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第八章 2
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そのうち、座席から固い振動が伝わってきた。地面に盛り上がった木の根の上を延々と走っているようだ。
その異変に最初に気がついたのはミカだった。
「こんな道の悪い場所は無いはずだが……」
彼はすっかり熱を帯びたアストリットの身体を腕に囲いながら呟く。そして小窓を開けて「どうした」と御者に声を張った。答えは無い。それどころか馬車のスピードはさらに上がったようだ。
「止めろ! 馬車を止めるのだ!」
ミカはドアの取っ手を掴み、がたがたと揺らすが、外から施錠されているのか、開かない。
「あいつら……」
アストリットを抱いていた手に強い力がこもった。
やがて馬車が止まると、二頭の馬は膨らんだ胸から息を吐き出し、ぶるる、と盛大に鼻を鳴らした。
馬車の扉が開き、御者――本物の御者は今頃石畳の上で冷たくなっている――が月光を背にぼんやりとその輪郭を見せた。
男は下卑た笑いで口元を歪ませている。
「着いたぜ、王子様、お姫様」
濁声に促され、ミカはアストリットを庇いながらステップを下り、夜露に濡れ光る草を踏むと辺りを見渡した。
黒い木々の影に囲まれた空地に、小さな窓から黄色い灯りを漏らした粗末な廃屋がおぼろな月光の中、ひっそりと浮き上がっている。どこまで連れてこられたのか。街の喧噪はまだ耳に残っているというのに、ここは葉擦れの音さえしない。
馬車が戻って来たのを聞きつけたのだろう。小屋からさらに二人出てくると、御者に扮した二人と同様、アストリットとミカを囲うように立った。
「頭《かしら》は」
小柄な御者が仲間の一人に尋ねた。
「一足先に祝杯をあげに行ったさ。こいつらを地下に放り込んでから来いってよ」
「まったく、気の早えぇ頭だ」
四人は顔を合わせ、低く笑って肩を揺らす。
ミカに支えられたアストリットは、男たちの会話を聞きながら素早く考えを巡らせた。
丸腰の殿下を庇いながら四人を相手にする……。一人は腰に拳銃を下げている。明らかに不利だ。何より今は薬が効いて体の自由が利かない。ここは、相手に歯向かわず、油断をさせて好機を見つけるしか無い。私がついていながらこのざま……。アストリットは不本意な結論に奥歯を噛んだ。
「王子様よ、あんたは”本当に”攫われたんだ。さあ、自分の立場がわかったらさっさと歩け」
近くにいた男がぬっと腕を伸ばしてミカの肩を強く押した。
「お前たち……勝手なことを……!」
アストリットの肩を抱いた彼は、悔しげな声を押し出した。
「全てがあんたの思い通りになると思ったら大間違いだ」
――勝手なこと? 思い通り?
アストリットが眉をひそめると、「ぐずぐずするな」と剣の柄で背中を押された。転びそうになった彼女をミカは素早く支える。
「こんなことをして無事で済むと思うな。私が城に戻らねば衛兵がすぐに探しに来る。おまえたちは捕われ、死刑だぞ」
怒気を含んだ声に男は一瞬たじろいだが、すぐに他の男が愉快そうに喉を鳴らした。
「あんた、今までさんざん城を抜け出して遊び歩いてただろう。一晩や二晩城にいなくても誰もあんたを心配しやしない。それに、そいつは専属護衛だろ? 何度かお顔は拝見してますからな。そいつが一緒なら、城の奴らもすぐに探しはしまい。へへっ、自分で自分の首を絞めたな、王子様。おれたちのことより、自分の身を心配するこった」
小屋に入るなり、二人はすぐに引き離された。アストリットは小柄な男に後ろ手に捕られても、気丈に顔を上げ一時もミカから視線を外さずにいた。ミカの目に、それは自分を励ましているように映った。――私は大丈夫です、殿下。必ずお護りします。
ミカは男に何度も肩を突かれても、アストリットを振り返りながら地下牢に下りて行った。抵抗は考えていなかった。自分一人ならともかく、彼女の身の安全が保証されない限り、相手を興奮させるのは決して得策ではない。
王子を牢の中に突き飛ばした男は、一緒に幾枚かの毛布も一緒に牢に放り込み、鍵を閉めると再び石段を上がって行った。
一人になると、彼は黴臭く湿っぽい空気の中で、息を殺して耳を澄ませた。
地下牢から男が出て行った直後、罵る声、椅子が倒れるような音が上から聞こえてきたが、それも長くは続かず、やがて不気味なほどの静寂が耳を打った。
その静寂はまた雄弁にミカに一つのことを教えているようにも思えた。――腹をすかせた狼たちが手負いのウサギを前に、脚に顎を乗せ、ただ静観しているわけではあるまい?
