配するな。少し体の自由が利かなくなるくらいだ。おまえが眠ってしまったら、お互い、楽しみが半減だ」
耳元に顔を寄せたミカの息がかかる。アストリットの揺らぐ思考のなかで幾つかの点が結ばれ線となる。
すぐに給仕を引き取らせた。殿下自身が注いだワイン。膝から落ちたオペラグラス。
「馬車の中ではたっぷり可愛がってやる」
そう言って彼は腰に添えていた手で身体の曲線を撫で上げた。布越しでも、触れられた場所から甘い痺れが肌を走る。
正面玄関から出ると、王家の紋章を煌めかせた馬車が目の前に滑り込んできた。
後方から降りた御者が、ステップを下ろしてドアを開けた。彼女はミカにほとんど抱えられるようにして乗り込む。ドアが閉められると、馬車が走り出さないうちから彼はアストリットを強く抱きしめ、口付けた。少し開いた唇の隙間を、濡れた舌が時間をかけて開いていく。
「……っふ……ん」
薬で溶け出した理性に、自尊心も行方をくらました。小さく喉を鳴らしながら、本能がそそのかすままミカに胸を押し付けた。
「甘えるおまえの可愛さはひとしおだな」
耳元に軽く吸いつきながら、ミカは背中から回した手で右の乳房の重みを確かめるように下から掬い上げ、指先で薄い布越しに硬くなり始めた丘の中心を嬲《なぶ》る。唇が、甘い音を響かせながら首筋を辿り、左の胸元へ下りて行く。もう一方の手は悩ましげな手つきで太腿の上を撫で回している。
ミカに触れられている場所から、快楽の炎が全身に広がり、その熱に浮かされるように身悶える。ミカにしがみつき、喉の乾きを癒すために彼の唇に潤いを求めた。
彼は食事の時間もずらし、外用には常に他の護衛を連れて出掛ける。ミカの留守の間は王室警備隊の指導という新しい任務が与えられた。
ダウソンやマーリングと予定を打ち合わせれば、『――以上が殿下のご予定ですが、外出の際はアストリット大尉は城にて待機、と仰せつかっております』そう締めくくられるのが常だった。
――殿下は私の忠心を疑っておられる。
殿下が自分を避ける理由はそれしかない。
レヴァンに会うために姉の訪問を口実に持ち出したと思っているのだ。確かに首飾りは姉から妹へ、と考えるより、男から贈られたと考えた方が易い。なにより、ミカは城の前で、アストリットの共をして来たレヴァン本人と搗ち合っている。直前に逢瀬があったと邪推されても無理は無い。
――しかし、本当に密会であったなら、誰に見られるかもわからぬ危険を冒してまで、レヴァンに送らせるなんてことは絶対にあり得ないのに……。
怜悧な殿下が、情事のそんな初歩的な観念を考慮に入れずに逆上したのは理解に苦しい。
それとも自分がそこまで厚顔無恥だと思われているのか。それが殿下を軽んじているような態度に見えたのか。いずれにせよ信用を失った事実は変えようが無い。
アストリットは隣のミカの寝室に神経を向けた。どんな微かな音も聞こえてきそうな静かな夜だったが、その静寂に全てが飲込まれたように、ミカの部屋からはその主人の気配は伝わってこなかった。今夜もまだ公務から戻られていないようだ。彼女は長い溜め息を一つつき、ワインの最後の一口を飲み干してから寝台脇のろうそくを消した。
朝食後、アストリットが席を立とうとしている所に、マーリングが姿を見せた。
彼が、王家の紋の入った革の帳面を勿体ぶって開き、手に持った鵞ペンを揺らしながら「今夜の国立劇場へは大尉殿もご同伴とのことです。護衛は大尉殿お一人でございます」と言った時、彼女は耳を疑った。
――なぜ、私一人が。 アストリットが聞き返そうと口を開きかけたが、下された命令に疑問を投げかけた所で、彼が答えられるとは思えなかった。
