水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 2

遠出

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 こんなことを言いたかったわけじゃない。桃を責めて、傷つけるつもりなどないのだ。

 5年近く離れていた。しかもお互い、二度と逢えないと思っていた。
 それぞれの人生に、それなりの出逢いや事情があるのは当たり前だ。俺だって、数年前に流されるように見合いの真似事をしたくせに、それを桃に黙っていたじゃないか。なのに俺は今の幸せを失うかもしれない不安から、一方的に桃を責めるような真似をしている。
 どうして俺は、こんなに自分勝手で弱い男になったのだろう。桃よりずっと年上のくせに、なぜ醜い嫉妬や不安の感情をコントロールできないのだろう。

「・・・ごめん。桃、ごめん」
 俺は桃の顔を見ることができず、でも桃に嫌われるのが恐ろしくて、呻くような溜息をついた。
 桃はきっと俺に失望しただろう。『先生』なんて呼ばれる器じゃない。小っぽけで嫉妬深くて、セコイ男だと嫌気がさしたかもしれない。

「先生・・・。私、ずっと先生のこと傷つけてたんだね」
 思わず顔を上げると、桃の眼から大粒の涙がぽとぽと落ちるのが見えた。
「先生、ごめんね・・・。先生の気持ち、私ちっとも分かってなくてごめんなさい。・・・お願い、嫌いにならないで・・・」
 桃は泣きじゃくりながら俺の背中に両手を回してきた。電信柱にしがみつくみたいに、棒立ちの俺にぎゅっと抱きついている。俺のシャツの胸の辺りが桃の涙であっという間に湿った。
「ばかやろ。・・・嫌いになんてなれるか」
 俺の方こそ嫌われたんじゃないかと恐れているのに。俺は身体を折り曲げて桃をきつく抱くと、喉の奥が引き攣るのをこらえながら数秒待った。

「桃、ごめんな。あんなこと言いたかったわけじゃないんだ。・・・俺は、怖いんだよ。桃をまた失うのが怖いんだ」
「・・・私、もう絶対いなくなったりしないよ?私の方が、もう先生がいないと生きていけない。先生が好きなの。竜一先生しか欲しくないの」
 
 桃の涙声に、俺の心がほどけていく。
 今の言葉でもう充分だ。桃にそんなふうに想ってもらえるなら、それ以上何も望むものなどないじゃないか。
 俺は深く息を吸い込むと、自分の心を宥めるように落ち着いた声を出した。

「・・・桃。行って来いよ、長野。行って、しっかり話つけてこい。待ってるから。ちゃんと区切りつけて、俺のところに帰って来い」
 桃の濡れた頬を手で拭いながら俺は微笑んだ。上手く笑えたか分からないが、頷く桃の額に唇をつけてしばらくそのまま桃の身体を抱いていた。


 翌日、桃は長野の実家に戻って行った。
 俺はいつものように出勤し、朝からびっしり詰まった授業をこなした。いや、いつも以上に気合を入れて仕事をした。模擬テストの問題作成の担当も自分から手を上げたし、授業後の生徒からの質問にも普段より時間を割いてじっくり対応した。
 夏休みは予備校生にとっては大事な時期だ。夏期講習だけを受けに来る生徒もいて、講師もスタッフも普段以上に忙しい。エアコンの効いた校内で、俺は時折長野にいる桃に想いを馳せながら、今自分がやるべきことにひたすら没頭した。

 火曜の午後、予定では明日には東京に帰ってくるはずの桃からメールが届いた。
『高木さんの仕事の都合でまだ話し合いができてません。明日やっと会うことになったので、そっちに戻るのは明後日になりそうです。ごめんなさい。大丈夫だから、心配しないでね』
 高木とは、桃にしつこくプロポーズしている例の男の名前だった。明日には桃に会えると思っていた俺は、正直かなり落胆した。俺も明日から連休をもらっているのだ。あと一日経てば桃をこの手に抱きしめられると思っていたので、心にぽっかり穴が開いた気分になった。