口に布を詰められたアストリットは、男四人に押さえ込まれ、力任せに身体を開かれているのではないか……。恐ろしく淫らな想像は彼の意志に反し、頭の中でどんどん膨らむ。
ミカは爪が食い込むほどに拳を握り込めた。怒りで鈍麻になった感覚が微かに感じた痛みは、不埒な想像をやや違う方向へ向けた。
――まさか殺されてしまったわけではあるまい――ミカは体中の血が凍り付いたかのように身を固くした。喉で動悸が乱れ打ち、呼吸が苦しくなる。ふらりと傾いだ肩は石の壁に支えられた。どんな音でも聞き逃すまいと、彼はさらに全神経を集中させる。
突然、床を踏みしめる音が闇を揺らしたと思うと、ドアが大きく開いた。はっと顔を上げると、自分を連れてきたのとは別の男が石段を降りて来る。男は小麦袋かなにかのようにアストリットの身体を抱えていて、彼女はそれにかろうじてぶら下がっていた。地下牢に放り込まれたアストリットの身体が、重力に抗わず床に叩き付けれる前に力強い腕が抱きとめた。
「彼女に何をした!」
ミカは、抱きとめたアストリットの姿――羽根をむしり取られた黒鳥のような――を男の掲げる頼りないランプの光に確認すると、逆上して吠えた。
「少しばかりどっちが偉いかわからせてやっただけだ。残念ながら女を楽しむのは頭次第だ……。先に手を付けようもんなら腹をすかせた熊みてえに暴れ出すからな。まあ心配するな。俺たちは女の扱いには慣れてる。朝までには帰ってくっから、それまで二人でせいぜい楽しむこった。顔を見るのも今夜限りだと思えば熱くなるだろ? なあ、俺たちが思いやりってやつも、ちったぁ持ち合わせてるってわかるか? 感謝には及ばねえ。この服でタダ酒飲ませてもらうとするからよ。なにしろ王室の御者様だからな。火はオレからの貢ぎ物だ、王子様」
喉の奥でごろごろ笑いながら一人口上を終え、ランプを壁にかけた男が行ってしまうと、ミカはアストリットを抱いたまま壁際に座った。そして彼女の身体を脚の上に載せた。階上では不揃いな足音が小さくなって行き、やがて派手な音を立ててドアが閉められると、人の気配はすっかり消えた。
「アストリット……」
ミカは腕の中の身体を少し揺さぶった。名を呼ばれて瞼を開けたアストリットは、間近な顔を探るように見つめた。そして、にわかに顔を伏せると恥じるように破れた胸元のレースを寄せた。ミカは脱いだ上着をその薄い肩の上にかける。
「申し訳ございません……。私がついていながら殿下をこんな危険に……」
「バカを言うな。謝るのは私の方だ。……おまえは……屈辱を与えられなかったか」
アストリットは弱々しく微笑んだ。そして、殿下……。と小さく口の中で呟くと、しっかりと首を横に振った。
「本当に、何も無かったのだな?」
念を押すミカに小首を傾げた彼女だったが、やがてそれが『陵辱されなかったか』という婉曲な質問と汲み、「いいえ」ときっぱりと答えた。
「彼らは『騎士は嫌いだ』とさんざん殴る蹴るを繰り返しました。それでも私が抵抗しないことがわかると、乱暴を止め、今度は服を破って体を調べ、短剣を取り上げました。私はそのとき初めて恐怖に襲われました。待っているのは、敵に捕らえられた女が避けられぬ拷問……。それでも、頭のどこかで”冷静になれ”と声が響いていました。私はとにかく彼らに何度も許しを請い、『舌を噛み切って命を絶つ』と言いうと彼らは相談を始めました。これで風向きが変わったと悟りました。あの手の者は自分が強いと認識させてやれば優越感をくすぐられ、気持を緩めます。それに、頭がいないことが不幸中の幸いでした。彼らには私を殺す決定権がないのです。そして手持ち駒に勝手に死なれても困る……」
アストリットの報告を最後まで聞かず、ミカは悔恨と後悔ではち切れんばかりになった胸を抱きしめる代わりに、女の身体を掻き抱いた。
「……殿下?」
「すまなかった……」
彼はアストリットの乱れた髪に顔を埋めながら、さらに腕に力を込めた。
「すまなかった……許してくれ」