言葉を探しているうちに、若い執事は帳面を閉じ、「良い一日を」と一言添えながら一礼すると、上着の裾を翻しせかせかと出て行ってしまった。
日中の任務に就いている間中、突然の指名に半信半疑のアストリットだったが、夕食も終わって部屋へ戻った自分の元へドレスを抱えたモニカがやって来ると、密かに悦びで胸を震わせた。
仕度を整え、モニカとともに玄関まで下りると下男がゆっくりと重い扉を開ける。松明の炎に囲まれた車寄せには既に王室の豪奢な馬車が一台待っており、その前にミカが、その後ろに控えるように御者が二人立っていた。アストリットは小走りにミカに近づく。その装いは深緑でまとめられていた。まるで、アストリットの瞳の色をそのまま生地に映したように上質な生地には張りと艶があった。
「お待たせして申し訳ございません」
深々と頭を下げ、顔を起こした彼女の瞳にミカの眼差しが飛び込む。それははっとするほど穏やかで、先日見せた激情が幻だったのかと思うほどだ。
しばし見つめ合った後、ミカはふっと目を細めた。
「肌に黒が引き立つな」
漆黒のドレスは、ウエストまでのたおやかな曲線をくっきりと表し、細く絞られた腰から下は柔らかな生地が何層にも重なり、優美に広がっていた。
胸の開きが深いのは夜の装いであるから仕方が無いにしろ、デコルテを彩るレースの縁から覗くまろやかな膨らみが、女の媚を主張しているようで気になっていた所だった。それでもミカに褒められれば、嬉しい。刹那、鼓動が高鳴る。頬を染めながら視線を落すと、視界に差し伸べられた手が入る。アストリットは、革手袋に包まれていないそれに驚き、一瞬目を見開いたが、すぐに城の習慣に倣って指先をその上に指先を載せ、促されるままに馬車に乗り込んだ。
馬車が走り出しても王子は言葉を発せず、窓の外を見ている。
――私を許してくださったわけではないのだ。
彼女は心の片隅で期待した分だけ、いや、それ以上に落胆した。しかし、それなら殿下に迷惑をかけるのだけは避けようと思い直し、少しでも自分の存在を消すことに努めた。
膨らんだスカートを手で抑え、ミカの脚に触れないようにさえ気を配った。
馬の闊歩する蹄の音、いくつもの車輪の音が騒々しい。ふと窓の外を見ると、ちょうど一台の馬車が隣を追い越して行く所だった。二人を乗せた馬車もすでに劇場の近くまで来ていた。
劇場の周りにはすでに豪奢な馬車や着飾った紳士淑女がひしめき合い、賑わっていた。
そこにひときわ目立つ王家の紋章付き馬車が行けば、さっと道は開く。
難なく正面玄関まで乗り付け、先に降りたミカに手を取られてステップを下りる。下りれば胸の高さに腕を差し出された。その、ミカの慇懃な仕草は逆に彼女を悲しませた。
無視をされたり、不機嫌な態度を少しでも見せられれば、ミカの中にまだ自分に対して何かしら動く感情があるという手がかりになりそうなものなのに……。
――もしかしたら。
アストリットは一つの考えに思い当たった。――私は解雇されるのか。
この観劇の誘いは、殿下の心配りの一つであって、最後の労いだ。私は殿下にとって決して優れた護衛ではなかった。しかし、そんな私にもこうして殿下は情けをかけてくださっている……。
――殿下と過ごす最後の夜……。
アストリットが小さく身を震わせると、腕に置いた彼女の手の上に、ミカの手が重なった。直に伝わる温もりに、切なさが募る。
劇場の支配人や劇団長に歓迎されると、早速二階の桟敷席に案内された。
手すりの下の観客たちは、一目でもミカ・フォン・オールソン第一王子を見ようと頭上を仰ぎ、オペラグラスを目に当てる者も一人や二人ではなかった。
上演されたのは、伝統的な恋愛喜劇だった。
