水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 1

プールサイド

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 4月になり新年度を迎えると、俺は早瀬桃の担任から外れた。

 3年生ともなると、進路別に文系、理系とコースが分かれるし、科目自体もそれによって選択肢が増えていく。自然、俺の授業は大半を男子生徒が占めるようになった。そんな中、相変わらず数学が苦手で文系のくせに、桃は懲りずに俺の授業を選択していた。
 
 担任を外れると、必然的に顔を合わせる機会も会話を交わす回数も減る。それでも数学の授業の度に桃とはよく眼が合ったし、廊下ですれ違う時は大抵向こうから「先生!」とあの笑顔で話しかけてきた。
 俺の方でも、桃の体調やアルバイトのこと、家庭内は問題ないかなど、折に触れ(踏み込みすぎない程度に)気にかけて尋ねてはいたが、桃は不自然なくらいに明るく「大丈夫。先生、心配しすぎ」といつも笑って流していた。

「あの子、あんなふうに懐っこい顔するんだねぇ」
 一度、俺たちのやり取りを見ていた桃の担任の工藤先生に、ちょっと嫌味な口調で言われたことがある。50代のベテラン国語教師はスダレ頭に手をやりながら、「ワタシなんかはもう、あれくらいの女子の考えてることは分からんからねぇ」と首を左右に振っていた。
 工藤先生に近頃の桃の様子を尋ねようかと思ったが、やはり差し出がましい気がして思い留まった。それに20代の男の教師がいち女子生徒に関心を持っているなどと勘繰られたらたまったものではないので、俺も適当に相槌を打つだけにしていた。
 
 定期試験、進路相談、予備校通い、模擬テストに大学のオープンキャンパス。3年生の毎日はとかく忙しい。生徒も教師も学年全体がせわしなく、どこか漠然とした未来への不安に包まれている。
 桃は進路をどう決めているのだろう。成績は良いからそれなりの大学には進めるだろうが、経済面で家の方は大丈夫なのか。今度、それとなく探りを入れてみようか。そんなことをつらつら考えつつも、工藤先生の微妙に光る眼つきが気になってなかなか話しかける機会がなかった。
 
 
 ふと気付けば、また学校のプールが騒がしくなる季節が巡ってきていた。
 俺は去年の桃の泳ぎを思い出した。3年生は水泳の授業自体、2回くらいしかない。今年はさすがに見られないだろうなと、あの優雅なクロールを懐かしく思い浮かべた。

 期末テストが終わった直後の放課後。
 たまにはサッカー部の練習を覗こうとジャージに着替えた俺は、グラウンドに向かって歩きながらプールの横の細い脇道を通り過ぎた。水泳部が練習している賑やかな声が、頭上からシャワーのように降り注いでくる。

「陣野先生・・・」
 すぐそばから、ひそめた声が俺を呼んだ。首を巡らせると、水着姿の桃がプールサイドの金網フェンスに張り付いて俺を見下ろしていた。
 金網にはつたが絡まって目隠しの役目を果たしており、プールの連中からは桃を見上げる俺の姿がはっきり見えていないようだった。
 こんなふうに人目のないところで、桃とふたりきりになるのは久しぶりだった。スクール水着からポタリと水滴が落ちて、俺の足元のコンクリートを濡らした。

「早瀬、水泳部に戻ったのか」
「ううん。今日だけ特別参加させてもらってるの。3年は水泳の授業自体少ないから、今年はあんまり泳げないなって思ったらちょっと淋しくて。市川先生にお許しもらって、泳がせてもらっちゃった」
「そうか、良かったじゃないか。なんだ、おまえの泳ぎ見たかったな」
 俺らしくない素直な言葉が口をついて出た。日焼けしていない濡れた身体の桃が、俺の眼の前に屈み込んでポタポタと雫を垂らしている。
「見る・・・?先生、見てって!もう上がろうと思ってたけど、最後にもう一回先生に見せてあげる」
 
 桃は金網が壊れて大きく穴が開いている箇所から細い手首を伸ばしてきて、俺のジャージの腕の部分を引っ張った。こんなふうに引っ張ったところで、俺がフェンスをぶち破ってそっちに行けるはずもないのに。
 分かっていながら、桃はふざけて俺の袖を掴んでいた。俺もまた、分かっていながら桃に触れさせていた。一瞬ふたりとも押し黙り、視線が絡みあって妙な胸苦しさを覚えた。

「ねえ、来て、先生。早く」
「分かった分かった。そっち行くよ」
 自分に似つかわしくない照れと、込み上げてくる胸のざわめきを誤魔化すように、俺はできるだけ軽い口調で桃に従った。ぐるっと回り込んでプールへの階段を上がって行き、スニーカーと靴下を脱いでプールサイドにお邪魔する。
「あれー!陣野センセ、どしたのー?覗きー?!」
「バカっ。市川先生の代わりに見張りだ、見張り」 
 見慣れない珍客に、水泳部員たちが面白がってはしゃいでいる。先生、こっちで見なよと促され、普段市川先生が使っているらしいパイプ椅子を男子部員が用意してくれた。