「殿下? 殿下のせいではありませんよ……?」
アストリットの穏やかな声にミカは彼女との間に少し隙間を作った。そして、破れたドレスから腿がむき出しになっているのに気がつくと素早く手を伸ばして毛布をたぐり寄せる。
「あいつらが置いて行った毛布だ。私の”王子”という肩書きはこんな状況でもこんなふうに恩義を授かることが出来るのだな。さすがに王室の物に比べたら肌触りは悪いが、贅沢は言えん。寒さは凌げるだろう」
自分がどこに座っているのかやっと認識したアストリットは微かな抵抗を見せたが、彼は有無を言わさず毛布でその身を包んだ。壁にかけられた、たった一つのランプの灯りを頼りにミカは目をすがめて正面の小さな顔をじっと見据えた。
「顔を良く見せてくれ。……もう何年も会わなかった気がする。……自業自得なのだが」
憂いの表情で、ミカは彼女の頬についた汚れを指の腹でゆっくりと拭う。
「この間は、手荒なことをしてすまなかった」
アストリットは「いいえ」と微かに首を振った。ミカの手はゆったりと彼女の髪を撫で始める。
「始めて会ったときから……、私はおまえのとんだ疫病神だな。私の身を案じて馬から引き下ろせば、父親に殴られる。私に呼び出された城では権力に脅かされて純潔を奪われた上、陵辱の日々だ。挙げ句にこうして捕らえられ、殴られ、命の危険に晒されている……」
「りょ……、陵辱だなんて……!」
アストリットは異議を唱えるように眉を寄せたが、ミカの瞳の憂いはいっそう深くなる。
「運命の女神がおまえを見放した瞬間は……私がおまえを専属護衛として指名した時だろう。おまえはでっちあげの王子暗殺のために城に連れてこられたのだ。それからおまえの不幸が始まった」
「でっち、あげ……?」
見開いたアストリットの瞳が強ばった。
「そうだ。さっきお前は『殿下のせいではない』と言ったが、もちろん、私のせいだ。この猿芝居は始めこそヨシュアの提案だが、全て自作自演だったのだ。……酒場で拾ったあいつらがこうして裏切るまではな……」
「……それなら、始めから……? 森で、離宮で襲われたのも、アリアス訪問の後に襲われたのも……」
「そうだ。忍んで街に行ってはあいつらと連絡を取っていた。アリアスとはまた別件で交際していたが……あの夜、酒を買った宿で絡んできた男に二マシェルをやっただろう。あいつらのうちの一人だ。一マシェルなら”一時”、二マシェルなら”二時”にアリアス邸を出るという合図だった」
「愚かです……」
アストリットは思いも寄らなかったミカの告白に、それだけ言うのがやっとだった。
「重々承知している。だが、狂ってしまったんだ。おまえを手に入れるために……おまえを私の側に置いておくために……私だけのものにしておくために……」
アストリットは自分の耳を疑う。それは専属護衛としてだろうか……。その無言の問いかけに、ミカは熱情を含んだ眼差しで答える。
「どうして……」
アストリットは大きく頭を振った。
「そのお気持ちが本当なら、父に申し入れれば一番容易だったのでは……父もまさか殿下直々の結婚の申し出を断ることはなかったはず」
「もちろん、私は正式な手順を踏んだ。しかし、そのまさか、だ。誰にも告げず密かにローゼナウ総指揮長に手紙を送ったが、おまえに思い人がいるからと断られた。『ずっと父親らしいことが出来なかったから、せめて人生を共にする伴侶くらいはおまえの希望通りにさせたい』と返してきた。その返事を受け取ったときほど、自分を見失ったことはなかった。三日三晩部屋に閉じこもり、食事も喉を通らなかった……そんな私を見かねてヨシュアは一計を図ったのだ」
ああ、フリーダの婚約話の席で確かにそんなことを告白した……。
アストリットは記憶をたぐり寄せた。あの時の言葉がこんなふうにミカを動かしてしまうなどと、どうして知り得よう。もとより、その”思い人”はミカその人だったのに。運命とは皮肉なものだ。