 
 深夜にシャワーを浴びた後、一人の部屋でビールを飲みながらボーッと過ごした。
 桃を信じて待つと言ったものの、明日その男と桃が会うのかと思うとやはり不安が込み上げてくる。俺は小さい男だな、と我ながら呆れた。桃の方がよほど大人だ。
 長野で数年過ごしながら俺のことを忘れずにいてくれて、もう一度逢いたいと行動を起こしてくれた桃。桃が動いてくれなかったら、俺はきっと今でもこの部屋で一人、本気で誰かと愛しあう喜びを知ることもないまま腐っていたに違いない。

 今更だが、ふと気付いた。
 俺はあいつを求めているくせに、自分からはちっとも動こうとしていない。失いたくないと駄々をこねながら、具体的に何をしたかと言うと、俺はほとんど何もしていない。
 5年前だってそうだった。もしあのとき本気で桃の行く先を知りたいと思ったなら、調べようと思えばできたはずだ。でも俺はそうしなかった。
 去って行った女子生徒を、教師が個人的に追うなんてすべきことではない。他の先生方や生徒達に知られたら説明がつかない。そもそも、桃は俺に何も告げずに転校していった。桃が断ち切った糸を俺が未練がましく繋ごうとして、もしも拒否されたらどうする。そんなふうにいろいろ言い訳を並べ立て、俺はそれ以上傷つくことから逃げたのだ。

 だがもう、そういう自己保身は終わりにしたかった。
 本気で愛する女を手に入れたいなら、自分から追いかけて行けばいいじゃないか。みっともなくてもカッコ悪くても、何もしないでただ待っているだけより余程自分でも納得できる。桃にばかり行動させないで、今度は俺が動くべきではないか。

 俺はビールの空き缶を握りつぶしてゴミ箱に放り投げると、クローゼットからナイロンのバッグを引っ張りだした。1、2泊なら充分の大きさの、古い旅行鞄だ。
 箪笥の引き出しを開けて下着やシャツを取り出し、適当にバッグに突っ込んでいった。
 桃を追いかけて、明日長野に行ってみようと思った。
 相手の男と揉めそうなら、俺が間に入って話をつける。殴られてもいい。それでそいつの気が済むなら、それで桃を俺のものにできるなら、1発2発の痛みなどたいしたことではない。
 
 クローゼットの扉を閉めようとして、新聞紙にくるまれた四角い包みが奥にしまわれているのを見つけた。
 手で引っ張りだし、乾燥で変色したセロテープをそっと剥がして新聞紙を開いてみる。
 碧い水底で、優しく微笑む桃がそこにいた。
 白く透き通る肌で、薄紅色の唇で、俺に語り掛けるように水に漂う桃の姿。
 自分で描いておいてなんだが、見ているだけで胸が苦しくなった。俺は桃の肖像画を再び新聞紙で包み直すと、今までより手前の場所に立てかけてクローゼットを閉めた。


 高速を下りてから、ひたすら国道を走った。
 桃の実家の住所は前に聞いていた。カーナビの指示通りに車を走らせながら、俺は緊張しているわりにこの状況を楽しでいる自分を新鮮に感じた。
 桃には連絡を入れずに来てしまった。きっと俺に気を遣って、「来なくて大丈夫」と言うに違いないからだ。
 半分ほど開けたサイドウインドウから吹き込む風が心地良い。行く先に広がる青い山々の連なりについ眼を奪われる。

 桃が転校してからの数年間を過ごした土地だと思うと、余計に感慨深かった。いい場所で暮らしたんだなと、教師目線でホッとするような気持ちになる。
 紳士服販売のチェーン店やコンビニ、地方銀行にファミレス。のどかだが、日本全国どこに行ってもありがちな風景をしばらく走った後、国道を逸れ、より奥まった地域へと続くやや細い道に入っていった。

 俺はさっきより注意深く運転しながら、眼に飛び込んでくる日常の風景を楽しんだ。 
 ちらほら花を咲かせ始めているヒマワリ畑。古めかしいがいかにも美味そうな、小ぢんまりとした蕎麦屋。道の途中で野菜を広げて販売しているお婆さんの姿。町の至るところに貼られている子供が描いた夏祭りのポスター。
 大学生くらいの旅行者が二人、リュックを背負い黙々と歩いているのを追い抜いたときには、自分も学生時代に免許取りたての仲間と一緒に、信州をドライブしたことを思い出した。
 やはりこっちは東京より格段に涼しい。そして空が高く、空気が透明な気がする。

