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第三章 美央高1・紗栄子高2

09 地区大会の後に

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「第5コース、藤堂拓海君、城北高校。」
 きゃーっと歓声が上がる。男子100m背泳ぎ、決勝のレースがやってきた。拓海は予想通り予選を1位通過した。タイムはそれほどよくないけれど、決勝のための温存と思えば納得のいくタイムだ。
「すごいよなあ、手ぇ抜いてこのタイムだもんな。」
 予選タイムの張り出しを見て、悠季がため息をついていた。でも、そういう彼も決勝に進んでいる。
 位置についての笛が鳴り響き、選手が足からプールに飛び込む。拓海も、頭までもぐって、勢いよく顔を上げた。左右に首を傾け、バーをつかむ。足の位置を確認。
「よぉーい…。」
 パァン!
 勢いよく飛び出す。ぐんぐんとバサロをする選手たち。15mぎりぎりで浮上したその時、すでに拓海はトップに立っていた。
 スタートもバサロも、拓海は群を抜いている。予選のときとは、体のキレが違うのが、美央にもわかる。悠季も必死にくらいついている。どうやら入賞圏内には楽々入りそうだ。
「おっ、拓海自己ベスト!」
 拓海は余裕の優勝だった。レース終了とともに、再度黄色い声援が上がる。
「悠季も自己ベストだ。いいねえ、フォーム改良がバシッと生きてるねえ。」
「それにしても拓海が地区大会でベスト出してくるなんて思いませんでしたねえ。調整程度でいくつもりかと思ってました。」
「そうだね。」
「春菜先輩に怒られるのが怖いんじゃないですか。」
「ちょっとぉ、紗栄子!」
「すみません。」
 個人レースの決勝のあとには、リレーが待っている。地区大会程度では日程が短いので、レースも詰め込みだ。レース前にどう過ごすか、確認に行く。
「おつかれさまです!さすがですね!」
 どんなに小さい大会でも、優勝っていうのはすごい。美央はすごく感動してしまっていた。
「ああ、ありがとう。メドレーリレーまであとどれくらい?」
「え、と…。30分ちょっと、ですかね。」
「あー、あんまり時間ねえなあ。マッサージ、頼んでいい?」
 小プールから休憩コーナーに行くまでの道すがら、あちこちの選手に話しかけられる拓海。
(やっぱりすごい。)
 拓海はうつぶせになると、突然忍び笑いをもらした。
「どうしたんですか。怖いですよ。」
「いやあ、我ながら地区大会でベストを出すとは、頑張ったなあと思って。」
「すごいですねえ。紗栄子先輩ったら‘春菜先輩に怒られるのが怖くて頑張ったんじゃないですか’って。ひどいですよねえ。」
 思わずマッサージの手にも力が入る。
「…美央、すごく嬉しそうだなあ。」
「だって、私、大会って初めてなんですよ。しかも拓海先輩が優勝なんて、正直大興奮です。」
「なんか、大事なこと忘れてない?」
「え?」
「俺が何のために頑張ったか、わかってないのかな、この子は。」
 拓海は顔だけこちらを向いて、にやっと笑った。
「俺が優勝して嬉しいっていうことは、返事はOKってことだよね?」
 さーっと血の気が引く感じがした。完全に、忘れていた。
「あーあ、あからさまに忘れてましたって顔だなあ、これは。」
「すみません…。」
「いいよ。そういうところがいいんだ。」
 拓海はしょんぼりした様子もなく、嬉しそうだ。さっきよりも短い時間のマッサージを終え、起き上がった。
「拓海、そろそろ。」
「はい、シゲさん。」
 部長の茂則も平泳ぎでリレーに出る。拓海は立ち上がりかけて、また美央の耳元に唇を寄せる。
「今日は一緒に帰ろう。…絶対に。」
 びっくりするくらい、真面目な顔だった。



