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番外編 重ねる日々
それは次々ひらく蕾のように
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「エリオット時間」なるものがある、と聞いたとき、ベイカーはメディアコンサルタントから送られてきた、最新の世論調査の分析を読んでいるところだった。
一度上げた視線を戻す。発言者であるバッシュが、深刻なようで実のところ全くそうでない──つまりとても暇そうな顔をしていたからだ。
出先から直帰でカルバートンへ来たのに、珍しくエリオットが出かけていて待ちぼうけを食らったものだから、仕方なく侍従の事務室で油を売っている。だからベイカーも仕方なく雑談に付き合う。
「殿下のお時間が、なにか?」
「エリオットの時間じゃなくて、『エリオット時間』」
「どういった時間のことです?」
「あいつがぼんやりしたり、考えごとしてる時間」
ベイカーは顎を引いてバッシュを見た。
この会話に、どのていど真面目に付き合うべきか数秒考える。
レポートの概要には、世論調査による王室の支持率は上々。油断はできないが、いまのところ王子の行動や発言に改善を必要とする箇所はない、とあった。詳細を読むのを、しばし後回しにしても構わないだろう。
ベイカーがタブレットを机に置くと、バッシュは床を蹴って椅子を転がし、座ったままごろごろと移動してきた。ずいぶん器用なオールですね、といいかけてやめる。ベイカーは仕事とプライベートを分ける主義だ。──可能な限りは。
「それで?」と促せば、バッシュは難解な数式でも解くように宙へ視線を漂わせた。
「あいつ、声をかけないと何時間でも庭とか空とか眺めてるし、それを退屈だとかは思わないわけです」
「昔から、おっとりしたところのある方ですね」
「おれは別に、自分が生き急いでるかもなんて考えたこともなかったけど、あいつを見てると自分は競歩くらいのスピードで歩いてるんじゃないかと思うことがあるんですよ」
がむしゃらに仕事をするのも、若者の特権では? と心の内で呟きながら、ベイカーは机の上で手を組んだ。
「あなたにとって、それは具合が悪いのですか?」
かすかに眉を寄せたバッシュに、小さな王子が恋をした「姫さま」の面影は見つからない。しかし立派に成長した青年には、大人になった王子が変わらず──いや、もしかするとあの頃以上に──心を寄せるだけの思慮深さと愛情深さがある。
「そうでもないことに驚いてます」
精悍な面差しで思案していたバッシュは、額をこすりながらそういった。まるで、信じられないことを渋々認めるように。
「以前のおれならイラつきはしなくても、あいつがかける時間になんの意味も見出さなかったと思うんですよ。でもいまは、あいつが自分の気持ちを整理するための時間だと分かってるし、その先に出て来る答えが知りたくて、何時間でも待っていられるなと」
「緩歩どころか、立ち止まることを覚えたわけですか」
「そうです」
「『エリオット時間』は、心地がよさそうですね」
バッシュはしばし不思議そうな表情をしたが、ハッとして椅子のまま、またごろごろと床をさがった。
背もたれが別のデスクにぶつかって止まると、片手の拳を口元にあてる。いつも自信に満ちている瞳が、どこか恥ずかし気に下を向いた。
ほう、とベイカーはまばたきする。
たまには、暇つぶしに付き合うのも悪くないではないか。ことに、いまだ無自覚だった恋の一部に気付いた瞬間の顔を見られた場合などは。
ベイカーは指先でタブレットを起動して、表示される時計を確認した。
「まもなく、殿下がお帰りになります。わたしはお出迎えに参りますが、旦那さまはどうなさいます?」
「……行きます」
玄関へと歩きながら、ベイカーは頭ひとつ分ほど大きな青年の後姿に目を細めた。
若いというのはいいですねぇ。
一度上げた視線を戻す。発言者であるバッシュが、深刻なようで実のところ全くそうでない──つまりとても暇そうな顔をしていたからだ。
出先から直帰でカルバートンへ来たのに、珍しくエリオットが出かけていて待ちぼうけを食らったものだから、仕方なく侍従の事務室で油を売っている。だからベイカーも仕方なく雑談に付き合う。
「殿下のお時間が、なにか?」
「エリオットの時間じゃなくて、『エリオット時間』」
「どういった時間のことです?」
「あいつがぼんやりしたり、考えごとしてる時間」
ベイカーは顎を引いてバッシュを見た。
この会話に、どのていど真面目に付き合うべきか数秒考える。
レポートの概要には、世論調査による王室の支持率は上々。油断はできないが、いまのところ王子の行動や発言に改善を必要とする箇所はない、とあった。詳細を読むのを、しばし後回しにしても構わないだろう。
ベイカーがタブレットを机に置くと、バッシュは床を蹴って椅子を転がし、座ったままごろごろと移動してきた。ずいぶん器用なオールですね、といいかけてやめる。ベイカーは仕事とプライベートを分ける主義だ。──可能な限りは。
「それで?」と促せば、バッシュは難解な数式でも解くように宙へ視線を漂わせた。
「あいつ、声をかけないと何時間でも庭とか空とか眺めてるし、それを退屈だとかは思わないわけです」
「昔から、おっとりしたところのある方ですね」
「おれは別に、自分が生き急いでるかもなんて考えたこともなかったけど、あいつを見てると自分は競歩くらいのスピードで歩いてるんじゃないかと思うことがあるんですよ」
がむしゃらに仕事をするのも、若者の特権では? と心の内で呟きながら、ベイカーは机の上で手を組んだ。
「あなたにとって、それは具合が悪いのですか?」
かすかに眉を寄せたバッシュに、小さな王子が恋をした「姫さま」の面影は見つからない。しかし立派に成長した青年には、大人になった王子が変わらず──いや、もしかするとあの頃以上に──心を寄せるだけの思慮深さと愛情深さがある。
「そうでもないことに驚いてます」
精悍な面差しで思案していたバッシュは、額をこすりながらそういった。まるで、信じられないことを渋々認めるように。
「以前のおれならイラつきはしなくても、あいつがかける時間になんの意味も見出さなかったと思うんですよ。でもいまは、あいつが自分の気持ちを整理するための時間だと分かってるし、その先に出て来る答えが知りたくて、何時間でも待っていられるなと」
「緩歩どころか、立ち止まることを覚えたわけですか」
「そうです」
「『エリオット時間』は、心地がよさそうですね」
バッシュはしばし不思議そうな表情をしたが、ハッとして椅子のまま、またごろごろと床をさがった。
背もたれが別のデスクにぶつかって止まると、片手の拳を口元にあてる。いつも自信に満ちている瞳が、どこか恥ずかし気に下を向いた。
ほう、とベイカーはまばたきする。
たまには、暇つぶしに付き合うのも悪くないではないか。ことに、いまだ無自覚だった恋の一部に気付いた瞬間の顔を見られた場合などは。
ベイカーは指先でタブレットを起動して、表示される時計を確認した。
「まもなく、殿下がお帰りになります。わたしはお出迎えに参りますが、旦那さまはどうなさいます?」
「……行きます」
玄関へと歩きながら、ベイカーは頭ひとつ分ほど大きな青年の後姿に目を細めた。
若いというのはいいですねぇ。
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