水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 1

似顔絵

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 めまぐるしく時が過ぎていき、正月も明けて雪がちらつく季節になった。

 クラスでも風邪が流行りだし欠席者がちらほら出始めた頃、桃が4時限目の体育の授業で貧血を起こして保健室に運ばれた。
 市川先生から知らせを聞いた俺は、昼休みの前に保健室を覗きに行ってみた。
「風邪ではなさそうよ。あんまり食べてない上に寝不足みたいね。さっきスポーツドリンクを飲ませといた。今はよく寝てる」
 養護教諭の小林先生が説明してくれた。そう言えば桃は、夏にも貧血で水泳の授業を休んでいたはずだ。もともと貧血持ちなのだろうか。

 俺はカーテンをチラリとめくって、ベッドで眠る桃の様子を覗き見た。
 白い顔で、やや眉根を寄せて寝息をたてている。枕もとにブラウスの襟から外した赤いリボンタイがちょこんと置いてあり、なんというか、いたいけな小動物を見ているような気分になった。
「家の人に連絡するか聞いたんだけど、必要ないって。お母さんも仕事で留守みたいね。まあ疲れてるみたいだし、もう少し寝かせてあげましょ」
 ダイエットなんて必要ないのに、なんで食べないのかしらねぇ。小林先生はそう言って首を傾げている。できるだけ音を立てないようにカーテンを閉めると、白い布の向こうから桃の小さな寝息が聞こえてきた。


 結局帰りのホームルームの時間になっても、桃は保健室から戻ってこなかった。生徒たちが部活や家路にそれぞれ散った後、俺はもう一度保健室に顔を出した。
「あー、陣野先生、ちょうど良かった。ちょっとさ、早瀬さんのこと見ててくれない?私これから1時間ばかし出ないといけないのよ。なんだったら、早瀬さんを家まで送ってあげて。車でしょ?」
「ええ、僕も送っていこうかと思ってたんで」
 小林先生から保健室の鍵を預かり、俺は代わりに保健室に残った。カーテンをそっと開けると、まだ桃はぐっすり眠っている。よほど睡眠不足なのだろうか。心なしか、昼前に覗いたときよりは頬に赤みが戻っている気がする。
 ベッドの脇に通学カバンが置いてあった。クラスメイトが持ってきてやったらしい。カバンの口が半分ほど開いていて、他の生徒たちが持っている物よりだいぶ型が古そうな携帯電話がチラッと見えた。カバンの持ち手の内側には、修学旅行で俺が買ってやったピンクのお守りが人目を忍ぶように結びつけられている。

 俺はベッドの近くに椅子を引っ張ってきて腰を下ろした。
 無防備に眠る教え子の顔を眺めながら、この子はいったいどんな悩みを抱えているのだろうと想像する。
 それとなく何度か家庭内の様子について探りを入れてみたのだが、桃はいつも「何もないよ」と微笑むだけだった。これが義務教育の中学校だったら、もっと教師が突っ込んで問題点を追求していくのかもしれないが、高校ともなるとそうもいかない。本人が話そうとしない限り、こちらもそれ以上立ち入るのはどうにもはばかられる気がした。
 自分でも可笑しなものだと感じる。俺は生徒との距離感を保ちたくて、中学ではなく高校教師の職を選んだのだ。それがどういうわけか、早瀬桃に関しては「放っておけない」という切羽詰まった感情を抱きがちだった。いつからだろう。俺は桃との時間をしばし想い返してみた。

 桃が寝返りを打った。その拍子にブラウスの胸元のボタンが一つ外れた。鎖骨の下の白い肌が視界に飛び込んできて、俺は反射的に眼を逸らした。
 生徒を意識してどうすると自分を嘲笑わらい、もう一度桃の寝顔を眺める。少し横向きになった桃のフェイスラインは、唇から顎へのカーブがハッとするほど優美だった。
 以前から思っていたが、こいつは顔や身体のラインがやけにすっきりと綺麗なのだ。思わずデッサンでもしたくなる線とでも言おうか。

 指先がウズウズしてくるのを感じた。俺は久しぶりに「描きたい」という原始的な衝動に駆られ、ひどく戸惑った。

 今持っているのは数学の教科書と授業のときにサブで使っている大学ノート、それにペンケースに入れたシャープペンシルとボールペンくらいだ。
 しばらく逡巡していたが、桃がもうしばらく起きそうにないのをいいことに、俺はノートの後ろの方の未使用ページをこっそり開いた。
 鉛筆ではなくシャーペンなので、思うようには描けないだろう。が、それでも俺は思い切って白いページに線を走らせた。
 あどけない顔で眠る教え子の横顔を、紙の上に再現するのに俺はすぐに夢中になった。

