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Lesson 1
肖像画
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俺はまだ心のどこかで、9月になれば桃に会えるのではないかと愚かな期待を抱いていた。
すべてが壮大な嘘で、俺がうろたえている姿を桃が物陰から見てクスクス笑っているんじゃないか。そのうちひょっこり俺の前に現れて、「先生!」とあの笑顔で駆け寄ってくるんじゃないか。そんなふうに、心の奥に僅かな望みを残していた。
2学期が始まり、夏休みボケした生徒たちが続々と登校してくる中に桃の姿がなく、教室にも廊下にもどこにも見つからないのを目の当たりにして、俺はようやく現実を受け入れざる得なくなった。
桃は友人たちにも黙って転校していったようだった。
よく一緒に行動していた女子生徒たちが、「桃の携帯、繋がらないよね」と廊下で淋しそうに話しているのが聞こえた。
市川先生の話では、桃は家庭の事情などを同級生にはひたすら隠していたようだった。中学が一緒だった一部の生徒たちには多少知られていたものの、本人がいつも明るく振る舞っていたからさほど大きな噂にならなかったらしい。
「こんなことなら夏休みに遊びに誘っておくんだったね。バイト忙しそうだったからなー」
女子生徒の一人がそう嘆くのを背中で聞きながら、きっと桃が引っ越す前に最後に会いに来たのは俺だったのだろうと、つまらない自惚れを抱いてみたりした。
他の先生たちに妙な眼で見られては困るので、俺はポーカーフェイスを装って無難に日々をやり過ごした。授業もごく普通にこなし、サッカー部にも適度に顔を出したし、生徒の進路相談にもわりと積極的に乗るようにした。
傍から見ていれば、俺の日常はそんなに不自然ではなかったはずだ。もともと感情を隠すのは得意な方だからだ。
だが、いざ一人きりになると、俺は強烈な喪失感でおかしくなりそうだった。
今まで当たり前にいた人間の姿がそこにない。「先生・・・!」とはにかみながら微笑んでくる笑顔がどこにもない。数学の時間に桃がいつも座っていた席に、今は他の生徒が座っている。どうしておまえが座っているんだ、そこはおまえの席じゃない。そう文句を言いそうになる自分が怖くなった。
俺は桃がどうして何も言わずに行ってしまったのか、何度も何度も考えた。
父親を亡くし、母親に付いて遠くへ転校しなければならなかった桃の淋しさを思うと、無性に胸の奥が痛くなった。高校生の転校は、受け入れてくれる学校がすぐに見つかるとは限らない。手続きや試験など、義務教育と違っていろいろと面倒なのだ。あと半年で卒業時期を迎えるのに、慌ただしく別の学校に入り直す苦労は想像に難くなかった。考えていた進路だって、もう一度見直しになるだろう。
夏休みの間、桃がどんなふうに一人で思い悩んでいたのかと思うと、何故気付いてやれなかったのだろうと自分が情けなくなってキツかった。
その一方で、俺は桃に腹を立ててもいた。恨むような気持ちにすらなった。
俺を翻弄し、こんなふうに気持ちを奪い、身体に記憶を植えつけて、何故黙って去って行けたのだと非難したくなった。
大人げないのは充分分かっている。そもそも教師の自分が9つも下の女子生徒に気持ちを乱されること自体、間違っている。それでも早瀬桃が俺にとって特別であり、いつのまにか他の何物にも代えがたい存在になっていたという事実は、俺自身をひどく打ちのめした。
誕生日のプレゼントに絵を描いてとせがんだ桃。受け取れないのを分かっていながら、絵の具で色を塗って完成させてほしいとねだった桃。俺のネクタイを「洗う」と言って、持って帰ったまま長野に行ってしまった桃。
あの日、桃はきっと俺に「さよなら」を言おうと思って訪ねてきたのだろう。でも会ってみたら、なんとなく言いづらくなった。いつものように笑って明るく終わりにしようと気丈に考えたのかもしれない。
