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イサ・ビルニッツになりました

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「あ、ほんとだ、じゃないですっ!! 家に帰してください!!」

 衣沙の怒鳴り声に、紫の青年はぱっと耳を両手で塞いでいた。いや聞けよ、と衣沙はじとりと青年を睨む。
 すると青年は叱られた子供のようにバツ悪気な顔で、そろそろと耳から手を離し、言いにくそうに話しかけてくる。

「え、ええっと……じゃあもしかして、君は異世界に憧れたりとかは……?」

「してません。少なくとも来たいなんて微塵も思っていませんでした」

「と、いうことは……連れてこられて……?」

「大変迷惑です。家に帰してください」

 断言する衣沙に、青年はまじか、とばかりに片手で目元を覆った。それから「あちゃー……」と嘆きを零す。衣沙はそんなリアクションはいいからさっさと帰してくれ、と思ったが口を挟まず待っていた。まずは相手に状況を整理してもらうのが先だからだ。それに怒りのあまりつい怒鳴ってしまったが、この青年の機嫌を損ねるのは賢明ではないと思った。きちんと元の世界に帰してもらわねばならないからだ。
 そう考えて出方を見ていた衣沙に、青年は目元を覆っていた手を「ごめん」のポーズに変えて頭を下げた。

「うわー。ごめん、ほんっとごめん。やっちゃったなぼく。君は別に異世界に興味なんて無かったんだね」

「その通りです。謝罪はいらないのでさっさと帰してください」

「あー……そうしたいのはやまやまなんだけどねぇ……」

 いいから帰せ、とにべもなく言う衣沙に青年は左手で頬をぽりぽり掻きながら、気まずそうに言葉を濁した。瞬間、あ゛?と衣沙の表情が般若に変わる。さほど沸点は低くない彼女でも、流石にこんな状況では感情の波を押さえられるはずもなかった。それに、先程から感じている嫌な予感が的中しそうで、余計に苛立たしく思えたのだ。

「で?」

「え、えーっと……ぼくも帰してあげたいけど、実はそうもいかないんだよねぇ。ぼくが君を召喚するのに使った魔力を回復させるにはそれなりの時間がかかるんだ。といってもそうだなぁ。三百六十日くらいだけど。あ、ちなみにこっちの一日は三十時間あるよ。一時間は六十分の概念さ」

 滔々と説明されてイサは目を向いた。いや待て。すぐに帰せないだと? と唖然とする。そして青年の言葉を元に日本時間に合わせて換算してみる。こちらの世界の一日が三十時間、そして青年は魔力の回復に三百六十日かかると言っている。つまり時間にすれば全部で一万八百時間ということだ。それを二十四時間で割ると、日本時間では四百五十日かかる、というわけである。
 つまり、およそ一年と三ヶ月ということだ。

「そんなにかかるんですか!? こっちだと一年三ヶ月にもなるんですけど!?」

「へえそっかぁ。君の世界じゃそうなるんだね。ま、旅行にでも来たと思って楽しんでよ」

「貴方ね……!」

「あははっ。悪いねほんと。あ、そうだ、ぼくのことはオウガスト、って呼んでくれると嬉しいな」

 へら、と笑って誤魔化すオウガストに、衣沙はふざけるな、と彼の顔を殴ってやりたかった。が、この男がいなければ衣沙は日本には帰れない。それに一応彼は衣沙を帰す気があるようだ。いや、帰してもらわなければ困るのだが。
 救いなのは、オウガストが自分のやったことに対しちゃんと責任を取ってくれそうなことだけである。
 そもそも元凶は彼なのだが、今はそれは置いておくことにする。
 また帰れないのならばこの世界について教えてもらわなければならず、腹立たしさをぐっとこらえて衣沙は絞り出すように声を出した。

「あ、貴方の回復を待っている間ですが、私はどうすればいいんですか。まさか放り出したりなんて……」

「もー、オウガストって呼んでって言ってるのに。そうだなぁ。君はどうしたい? ぼくの研究室で好きに過ごしていてくれても良いし、普通に仕事してこの世界で生活するってのもありだと思うけど」

