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第一章 32歳~

07 女の勘 32歳

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 紗栄子はネットカフェでボンヤリ動画を見ていた。
 久美子に連絡するのはやめた。大志に話を聞いてもらうのがダメで、こちらもダメだったら落ち込みそうだし、大志のかわりにするのも失礼な気がした。
 ドリンクバーコーナーから持ってきたコーヒーに口をつける。不味い。実際に不味いのか自分の気分のせいなのか、そんなことはわからない。
 さっきの、電話越しの大志の声を思い出す。そこには強い罪悪感がひそんでいた。
 さらには差し入れを断ったのが引っかかる。
 体調不良だから、ウイルスを感染させたりするのを懸念したのかもしれない。いやーーー。
 ーーー家にあげたくないのだ。
 それはきっとーーー“寝るだけ”の相手が来ているから。
 雨の日に気分が悪くなる確率が高いことは紗栄子も自覚しつつあった。ならば、大志もそうかもしれない。人恋しくなって、紗栄子の知らない誰かを家にあげて、ケータイの着信にもインターホンの音にも気づかず楽しんでいたのかもしれない。
 ーーーだから?それはいけないことか?それを責める権利が紗栄子にあるのか?
 大志は高校生から大学生にかけて深く付き合った相手であり、夫の親しい友人でもある。
 でも、お互いにとても近しい関係だからといって、いつでも自分を最優先にしてもらえるわけではない。
 紗栄子の方が、子供がいる分、大志の都合に合わせられないくらいなのに。
 モニターには、昔流行った曲のミュージックビデオが流れている。
 蓮も紗栄子も好きな曲だ。
 中学時代は水泳部の選手だった紗栄子。その頃から蓮のことは知っていた。N市の南中の青山蓮と、北中の藤堂拓海はイケメンだがチャラチャラしていて有名だった。
 マネージャーとして蓮とチームメイトになったのは高校1年生。
 大志と別れてしばらく経って、恋人同士になったのは大学3年生。
 結婚したのは付き合って5年くらい経った26歳のころ。
 27歳の時に瑛が生まれて。29歳の時に奏が生まれて。
 蓮は仕事が好きだった。患者さんの役に立てることが嬉しいと言っていた。
 チャラチャラしていたのは紗栄子と付き合う前までで(正確にはもう少し前、紗栄子と大志が別れた頃だが、そうとは紗栄子は知らない)、専門分野の研究も好きだった。学会で発表するんだと張り切っていた。
 子供達にも優しく、時に厳しい父親だった。
 紗栄子のことも、とてもとても愛してくれた。
 幸せだったのに。幸せだったから、別れはつらかった。
 クリスマス前に発覚した病気。それは進行の速い深刻な病気で、紗栄子は神も仏もないのかと絶望した。
 蓮が逝ってしまった時。病室から見えた、雨に濡れた桜が目に焼き付いて離れない。
 ーーーどうして、どうして、どうして…。
 答えの返ってこない問いが頭の中をぐるぐるとまわる。
 こんなに大変な時なのに、自分は、母親に子供を押しつけて、勝手に大志のところへ押しかけて会えなくて落ち込んで、こんなところでミュージックビデオを見て声を殺して泣いている。
 自分の身に起こったことは確かに不幸だ。だからといって自分の好き勝手にしていい免罪符をもらったわけではない。
 いつまでも流れ続けるかと思っていた涙はやがて止まり、目も鼻も喉もガビガビとして痛い。
 時間だ。帰ろう。母親は顔を見て気づくかもしれない。瑛も成長して大きくなってきていて、母の異変を感じ取るかもしれない。
 備え付けのティッシュで顔中を丁寧に拭い、紗栄子は帰る支度を始めた。
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