アストリットの気に入っている話でもあり、本も何度か繰り返し読んでいたから、覚えている役者のセリフを胸の内で同時に唱えたりした。そんなふうに観劇を楽しんでいる最中だった。幕間の静かな音楽を伴奏に、ささやかなミカの低音の声がアストリットに届いた。
「おまえが側にいるときだけだ。心休まるのは」
それはあまりにもさりげなく、自分に向けられたものだとはすぐに気がつかなかった彼女は、一瞬ぽかんとミカの横顔を見た。そしてすぐに小さく顔を伏せた。
「ありがとうございます。殿下のご厚情賜り……」
まだ言いきらないうちに、ミカの言葉が重なる。
「礼を言うのは、私のほうだ」
アストリットは自分の膝に視線を落したまま、ぱちぱちと瞬きをし、ゆっくりと顔を起こした。ミカの視線は舞台に現れた役者たちに注がれている。
二人は黙ってしばらく舞台袖に立つ役者の口上に聞き入る。しかし、アストリットにはそれがどこか異国の言葉に聞こえた。ミカの短い言葉が頭の中を巡り、体のすみずみに染み渡っていった。
「手を……」
おもむろにミカは言った。視線を横に流すと、肘掛けの上に手を返されている。アストリットはおずおずとその上に自分のを重ねた。すっぽりと手は包み込まれ、まるで胸をぎゅっと掴まれたような苦しさを覚える。それでも、それは決して不快ではなく、むしろもっと強く握られればとさえ思う。ずっと、離れられないように。
すると、同時にミカに同情さえ覚えた。
やはり殿下は憂苦されているに違いない。普段は気丈に振る舞われていても、自分の命が狙われていて不安にならない者などどこにいよう。
たとえそれが一国の主であろうと情緒不安定になられるのは当然ではないか。森でのあの手荒な振る舞いも、不安が生み出した激情によって惑わされた行為に違いない。
その苦しみ。お可哀想に。私が護衛をすることでそれが少しでも軽くなるのであれば……。私が、一瞬でもその不安を取り除くことが出来れば……。こんな非力な私で出来ることがあるならば、お力になりたい。
解雇の懸念がミカの一言で瞬く間に霧散すると、代わりに大きな安堵と、一層の忠義心で胸が膨らんだ。
休憩になると、減らされたランプが元の数だけつり下げられた。観客はお喋りをしながら飲み物や軽食を求めて席を立ち始めている。
ミカの元にも劇場の者が銀の盆にボトルとグラスを二つ載せてやって来た。ミカは給仕に自分の側のテーブルにそれを置かせ、すぐに引き取らせた。
「ざくろのシロップをワインで割ったものだが、おまえも好きだったな」
自ら半身を回し、グラスを取ろうとした王子の膝からオペラグラスが滑り落ちた。アストリットはすかさず屈み、薄暗がりの中からそれを探し出すと、差し出されたグラスと交換した。
「すまない」
「いえ、当然のことです……」
人の熱気に当てられ、喉が渇いてい彼女は一気にグラスの中身を飲み干した。喉越しのよい甘酸っぱい酒が体の火照りを覚まして行く。
その後も、ミカに手を握られたまま観劇を続けた。
劇は終盤に近づいていた。
心を通い合わせている王子と姫を引き裂こうと、恋敵が散らした意地悪な罠や企み、誤解を乗り越えて二人は再会し、姫を胸に抱いた王子は顔をその髪に埋めている。
――せめて私が、姫と言う身分であったなら、殿下も少しは私を気にしてくれただろうか。夜会で会えば、一度は踊りの相手として声を掛けてくださっただろうか。
いや、と、そんな考えをすぐに打ち消す。
――なんておこがましい。何処の馬の骨ともわからぬ私がそんな考えを抱くなど。こうして殿下に触れていることすら罪なのに。それに……、私が姫になれるとしても、あのように舞台の上でだけ。幕が下りてしまえば、取るに足りない女に戻る……。
