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後編
誤解に倒錯に 4
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ファニーに手渡されたタオルを、言われた通り首に巻く。
伯爵にとって、この程度は汗の内にも入らない。
戦場では、真夏でも防具を身に着け、頭から水をかぶったかのごとく汗をかいていたからだ。
そして、それを気にしたこともなかった。
(カーリー、汗というのは、どの程度、臭う? 私があまりに汗臭く、ファニーはタオルを渡してきたのではないかと思うのだが、どうすれば良い?)
(それであれば、ファニー様も汗をかいておられますので、おそ……)
(女性の汗と、男の汗は違う)
(……体臭という意味では異なりますが、ファニー様は、ご自身が汗をかいておられますので、おそらく伯爵様の汗を気にされたのだと存じます)
(臭いではなく?)
(さようにございます。女性にとっても、汗は不快なものにございます。ですから、伯爵様が不快な思いをされないようとのお気遣いかと存じます)
内心の動揺が、ようやくおさまる。
戦場でも貴族連中の集う場でも、伯爵は常に表情を調整してきた。
なので、顔には出ていないが、軽いパニック状態だったのだ。
小さく息を吐き出しながら、わざとらしくならないよう、タオルで首元を拭く。
「ところで、今日は何をしているのですか?」
ファニーの足元に、麻袋が転がっていた。
いかにも重そうで、気にかかる。
もちろんファニーは牧童として今まで立派に勤めてきた。
気遣いが、逆に侮辱になることもあるため、安易に手伝うとは言えない。
それでも「体が鈍る」との口実をつけ、いくつかの作業に手を貸している。
伯爵とて「危険だから前線から退け」と言われて怒ったことがあった。
けれど「後ろで兵の士気を高めてくれ」と言われたら、断れなかった。
要は、言いかたひとつで、受け入れることができたりするものなのだ。
それが相手に対する思いやりかどうかは別だとしても。
初代皇帝スラノ・モディリヤは、そういう意味では言葉に長けていた。
自ら先頭に立ちもしないのに、スラノの軍は士気が高く、強かったのだ。
臆病であるがゆえ人の顔色を窺うのが得意で、相手の望むことを口にし、自分を頼らせるように仕向ける。
───スラノ、お前は、人をその気にさせるのだけは上手かった。
対して、伯爵は言葉より行動で示す性格をしている。
そのせいで、平穏な世で苦労しているのだ。
口実を作ればいいと思っても、その口実さえネタ切れ気味。
もとより、思いつけない口実を無理やり捻り出していたため、尽きるのも早い。
「重そうですから、これは良い運動に……」
「近づかないでくださいっ! 臭いのでっ!」
ぴた。
かちん。
ファニーに近づこうとした足が止まる。
思考も停止していた。
踏み出した足が、重力に引っ張られでもしたように、ゆっくり地面に降りる。
戦いの最中、鉄斧で攻撃され、頭をかすったことがあった。
避けはしたものの、意識が遠のきそうになったのだ。
が、しかし。
今、伯爵は、かつてないほどの大打撃を食らっている。
意識が遠のくどころか、失神しそうだった。
ファニーに無様な姿を見せたくないという本能にも似た意思の力により、かろうじて立っているに過ぎない。
「い、いや、はや、これは……大変な、失礼を……」
クラクラする頭を「しっかりしろ」と叱り飛ばし、切れ切れではあるが、なんとか言葉を口に出す。
ともかく、ファニーを不快にさせたのであれば謝罪は必要だ。
「え……? あっ?! ち、ち、ちが……っ……違うんです、伯爵様っ!」
焦ったようなファニーの声に、焦点も定まらなくなっていた視界が鮮明になってくる。
ファニーが真っ赤な顔で、両手を胸の前でかきいだいていた。
「わ、私のこと……です。汗もたくさんかいてますし、飼料にもさわってたので、絶対に……クサイです……だから……」
確かに、飼料は独特の臭いがする。
とはいえ、気にすることでもない。
(ファニーの纏う香りなら、どんなものでも芳しいと思うのだがな)
(僭越ながら、伯爵様。そのお言葉は、ファニー様にお伝えされないほうがよろしいかと存じます)
(なぜだ? 私が気にしないことを伝えれば、ファニーも安心できるだろう?)
(独特の嗜好を持っておられるという誤解を招きかねません。ファニー様に性的倒錯者だと思われる懸念がございます)
カーリーの助言に、顔が引き攣りそうになった。
最早、好色爺いの域を越えている。
欲望に異常性を持つ男だと思われたが最後、婚約破棄を言い渡されるに決まっていた。
それだけは避けなければならない。
たとえ牛の歩みより鈍くても、進展していると思える現状の維持は必須だ。
せっかくファニーが気軽に立ち寄れる家を建てたばかりなのだし。
「では、私も飼料運びを手伝いますよ。同じ臭いの中にいれば、気にならなくなるでしょう?」
「でも、伯爵様まで飼料臭くなっちゃいますよ?」
「あとで風呂に入ればすむことです。それより体力づくりをしたいので」
ようやくファニーが、うなずいてくれる。
不本意ではあるが、新しい「口実」もできた。
伯爵の気持ちも落ち着いている。
改めて、牧童姿で気恥ずかしげに笑うファニーを見つめた。
───本当に、私の羊は愛らしい。愛らし過ぎて、どうすればいいものか。
伯爵にとって、この程度は汗の内にも入らない。
戦場では、真夏でも防具を身に着け、頭から水をかぶったかのごとく汗をかいていたからだ。
そして、それを気にしたこともなかった。
(カーリー、汗というのは、どの程度、臭う? 私があまりに汗臭く、ファニーはタオルを渡してきたのではないかと思うのだが、どうすれば良い?)
