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Lesson 2
ニューフェイス
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30を超えた途端、それまで体力に自信があった俺も疲れが腰に来るようになった。
この職種は意外と立っている時間が長い。故に下半身が強くないと体力的になかなか辛いのだ。20代の頃はほとんど経験したことがなかった腰痛だが、最近ではたまに塗るタイプの鎮痛剤をこっそり使ったりしている。
情けないことだ。うちの予備校講師の中では、俺はまだ若い方だと言うのに。腰が痛むなどと口にしたら、俺より10歳近く年上の菊池先生にバカにされる。いや、それどころか卑猥な冗談を投げつけられるかもしれない。
サッカーも長いことやっていなくて、だいぶ運動不足になっている。ジムにでも通って筋トレに励んだ方がいいだろうかと、最近の俺は結構真剣に考えている。
休み明けの朝。俺は欠伸を噛み殺しながら、いつものように職場までの道のりを歩いて行く。
主要駅から少し距離はあるが、舗装された道路にはわりと立派な桜の木が連なっていて、ちょっとした散歩コースに見えなくもない。散り始めた花びらが風に舞う中を歩いていると、やはりこの季節は高校に勤めていた頃の慌ただしさを思い出す。
2年前、高校教師の職を辞め、予備校講師に転職した。
大学を出て最初に赴任した高校で丸5年教えた後、同じ区内の別の学校に転任した。そこで2年過ごしたが、俺には高校の教諭という仕事は合っていない気がして、思い切って予備校の講師に鞍替えした。それからちょうど2年が経つ。
意外にも予備校で教える方が自分には向いていたようで、ありがたいことに俺の授業はそこそこ人気がある。生徒とのコミュニケーションも教師時代よりよほどスムーズだし、余計な学校行事や雑務がない分、授業に集中できるのも性に合った。
何より生徒たちが「大学に合格する」という明確な目標を掲げて通ってきているので、比較的授業態度も真面目である。こういう分かりやすい環境の方が、俺みたいに面倒くさがりでシンプルを好む人間にはちょうどいいのかもしれなかった。
4年前に転任した高校では、自分のクラスは受け持たなかった。
前の学校より偏差値的にはだいぶ劣る学校で、生徒はまるでやる気がなく、校風もかなり緩かった。俺は淡々と授業や雑務をこなし、周りの先生とも生徒達とも一定の距離を保っていた。あそこでパッとしない2年間を送ったむなしさが転職するきっかけとなったのは事実だが、本当はそれ以上にもう一つ理由があった。
勤務して一年を過ぎた頃、校長から見合いを勧められた。相手は校長の娘で、俺より一つ下の歯科助手だった。
もちろん最初は丁重に断った。誰かと腰を据えてつきあうほど自分の中にエネルギーが残っていなかったし、校長の娘というのも何かと厄介だと思ったからだ。だが校長はあまりにも熱心に俺を口説き、また周りからも「会うだけ会ってみればいいじゃないか」とけしかけられて断れない空気になった。結局周囲のおせっかいで、半ば強引にお茶の席がセッティングされた。
校長の娘はまあまあ美人で、明るい性格だった。男が連れ歩いたら、それなりに自尊心を満たせる類の女性だった。彼女自身が見合いに積極的だったのもあり、俺はなんとなく押される形で彼女と食事をするようになった。
何度か会いながらも、彼女に恋愛感情が湧いてくることはなかった。
俺の心は長いことある場所に置き去りになっていて、『女』というものを一時しのぎの欲の捌け口くらいにしか思っていなかった。ただ一方で、こうして誰とも本気で関わろうとしないから、いつまでも過去から抜け出せないのも自分で分かっていた。
いっそ結婚でもしてしまえば、自然に情も湧いてきて俺も過去を過去と割り切れるようになるかもしれない。そう思って、まるで宿題をこなすような気持ちで校長の娘との時間を過ごした。
見合いの真似事から2カ月で、すべてがご破算になった。校長の娘が、何年も前から別の高校の教師と不倫関係にあるのを俺が知ったからだ。
相手は以前校長の下にいた、妻子持ちの40代。娘と不倫関係になっているのを察知した校長によって、2年前に他所に飛ばされていた。それでも二人は別れられなかったようで、娘は父親に反発してずっと関係を続けていたのだそうだ。彼女が俺との見合いに乗り気だったのは、不倫相手がなかなか離婚してくれないので当て付けたかったというだけの単純な話だった。