俺をあんなふうに拘束してくちづけし、身体に触れさせた理由は分からない。桃が俺を少しでも好きだと思っていてくれたのなら、最後の想い出を身体に刻んでおこうと思ったのだろうか。
10月に入ってから、俺はアクリル絵の具を購入した。桃の絵を描くことにしたのだ。
窓際の狭いスペースに無理矢理イーゼルを置き、呆れるほど久しぶりに白いキャンバスに向きあった。
約束通り、色を塗ってきちんと絵を完成させる。スケッチブックに描いたものに水彩で色をつけるのではない。一から本格的に描いてやるのだ。これなら桃だって文句は言えないだろう。
俺はキャンバスの白を見つめながら、しばらく空想の世界に浸ってイメージを広げた。
眼を閉じると浮かぶのは、「先生!」と寄ってくるときの可愛い笑顔なのに、いざ絵に描こうとするとプールで泳いでいた姿が鮮やかに蘇る。
青い水底を人魚のように漂う桃の姿が見えた。ジンジャーエールの泡に包まれながら、白く透明な肌の桃が水色の世界から俺を誘っている。
8月にスケッチブックにデッサンした絵を注意深く見ながら、俺はキャンバスに桃の姿を描き始めた。
最初に顔を描いた。大きな瞳と繊細な睫毛、小さな鼻、微かに開いた唇。俺がさんざん目に焼き付けた桃そのものを、じっくり時間をかけて再現した。
身体に衣服はつけさせなかった。手で触れることも、この眼で見ることも許してもらえなかった桃の乳房を、俺は唇で愛撫した感触を思い出しながら丁寧に描いた。
プールサイドに佇んでいた、すんなりした脚の白さ。俺のジャージの袖を掴んでいた、華奢な細い指先。俺を見るときの、うっすらと潤んで光る眼差し。
どの部分も、桃本人にできるだけ近付けたくて慎重に描いた。筆で色を重ねていくごとに、桃の息遣いが聴こえるような気がした。
描いている間は桃と一体化している気持ちになれるので、俺は休みの日はもちろん、仕事から帰った夜も、ひたすらキャンバスに向かった。
そうして完成させた絵を、俺は部屋の一番目立つ場所に飾った。
全体的に青と水色と白の色調でまとめた絵の中で、桃の頬と唇だけが名前の通りほんのりと桃色に染まっている。見ていると幸せな気持ちになれる色だ。
俺は毎日この絵を眺めながら、どうか桃が遠い空の下で、少しでも穏やかで幸福な日々を過ごしているようにと強く願った。
長いこと揉めていた、と言うか、決着をつけたいのにつけさせてもらえなかった『彼女』とは、秋の終わりに正式に別れた。
久しぶりに彼女から電話がきたので、今度こそきちんと別れ話をしようと思った俺は、「直接会おう」と誘った。向こうもそのつもりで電話したのだと言った。それで本当に久しぶりに喫茶店で落ち合ったのだが、俺が口を開く前に向こうから「結婚することになったの」と誇らしげに告げられた。
「良かったな」と素直に祝福したら、彼女は明らかにムッとしていた。俺に当て付けるように、「竜一が煮え切らないうちに会社の同僚から結婚前提の交際を申し込まれたの。あっという間にプロポーズされちゃった」などとペラペラと話すので、「そうか、本当に良かったじゃないか」と言ったら余計にキレられた。
「少しは悔しいと思わないのか」とか、「全然女心が分かってない」とか、「ヘタレ」「最低」とか、いろいろ文句を投げつけられたが、俺には彼女が怒っている理由がさっぱり分からなかった。俺なんかよりもっと幸せにしてくれる男を手に入れてラッキーなはずなのに、いったい何が気に食わないと言うのだろう。
とにかく俺は彼女から解放されてホッとしていた。今となっては、自分がどうしてこの女とつきあっていたのかもさっぱり分からなかった。
年が明けた。僅かに、ほんの僅かに期待していた桃からの年賀状は届かなかった。
今年の冬は雪が多かった。
生徒たちの多くが受験に挑み、合格して笑顔で職員室に飛び込んでくる者、希望校にことごとく振られて嘆く者と明暗を分けながらも、皆がそれぞれの春を迎えようとしていた。
