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3.箱庭
27.束の間の安らぎ
しおりを挟む午後になると、ノルとエットは各々自由な時間を過ごしていた。といっても、それぞれが異なる場所にいるかといえばそうではない。掃除と洗濯を終えたふたりは、リビングにある大きな窓の傍に居た。窓から差し込むのは人工太陽による機械的な日差しだが、外で暮らしていたときは太陽どころか青空だって見られなかったのだから、これ以上を望むなんて贅沢だとエットは思う。
(気持ちいい――)
太陽の日差しを浴びながら、エットは思わず目を細めた。ぺらり、と軽い、紙を捲る音に耳をそばだてながら、そこにある文字を目で追う。読書も日向ぼっこも、外の世界ではできなかった贅沢だ。配給品でこそあれ、与えられた本はどれも面白かった。内容は施設の人間が検閲しているらしいが、今のところ不便をしたことはない。いま手にしているのは植物図鑑だ。図鑑の頁を静かに眺めながら時折、指先で花の絵をなぞっていると、ノルが低く声をかけた。
「何を読んでるんだ」
「ハーブの図鑑。朝ご飯のとき、少し気になったから」
顔を上げたエットは、小さく微笑むと「ほら、ここ」と図鑑の頁を指差した。エットに導かれるまま、ノルは指し示された頁へ目をやる。どうやらハーブに与えられた『花言葉』の欄を見ていたようだ。
「ローズマリーは『誠実』、『静かな力強さ』、『変わらぬ愛』――ディルは『幸福』に『知恵』だって」
「……わざわざ意味を持たせたわけじゃない」
照れ隠しでも、言い訳でもなく、ノルがローズマリーとディルを選んだのは臭み消しのためだけだった。培養肉には特有の嫌な獣臭さが、合成乳には乳臭さがあり、これにはエットもノルも辟易していた。そのため、配給品の中でも稀少なハーブを使ったのだ。しかしエットはノルのつっけんどんとも言える態度に気を悪くした様子もなく、図鑑の頁を優しく撫でた。
「分かってる。でも、本当に思ったんだ――ノルみたいだ、って」
「俺みたい?」
「ああ。どの言葉も、ノルみたいで……なんだか嬉しい」
「……言い過ぎだ」
それに、と言いかけたところで口を噤む。これは口にしなくてもいいことだ。不自然に途切れた言葉の先を、エットが気づかなかったのは幸いだった。
(いや……)
気づいていないなんてはずがない。エットは聡明だ。きっと気づいていて、その上で見逃されたのだ。ちらりとエットの表情を伺うと、彼は微笑んでいた。どこかわざとらしい、悪戯っぽい笑みだった。
「照れた」
「……照れてない」
こちらもわざとむっとした声色を出すと、エットはくすくすと笑った。こちらは、作り笑いではなさそうだった。赤毛に覆われた尻尾が揺れて、ノルの頬をくすぐる。
「こら。茶化すな」
「茶化してない」
そう言いながら、エットの顔が近くなる。目を閉じて好きにさせてやれば、ちろりと小さな舌で額を舐められた。猫獣人特有のざらざらとした舌触りがくすぐったい。それでも好きにさせていると、舌はやがてノルの毛繕いを始めた。
ぱたん、と図鑑の閉じられる音がして、エットが身を寄せてきたのが分かる。額を舐めた後は髪を手で梳かれ、それから頭から突き出た三角耳を舐められて、心地よさにノルの喉が無意識にごろごろと音を鳴らした。穏やかな日差しを受けながら、ノルはささやかな幸せを噛みしめる。
「少し乱れてた」
「そうか……ありがとう」
「ん」
ノルの言葉にエットは満足そうに微笑みながら言った。
「俺のはノルがいつも整えてくれるから、たまにはな」
「……そうか」
ノルは視線を逸らしたまま、尻尾の先をわずかに揺らした。エット以外が見たら拒むようにも、威嚇するようにも見えるその仕草は、エットだけにはむしろ甘えるものだと分かる。そんなノルの様子を読み取ったエットは、ますますノルの方へ身を寄せた。そのまま頬ずりして甘える。そのとき、壁の赤いランプがチカチカと点滅し、スピーカーから無機質な声が部屋の中へ響き渡った。
『対象X・Y、準備を』
続いて、固く閉ざされていた扉のロックが外れるガシャンという音に、ふたりの身体に緊張が走る。
「……時間だ」
「ん」
先に言葉を発したのは、ノルの方だった。エットも短く頷くと、歩き出したノルに続いて部屋の扉へ向かう。ふたりの幸せな時間は、唐突に、そして呆気なく終わりを告げる。いつだってそうだ。
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