心を洗う洗濯機はありません。涙を乾かす乾燥機もありません。でも……

高橋晴之介(たかはしせいのすけ)

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東日本大震災発生~出発

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3月19日土曜日
落ち着かない気持ちを抱えつつ、須田は無理に寝ていた。目が覚めようが苛立とうがとにかく寝た。パソコンにも携帯にも触らず、テレビもつけず夕方までとにかく寝ていた。
それは動物的な勘から来るものだった。いつ何が起きて眠る時間が無くなってしまうかもしれないという危機感から逃れるためのことなのかもしれない。
41歳の須田の体力は無限ではない。

3月25日 金曜日
社有車のプロボックスのボンネットと左右のドアに【緊急車両 静岡県伊豆の国市】と大きく書かれたマグネットシートを取り付けて深夜の東名沼津インターに向かった。この表示が付いていれば、一般車両が通行止めの区間でも走ることができる。
空が明るくなり始めた。東北自動車道の白河あたりから見える新幹線の高架は架線を支える電柱が所々で折れ曲がり復旧までは時間が掛かりそうだ。
応急処置をしただけの高速道路もひび割れや大きなギャップが残っている。
夜間ではハンドルを取られる危険がある。福島、宮城と走り続け仙台を越えて北部道路から多賀城に向かう。

JR仙石線の多賀城駅は港から離れている印象であったが、その手前の国道45号線は赤い土に覆われ、歩道だけでなく車道にも片付けた瓦礫や布団、タンス、電化製品が積み上げられている。特に濡れたタタミは目立っている。
海から離れたこの場所まで津波が来たのは、市内を流れる砂押川を遡った波が川からあふれ出したものだろう。堤防の決壊もあったようだ。

駅の裏手の高台に市役所があった。敷地内は各地から集まる支援物資を運び込む車や、何かの手続きをする市民で溢れていた。指示された社会福祉協議会を訪ねて実務を担当する方に支援の計画を説明したが、交換した名刺には広島県と書かれていた。各地からの応援部隊が週替わりで窓口を担当しているそうだ。実際に支援を始める時にはもうその人はいないということだ。引継ぎがどこまでできるのかわからないが、とにかく水道が繋がったら洗濯支援をスタートするということで話しはまとまった。

駐車場でエンジンを掛けて、出発前に煙草に火をつけると窓をノックされた。
泥まみれの作業着の老人である。
「お兄ちゃん、煙草1本もらえないかい」
食料も衣類も煙草も買えない。それが現実だ。国道沿いの飲食店もコンビニもやっていない。煙たがられる煙草であっても普段吸っている人にとっては心を落ち着けるための薬のようなものだ。だから薬やお茶と同じように【一服する】という言葉がある。
須田が窓を開けると
「ちょっとさ、離れた場所で頼むよ。あんたに1本もらうと他の人間が見たらあんたの煙草が全部なくなっちまう」
そう言うと老人は助手席に乗り込み、須田は言われた通りに車を目立たない場所に停めて持って来ていた3箱すべてを手渡した。
当たり前の物がない。当たり前のことができない日常がそこにはあった。

海岸線の仙台東部道路は未だに通ることができない。
少し盛土をした部分は防波堤の役割を果たし、東部道路より内陸側は被害が多少軽減されたようだ。
車から見える景色は悲惨なものだ。道路沿いの建物と建物の間には津波で流された車が折り重なっている。人は乗っていたのだろうか?逃げ切れたのだろうか?
そもそも地震の後でここまで津波が来ると思わないようなところまで水没した痕跡が残っている。そして汚れたドブ川を強烈にしたようなヘドロと海水と油が混ざったような臭いと、それが乾いた土埃が風にあおられて景色が霞んでいた。

須田は多賀城から塩竃へ廻った。
東北有数の水揚げを誇る塩釜の魚市場のすぐそばにあるビジネスホテル新浜。ビジネスホテルと書いてはあるが、遠方から塩釜に来た漁師たちが使う小さな旅館である。何度泊まったことがあった須田は新浜の老女将の無事を確かめに行った。


魚市場の手前の塩釜観光港には大きな観光船が打ち上げられたままになっていた。
漁港でも同じ光景が広がっていたが、そこからわずか100mの古い木造の旅館は無傷であった。
「お母さん、ただいま、元気?」
「あら、いらっしゃい。おひさしぶりね」
「ケガはなかった?」
「このとおりよ。宿も無事で今週には営業再開できそうよ。水道が直ってもボイラーがダメなのが困るね」
「じゃあ、4月の……5日から、いつもの和室。25日まで予約お願いします。多少前後するかもしれないけど、また連絡します」
「そんなに長く?手伝いに来てくれるの?」
「多賀城の避難所で洗濯の手伝い」
「そう、ありがとう。お夕飯は出せないかもしれないからね」