ひたすら慌ただしい日々が過ぎていき、気付けばあっという間に卒業式の季節となった。
肌寒い3月。自分のクラスの生徒たちが卒業していく姿を見るのは、さすがに感慨深いものがあった。俺は面倒見の悪い教師の典型だったのに、別のクラスからも教え子達が挨拶に来てくれたのはちょっと嬉しかったりした。
別れを惜しんで教室や校庭からなかなか去らない生徒たちを見ていたら、そこに桃がいないことが不思議に思えてきた。あの夏の日から半年が過ぎたと言うのに、俺はまだ校内のあちこちに桃の姿を探すクセがついていた。
今頃、桃も長野の高校で卒業式を迎えているかもしれない。
卒業した後の進路はどうなっているのだろう。慣れない学校での半年間は、辛くはなかっただろうか。桃は今も、あのはにかむような笑顔を浮かべているのだろうか。
あいつが卒業証書を受け取る姿を見たかった。
そんなことを思うキャラじゃないのに、桃が去ってからと言うものの俺はすっかりセンチメンタルになってしまった。桃が新しい土地でがんばっていると言うのに、俺だけが取り残されて足元が見えなくなっている気がした。
4月の新年度から、俺は別の高校に異動することになった。
正直ホッとした。これ以上、俺はこの学校に留まるべきではない。校内の至るところに桃の幻影を探し続ける自分が、いいかげん辛くなってきていた。
異動の前日、最後の出勤日。俺は誰もいないプールをこっそり覗きに行った。
藻が生えて緑に染まったプールは寒々しくて、夏の初めに桃が水しぶきを上げていた光景とはまったくの別物だった。
俺の探しているものは、もうどこにもないのだとはっきり悟った。
翌日の朝、俺は新しい学校へ初出勤するためにいつもより早く起きた。
ワイシャツに袖を通し、ハンガーラックに掛かったワインレッドのネクタイに一瞬触れる。
あの日、桃が俺に目隠ししたネクタイ。少し考えてから、俺は別のシルバーグレイのネクタイを選んだ。
出掛ける前に、ずっと部屋に飾っていた桃の肖像画を壁から外した。両手に持ってしばらく眺めた後、俺はその絵を新聞紙で丁寧に包んだ。押し入れの奥にそっとしまい、深呼吸してから俺は家を出た。
すべてが壮大な嘘で、俺がうろたえている姿を桃が物陰から見てクスクス笑っているんじゃないか。そのうちひょっこり俺の前に現れて、「先生!」とあの笑顔で駆け寄ってくるんじゃないか。そんなふうに、心の奥に僅かな望みを残していた。
2学期が始まり、夏休みボケした生徒たちが続々と登校してくる中に桃の姿がなく、教室にも廊下にもどこにも見つからないのを目の当たりにして、俺はようやく現実を受け入れざる得なくなった。
桃は友人たちにも黙って転校していったようだった。
よく一緒に行動していた女子生徒たちが、「桃の携帯、繋がらないよね」と廊下で淋しそうに話しているのが聞こえた。
市川先生の話では、桃は家庭の事情などを同級生にはひたすら隠していたようだった。中学が一緒だった一部の生徒たちには多少知られていたものの、本人がいつも明るく振る舞っていたからさほど大きな噂にならなかったらしい。
「こんなことなら夏休みに遊びに誘っておくんだったね。バイト忙しそうだったからなー」
女子生徒の一人がそう嘆くのを背中で聞きながら、きっと桃が引っ越す前に最後に会いに来たのは俺だったのだろうと、つまらない自惚れを抱いてみたりした。
他の先生たちに妙な眼で見られては困るので、俺はポーカーフェイスを装って無難に日々をやり過ごした。授業もごく普通にこなし、サッカー部にも適度に顔を出したし、生徒の進路相談にもわりと積極的に乗るようにした。
傍から見ていれば、俺の日常はそんなに不自然ではなかったはずだ。もともと感情を隠すのは得意な方だからだ。
だが、いざ一人きりになると、俺は強烈な喪失感でおかしくなりそうだった。
今まで当たり前にいた人間の姿がそこにない。「先生・・・!」とはにかみながら微笑んでくる笑顔がどこにもない。数学の時間に桃がいつも座っていた席に、今は他の生徒が座っている。どうしておまえが座っているんだ、そこはおまえの席じゃない。そう文句を言いそうになる自分が怖くなった。