 更に細い道を折れると、辺りは一層静かでのんびりした風景になった。
 築数十年の古い民家と、ここ10年くらいで建て替えられたらしい軽量鉄骨の四角い戸建て住宅が混在しているが、家と家の間隔がかなり広く、車庫も余裕で二台分あったりする。
 聞いたことのない名前のコンビニを通り過ぎると、桃が勤めていたのと同じ名称の信用金庫の建物を見つけた。思わずドキリとする。桃はここで働いていたのだろうか。と言うことは、例の高木という男は今もここにいるのか。
 俺は無意識に車を減速させながら建物のガラスに眼をやった。ここで制服を着て働いていた桃を想像する。お互いに、別々の時間を生きていた頃・・・。
 ふうっと息をついて気持ちを切り替え、ナビが示す桃の実家に向けて再び車のスピードを上げた。

 一軒の古い、だが重厚な造りの木造住宅の前に差し掛かる直前、ナビが目的地に到着したことを俺に伝えた。一度車を停車させ、その家の門構えに眼をやる。
 表札に『浅田』の文字。桃のお祖父さんの名字だろう。その下に付け足すように、『HAYASE』と書かれた小さなプレートが貼り付けられていた。
 数十メートル先にコインパーキングの表示を見つけたので俺はそこに車を停め、歩いて桃の実家まで戻った。
 顔にさらりと乾いた風を感じる。驚くほど近くに見える山並みが青空に映えて美しい。清々しくていいところだなと改めて実感した。
 
 想像していたより大きな家を見上げながら深呼吸した。
 桃はいるだろうか。時計を見ると午後1時を過ぎている。もう例の男との話し合いに出掛けているかもしれない。
 とりあえず門に取り付けられたインターホンを押してみることにした。桃がいなくても、おそらく桃の母親がいるのではないか。俺は今回の訪問で、桃の母親に会ってきちんと挨拶したいと思っていた。

「あら、ええと、どちら様ですか・・・?」
 インターホンに触れる直前に思わぬところから呼びかけられ、俺は慌てて声のした方に顔を向けた。
 葉の生い茂る樹木で覆われた庭先から、日除けの帽子を被った50手前くらいの優しい顔立ちの女性が現れた。一目見て、桃の母親だと分かる。庭の草取りでもしていたのか、軍手をはめてタオルを首から下げていた。
 俺が一歩近づいて挨拶しようとすると、桃の母親が門扉を開けながら「あっ」という顔をした。

「あの、もしかして、陣野先生ですか?桃の担任をされてた・・・」
「あっ・・・、そうです。陣野です。どうもはじめまして、お世話になっております。すみません、いきなりやって来て。・・・ええと・・・よく僕のことがお分かりになりましたね」
 俺はしどろもどろになりながら頭をぺこぺこと下げた。つくづくカッコ悪い。何故もっとスマートに挨拶一つできないのか。
「娘から聞いてますから。先生とおつきあいさせてもらってるって。携帯でお写真も見せられたんですよ。・・・ふふ、実物の方がもっと素敵ね。さ、どうぞ入ってください。桃は今、出掛けてますから」
 桃が俺のことを母親に話していると知って、珍しく俺は赤面した。ますますカッコ悪くて自分が嫌になる。
「あの、それなんですが、桃さんは今どちらに・・・」
「先生、お聞きになってるんでしょ?高木さんのこと。今、会いに行ってます。大丈夫ですよ。心配なさらないで、中で待っててやってください。たぶん、もうそろそろ帰ってくると思います」
 桃の母親は柔らかい笑顔で俺を家の中へと招き入れた。

 正直、夫のことで苦労した話を聞いていたから、もっとやつれた弱々しいイメージを勝手に抱いていた。だが俺の眼の前にいる女性は、やや日焼けした健康的な顔色で朗らかに微笑んでいる。
 俺はそのことに心から安堵した。桃の母親は、今はとても落ち着いた平穏な暮らしをしているように見えた。


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