ベースとなる宿は決まったが、この先どうなるかはわからない。4月に入って食料が簡単に手に入るのかもわからなかった。
ボランティアの基本は自己完結である。避難している方、地元の方に迷惑をかけるようであれば行かない方がいくらかマシである。可能な限りの準備をし、途中で不足が出れば静岡から輸送するなり一度撤退するなり考えを巡らせる必要があった。
想像以上に現地の状況は厳しかった。

その日のうちに須田は会社に戻った。
往復するだけで1100km、約16時間の道のりである。


同じ頃
工藤は洗濯機を積んだトラック準備を着々と進めていた。
発電機に燃料を満タンにし、何時間洗濯機を動かせるかのテストをしていた。オペレーションの手順が悪ければ1日に洗える量が減ってしまう。避難所にいる人の洗濯物をどう回収して洗ってから返却するかという課題もある。
当初、須田が会社に提出した計画では行政が配布した毛布をいったん回収して、毛布のみを洗って返却するようにしていたが、現地で泥まみれになった服を着たままの被災者を見たらその考えはなくなっていた。
とにかく寄り添えるところまで寄り添いきると肚を括っていた。

その先、数日のうちに地元のガス業者からも連絡があった。現地でもプロパンガスの充填はできる。但しボンベ自体が津波で流されて不足しているから避難所への配送はできないとのことであった。
「それじゃあ、空の50kgボンベ、持って来てくれよ」
工藤はガス業者からボンベを借り受けた。
近所のガソリンスタンドからは発電機用の灯油が届いた。
2本のドラム缶の上には【義】と書いた熨斗紙が乗っている。
「発電機、2週間分は足りるでしょ。負荷が少なければもっと持つから使ってくれよ」
洗剤や柔軟剤も洗剤メーカーから届く。

人と人のつながりで、前代未聞の移動式ランドリー車が動き出そうとしている。
多賀城市役所の水道課から連絡があり、4月5日には給水可能になるから6日から活動できるとのことだ。
いろいろな調整をした上で、4月6日出発、翌日から洗濯支援を開始すると正式に決まった。

洗濯自体は機械がすることだから1人いれば何とでもなる。
しかし、搬入はそうもいかない。
洗濯機材一式を積んだトラックの他に、空のガスボンベや軽油のドラム缶を積んだトラックを1台、倉庫代わりに持ち込む必要がある。最初のセッティングには須田の他に2名ほどは必要であった。

選ばれたのは技術部の山崎ザキさん、総務部の鈴木にいやんである。
彼らは雪合戦大会に出場したり、ママチャリのレースに出たりイベント事には何かと強いメンバーであった。
須田を含め3人とも
「俺はあの雲のように自由気ままに生きる」
「俺もあの雲のように自由気ままに生きる」
「じゃあ俺も……」
というような男たちであった。
それぞれの想いはわからなかったが、とにかくやることは決まった。
山崎は小回りが利くプロボックス、鈴木は燃料を積んだ1tトラック、洗濯機を積んだ2tトラックに須田が乗り、各自のペースで走って多賀城市役所に集合することになった。3人とも長距離の運転には慣れている。だからこそ揃って移動せず、それぞれのペースで走ることを選んだ。

地元企業が提供してくれたハンドクリームやサプリメントを積めるだけ積んで欲しいから出発する日に市役所に寄ってくれという連絡があった。

4月6日水曜日
朝8時30分に伊豆の国市役所庁舎前の駐車場に車を入れた。
荷物の搬入にしてはたくさんの人が駐車場に集まっている。
用意されていたハンドクリームなどはすべて1tトラックに収まる程度の量であった。積み込みが終わると形ばかりの出発式が行われ、市長が新聞記者の質問に答えながら写真を撮られていた。
「俺たちにしてみりゃどうでもいいって言うか、昨日のうちに積んで暗いうちに走らしてくれた方がいいんだけど」
「おいおい、聞こえてるぜ」
「心の声だ、誰にも聞こえるはずがない」

自称人間嫌いの3人である。3人とも同じ思いであったが、それぞれに手を振って3台の緊急車両は伊豆の国市を出発した。
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