校長は俺に頭を下げて謝り、不倫相手とは絶対に別れさせるからこのまま娘を受け入れてくれないかと頼んできた。
俺は丁寧な口調で辞退した。本音を言えば、破談になって安堵していた。どうがんばってみても校長の娘に愛情を抱けなくて迷っていたので、これ幸いと俺はつきあいを解消した。
ただ、学校には居づらくなった。もともと職場の空気が肌に合わなかったのもあり、俺はすべてをリセットしたい衝動に駆られた。無気力な生徒たちを見ているのも嫌だった。このまま高校教師を続けていても、俺自身が腐っていきそうな気がしたのでとうとう辞める決意をした。
結果的に、予備校に転職して正解だったと思う。
今いる予備校はテレビCMをやるような大手ではないが、きめ細かい指導が好評で年々受講者が増えている。同僚の先生方も比較的熱心な人が多く、運営自体も個人のスタイルやプライベートを尊重してくれる融通の利く職場だった。
俺はようやく自分が自然体でいられる場所を見つけた気がした。そうなると教えること自体楽しめるようになり、実際に生徒たちの学力が伸びるのを見て喜びを感じるようにもなった。
4月になり、この仕事も3年目に突入した。時の流れのあまりの速さに、俺はときどき呆然としてしまう。
俺ももう31になった。決して忘れることのないあの夏から、4年と半年以上の時が流れた。31からマイナス9の年齢を想い、ああ、もう立派な大人になっているんだな、と幻に語りかけてみたりする。
「おはよー、陣野くん。この前は遅くまでごめんねー」
先輩講師の菊池先生が、ビルに入るなり後ろから肩を組んできた。微妙にアルコール臭い。俺と飲んだのは二日前だと言うのに、まだ臭うのはどういうことだ。夕べもまた性懲りもなく飲んだのだろうか。
「もう勘弁してくださいよ。自分でタクシーも乗れなくなるなんて、いい年して何やってんですか。俺、二度と菊池先生につきあいませんからね」
ヘラヘラ笑っている菊池先生を睨むふりをして笑いながら、いつものように受付カウンターの前を通り事務局へと入って行く。事務員や他の講師たちが、明るく「おはようございまーす」と声をかけてくるのも毎度の光景だった。
だが今日はどこか様子が違っていた。事務局内になんとなく忙しない空気が漂っていて、事務員の一人が一番端の誰も使っていない机の上を大雑把に雑巾がけし、文具やらファイルやらを手早く並べている。あの席は今年の初めから空席で荷物置き場になっていたのだが、ようやく新しいスタッフが入ることになったのだろうか。
「なんか慌ただしい感じですね。誰か、来るんですか?」
脱いだジャケットを事務局の奥にあるロッカーにしまいながら、俺はすぐ隣の流しでうがいしている菊池先生に聞いた。
「あ、知らない?そっか、陣野くん、昨日は休みだったもんね。あのね、新しい事務さんが今日から入るんだよ。ほら、田中さんが辞めてから事務が人手不足だって、事務長がずっとボヤいてたろ。募集かけてたけど、ろくなのが来ないって」
たしかにこの2カ月ほど、ホームページや求人サイトで事務スタッフを募っていたが、あまりいい人材に当たらず時間ばかりが過ぎていた。その分、他の事務スタッフの負担が増えて大変そうだったのは俺も知っている。
「やっと、いい子が見つかったんだって。それがさ、若くて顔もカワイイから、受付カウンターも兼任させるのにちょうどいいって事務長ご機嫌なんだよ」
「へえ、良かったじゃないですか」
「うん。昨日、ちょこっと挨拶に来てたのオレも見たけどさ、マジで可愛いんだよ。清楚で色白、そこはかとなくウブな色気が漂っててさ。いいねー、オレ仕事に来る楽しみ増えちゃった」
鏡の前で薄くなってきた頭髪をセットしながら、菊池先生がニヤニヤしている。俺は半分呆れながらも笑い返した。
「前職は銀行?ん?信用金庫だったかな?そっち系で働いてた子なんだって。どこだっけ、えーと、山梨・・・じゃないや。長野だ長野!あっちの信金辞めて、つい最近長野県からこっちに出てきたんだって。元々は東京の子らしいよ。わりと珍しいパターンだよね」
菊池先生の言葉に、講師の待機スペースに向かいかけていた俺の身体が固まった。
若くて可愛くて清楚で、長野県から東京に戻ってきた女性など世間にはいくらでもいるだろう。
だが俺の胸は妙にザワザワした。こういうのを、第六感とでも言うのだろうか。頭の中で、「まさか」という言葉が何度も駆け巡った。
