箱庭の空をあげる

ゆるふわ畜生

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3.箱庭

29.休息、そして始まり

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 身体の中を巡る血液が沸騰しているかのようだ。それでいて、ひどく寒かった。全身は重怠く、瞼を開けることすら億劫だった。ノルは、夢を見ていた。まだこの施設へ来る前。ノルが野良として生きていた頃の夢だ。
 いくつもの瓦礫の重なるスラム――その中でもノルは屋上に居ることが多かった。他者と交流することを避けていたノルの唯一の関心は、スラムの屋上から見える空だった。常に鈍色の雲に覆われた空を眺めることが楽しかったのではない。ただ、興味があった。どこまでも続く灰色の雲の先、その先に広がる青空というものを、かつて母がノルの毛色をそう例えた青い空を、見てみたいと思ったのだ。

 
 ノルが目を覚ましたのは翌日の、太陽が中天に位置してしばらく経った後だった。額に触れる冷たい感触が心地良く、しかし重だるい身体の違和感を覚えながら瞼を開けると、そこにはノルを心配そうに見つめるエットの姿があった。

「いま……何時だ」

「十四時四十七分だ」

「いやにはっきりしているな」

「ノルのこと、一分おきに見てたからな」

「……すまない」

「冗談だ」

  エットに心配をかけてしまった……そう思い、僅かに耳を垂れたノルに、エットは真顔でそう言った。エットは冗談を言うタイプではないが、この場を和まそうとして冗談を口にした可能性はある。笑うべきか真剣に悩んでいるノルをよそに、エットはすっくと立ち上がった。

「何か食べられそうか?」

「いや……食欲がない」

「そうか……」

 エットはしばらく考え込んでいたようだが、やがて立ち上がると、どこかへ行ってしまった。上体を起こしながら額に触れると、濡れタオルが毛布の上に転げ落ちた。エットの座っていたところへ目をやると、氷を張った洗面器が置いてあった。あながち、エットの言葉は冗談ではなかったのかもしれない――そう考えていると、エットが戻ってきた。銀色のアルミでできたパウチを数本と、ノルのマグカップを持っている。パウチの中身は知っている。施設内で培養された人工果物のピューレだ。普段は料理の隠し味に使うことが多いが、それ単体でも栄養価に優れている。マグカップの中身はいつもノルが作る、合成乳を温めたホットミルクだった。昨日作ってやったものが余程気に入ったのだろう、ミルクからディルの爽やかな香りがした。

「持てるか」

 エットはマグカップを一旦脇机に置くと、ノルへ向かってパウチのひとつを差し出した。

「……ああ」

 そう言いながらも、ノルの手は上手くパウチのブラスチックキャップを回せないでいる。

「貸してみろ」

 見かねたエットがノルの手からパウチを受け取り、蓋を開ける。ブラスチックが割れる、ぱきりという小気味よい音がした。

「エット、いい。自分で……」

「だめだ」

 まだ身体に力が入らないことをエットは見抜いたらしい。ノルの言葉を珍しく制すると、エットはパウチの中身を口に含んだ。 

「ん」

  ピューレを舌に乗せたエットの顔が近づく。ノルはゆっくりと、エットの口へ自分のそれを寄せて、そのままはむ、と唇を柔く食んだ。

「う、ん……」

 ちゅ、と音を立てて、エットの舌ごとピューレを味わう。イチゴの甘酸っぱい味が口の中へ広がる。こくりと飲み込むと、ピューレの欠片が胃袋へと落ちていく感覚がした。

「もっと食べるか?」

「……ああ」

 今度は先ほどよりも多めにピューレを口にしたエットが、再び唇を寄せてくる。ちゅう、と軽く吸い付くと、互いの舌が絡んだ。じゅわりと唾液とともに流し込まれたピューレは温もりをもってノルの腹を満たしてくれた。時折、ふたりの口から溢れたピューレが白い毛布を汚す。血みたいだ、とノルは思った。

「ミルク、飲めそうか」

「ああ」

 少しふわふわした口調でミルクを勧められて、ノルはエットからマグカップを受け取ろうとした。そのときだ。

「――ッ!」

「っ、ノル⁉」

 突如として右足に走った痛みに、ノルは思わず顔をしかめていた。その様子を察したエットが、慌ててノルの肩を支える。

「痛むのか?」

「問題ない。少し、疼いただけだ」

 しかしエットはノルの言葉通りには受け取らなかったようだ。マグカップを脇机へ置き直すと、そのままノルの右足を毛布越しにさする。

「あまり、無理するなよ」

「無理なんかしてない。エットこそ、休んだ方が良い」

「俺は平気だ。知ってるだろ」

「……」

 エットの言葉に、ノルは黙り込んだ。しかしその表情は険しい。眉が上がり、口の端をきゅっと結んだ表情は、怒っているようにしか見えないが、エットは知っている。ノルは、心配してくれているのだ。身体が弱いことの多い雌性の猫獣人にしては、エットは珍しく頑丈な方だった。

「ノル、今は自分のことだけ考えろ。ほら、ミルク。冷めないうちに」

 そう言ってエットがマグカップを差し出すと、ノルはまだエットの方を伺うような視線を寄越していたが、それでもマグカップを受け取ってくれた。こくり、とノルの喉が動き、温かなミルクを飲んだ。

「……奴らは満足していない」

 カップの中身を半分ほど飲むと、ノルはマグカップを手にもったままぽつりと呟いた。研究員の態度のことを言っているのだと、エットにもすぐに分かった。彼らはノルとエットで繁殖実験を行おうとしているが、結果が思わしくないことに苛立っているようだった。

「今日は火曜ティースダーグか……俺が出るから、エットは休んでろ」

「! だめだ」

 火曜ティースダーグは、交尾実験をする月曜モーンダーグとは違い、どちらかが検査実験を受ける日だ。

「片方だけで良い場合、俺が出る。約束したはずだ」

「うん。でもそれは、ノルの体調が問題ない場合っていう約束もした」

「さっきも言った。問題ない」

「だめだ」

「エット」

「絶対にだめだ」

 断固として譲らない様子のエットに、ノルは小さく嘆息した。こうなると、エットはなかなか折れないことをノルはよく知っていた。しかし、だからといってノルも折れるつもりはない。なんとか説得しようと言葉を探していると、唐突に持っていたマグカップを奪い取られた。いったい何を――そう問う前に、エットはマグカップの中身を口に含み、先ほどしたようにノルの口の中へと注いだ。こくり、と反射で喉がミルクを嚥下する。

「エッ、ト……?」

「ごめん」

 いったい、何が起きたか分からない。しかし続いて泣きそうな顔で告げられたエットの言葉に、全てが繋がる。咄嗟に指を喉の奥へ押し込もうとするノルを阻んだのは、他でもないエットだった。

「! 離せ、エット! はな……」

 ぐらり、と視界が回転した。唐突に訪れた睡魔に、抗えない。力の抜けた手からマグカップが落ちて床に当たる鈍い音が聞こえた。薄れゆく意識の中で、最後に目にしたのはまるであの日のように、泣き出しそうな顔で笑うエットの姿だった。
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