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Lesson 2
居酒屋
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俺と桃の様子を見て、事務局内が静まりかえった。その静けさに俺はハッとして、この場をなんとか自然にやり過ごそうと、わざと明るい声を出した。
「あぁ、びっくりした・・・!早瀬だよな。・・・久しぶりだな」
声がつかえそうになるが、必死で笑顔を作る。桃も一瞬の後、俺に合わせるように笑顔を作って「先生、お久しぶりです・・・!」と精一杯の声を出した。
胸が痛いくらいに締め付けられた。心臓が暴れている。喉が渇いて汗が噴き出しそうになる。不自然にならないようにしないといけないのに、桃の顔から眼が離せない。
「え、何、何?どーいうこと?」
隣で菊池先生が俺の顔を覗き込み、他のみんなもざわつき始めた。事務長が「ああ、そうか!」とポンと手を叩き、一人納得したように頷いた。
「そうだ、早瀬さんの履歴書見て、どうも既視感があったんだ。S高校にいたんだよね?陣野先生も昔S高で教えてたんだっけ。すっかり忘れてた。なんだ、教え子だったんだ」
「あ、そうです。以前、担任だったことが・・・」
俺が遠慮がちに言うと、菊池先生始め周囲が「えー!」「すごい偶然!」とまた騒ぎだした。
桃は俺の顔から視線を外さない。その熱を帯びて潤んだ瞳を見ていたら、記憶が一気に5年前の夏に遡った。
エアコンの利いた部屋で、目隠しされたまま重ねた唇。桃の、柔らかい肌の感触・・・。
俺は一瞬周りの人間の存在を忘れ、桃の顔に手を伸ばしそうになった。が、ありがたいことに理性はまだ存在していて、なんとか自分を押しとどめられた。
俺は周囲からの興味津々の質問に、無難な笑顔で答えていった。自分でも呆れるほどしらじらしく、桃との再会をごく平凡な教師と生徒のそれにすり替えた。
「早瀬さん、元担任の先生がいるなら心強いでしょ。何か困ったら、陣野先生に頼るといいよ」
事務長はそう言ってから、安心したような顔で俺に笑いかけた。俺も笑みを返し、そのまま桃へと視線を移した。眼が合うだけで、桃も胸が苦しそうな顔をしていた。
午前中、桃は先輩スタッフに案内されて教室や各エリアを一通り見学していた。
昼休憩は別の女性スタッフ数人に近くのカフェに連れて行かれ、午後はベテランスタッフにマンツーマンで仕事のイロハを教わっていた。
俺はもちろん授業があったし、今日は夜までコマが埋まっていた。そんなわけで、結局朝のあれ以来桃と言葉を交わすことはおろか、まともに視線を合わせるチャンスも持てなかった。
今日最後の授業が終わって事務局に戻ったときには、当然のことながら桃はもう初勤務を終えて帰宅していた。俺はひどくがっかりすると同時にどこかホッとした気持ちになり、半分ほどしかスタッフが残っていない事務局の椅子に腰を下ろして大きな溜息をついた。
信じられない一日だった。こんな日がくるとは夢にも思っていなかった。
いや、まったく想像しなかったわけではない。いつか偶然桃と再会できる日を、心のどこかで夢見ていた。だがそれは、俺にとって叶わぬ夢だと思い込んでいた。まさかこういう形でまた桃に逢えるなんて、それこそ朝起きたら全部夢だったというオチのような気がして怖くなった。
・・・偶然、なのだろうか。・・・本当に?こんなことがあるのだろうか。
考えていると、また胸がドキドキしてきて、腹の底が熱くなってくる。俺は席を立ち、もうとっくに帰った事務長のデスクにさりげなく近付いた。
整理が雑な事務長なのでもしかしたらと思って見てみたら、案の定桃の履歴書の挟まったファイルが机の上に投げ出されていた。俺は何気ない様子でそれを手に取り、桃の履歴書をそっと広げて見た。
・・・ああ、本当に桃だ。俺はこの文字を昔からよく知っている。この字で書かれた年賀状も暑中見舞いも、今でも捨てられずに取ってある。
桃の経歴は、S高校の後、長野県の県立高校に転入し、更に長野県内の短大へと進み、それから地元の信用金庫に就職、となっていた。今年の3月で退社している。本当にぎりぎりまで向こうで働き、4月に入って慌ただしくこっちに移ってきたようだった。