さらにガレスの、ミカに対する返事にも彼女は感動を覚えた。いたって普通の親ならば、未来の国王、第一王子本人より求婚があれば即座に快諾し、どんな勝ち戦の手柄よりも自分の育てた娘を誇りに思うだろう。
しかし、食卓で何気なく拾った娘の『思い人がいる』の曖昧な言葉一つでそれを退けたのだ。場合によってはガレスの立場さえ悪くなるはずなのに。そこまで父は実の娘でもない自分を思っていたとは。
「……私自身に確かめずに、そのような行為を……殿下は、愚かです……」
アストリットは震える声で同じ言葉を繰り返しながら、今にも泣き出しそうな顔でミカを見つめた。
「おまえの気持など、手に取るようにわかる。私が憎い、それに尽きるだろう。まず第一印象から最悪だった……」
「それでも……殿下のお気持ちを嬉しいと思ってしまう私も、狂っていると言えましょう」
「それは……」
ミカの、髪を梳いていた手が止まった。アストリットの伏せた睫毛が震える。
「初めて言葉を交わしたときから、ずっと……殿下に心を奪われていました。子供心に抱いた殿下への思いは、時とともに薄れるどころか、募るばかりでした……自分には手の届かない方だと、何度も諦めようとしましたが……」
「それは……、まさか……」
アストリットは顔を上げると、困惑に眉を寄せるミカを見据えた。
「お慕いしております……ミカ様……」
肩に置かれていた手の微かな震えを肌が拾ったと思うと、後頭部を掬われ、口付けられていた。彼女の手は思わずミカの胸のシャツを握りしめたが、すっかり慣らされていた唇は従順に相手を受け入れていた。
その異変に最初に気がついたのはミカだった。
「こんな道の悪い場所は無いはずだが……」
彼はすっかり熱を帯びたアストリットの身体を腕に囲いながら呟く。そして小窓を開けて「どうした」と御者に声を張った。答えは無い。それどころか馬車のスピードはさらに上がったようだ。
「止めろ! 馬車を止めるのだ!」
ミカはドアの取っ手を掴み、がたがたと揺らすが、外から施錠されているのか、開かない。
「あいつら……」
アストリットを抱いていた手に強い力がこもった。
やがて馬車が止まると、二頭の馬は膨らんだ胸から息を吐き出し、ぶるる、と盛大に鼻を鳴らした。
馬車の扉が開き、御者――本物の御者は今頃石畳の上で冷たくなっている――が月光を背にぼんやりとその輪郭を見せた。
男は下卑た笑いで口元を歪ませている。
「着いたぜ、王子様、お姫様」
濁声に促され、ミカはアストリットを庇いながらステップを下り、夜露に濡れ光る草を踏むと辺りを見渡した。
黒い木々の影に囲まれた空地に、小さな窓から黄色い灯りを漏らした粗末な廃屋がおぼろな月光の中、ひっそりと浮き上がっている。どこまで連れてこられたのか。街の喧噪はまだ耳に残っているというのに、ここは葉擦れの音さえしない。
馬車が戻って来たのを聞きつけたのだろう。小屋からさらに二人出てくると、御者に扮した二人と同様、アストリットとミカを囲うように立った。
「頭《かしら》は」
小柄な御者が仲間の一人に尋ねた。
「一足先に祝杯をあげに行ったさ。こいつらを地下に放り込んでから来いってよ」
「まったく、気の早えぇ頭だ」
四人は顔を合わせ、低く笑って肩を揺らす。
ミカに支えられたアストリットは、男たちの会話を聞きながら素早く考えを巡らせた。
丸腰の殿下を庇いながら四人を相手にする……。一人は腰に拳銃を下げている。明らかに不利だ。何より今は薬が効いて体の自由が利かない。ここは、相手に歯向かわず、油断をさせて好機を見つけるしか無い。私がついていながらこのざま……。アストリットは不本意な結論に奥歯を噛んだ。
「王子様よ、あんたは”本当に”攫われたんだ。さあ、自分の立場がわかったらさっさと歩け」
近くにいた男がぬっと腕を伸ばしてミカの肩を強く押した。
「お前たち……勝手なことを……!」
アストリットの肩を抱いた彼は、悔しげな声を押し出した。
「全てがあんたの思い通りになると思ったら大間違いだ」
――勝手なこと? 思い通り?