「選べるんですか」

「もちろん。迷惑かけちゃったし、何なら生活費だって全部出すよ。ぼくわりとお金持ちなんだ」

 得意げに話すオウガストの提案は確かに魅力的で、衣沙は少しばかり悩んだ。ずっと働いてきていて正直疲れているというのもある。しかしかといって、オウガストが帰してくれるとは言っているものの、本当に帰れるのかどうか、今のところ不明瞭というのもあった。もし彼がやっぱりやめた、なんて言って投げ出したりしたら、衣沙はこの世界で自力で生きていかなければならない。そうなった時、仕事があるかどうかはかなり重要だ。いずれ帰るにしろ、生活の基盤を築いておいて損はないだろう。あともう一つ、こちらの金銭等があちらの世界に持っていけるかどうか知らないけれど、帰った時の衣沙は無職である可能性が高い。時間の経過がどうなっているか不明だが、こちらと同じように流れているなら職場は首になっているだろうし、アパートだって強制解約されているだろう。たぶん兄から行方不明届けだって出ているはずだ。
 つまり、帰るにしろ先立つものは必要というわけである。
 衣沙の考えは決まった。それとオウガストへの頼み事も含めて。

「いえ。帰してもらえるならそれで十分です。できれば自分で働いて生活したいんですが、この世界のこと全く知らないので教えていただけると助かります」

 そう衣沙が話すと、本気? と驚いた顔でオウガストが顎を引いた。それから肩を竦めて意外そうに首を傾げる。

「えーっ、別にぼくのお金で食っちゃ寝生活しても誰も怒らないのに。君は真面目だなぁ」

「人に養われるのが気持ち悪いだけです」

 大げさな反応に衣沙はきっぱりと言いきった。一方的に世話されるのは性に合わないのだ。ただでさえ、元の世界に恩ある人がいるため、これ以上背負いたくなかった、というのもある。
 そんな衣沙に、オウガストは感心したように頷いた。

「ふぅん。なるほどねぇ。君の世界の人はみんなそうなのかな? ま、いいや。この世界についてはぼくが大体教えてあげるよ。でも早めに魔力回復に専念した方が君を早く帰せるから、悪いけど最短で済ませるね。あとは生活するうちに覚えていくと思うし。君もそのほうが良いでしょ?」

「そう、ですね……じゃあそれでお願いします」

 教えを請いたいという願いを受け入れてもらえて衣沙はほっとした。追加の説明も納得できたので了承する。できるだけ早く帰れるならその方が良い。何より言葉が通じる以上、聞けばどうにかなるだろうと考えた。もしも言語が通じていない状況なら、もっと不安だったろうが。

「うん。よし、じゃあ軽い一般教養を済ませた後はぼくの友人が勤めてる職場を紹介してあげるよ。寮付きだし福利厚生もそこそこ整ってるから、問題なく生活できると思う。賃金も悪くないしね」

「はい。よろしくお願いします」

「いやぁ悪いのはぼくだし。ま、ちょっと先だけどきちんと帰すから、大船に乗ったつもりでいてよ!」

 まかせといて! と左手の親指をぐっと立てて軽快に笑うオウガストに少しだけ不安になる。すでに泥舟に乗っているような気がするが、衣沙は一応頷いておいた。すると、ぱっとオウガストが表情を変えた。何か思いついたらしい。

「そうだ! この世界にいる間はぼくの名前を使うと良いよ。ビルニッツ一族って言えばちょっとしたものだから。君が少しくらい常識外れなことをしても、箱入りだからって言えば大体許される程度には名が知れてるんだ」

「はあ……」

 箱入りとは一体どういう意味かと思ったが聞くのはやめた。お金持ちだと本人が言っていたし、きっと実家が大きいのだろう。それにオウガスト自身がすでに衣沙の常識範囲外なので、それ以上なんて知りたくない。反応に困る衣沙に、オウガストはにかっと笑って、錫杖を持っていない方の左手を彼女に差し出す。

「で、遅くなったけど君の名前は何て言うの?」

「鏑木衣沙《かぶらぎいさ》です。鏑木が名字で、衣沙が名前です」

「じゃあこっちならイサ・カブラギってことかぁ。よし、それじゃ君は今日からイサ・ビルニッツってことで! 改めてよろしく、イサ!」

「はい。こちらこそ」

 オウガストが握手を求めてきたので、イサは応じた。無茶苦茶だし大変迷惑をかけられてはいるが、オウガストは根は悪くない人間のようだ。漫画やゲームでよくあるような、召喚したらあとは放置、なんてことをされなくてある意味幸運だったのかもしれないと、イサは渋々納得することにした。

 こうして―――鏑木衣沙の『イサ・ビルニッツ』としての生活が始まりを告げた。
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