 午後の白い陽射しが眩しい。眼を細めて水辺を眺めていると、他の女子生徒と戯れていた桃が、チラリとこちらを見て小さく微笑んだ。
 
 桃はおもむろにプールに飛び込むと、しばらく水から上がってこなかった。
 あまりに長く潜っているので少し心配になり椅子から腰を浮かしかけたとき、桃が静かに水面に浮上してきた。思わずホッとして密かに息をつく。近くで1年生の女子たちが、「あの先輩、部員じゃないのにすごいよねぇ」と桃の泳ぎに感心していた。

 なめらかで無駄のないストローク。キレのいいキック。流れるように優美な動き。跳ね上がる飛沫しぶきが陽光に反射してキラキラ光っている。
 絵に描きたいと思った。深い青と水色と白、それから金色がかった透明な光。きみはマーメイドみたい、なんて古臭い歌詞に出てきそうな気障きざな言葉が頭に浮かんだ。
 俺は桃の泳ぎから眼が離せなかった。完全に心を奪われていた。ターンの後の残り25メートルを眼で追いながら、「なんて美しい子だろう」と心の底から想った。

「先生、惚れた?」
 横に立っていた俺のクラスの男子生徒が、ふざけた口調で声をかけてくる。
「はは。惚れるなぁ、アレは」
 俺も冗談めかした口調で答えた。冗談にしておかないと洒落にならない気がした。
「なんかさ、こーいう場面見てるとさ、オレら青春ど真ん中なのかなーって思うよね」
 タオルで身体を拭きながら、その生徒は妙に感傷的な口調で呟いた。
 そうだ、3年生はもうすぐ引退なのだ。センチメンタルな気分になるのも当然だろう。実際、高校時代の今この時は、過ぎてしまえば二度と取り戻すことはできない。

「サンキュ。いいもの見せてもらったわ。どれ、俺もサッカー部の青春を見届けてくるよ」
 桃の泳ぎの後も10分ほど見学させてもらってから、俺は部員たちに礼を言ってパイプ椅子を片付けた。プールの出口に向かい階段の上で靴下とスニーカーを履いていると、後ろから桃が小走りに近寄ってきた。

「先生、引き止めてごめんなさい」
「いーや。見れて良かったよ。おまえの泳ぎに感動した」
「・・・ほんと?!」
「ほんと。・・・ものすごく綺麗で、見惚れたよ」
 桃はほんのり頬を染め、それから嬉しそうに笑った。スイムキャップを外しているので、肩先の髪から水滴が胸元に流れ落ちている。俺はなんとなく眼を逸らし、「じゃあな、風邪ひくなよ」と背を向けて階段を降りて行った。

「せんせー!ありがとー!」
 グラウンドに向かう俺の背中に向かって、桃が呼びかけている。あいつは何かと言うと俺に「ありがとう」と言う。そんなたいしたことなどしてやっていないのに。いつだって素直な声で。ちょっとせつなそうな顔で。


 進路の個別相談を終え、3年生にとって高校最後の夏休みが始まった。
 終業式の前日から、桃は学校を休んでいた。姿を見かけないから変だなと思っていたが、担任の工藤先生は「どうも家庭の事情らしいねぇ」と言ったきり、俺にはそれ以上のことを教えてくれなかった。桃の通知表は、工藤先生が預かったままだった。
 心配になり様子を知りたいとは思ったが、俺は桃の携帯のアドレスも番号も知らなかった。仮に知っていたとしても、教師が個人的に生徒に連絡を取るのはやはり不味いだろう。家の電話にかけてみたり、ましてや自宅を訪ねるのも、既に担任を外れている自分がすることではない。俺は胸の隅に引っ掛かりを感じたまま、いつもと同じようにちっとものんびりできない夏を迎えた。

 結婚を諦めない『彼女』からは、何度か電話やメールが来ていた。
 両親に会ってほしいと言われ、「俺の考えは変わらない。結婚は無理だと思う」と短く返信した。ちゃんと別れ話をしたいのだが、彼女は聞く耳を持とうとしなかった。
 自分が非情なのだろうかと何度も自問したが、気持ちが離れているのに無理やり縛り付けようとする彼女の方こそ非情ではないのかと思ったりした。

 そうこうしているうちに、仙台の実家で親と同居している弟夫婦から連絡が入った。親父が転んで股関節を痛め手術することになったので、できれば今年は夏休みを取って帰ってきてほしいと言う。弟の嫁も働いているし母もあまり丈夫ではないので、俺の手でも必要と言うことだろう。
 生徒と違い、教師の8月は忙しい。講習会やら研修、2学期に向けての細かな準備など、むしろ普通に授業をしている方が楽なくらいだ。だが俺は他の先生たちに相談し、後半に少し長めの休みを取らせてもらえることになった。


 桃のことは依然気になっていたが、連絡を取るわけにもいかない。8月の頭に通知表を受け取りに学校に来ていたらしいのだが、俺はその日はサッカー部の合宿に同行していて会えなかった。
 今年の夏は、桃からの暑中見舞いも来ていない。どうしているのか気がかりだったが、ただぼんやりと、元気に穏やかに過ごしていてほしいと願うしかなかった。



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