俺は桃がどうして何も言わずに行ってしまったのか、何度も何度も考えた。
父親を亡くし、母親に付いて遠くへ転校しなければならなかった桃の淋しさを思うと、無性に胸の奥が痛くなった。高校生の転校は、受け入れてくれる学校がすぐに見つかるとは限らない。手続きや試験など、義務教育と違っていろいろと面倒なのだ。あと半年で卒業時期を迎えるのに、慌ただしく別の学校に入り直す苦労は想像に難くなかった。考えていた進路だって、もう一度見直しになるだろう。
夏休みの間、桃がどんなふうに一人で思い悩んでいたのかと思うと、何故気付いてやれなかったのだろうと自分が情けなくなってキツかった。
その一方で、俺は桃に腹を立ててもいた。恨むような気持ちにすらなった。
俺を翻弄し、こんなふうに気持ちを奪い、身体に記憶を植えつけて、何故黙って去って行けたのだと非難したくなった。
大人げないのは充分分かっている。そもそも教師の自分が9つも下の女子生徒に気持ちを乱されること自体、間違っている。それでも早瀬桃が俺にとって特別であり、いつのまにか他の何物にも代えがたい存在になっていたという事実は、俺自身をひどく打ちのめした。
誕生日のプレゼントに絵を描いてとせがんだ桃。受け取れないのを分かっていながら、絵の具で色を塗って完成させてほしいとねだった桃。俺のネクタイを「洗う」と言って、持って帰ったまま長野に行ってしまった桃。
あの日、桃はきっと俺に「さよなら」を言おうと思って訪ねてきたのだろう。でも会ってみたら、なんとなく言いづらくなった。いつものように笑って明るく終わりにしようと気丈に考えたのかもしれない。
俺をあんなふうに拘束してくちづけし、身体に触れさせた理由は分からない。桃が俺を少しでも好きだと思っていてくれたのなら、最後の想い出を身体に刻んでおこうと思ったのだろうか。
10月に入ってから、俺はアクリル絵の具を購入した。桃の絵を描くことにしたのだ。
窓際の狭いスペースに無理矢理イーゼルを置き、呆れるほど久しぶりに白いキャンバスに向きあった。
約束通り、色を塗ってきちんと絵を完成させる。スケッチブックに描いたものに水彩で色をつけるのではない。一から本格的に描いてやるのだ。これなら桃だって文句は言えないだろう。
俺はキャンバスの白を見つめながら、しばらく空想の世界に浸ってイメージを広げた。
眼を閉じると浮かぶのは、「先生!」と寄ってくるときの可愛い笑顔なのに、いざ絵に描こうとするとプールで泳いでいた姿が鮮やかに蘇る。
青い水底を人魚のように漂う桃の姿が見えた。ジンジャーエールの泡に包まれながら、白く透明な肌の桃が水色の世界から俺を誘っている。
8月にスケッチブックにデッサンした絵を注意深く見ながら、俺はキャンバスに桃の姿を描き始めた。
最初に顔を描いた。大きな瞳と繊細な睫毛、小さな鼻、微かに開いた唇。俺がさんざん目に焼き付けた桃そのものを、じっくり時間をかけて再現した。
身体に衣服はつけさせなかった。手で触れることも、この眼で見ることも許してもらえなかった桃の乳房を、俺は唇で愛撫した感触を思い出しながら丁寧に描いた。
プールサイドに佇んでいた、すんなりした脚の白さ。俺のジャージの袖を掴んでいた、華奢な細い指先。俺を見るときの、うっすらと潤んで光る眼差し。
どの部分も、桃本人にできるだけ近付けたくて慎重に描いた。筆で色を重ねていくごとに、桃の息遣いが聴こえるような気がした。
描いている間は桃と一体化している気持ちになれるので、俺は休みの日はもちろん、仕事から帰った夜も、ひたすらキャンバスに向かった。
そうして完成させた絵を、俺は部屋の一番目立つ場所に飾った。
全体的に青と水色と白の色調でまとめた絵の中で、桃の頬と唇だけが名前の通りほんのりと桃色に染まっている。見ていると幸せな気持ちになれる色だ。