(それであれば、ファニー様も汗をかいておられますので、おそ……)
(女性の汗と、男の汗は違う)
(……体臭という意味では異なりますが、ファニー様は、ご自身が汗をかいておられますので、おそらく伯爵様の汗を気にされたのだと存じます)
(臭いではなく?)
(さようにございます。女性にとっても、汗は不快なものにございます。ですから、伯爵様が不快な思いをされないようとのお気遣いかと存じます)
内心の動揺が、ようやくおさまる。
戦場でも貴族連中の集う場でも、伯爵は常に表情を調整してきた。
なので、顔には出ていないが、軽いパニック状態だったのだ。
小さく息を吐き出しながら、わざとらしくならないよう、タオルで首元を拭く。
「ところで、今日は何をしているのですか?」
ファニーの足元に、麻袋が転がっていた。
いかにも重そうで、気にかかる。
もちろんファニーは牧童として今まで立派に勤めてきた。
気遣いが、逆に侮辱になることもあるため、安易に手伝うとは言えない。
それでも「体が鈍る」との口実をつけ、いくつかの作業に手を貸している。
伯爵とて「危険だから前線から退け」と言われて怒ったことがあった。
けれど「後ろで兵の士気を高めてくれ」と言われたら、断れなかった。
要は、言いかたひとつで、受け入れることができたりするものなのだ。
それが相手に対する思いやりかどうかは別だとしても。
初代皇帝スラノ・モディリヤは、そういう意味では言葉に長けていた。
自ら先頭に立ちもしないのに、スラノの軍は士気が高く、強かったのだ。
臆病であるがゆえ人の顔色を窺うのが得意で、相手の望むことを口にし、自分を頼らせるように仕向ける。
───スラノ、お前は、人をその気にさせるのだけは上手かった。
対して、伯爵は言葉より行動で示す性格をしている。
そのせいで、平穏な世で苦労しているのだ。
口実を作ればいいと思っても、その口実さえネタ切れ気味。
もとより、思いつけない口実を無理やり捻り出していたため、尽きるのも早い。
「重そうですから、これは良い運動に……」
「近づかないでくださいっ! 臭いのでっ!」
ぴた。
かちん。
ファニーに近づこうとした足が止まる。
思考も停止していた。
踏み出した足が、重力に引っ張られでもしたように、ゆっくり地面に降りる。
戦いの最中、鉄斧で攻撃され、頭をかすったことがあった。
避けはしたものの、意識が遠のきそうになったのだ。
が、しかし。
今、伯爵は、かつてないほどの大打撃を食らっている。
意識が遠のくどころか、失神しそうだった。
ファニーに無様な姿を見せたくないという本能にも似た意思の力により、かろうじて立っているに過ぎない。
「い、いや、はや、これは……大変な、失礼を……」
クラクラする頭を「しっかりしろ」と叱り飛ばし、切れ切れではあるが、なんとか言葉を口に出す。
ともかく、ファニーを不快にさせたのであれば謝罪は必要だ。
「え……? あっ?! ち、ち、ちが……っ……違うんです、伯爵様っ!」
焦ったようなファニーの声に、焦点も定まらなくなっていた視界が鮮明になってくる。
ファニーが真っ赤な顔で、両手を胸の前でかきいだいていた。
「わ、私のこと……です。汗もたくさんかいてますし、飼料にもさわってたので、絶対に……クサイです……だから……」
確かに、飼料は独特の臭いがする。
とはいえ、気にすることでもない。
(ファニーの纏う香りなら、どんなものでも芳しいと思うのだがな)
(僭越ながら、伯爵様。そのお言葉は、ファニー様にお伝えされないほうがよろしいかと存じます)
(なぜだ? 私が気にしないことを伝えれば、ファニーも安心できるだろう?)
(独特の嗜好を持っておられるという誤解を招きかねません。ファニー様に性的倒錯者だと思われる懸念がございます)
カーリーの助言に、顔が引き攣りそうになった。
最早、好色爺いの域を越えている。
欲望に異常性を持つ男だと思われたが最後、婚約破棄を言い渡されるに決まっていた。
それだけは避けなければならない。
たとえ牛の歩みより鈍くても、進展していると思える現状の維持は必須だ。
せっかくファニーが気軽に立ち寄れる家を建てたばかりなのだし。
「では、私も飼料運びを手伝いますよ。同じ臭いの中にいれば、気にならなくなるでしょう?」
「でも、伯爵様まで飼料臭くなっちゃいますよ?」
「あとで風呂に入ればすむことです。それより体力づくりをしたいので」
ようやくファニーが、うなずいてくれる。
不本意ではあるが、新しい「口実」もできた。
伯爵の気持ちも落ち着いている。
改めて、牧童姿で気恥ずかしげに笑うファニーを見つめた。
───本当に、私の羊は愛らしい。愛らし過ぎて、どうすればいいものか。
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