聞きたいことはたくさんあった。あれからどうしていたのか。どうして黙って行ってしまったのか。今になって突然こっちに戻ってきたのは何故なのか。
でも今はただ、桃がもう一度俺の前に姿を現してくれた奇跡だけで充分だった。
・・・数学が苦手だったくせに、金融機関で働いていたのか。
数字を見て四苦八苦している桃を想像し、俺はフッと笑った。それから履歴書に添付された澄まし顔の桃の写真を、そっと指先でなぞった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。今日見た桃の姿が眼の裏に焼き付いて、想い出すたびに息苦しくなってほとほと参った。
それからの数日、俺はほとんどと言っていいほど桃と接点が持てなかった。
せっかくこうして再会できたと言うのに、同じ建物で働いていながら、俺たちはほぼすれ違いの毎日を過ごしていた。
桃は先輩スタッフにがっちりガードされて仕事を覚えるのに必死だったし、俺は俺で新年度から受け持つコマが増えたため、授業の合間も準備や雑用が増えて慌ただしかった。それでも出勤時は事務局で必ず顔を見れたし、一日のうちに何度か姿を見かける機会はあった。
そういうときは必ず視線が強く絡みあい、お互いに伝えたいことがあるのにままならない焦りが瞳に表れていた。
他の人間の眼も気になった。ようやく話しかけるチャンスが巡ってきても、みんなの視線が気になってしまい、「仕事、慣れたか?」などと陳腐な言葉しか口にできなかった。
でも桃は、そういうつまらない俺の言葉にすら本当に嬉しそうに微笑んだ。ある意味、桃はあの頃とちっとも変わっていなかった。眼差しだけで、俺の心をいとも簡単に奪うことができるのが桃だった。
桃がうちの予備校に来て一週間が過ぎた頃、講師と事務スタッフ合同の飲み会があった。新年度のこの時期に毎年行われる親睦会で、今年は新しく採用された講師2人と桃の歓迎会も兼ねていた。
たいして美味くもない居酒屋の座敷で、俺は桃からやや離れた斜め向かいより更に奥の席に座らされた。くじ引きで席が決められるので文句は言えないが、どうも男どもの策略を感じるのは気のせいだろうか。
俺は酒は比較的強い方なのでいつものペースで飲んでいたが、桃は注がれたビールにほとんど口をつけていなかった。
成人したとはいえ、アルコールが苦手なのかもしれない。桃の父親が酒で身体を壊し、母親に辛く当たり、結果的に命まで落としたことを思い出した。
「早瀬、ソフトドリンク頼んでいいぞ」
俺が斜めの位置から腕を伸ばしてメニューを渡してやると、桃はホッとした顔になった。
「あ、すみません。ありがとうございます」
桃は昔と同じはにかむような笑顔を見せた。胸が疼いた。おい、そこは敬語じゃなくて「先生、ありがとう」だろう、と心の中で一人淋しく突っ込んだ。
あらかた料理を食べ尽くした頃には席順がいいかげんになり、グラス片手にみんながそれぞれ好き勝手な移動を始めていた。
桃の右隣にはいつの間にか酔っ払いの菊池先生が陣取っていて、左隣は桃よりいくつか年上でややキツイ性格の女性スタッフが座っていた。さっきから赤ら顔の菊池先生が、桃にくだらない冗談を言ってはさりげなく肩に触れている。
俺は内心ひどくイライラしていた。桃の顔を見ると、一生懸命笑顔を作っているものの、中年男の酒臭い息を嫌って時折こっそりと表情を歪めている。
状況によっては助けに入ろうかと様子を見ていたとき、桃の左隣の女性スタッフが「あれっ!」と意外そうな声を上げた。脇に置いてあった桃のバッグを掴んで持ち上げ、何やら可笑しそうに覗き込んでいる。
「早瀬さん、随分ボロボロのお守りつけてるんだね。古風っていうか、えらく年季入ってない?」
「あっ、これ・・・。ずっとつけてたら、古くなっちゃって・・・!」
桃は慌てたように、開口部がややオープンなデザインのバッグを取り返して胸に抱いた。
俺の眼にも一瞬見えた。バッグの持ち手の内側に、すっかり古びて色褪せたピンク色のお守りが結び付けられていた。高校生の頃、通学カバンにこっそり忍ばせていたときと同じように。