アストリットが眉をひそめると、「ぐずぐずするな」と剣の柄で背中を押された。転びそうになった彼女をミカは素早く支える。
「こんなことをして無事で済むと思うな。私が城に戻らねば衛兵がすぐに探しに来る。おまえたちは捕われ、死刑だぞ」
怒気を含んだ声に男は一瞬たじろいだが、すぐに他の男が愉快そうに喉を鳴らした。
「あんた、今までさんざん城を抜け出して遊び歩いてただろう。一晩や二晩城にいなくても誰もあんたを心配しやしない。それに、そいつは専属護衛だろ? 何度かお顔は拝見してますからな。そいつが一緒なら、城の奴らもすぐに探しはしまい。へへっ、自分で自分の首を絞めたな、王子様。おれたちのことより、自分の身を心配するこった」
小屋に入るなり、二人はすぐに引き離された。アストリットは小柄な男に後ろ手に捕られても、気丈に顔を上げ一時もミカから視線を外さずにいた。ミカの目に、それは自分を励ましているように映った。――私は大丈夫です、殿下。必ずお護りします。
ミカは男に何度も肩を突かれても、アストリットを振り返りながら地下牢に下りて行った。抵抗は考えていなかった。自分一人ならともかく、彼女の身の安全が保証されない限り、相手を興奮させるのは決して得策ではない。
王子を牢の中に突き飛ばした男は、一緒に幾枚かの毛布も一緒に牢に放り込み、鍵を閉めると再び石段を上がって行った。
一人になると、彼は黴臭く湿っぽい空気の中で、息を殺して耳を澄ませた。
地下牢から男が出て行った直後、罵る声、椅子が倒れるような音が上から聞こえてきたが、それも長くは続かず、やがて不気味なほどの静寂が耳を打った。
その静寂はまた雄弁にミカに一つのことを教えているようにも思えた。――腹をすかせた狼たちが手負いのウサギを前に、脚に顎を乗せ、ただ静観しているわけではあるまい?
口に布を詰められたアストリットは、男四人に押さえ込まれ、力任せに身体を開かれているのではないか……。恐ろしく淫らな想像は彼の意志に反し、頭の中でどんどん膨らむ。
ミカは爪が食い込むほどに拳を握り込めた。怒りで鈍麻になった感覚が微かに感じた痛みは、不埒な想像をやや違う方向へ向けた。
――まさか殺されてしまったわけではあるまい――ミカは体中の血が凍り付いたかのように身を固くした。喉で動悸が乱れ打ち、呼吸が苦しくなる。ふらりと傾いだ肩は石の壁に支えられた。どんな音でも聞き逃すまいと、彼はさらに全神経を集中させる。
突然、床を踏みしめる音が闇を揺らしたと思うと、ドアが大きく開いた。はっと顔を上げると、自分を連れてきたのとは別の男が石段を降りて来る。男は小麦袋かなにかのようにアストリットの身体を抱えていて、彼女はそれにかろうじてぶら下がっていた。地下牢に放り込まれたアストリットの身体が、重力に抗わず床に叩き付けれる前に力強い腕が抱きとめた。
「彼女に何をした!」
ミカは、抱きとめたアストリットの姿――羽根をむしり取られた黒鳥のような――を男の掲げる頼りないランプの光に確認すると、逆上して吠えた。
「少しばかりどっちが偉いかわからせてやっただけだ。残念ながら女を楽しむのは頭次第だ……。先に手を付けようもんなら腹をすかせた熊みてえに暴れ出すからな。まあ心配するな。俺たちは女の扱いには慣れてる。朝までには帰ってくっから、それまで二人でせいぜい楽しむこった。顔を見るのも今夜限りだと思えば熱くなるだろ? なあ、俺たちが思いやりってやつも、ちったぁ持ち合わせてるってわかるか? 感謝には及ばねえ。この服でタダ酒飲ませてもらうとするからよ。なにしろ王室の御者様だからな。火はオレからの貢ぎ物だ、王子様」
喉の奥でごろごろ笑いながら一人口上を終え、ランプを壁にかけた男が行ってしまうと、ミカはアストリットを抱いたまま壁際に座った。そして彼女の身体を脚の上に載せた。階上では不揃いな足音が小さくなって行き、やがて派手な音を立ててドアが閉められると、人の気配はすっかり消えた。