 絵を描くのは何年ぶりだろうか。ほんの軽い気持ちだったはずのに、手を動かしているうちに昔の感覚が蘇り、ここが保健室なのを忘れてしまいそうになった。
 桃の唇はうっすらと紅くて瑞々しかった。この質感がシャーペンでは上手く表現できない。絵の具が欲しくなる。伏せた睫毛を描くときは何故か無意識に息を潜め、すんなりとした喉のラインに及んではつい指で触れて感触を確かめたくなった。

「・・・先生・・・?」
「へっ?!」
 不意に呼ばれ、俺は盛大に驚いた。細部を描きこむのに熱中しすぎて、途中で桃が眼を覚ましたことに気付いていなかったのだ。俺は慌ててノートを閉じると、軽く咳払いしてから桃の顔を覗き込んだ。
「起きたのか。・・・どうだ?具合は。ラクになったか」
「うん・・・。ごめんなさい、先生。私、迷惑かけちゃったみたいで・・・」
「いや、平気だよ。それよりおまえ、ちゃんと食べてるのか?前にも貧血になったろ」
「ん・・・、ごめんなさい。ちょっと最近落ち着かなくて。今日はちゃんと・・・。ねえ、先生」
「なんだ?」
 桃がゆっくりと上体を起こした。支えてやろうとして、ブラウスの胸元が少しはだけているのに気付き躊躇する。起き上がった桃は一度「はあっ・・・」と息を吐いて手の甲を額に当て、こっちに向き直って俺の方へ手を伸ばしてきた。
「先生。もしかして、私の絵、描いてた・・・?」
 あっと思った瞬間には、桃にノートを奪い取られていた。

「すごい・・・。先生、上手・・・!プロみたい。え、なんで?数学の先生なのに、なんでこんなに上手く描けるの?」
「あー、いや、これは下手の横好きと言うか・・・」
「え、だって、これ普通に上手いとかのレベルじゃないよ?美術の先生みたい」
 ノートに描かれた自分の寝顔を見て、桃はやや興奮した声を出した。俺は柄にもなく照れくさくなり、うっかり絵を見られた自分の迂闊さを呪った。

「知らなかった・・・。先生がこんなに絵が得意だなんて。・・・習ってたの?」
 桃が少し寝癖のついた髪のまま、興味深そうな顔で聞いてくる。
 どうにも妙な気分になった。白いベッドの上で、寝起きの少女が俺の眼を覗き込んでいる。校舎の外からは運動部の掛け声が微かに聞こえてくるのに、まるでこの保健室だけ時間が止まっているような気がした。
「子供の頃ずっと絵画教室に通ってて、絵は好きだったんだよ。でも大人になってからは全然描いてない」
「そうなんだ・・・。でももったいない。こんなに上手なのに」
 桃はノートに描かれた絵をじっと見て、「本物の私より可愛く描いてある」と嬉しそうに笑った。


 中学に上がったとき、美術部に入るか迷った末にサッカー部を選んだ。理由は単純。男が美術部なんて根暗っぽくてモテなそうだと思ったからだ。
 サッカーは楽しかったしレギュラーにもなれたが、気持ちのどこかにやはり絵を描きたい気持ちが残っていた。だから高校のときは選択科目は美術を選んだし、サッカー部に所属しながら、たまに美術部に押しかけて勝手に道具を借りて油絵を描かせてもらったりしていた。そういう俺のことを周りはみんな「変わってる」と評していたが、俺にとって絵を描くという行為はそれくらい自然に身に付いたものだった。
 いつから描かなくなったのだろう。大学を出る頃には、ぱったり絵筆に触らなくなった。
 もともと父親が教師だったのもあって、進路を選ぶ際は深く考えることもなく流れで教職を選んでいた。数学が得意だったから科目を選ぶ際も迷いはしなかったが、ほんの少し心のどこかで、美術方面に進んでいたらどうなっていたかなと想像したりもした。
 
 そんなことをポツポツ話すと、桃はひどく真剣な顔で聞き入った。それからもう一度ノートに描かれた絵を見つめて、何やら大事そうに指先で自分の似顔絵に触れた。
「・・・先生。私、この絵もらっちゃダメ?」
「・・・別にいいけど。・・・でも」
「誰にも言うなよ、でしょ?」
 悪戯っぽい眼で桃が微笑んだ。眼の下にうっすらとクマができているが、焦げ茶色の大きな瞳はつややかだった。
「分かってます。絶対誰にも見せない。言わない。先生と私の秘密ね」
 秘密、という響きに俺の中の何かがふと音をたてた。桃は無邪気な様子で、このページ破いても平気かな?などと紙をいじっている。
 俺はノートを取り上げて似顔絵が描かれたページを丁寧に破り取ると、2つに折り畳んで桃に手渡した。
「さ、そろそろ帰れ。おまえんまで車で送ってやるよ」


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