修学旅行で俺が買ってやったあのお守りだった。見た瞬間、俺の胸が鋭く痛んだ。
みんなが面白がって「どれどれ見せて」などと覗き込んでいる。桃はチラリと俺の方を見て、それから耳まで紅くなって下を向いてしまった。
「これはスゴイ。ヴィンテージって感じだね」
「早瀬さん、ダメよぉ。お守りって、一年ごとに買い替えないとご利益薄れるらしいよ。古いのをいつまでもつけてると、運が逃げちゃうよぉ」
「マジで?桃ちゃん、それはイカン!俺が今度新しいの買ってあげるよ」
頭の地肌まで真っ赤になっている菊池先生が、桃にしなだれかかった。
「あの、大丈夫です。自分で今度買います」
「あー、ダメダメ。そもそも若い娘がこんな辛気くさいものに頼っちゃダーメ!」
律儀に桃が答えるものだから、周りがますます図に乗ってからかう。桃は必死に笑顔を見せていた。菊池先生の酒臭い息と密着してくる身体に身をよじらせながら、唇を噛んで無理矢理笑っていた。
俺は立ち上がり、みんなが座っている後ろをズカズカと大股で歩いて行った。テーブルを回り込んで桃のすぐ横まで辿り着く。俺の威圧オーラにたじろいだのか、女性スタッフがさっと席を空けた。
桃が驚いて顔を上げる。俺を見た瞬間、泣きそうな表情になった。
「早瀬、席替わろう」
俺は桃の二の腕を掴んで引っ張り上げた。そのまま場所を入れ替わって、俺が菊池先生の隣に座る。桃が小さい声で「せんせ・・・」と呟いた。至近距離で眼を合わせ、俺は安心させるように頷いた。
「おっとー。ナイト登場!」
「さすが担任!俺の生徒に手を出すな!ってか?」
「そうですよ。大事な教え子を守るのは俺の役目ですから。ね、菊池先生。いいかげんにしないと奥さんに迎えに来てもらいますよ?」
俺が笑いながら菊池先生の背中をポンポン叩くと、「あんだよー!嫁の話はやめろよー」と菊地先生が管を巻く。そのまま座はいつものノリで和やかになり、桃はホッとしたように俺の隣に腰を落ち着けた。
「・・・先生、ありがとう」
俺にしか聞こえない、細い声で桃が言った。
テーブルの下で、誰にも見えない位置で、俺はそっと桃の手を握った。冷たい手。ずっと握りたかった白い手。一瞬の後、桃が俺の手をギュッと握り返してきた。
お互い迷子になっていたけれど、やっと帰る家を見つけたような気がした。
「あぁ、びっくりした・・・!早瀬だよな。・・・久しぶりだな」
声がつかえそうになるが、必死で笑顔を作る。桃も一瞬の後、俺に合わせるように笑顔を作って「先生、お久しぶりです・・・!」と精一杯の声を出した。
胸が痛いくらいに締め付けられた。心臓が暴れている。喉が渇いて汗が噴き出しそうになる。不自然にならないようにしないといけないのに、桃の顔から眼が離せない。
「え、何、何?どーいうこと?」
隣で菊池先生が俺の顔を覗き込み、他のみんなもざわつき始めた。事務長が「ああ、そうか!」とポンと手を叩き、一人納得したように頷いた。
「そうだ、早瀬さんの履歴書見て、どうも既視感があったんだ。S高校にいたんだよね?陣野先生も昔S高で教えてたんだっけ。すっかり忘れてた。なんだ、教え子だったんだ」
「あ、そうです。以前、担任だったことが・・・」
俺が遠慮がちに言うと、菊池先生始め周囲が「えー!」「すごい偶然!」とまた騒ぎだした。
桃は俺の顔から視線を外さない。その熱を帯びて潤んだ瞳を見ていたら、記憶が一気に5年前の夏に遡った。
エアコンの利いた部屋で、目隠しされたまま重ねた唇。桃の、柔らかい肌の感触・・・。
俺は一瞬周りの人間の存在を忘れ、桃の顔に手を伸ばしそうになった。が、ありがたいことに理性はまだ存在していて、なんとか自分を押しとどめられた。
俺は周囲からの興味津々の質問に、無難な笑顔で答えていった。自分でも呆れるほどしらじらしく、桃との再会をごく平凡な教師と生徒のそれにすり替えた。
「早瀬さん、元担任の先生がいるなら心強いでしょ。何か困ったら、陣野先生に頼るといいよ」
事務長はそう言ってから、安心したような顔で俺に笑いかけた。俺も笑みを返し、そのまま桃へと視線を移した。眼が合うだけで、桃も胸が苦しそうな顔をしていた。
午前中、桃は先輩スタッフに案内されて教室や各エリアを一通り見学していた。