「アストリット……」
ミカは腕の中の身体を少し揺さぶった。名を呼ばれて瞼を開けたアストリットは、間近な顔を探るように見つめた。そして、にわかに顔を伏せると恥じるように破れた胸元のレースを寄せた。ミカは脱いだ上着をその薄い肩の上にかける。
「申し訳ございません……。私がついていながら殿下をこんな危険に……」
「バカを言うな。謝るのは私の方だ。……おまえは……屈辱を与えられなかったか」
アストリットは弱々しく微笑んだ。そして、殿下……。と小さく口の中で呟くと、しっかりと首を横に振った。
「本当に、何も無かったのだな?」
念を押すミカに小首を傾げた彼女だったが、やがてそれが『陵辱されなかったか』という婉曲な質問と汲み、「いいえ」ときっぱりと答えた。
「彼らは『騎士は嫌いだ』とさんざん殴る蹴るを繰り返しました。それでも私が抵抗しないことがわかると、乱暴を止め、今度は服を破って体を調べ、短剣を取り上げました。私はそのとき初めて恐怖に襲われました。待っているのは、敵に捕らえられた女が避けられぬ拷問……。それでも、頭のどこかで”冷静になれ”と声が響いていました。私はとにかく彼らに何度も許しを請い、『舌を噛み切って命を絶つ』と言いうと彼らは相談を始めました。これで風向きが変わったと悟りました。あの手の者は自分が強いと認識させてやれば優越感をくすぐられ、気持を緩めます。それに、頭がいないことが不幸中の幸いでした。彼らには私を殺す決定権がないのです。そして手持ち駒に勝手に死なれても困る……」
アストリットの報告を最後まで聞かず、ミカは悔恨と後悔ではち切れんばかりになった胸を抱きしめる代わりに、女の身体を掻き抱いた。
「……殿下?」
「すまなかった……」
彼はアストリットの乱れた髪に顔を埋めながら、さらに腕に力を込めた。
「すまなかった……許してくれ」
「殿下? 殿下のせいではありませんよ……?」
アストリットの穏やかな声にミカは彼女との間に少し隙間を作った。そして、破れたドレスから腿がむき出しになっているのに気がつくと素早く手を伸ばして毛布をたぐり寄せる。
「あいつらが置いて行った毛布だ。私の”王子”という肩書きはこんな状況でもこんなふうに恩義を授かることが出来るのだな。さすがに王室の物に比べたら肌触りは悪いが、贅沢は言えん。寒さは凌げるだろう」
自分がどこに座っているのかやっと認識したアストリットは微かな抵抗を見せたが、彼は有無を言わさず毛布でその身を包んだ。壁にかけられた、たった一つのランプの灯りを頼りにミカは目をすがめて正面の小さな顔をじっと見据えた。
「顔を良く見せてくれ。……もう何年も会わなかった気がする。……自業自得なのだが」
憂いの表情で、ミカは彼女の頬についた汚れを指の腹でゆっくりと拭う。
「この間は、手荒なことをしてすまなかった」
アストリットは「いいえ」と微かに首を振った。ミカの手はゆったりと彼女の髪を撫で始める。
「始めて会ったときから……、私はおまえのとんだ疫病神だな。私の身を案じて馬から引き下ろせば、父親に殴られる。私に呼び出された城では権力に脅かされて純潔を奪われた上、陵辱の日々だ。挙げ句にこうして捕らえられ、殴られ、命の危険に晒されている……」
「りょ……、陵辱だなんて……!」
アストリットは異議を唱えるように眉を寄せたが、ミカの瞳の憂いはいっそう深くなる。
「運命の女神がおまえを見放した瞬間は……私がおまえを専属護衛として指名した時だろう。おまえはでっちあげの王子暗殺のために城に連れてこられたのだ。それからおまえの不幸が始まった」
「でっち、あげ……?」
見開いたアストリットの瞳が強ばった。