俺は毎日この絵を眺めながら、どうか桃が遠い空の下で、少しでも穏やかで幸福な日々を過ごしているようにと強く願った。
長いこと揉めていた、と言うか、決着をつけたいのにつけさせてもらえなかった『彼女』とは、秋の終わりに正式に別れた。
久しぶりに彼女から電話がきたので、今度こそきちんと別れ話をしようと思った俺は、「直接会おう」と誘った。向こうもそのつもりで電話したのだと言った。それで本当に久しぶりに喫茶店で落ち合ったのだが、俺が口を開く前に向こうから「結婚することになったの」と誇らしげに告げられた。
「良かったな」と素直に祝福したら、彼女は明らかにムッとしていた。俺に当て付けるように、「竜一が煮え切らないうちに会社の同僚から結婚前提の交際を申し込まれたの。あっという間にプロポーズされちゃった」などとペラペラと話すので、「そうか、本当に良かったじゃないか」と言ったら余計にキレられた。
「少しは悔しいと思わないのか」とか、「全然女心が分かってない」とか、「ヘタレ」「最低」とか、いろいろ文句を投げつけられたが、俺には彼女が怒っている理由がさっぱり分からなかった。俺なんかよりもっと幸せにしてくれる男を手に入れてラッキーなはずなのに、いったい何が気に食わないと言うのだろう。
とにかく俺は彼女から解放されてホッとしていた。今となっては、自分がどうしてこの女とつきあっていたのかもさっぱり分からなかった。
年が明けた。僅かに、ほんの僅かに期待していた桃からの年賀状は届かなかった。
今年の冬は雪が多かった。
生徒たちの多くが受験に挑み、合格して笑顔で職員室に飛び込んでくる者、希望校にことごとく振られて嘆く者と明暗を分けながらも、皆がそれぞれの春を迎えようとしていた。
ひたすら慌ただしい日々が過ぎていき、気付けばあっという間に卒業式の季節となった。
肌寒い3月。自分のクラスの生徒たちが卒業していく姿を見るのは、さすがに感慨深いものがあった。俺は面倒見の悪い教師の典型だったのに、別のクラスからも教え子達が挨拶に来てくれたのはちょっと嬉しかったりした。
別れを惜しんで教室や校庭からなかなか去らない生徒たちを見ていたら、そこに桃がいないことが不思議に思えてきた。あの夏の日から半年が過ぎたと言うのに、俺はまだ校内のあちこちに桃の姿を探すクセがついていた。
今頃、桃も長野の高校で卒業式を迎えているかもしれない。
卒業した後の進路はどうなっているのだろう。慣れない学校での半年間は、辛くはなかっただろうか。桃は今も、あのはにかむような笑顔を浮かべているのだろうか。
あいつが卒業証書を受け取る姿を見たかった。
そんなことを思うキャラじゃないのに、桃が去ってからと言うものの俺はすっかりセンチメンタルになってしまった。桃が新しい土地でがんばっていると言うのに、俺だけが取り残されて足元が見えなくなっている気がした。
4月の新年度から、俺は別の高校に異動することになった。
正直ホッとした。これ以上、俺はこの学校に留まるべきではない。校内の至るところに桃の幻影を探し続ける自分が、いいかげん辛くなってきていた。
異動の前日、最後の出勤日。俺は誰もいないプールをこっそり覗きに行った。
藻が生えて緑に染まったプールは寒々しくて、夏の初めに桃が水しぶきを上げていた光景とはまったくの別物だった。
俺の探しているものは、もうどこにもないのだとはっきり悟った。
翌日の朝、俺は新しい学校へ初出勤するためにいつもより早く起きた。
ワイシャツに袖を通し、ハンガーラックに掛かったワインレッドのネクタイに一瞬触れる。
あの日、桃が俺に目隠ししたネクタイ。少し考えてから、俺は別のシルバーグレイのネクタイを選んだ。
出掛ける前に、ずっと部屋に飾っていた桃の肖像画を壁から外した。両手に持ってしばらく眺めた後、俺はその絵を新聞紙で丁寧に包んだ。押し入れの奥にそっとしまい、深呼吸してから俺は家を出た。
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