昼休憩は別の女性スタッフ数人に近くのカフェに連れて行かれ、午後はベテランスタッフにマンツーマンで仕事のイロハを教わっていた。
俺はもちろん授業があったし、今日は夜までコマが埋まっていた。そんなわけで、結局朝のあれ以来桃と言葉を交わすことはおろか、まともに視線を合わせるチャンスも持てなかった。
今日最後の授業が終わって事務局に戻ったときには、当然のことながら桃はもう初勤務を終えて帰宅していた。俺はひどくがっかりすると同時にどこかホッとした気持ちになり、半分ほどしかスタッフが残っていない事務局の椅子に腰を下ろして大きな溜息をついた。
信じられない一日だった。こんな日がくるとは夢にも思っていなかった。
いや、まったく想像しなかったわけではない。いつか偶然桃と再会できる日を、心のどこかで夢見ていた。だがそれは、俺にとって叶わぬ夢だと思い込んでいた。まさかこういう形でまた桃に逢えるなんて、それこそ朝起きたら全部夢だったというオチのような気がして怖くなった。
・・・偶然、なのだろうか。・・・本当に?こんなことがあるのだろうか。
考えていると、また胸がドキドキしてきて、腹の底が熱くなってくる。俺は席を立ち、もうとっくに帰った事務長のデスクにさりげなく近付いた。
整理が雑な事務長なのでもしかしたらと思って見てみたら、案の定桃の履歴書の挟まったファイルが机の上に投げ出されていた。俺は何気ない様子でそれを手に取り、桃の履歴書をそっと広げて見た。
・・・ああ、本当に桃だ。俺はこの文字を昔からよく知っている。この字で書かれた年賀状も暑中見舞いも、今でも捨てられずに取ってある。
桃の経歴は、S高校の後、長野県の県立高校に転入し、更に長野県内の短大へと進み、それから地元の信用金庫に就職、となっていた。今年の3月で退社している。本当にぎりぎりまで向こうで働き、4月に入って慌ただしくこっちに移ってきたようだった。
聞きたいことはたくさんあった。あれからどうしていたのか。どうして黙って行ってしまったのか。今になって突然こっちに戻ってきたのは何故なのか。
でも今はただ、桃がもう一度俺の前に姿を現してくれた奇跡だけで充分だった。
・・・数学が苦手だったくせに、金融機関で働いていたのか。
数字を見て四苦八苦している桃を想像し、俺はフッと笑った。それから履歴書に添付された澄まし顔の桃の写真を、そっと指先でなぞった。
その夜は、ほとんど眠れなかった。今日見た桃の姿が眼の裏に焼き付いて、想い出すたびに息苦しくなってほとほと参った。
それからの数日、俺はほとんどと言っていいほど桃と接点が持てなかった。
せっかくこうして再会できたと言うのに、同じ建物で働いていながら、俺たちはほぼすれ違いの毎日を過ごしていた。
桃は先輩スタッフにがっちりガードされて仕事を覚えるのに必死だったし、俺は俺で新年度から受け持つコマが増えたため、授業の合間も準備や雑用が増えて慌ただしかった。それでも出勤時は事務局で必ず顔を見れたし、一日のうちに何度か姿を見かける機会はあった。
そういうときは必ず視線が強く絡みあい、お互いに伝えたいことがあるのにままならない焦りが瞳に表れていた。
他の人間の眼も気になった。ようやく話しかけるチャンスが巡ってきても、みんなの視線が気になってしまい、「仕事、慣れたか?」などと陳腐な言葉しか口にできなかった。
でも桃は、そういうつまらない俺の言葉にすら本当に嬉しそうに微笑んだ。ある意味、桃はあの頃とちっとも変わっていなかった。眼差しだけで、俺の心をいとも簡単に奪うことができるのが桃だった。
桃がうちの予備校に来て一週間が過ぎた頃、講師と事務スタッフ合同の飲み会があった。新年度のこの時期に毎年行われる親睦会で、今年は新しく採用された講師2人と桃の歓迎会も兼ねていた。
たいして美味くもない居酒屋の座敷で、俺は桃からやや離れた斜め向かいより更に奥の席に座らされた。くじ引きで席が決められるので文句は言えないが、どうも男どもの策略を感じるのは気のせいだろうか。
俺は酒は比較的強い方なのでいつものペースで飲んでいたが、桃は注がれたビールにほとんど口をつけていなかった。