「・・・何ていう人ですか?」
掠れた自分の声が別人のように聞こえた。菊池先生も、「ん?」と怪訝そうな顔で俺を見る。
「その子。名前は分かりますか?」
「ああ、新人ちゃん?あー、なんだっけなぁ、なんかカワイイ名前だったよ。苗字は忘れたなぁ。えーとね・・・」
俺は食い入るように菊池先生の口元を見た。どうかしている。そんなわけがない。あり得ないからバカな期待などするな。そう自分の胸に言い聞かせながら、砂漠で一滴の水を求めるかのように菊池先生の言葉を待つ。
「あ!アレだ。モモ・・・?モモちゃんって言ったよ、たしか。ほんとに桃みたいに頬っぺがスベスベでさぁ」
心臓がドクンと大きく鳴った。一滴の水は、俺の喉を更にカラカラに干し上げた。
「さ、早瀬さん、こっちね。ここの机、今日から使って。最初にみんなに紹介しようか」
背中越しに事務長の弾んだ声が聞こえる。スタッフたちが立ち上がったり動きを止める気配。どこかから、わぁ、可愛い子・・・と女性スタッフのヒソヒソ声がする。
「みんな、ちょっといいかー?今日から事務局で働いてもらう新しいスタッフさんです。早瀬桃さん。今月、長野県から引っ越してきたばっかりなので、優しく指導してあげてね」
心臓が破裂しそうだった。振り返るのが怖くてたまらなかった。それでいて、その顔を、声を一秒でも早く確かめたくて身体が震えた。
「はじめまして、早瀬桃と申します。いろいろご迷惑をお掛けするかと思いますが、がんばりますのでどうぞよろしくお願いします」
俺のよく知っている声が耳に飛び込んで来た。透き通った、やや甘い声。少し緊張しているような響き。
みんなが拍手している。「よろしくおねがいしまーす」と重なる大勢の声。俺の横で「やっぱ可愛いなぁ」とデレている菊池先生。俺だけが、言葉を失い身体を動かせずにいる。
「あれ、陣野先生、なんで後ろ向いてるの。こっち見て!」
事務長の声に、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。不思議そうな菊池先生の視線を感じながら、俺はゆっくり振り返る。
桃がいた。俺の視線の先に、桃が佇んでいた。少し髪が伸びて、薄めの化粧をして、あの頃より大人びた桃が俺をじっと見つめていた。
「・・・陣野先生・・・」
桃の眼に透明の膜が張った。たぶん、俺も同じ眼をしていた。
この職種は意外と立っている時間が長い。故に下半身が強くないと体力的になかなか辛いのだ。20代の頃はほとんど経験したことがなかった腰痛だが、最近ではたまに塗るタイプの鎮痛剤をこっそり使ったりしている。
情けないことだ。うちの予備校講師の中では、俺はまだ若い方だと言うのに。腰が痛むなどと口にしたら、俺より10歳近く年上の菊池先生にバカにされる。いや、それどころか卑猥な冗談を投げつけられるかもしれない。
サッカーも長いことやっていなくて、だいぶ運動不足になっている。ジムにでも通って筋トレに励んだ方がいいだろうかと、最近の俺は結構真剣に考えている。
休み明けの朝。俺は欠伸を噛み殺しながら、いつものように職場までの道のりを歩いて行く。
主要駅から少し距離はあるが、舗装された道路にはわりと立派な桜の木が連なっていて、ちょっとした散歩コースに見えなくもない。散り始めた花びらが風に舞う中を歩いていると、やはりこの季節は高校に勤めていた頃の慌ただしさを思い出す。
2年前、高校教師の職を辞め、予備校講師に転職した。
大学を出て最初に赴任した高校で丸5年教えた後、同じ区内の別の学校に転任した。そこで2年過ごしたが、俺には高校の教諭という仕事は合っていない気がして、思い切って予備校の講師に鞍替えした。それからちょうど2年が経つ。
意外にも予備校で教える方が自分には向いていたようで、ありがたいことに俺の授業はそこそこ人気がある。生徒とのコミュニケーションも教師時代よりよほどスムーズだし、余計な学校行事や雑務がない分、授業に集中できるのも性に合った。
何より生徒たちが「大学に合格する」という明確な目標を掲げて通ってきているので、比較的授業態度も真面目である。こういう分かりやすい環境の方が、俺みたいに面倒くさがりでシンプルを好む人間にはちょうどいいのかもしれなかった。
4年前に転任した高校では、自分のクラスは受け持たなかった。