「そうだ。さっきお前は『殿下のせいではない』と言ったが、もちろん、私のせいだ。この猿芝居は始めこそヨシュアの提案だが、全て自作自演だったのだ。……酒場で拾ったあいつらがこうして裏切るまではな……」
「……それなら、始めから……? 森で、離宮で襲われたのも、アリアス訪問の後に襲われたのも……」
「そうだ。忍んで街に行ってはあいつらと連絡を取っていた。アリアスとはまた別件で交際していたが……あの夜、酒を買った宿で絡んできた男に二マシェルをやっただろう。あいつらのうちの一人だ。一マシェルなら”一時”、二マシェルなら”二時”にアリアス邸を出るという合図だった」
「愚かです……」
アストリットは思いも寄らなかったミカの告白に、それだけ言うのがやっとだった。
「重々承知している。だが、狂ってしまったんだ。おまえを手に入れるために……おまえを私の側に置いておくために……私だけのものにしておくために……」
アストリットは自分の耳を疑う。それは専属護衛としてだろうか……。その無言の問いかけに、ミカは熱情を含んだ眼差しで答える。
「どうして……」
アストリットは大きく頭を振った。
「そのお気持ちが本当なら、父に申し入れれば一番容易だったのでは……父もまさか殿下直々の結婚の申し出を断ることはなかったはず」
「もちろん、私は正式な手順を踏んだ。しかし、そのまさか、だ。誰にも告げず密かにローゼナウ総指揮長に手紙を送ったが、おまえに思い人がいるからと断られた。『ずっと父親らしいことが出来なかったから、せめて人生を共にする伴侶くらいはおまえの希望通りにさせたい』と返してきた。その返事を受け取ったときほど、自分を見失ったことはなかった。三日三晩部屋に閉じこもり、食事も喉を通らなかった……そんな私を見かねてヨシュアは一計を図ったのだ」
ああ、フリーダの婚約話の席で確かにそんなことを告白した……。
アストリットは記憶をたぐり寄せた。あの時の言葉がこんなふうにミカを動かしてしまうなどと、どうして知り得よう。もとより、その”思い人”はミカその人だったのに。運命とは皮肉なものだ。
さらにガレスの、ミカに対する返事にも彼女は感動を覚えた。いたって普通の親ならば、未来の国王、第一王子本人より求婚があれば即座に快諾し、どんな勝ち戦の手柄よりも自分の育てた娘を誇りに思うだろう。
しかし、食卓で何気なく拾った娘の『思い人がいる』の曖昧な言葉一つでそれを退けたのだ。場合によってはガレスの立場さえ悪くなるはずなのに。そこまで父は実の娘でもない自分を思っていたとは。
「……私自身に確かめずに、そのような行為を……殿下は、愚かです……」
アストリットは震える声で同じ言葉を繰り返しながら、今にも泣き出しそうな顔でミカを見つめた。
「おまえの気持など、手に取るようにわかる。私が憎い、それに尽きるだろう。まず第一印象から最悪だった……」
「それでも……殿下のお気持ちを嬉しいと思ってしまう私も、狂っていると言えましょう」
「それは……」
ミカの、髪を梳いていた手が止まった。アストリットの伏せた睫毛が震える。
「初めて言葉を交わしたときから、ずっと……殿下に心を奪われていました。子供心に抱いた殿下への思いは、時とともに薄れるどころか、募るばかりでした……自分には手の届かない方だと、何度も諦めようとしましたが……」
「それは……、まさか……」
アストリットは顔を上げると、困惑に眉を寄せるミカを見据えた。
「お慕いしております……ミカ様……」
肩に置かれていた手の微かな震えを肌が拾ったと思うと、後頭部を掬われ、口付けられていた。彼女の手は思わずミカの胸のシャツを握りしめたが、すっかり慣らされていた唇は従順に相手を受け入れていた。
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