 1日目は拓海の100m背泳ぎ優勝、茂則の100m平泳ぎ優勝、そして多数の入賞で終わった。大きい荷物はコーチが用意したワゴンに搬入し、いったん学校に戻る。拓海は一緒に帰ろうと言ったけど、美央は後片付けのため、いったん学校によらなくてはいけないはずだ。
「美央!」
「はい。」
「あんたんちここからすぐでしょ?学校まで行ったら面倒だろうからこのまま帰っていいわよ。」
「えっ!?いやっ、そんな、申し訳ないです!行きますよ!」
「ホントにいいのよー。どうせ本格的な片付けは明日なんだからさ、あたしと紗栄子がいれば十分。」
「そうそう。初めての大会疲れたでしょ。よく休んでね。」
 美央は思わず肩を落とした。拓海から逃げる口実がなくなってしまった。
「じゃ、おつかれっ!」
「お疲れ様です…。」
 家にそのまま帰っていいと言われたのにちっとも喜ばない美央を見て、ひとみが『偉いねー美央は。』と感心している。
「あれっ?拓海、一緒に帰らないの?」
 拓海と同じ方面の先輩が、素っ頓狂な声を上げる。
「はい、今日友達のうちに用事があって。美央の兄貴なんですけどね。」
 しれっとして嘘をつく男なのだ、藤堂拓海は。向こうでひとみがそうと察していやらしく笑っている。
「どうせだから一緒に行こうか、美央。」
「ハイ…。」
「なんだよー、元気ないなー。そんなに疲れたかー?」
 自転車があるのに『歩いていこう』という拓海。
「疲れた?美央。」
「そうですね。いつもより早起きしたし、初めてのことばっかりだったんで。」
「そうだよなあ。」
 ときどきキィーッと自転車が間抜けな音を出す。
「美央。」
「…ハイ。」
「今日のお前、すごく偉かったよ。ほとんど休まずあちこち動いてくれてただろ。ありがとう。」
「…そんな、春菜先輩や紗栄子先輩にたくさん指導してもらってるからです。」
「それもあるだろうけどさ。」
 夕日が、背中にオレンジ色の光を浴びせる。
「でも、先輩、すごいです。個人レースもリレーもこなして。ちゃんと結果出して。」
「美央のこと考えて、よけい頑張れたからな。」
 拓海が立ち止まる。
「今の俺はどう?美央の目にどう映ってる?浮ついて美央に好きだって言ってる感じがする?」
「…しないです。」
「だって俺真剣に美央のこと好きだから。まるで賭け事みたいに話をしてしまったけど。」
「…ハイ。」
「俺のこと、いや?」
「そんなこと!…ないです。」
「少しは、好き?」
「…す、少しは。」
「じゃあ、俺の彼女になってくれない?」
 恥ずかしくって、顔が上げられない。拓海の声が少しかすれて、緊張が伝わってくる。
「あたし…なんかでいいんですか。」
「…どうしてそう謙虚なのかな、君って子は。」
「あたしなんてまだ水泳のこともよくわかってないし…。」
「知識の豊富さが大事なんじゃない。美央の頑張ってる姿勢がいいんだから。」
「あの、そんな風に面と向かって、その、好きとか言われたことないから、どうしていいかわからないんです…。」
 一瞬、拓海がぽかんとした表情をする。
「冗談だろ。そんなにかわいいのに。」
「本当ですよ。だいたいうちの中学は田舎で、付き合うとかそういうのはススンデル子がするもんなんです。」
「へーえ。…まあ、いいや。てことは…美央にとって俺は初めての彼氏なの?」
「ハイ。」
「…じゃあもしかしてこないだのはファーストキスだった?」
「…ハイ。」
「うーわぁ、ごめん。悪いことしちゃったな。…嬉しいけど。」
 もっかいしていい?と聞いて、拓海は軽いキスをくれた。



 紗栄子は荷物を片付けると、プールサイドに入っていった。
「お待たせ。」
「疲れてるとこ悪いな。」
 紗栄子からのメンテナンスを受けるために、蓮はわざわざ学校に来た。美央と同じ南中出身で、自宅が大会会場から近いにも関わらず、だ。
「ううん。横になって。」
 蓮はうつぶせになると、ふうっと息を吐いて力を抜いた。慣れた調子で紗栄子が腰のあたりからとりかかる。
「自己ベスト出たね。良かったね。」
「うん。ゴールの時のタッチがまあまあ合ってよかった。最近ちょっとタイムが速くなってきた分、タッチが合いにくくてなあ。」
「いい悩みだね。」
 ぐっ、と紗栄子の腕に力が入る。
「あぁ~…。」
 蓮の満足そうな声に、紗栄子も満足する。
「もっともっとタイムが伸びるといいね。」
「うん。練習だな。」
「練習だね。」
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