前の学校より偏差値的にはだいぶ劣る学校で、生徒はまるでやる気がなく、校風もかなり緩かった。俺は淡々と授業や雑務をこなし、周りの先生とも生徒達とも一定の距離を保っていた。あそこでパッとしない2年間を送ったむなしさが転職するきっかけとなったのは事実だが、本当はそれ以上にもう一つ理由があった。
勤務して一年を過ぎた頃、校長から見合いを勧められた。相手は校長の娘で、俺より一つ下の歯科助手だった。
もちろん最初は丁重に断った。誰かと腰を据えてつきあうほど自分の中にエネルギーが残っていなかったし、校長の娘というのも何かと厄介だと思ったからだ。だが校長はあまりにも熱心に俺を口説き、また周りからも「会うだけ会ってみればいいじゃないか」とけしかけられて断れない空気になった。結局周囲のおせっかいで、半ば強引にお茶の席がセッティングされた。
校長の娘はまあまあ美人で、明るい性格だった。男が連れ歩いたら、それなりに自尊心を満たせる類の女性だった。彼女自身が見合いに積極的だったのもあり、俺はなんとなく押される形で彼女と食事をするようになった。
何度か会いながらも、彼女に恋愛感情が湧いてくることはなかった。
俺の心は長いことある場所に置き去りになっていて、『女』というものを一時しのぎの欲の捌け口くらいにしか思っていなかった。ただ一方で、こうして誰とも本気で関わろうとしないから、いつまでも過去から抜け出せないのも自分で分かっていた。
いっそ結婚でもしてしまえば、自然に情も湧いてきて俺も過去を過去と割り切れるようになるかもしれない。そう思って、まるで宿題をこなすような気持ちで校長の娘との時間を過ごした。
見合いの真似事から2カ月で、すべてがご破算になった。校長の娘が、何年も前から別の高校の教師と不倫関係にあるのを俺が知ったからだ。
相手は以前校長の下にいた、妻子持ちの40代。娘と不倫関係になっているのを察知した校長によって、2年前に他所に飛ばされていた。それでも二人は別れられなかったようで、娘は父親に反発してずっと関係を続けていたのだそうだ。彼女が俺との見合いに乗り気だったのは、不倫相手がなかなか離婚してくれないので当て付けたかったというだけの単純な話だった。
校長は俺に頭を下げて謝り、不倫相手とは絶対に別れさせるからこのまま娘を受け入れてくれないかと頼んできた。
俺は丁寧な口調で辞退した。本音を言えば、破談になって安堵していた。どうがんばってみても校長の娘に愛情を抱けなくて迷っていたので、これ幸いと俺はつきあいを解消した。
ただ、学校には居づらくなった。もともと職場の空気が肌に合わなかったのもあり、俺はすべてをリセットしたい衝動に駆られた。無気力な生徒たちを見ているのも嫌だった。このまま高校教師を続けていても、俺自身が腐っていきそうな気がしたのでとうとう辞める決意をした。
結果的に、予備校に転職して正解だったと思う。
今いる予備校はテレビCMをやるような大手ではないが、きめ細かい指導が好評で年々受講者が増えている。同僚の先生方も比較的熱心な人が多く、運営自体も個人のスタイルやプライベートを尊重してくれる融通の利く職場だった。
俺はようやく自分が自然体でいられる場所を見つけた気がした。そうなると教えること自体楽しめるようになり、実際に生徒たちの学力が伸びるのを見て喜びを感じるようにもなった。
4月になり、この仕事も3年目に突入した。時の流れのあまりの速さに、俺はときどき呆然としてしまう。
俺ももう31になった。決して忘れることのないあの夏から、4年と半年以上の時が流れた。31からマイナス9の年齢を想い、ああ、もう立派な大人になっているんだな、と幻に語りかけてみたりする。
「おはよー、陣野くん。この前は遅くまでごめんねー」
先輩講師の菊池先生が、ビルに入るなり後ろから肩を組んできた。微妙にアルコール臭い。俺と飲んだのは二日前だと言うのに、まだ臭うのはどういうことだ。夕べもまた性懲りもなく飲んだのだろうか。
「もう勘弁してくださいよ。自分でタクシーも乗れなくなるなんて、いい年して何やってんですか。俺、二度と菊池先生につきあいませんからね」
ヘラヘラ笑っている菊池先生を睨むふりをして笑いながら、いつものように受付カウンターの前を通り事務局へと入って行く。事務員や他の講師たちが、明るく「おはようございまーす」と声をかけてくるのも毎度の光景だった。