それでも、私に今出来るのは命をかけて殿下をお守りすること。専属護衛としての決意をいま一度心に刻み込む。その直後、場内に割れるような拍手が響き渡った。桟敷席の後ろのカーテンが開かれ、灯りがさっと入り込む。
「悪くなかったな」
数回、手を打ち合わせるとミカは立ち上がった。それに続いたアストリットだが、急に膝の力が抜け、慌てて椅子に手をつき体を支えた。
「どうした?」
目の前でミカは静かにアストリットを見下ろしている。
「灯りに目がくらんだようです……なんでもありません」
しっかり立ったつもりでも、逆上せたのか頭はぼうっとし、ふわふわと体に力が入らない。一歩踏み出せば、体はバランスを崩してミカの腕の中に飛び込んだ。
「も、申し訳ございません……」
胸に腕を突っぱね、体を離そうと努めたが、逆に彼はアストリットの腰に回した腕に力を込めた。
「足下が危ういな。私に掴まって行け。早くしろ。おまえがぐずぐずしているから、あいつが不審な顔をしているではないか」
カーテンの後ろから控えめだが、支配人が自分たちを伺うように顔半分覗かせていた。
「それではお言葉に甘えて……」
差し出されたミカの腕に掴まると、逞しいそれはぐっと身体を引き寄せ、支えた。遠巻きに、一目見ようと王子を待っている人々の前を足早に過ぎる。
「遠慮は無用だ。もとより私のせいだからな」
「え……?」
ミカにしがみつきながら歩いていたアストリットは、隣の顔を仰いだ。ミカの、悪戯を含んだ眼差しがちらりと注がれた。
「ワインは甘くてうまかっただろう? 眠り薬などではないから心配するな。少し体の自由が利かなくなるくらいだ。おまえが眠ってしまったら、お互い、楽しみが半減だ」
耳元に顔を寄せたミカの息がかかる。アストリットの揺らぐ思考のなかで幾つかの点が結ばれ線となる。
すぐに給仕を引き取らせた。殿下自身が注いだワイン。膝から落ちたオペラグラス。
「馬車の中ではたっぷり可愛がってやる」
そう言って彼は腰に添えていた手で身体の曲線を撫で上げた。布越しでも、触れられた場所から甘い痺れが肌を走る。
正面玄関から出ると、王家の紋章を煌めかせた馬車が目の前に滑り込んできた。
後方から降りた御者が、ステップを下ろしてドアを開けた。彼女はミカにほとんど抱えられるようにして乗り込む。ドアが閉められると、馬車が走り出さないうちから彼はアストリットを強く抱きしめ、口付けた。少し開いた唇の隙間を、濡れた舌が時間をかけて開いていく。
「……っふ……ん」
薬で溶け出した理性に、自尊心も行方をくらました。小さく喉を鳴らしながら、本能がそそのかすままミカに胸を押し付けた。
「甘えるおまえの可愛さはひとしおだな」
耳元に軽く吸いつきながら、ミカは背中から回した手で右の乳房の重みを確かめるように下から掬い上げ、指先で薄い布越しに硬くなり始めた丘の中心を嬲《なぶ》る。唇が、甘い音を響かせながら首筋を辿り、左の胸元へ下りて行く。もう一方の手は悩ましげな手つきで太腿の上を撫で回している。
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リーシャは微笑を鎧に「今日から、王の隣に立たない」と決めるが、距離を取るほど誤解は確定し、王宮は二人を引き裂いていく。
――つまらない妃とは、いったい誰が作ったのか。真実が露わになった時、失われた“隣”は戻るのか。
王妃そっちのけの王様は二人目の側室を娶る
家紋武範
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