成人したとはいえ、アルコールが苦手なのかもしれない。桃の父親が酒で身体を壊し、母親に辛く当たり、結果的に命まで落としたことを思い出した。
「早瀬、ソフトドリンク頼んでいいぞ」
俺が斜めの位置から腕を伸ばしてメニューを渡してやると、桃はホッとした顔になった。
「あ、すみません。ありがとうございます」
桃は昔と同じはにかむような笑顔を見せた。胸が疼いた。おい、そこは敬語じゃなくて「先生、ありがとう」だろう、と心の中で一人淋しく突っ込んだ。
あらかた料理を食べ尽くした頃には席順がいいかげんになり、グラス片手にみんながそれぞれ好き勝手な移動を始めていた。
桃の右隣にはいつの間にか酔っ払いの菊池先生が陣取っていて、左隣は桃よりいくつか年上でややキツイ性格の女性スタッフが座っていた。さっきから赤ら顔の菊池先生が、桃にくだらない冗談を言ってはさりげなく肩に触れている。
俺は内心ひどくイライラしていた。桃の顔を見ると、一生懸命笑顔を作っているものの、中年男の酒臭い息を嫌って時折こっそりと表情を歪めている。
状況によっては助けに入ろうかと様子を見ていたとき、桃の左隣の女性スタッフが「あれっ!」と意外そうな声を上げた。脇に置いてあった桃のバッグを掴んで持ち上げ、何やら可笑しそうに覗き込んでいる。
「早瀬さん、随分ボロボロのお守りつけてるんだね。古風っていうか、えらく年季入ってない?」
「あっ、これ・・・。ずっとつけてたら、古くなっちゃって・・・!」
桃は慌てたように、開口部がややオープンなデザインのバッグを取り返して胸に抱いた。
俺の眼にも一瞬見えた。バッグの持ち手の内側に、すっかり古びて色褪せたピンク色のお守りが結び付けられていた。高校生の頃、通学カバンにこっそり忍ばせていたときと同じように。
修学旅行で俺が買ってやったあのお守りだった。見た瞬間、俺の胸が鋭く痛んだ。
みんなが面白がって「どれどれ見せて」などと覗き込んでいる。桃はチラリと俺の方を見て、それから耳まで紅くなって下を向いてしまった。
「これはスゴイ。ヴィンテージって感じだね」
「早瀬さん、ダメよぉ。お守りって、一年ごとに買い替えないとご利益薄れるらしいよ。古いのをいつまでもつけてると、運が逃げちゃうよぉ」
「マジで?桃ちゃん、それはイカン!俺が今度新しいの買ってあげるよ」
頭の地肌まで真っ赤になっている菊池先生が、桃にしなだれかかった。
「あの、大丈夫です。自分で今度買います」
「あー、ダメダメ。そもそも若い娘がこんな辛気くさいものに頼っちゃダーメ!」
律儀に桃が答えるものだから、周りがますます図に乗ってからかう。桃は必死に笑顔を見せていた。菊池先生の酒臭い息と密着してくる身体に身をよじらせながら、唇を噛んで無理矢理笑っていた。
俺は立ち上がり、みんなが座っている後ろをズカズカと大股で歩いて行った。テーブルを回り込んで桃のすぐ横まで辿り着く。俺の威圧オーラにたじろいだのか、女性スタッフがさっと席を空けた。
桃が驚いて顔を上げる。俺を見た瞬間、泣きそうな表情になった。
「早瀬、席替わろう」
俺は桃の二の腕を掴んで引っ張り上げた。そのまま場所を入れ替わって、俺が菊池先生の隣に座る。桃が小さい声で「せんせ・・・」と呟いた。至近距離で眼を合わせ、俺は安心させるように頷いた。
「おっとー。ナイト登場!」
「さすが担任!俺の生徒に手を出すな!ってか?」
「そうですよ。大事な教え子を守るのは俺の役目ですから。ね、菊池先生。いいかげんにしないと奥さんに迎えに来てもらいますよ?」
俺が笑いながら菊池先生の背中をポンポン叩くと、「あんだよー!嫁の話はやめろよー」と菊地先生が管を巻く。そのまま座はいつものノリで和やかになり、桃はホッとしたように俺の隣に腰を落ち着けた。
「・・・先生、ありがとう」
俺にしか聞こえない、細い声で桃が言った。
テーブルの下で、誰にも見えない位置で、俺はそっと桃の手を握った。冷たい手。ずっと握りたかった白い手。一瞬の後、桃が俺の手をギュッと握り返してきた。
お互い迷子になっていたけれど、やっと帰る家を見つけたような気がした。
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