だが今日はどこか様子が違っていた。事務局内になんとなく忙しない空気が漂っていて、事務員の一人が一番端の誰も使っていない机の上を大雑把に雑巾がけし、文具やらファイルやらを手早く並べている。あの席は今年の初めから空席で荷物置き場になっていたのだが、ようやく新しいスタッフが入ることになったのだろうか。
「なんか慌ただしい感じですね。誰か、来るんですか?」
脱いだジャケットを事務局の奥にあるロッカーにしまいながら、俺はすぐ隣の流しでうがいしている菊池先生に聞いた。
「あ、知らない?そっか、陣野くん、昨日は休みだったもんね。あのね、新しい事務さんが今日から入るんだよ。ほら、田中さんが辞めてから事務が人手不足だって、事務長がずっとボヤいてたろ。募集かけてたけど、ろくなのが来ないって」
たしかにこの2カ月ほど、ホームページや求人サイトで事務スタッフを募っていたが、あまりいい人材に当たらず時間ばかりが過ぎていた。その分、他の事務スタッフの負担が増えて大変そうだったのは俺も知っている。
「やっと、いい子が見つかったんだって。それがさ、若くて顔もカワイイから、受付カウンターも兼任させるのにちょうどいいって事務長ご機嫌なんだよ」
「へえ、良かったじゃないですか」
「うん。昨日、ちょこっと挨拶に来てたのオレも見たけどさ、マジで可愛いんだよ。清楚で色白、そこはかとなくウブな色気が漂っててさ。いいねー、オレ仕事に来る楽しみ増えちゃった」
鏡の前で薄くなってきた頭髪をセットしながら、菊池先生がニヤニヤしている。俺は半分呆れながらも笑い返した。
「前職は銀行?ん?信用金庫だったかな?そっち系で働いてた子なんだって。どこだっけ、えーと、山梨・・・じゃないや。長野だ長野!あっちの信金辞めて、つい最近長野県からこっちに出てきたんだって。元々は東京の子らしいよ。わりと珍しいパターンだよね」
菊池先生の言葉に、講師の待機スペースに向かいかけていた俺の身体が固まった。
若くて可愛くて清楚で、長野県から東京に戻ってきた女性など世間にはいくらでもいるだろう。
だが俺の胸は妙にザワザワした。こういうのを、第六感とでも言うのだろうか。頭の中で、「まさか」という言葉が何度も駆け巡った。
「・・・何ていう人ですか?」
掠れた自分の声が別人のように聞こえた。菊池先生も、「ん?」と怪訝そうな顔で俺を見る。
「その子。名前は分かりますか?」
「ああ、新人ちゃん?あー、なんだっけなぁ、なんかカワイイ名前だったよ。苗字は忘れたなぁ。えーとね・・・」
俺は食い入るように菊池先生の口元を見た。どうかしている。そんなわけがない。あり得ないからバカな期待などするな。そう自分の胸に言い聞かせながら、砂漠で一滴の水を求めるかのように菊池先生の言葉を待つ。
「あ!アレだ。モモ・・・?モモちゃんって言ったよ、たしか。ほんとに桃みたいに頬っぺがスベスベでさぁ」
心臓がドクンと大きく鳴った。一滴の水は、俺の喉を更にカラカラに干し上げた。
「さ、早瀬さん、こっちね。ここの机、今日から使って。最初にみんなに紹介しようか」
背中越しに事務長の弾んだ声が聞こえる。スタッフたちが立ち上がったり動きを止める気配。どこかから、わぁ、可愛い子・・・と女性スタッフのヒソヒソ声がする。
「みんな、ちょっといいかー?今日から事務局で働いてもらう新しいスタッフさんです。早瀬桃さん。今月、長野県から引っ越してきたばっかりなので、優しく指導してあげてね」
心臓が破裂しそうだった。振り返るのが怖くてたまらなかった。それでいて、その顔を、声を一秒でも早く確かめたくて身体が震えた。
「はじめまして、早瀬桃と申します。いろいろご迷惑をお掛けするかと思いますが、がんばりますのでどうぞよろしくお願いします」
俺のよく知っている声が耳に飛び込んで来た。透き通った、やや甘い声。少し緊張しているような響き。
みんなが拍手している。「よろしくおねがいしまーす」と重なる大勢の声。俺の横で「やっぱ可愛いなぁ」とデレている菊池先生。俺だけが、言葉を失い身体を動かせずにいる。
「あれ、陣野先生、なんで後ろ向いてるの。こっち見て!」
事務長の声に、俺はゴクリと唾を飲み込んだ。不思議そうな菊池先生の視線を感じながら、俺はゆっくり振り返る。
桃がいた。俺の視線の先に、桃が佇んでいた。少し髪が伸びて、薄めの化粧をして、あの頃より大人びた桃が俺をじっと見つめていた。
「・・・陣野先生・・・」
桃の眼に透明の膜が張った。たぶん、俺も同じ眼をしていた。
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