水の底のポートレイト

茜色

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Lesson 2

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 幸福な時間がいくつも積み重なっていった。

 桃と俺は合鍵を交換し、時間が許す限りできるだけ一緒に過ごした。
 俺は授業の有無で休みの曜日がある程度決まっていたが、桃はシフト制なので微妙にズレる。なので休みが重なったときは必ずどちらかの部屋に泊まったし、片方が出勤のときもできるだけ時間をやりくりして互いの部屋を訪れた。
 予備校の同僚たちの前では、ごく普通に親しく接していた。
 あまりよそよそしくしても返って怪しまれると思い、桃は元担任と教え子という関係を大いに利用して無邪気に「先生、先生」と俺に寄ってきた。菊地先生や他の男性講師たちからの羨ましそうな視線が痛かったが、内心悪い気はしなかった。
 
 桃が俺の授業を見学したいと言ってきたので、特別に教室の一番後ろに座らせたこともあった。
 桃が見ていると思うとちょっと緊張したが、なんとなく高校で教えていた頃を思い出していつもより気合いの入った授業になった。終わった後「どうだった?」と聞いてみたら、「高校時代を思い出して懐かしくなっちゃった」と泣きべそをかいたので俺の方が慌てた。
「先生、すごくカッコ良かった。説明が丁寧で分かりやすくて、すごくいい授業だった」
 そうおだてられ、生徒達がいなくなった教室で俺は桃をこっそり抱きしめた。

 桃は仕事に対して真摯だった。
 高校時代も、数学はともかく他の教科はだいたい成績が良かったし、元来真面目で一生懸命な性格だった。それは社会人になっても変わらないようで、先輩たちから教わる業務内容を小まめにメモしては、自分なりに工夫して仕事を覚えていた。
 真剣な顔でパソコンの画面に集中しているのを見るたびに、数学の授業で必死に黒板を睨んでいた姿を想い出してつい頬が緩んだ。
 仕事に慣れてくると、受講生達の対応で桃が受付カウンターに立つことも多くなり、男子学生等が「事務にキレイなお姉さんが入った」と騒ぐようになった。そういう光景を目にするたびに、大人げなくイラッとしてしまう自分に驚き、少々戸惑った。

 この年になって、嫉妬の感情を抱くようになるとは思わなかった。
 過去を思い返してみても、俺は女に対してヤキモチを焼いた記憶がほとんどない。そういった生々しい感情を男が持つこと自体、みっともないと思っていた。そのため過去につきあった女たちは、俺のことを「冷たい」「ドライ」「冷血人間」と責めるのが常だった。
 俺は桃のことになると、どうにもペースが狂う。一度それを愚痴ったら、桃は何故か妙に嬉しそうな顔になった。
「他の人が知らない先生の素顔を、私だけが独り占めしてるってことでしょ?」
 そう言って桃は俺の膝の上に乗り、甘えるようにキスしてきた。

 セックスを覚えた桃は、俺の腕の中で日を追うごとに色付き、つややかに花開いていった。
 時折ドキッとするほど大人びた妖艶な表情でくちづけてくるかと思うと、俺の愛撫に震える様は少女のように儚げでゾクゾクする。俺の手にすっかり馴染んだ肌はなめらかさを増し、俺のモノを受け止める桃の内側は確実に俺のカタチに染まっていった。
 ベッドだけでなく、俺の部屋のソファの上でも何度も抱きあったし、一緒に風呂に浸かりながら身体に触れているうちに、そのまま挿入してしまうことも度々あった。俺は盛りのついたガキみたいに桃の身体に夢中になり、桃もまた俺のことを貪欲に欲しがった。

「竜一先生・・・」と甘い声で囁かれるたびに、俺のペニスは痛いほど反応して桃のなかへと呑み込まれていく。一度桃のなかに挿入はいってしまうと、もうずっとここから出たくないと思うほど狂おしい気持ちになった。

 幸せすぎて、だんだん怖くなった。
 5年前、当たり前のように桃がいた日々を、突然失ったあのときの痛みは今でも忘れていない。いつかまたこの幸せを奪われるのではないかと、俺は心の奥で少しずつ脅えを感じるようになった。
 最近、桃の様子が少しおかしいのも原因かもしれない。
 夏が近付く頃から、桃はたまに携帯電話を見て考え込んでいたり、誰かから電話がかかってきているのに、画面を見て出るのをためらっていることがあった。どうしたのかと聞いても、「なんでもない」とニコリと笑う。この、「なんでもない」と笑顔を作る兆候が、高校時代の桃を思い出させて俺を不穏な気持ちにさせた。


 7月も半ばに差し掛かり、事務局スタッフがぽつぽつと交代で夏休みを取り始める頃、桃が俺に突然言った。
「先生。私、明日から少しお休みもらって、長野に行ってくる」
 仕事帰りに桃の部屋に寄って遅い夕食を取った後、キッチンで一緒に食器を洗っているときだった。
「・・・夏休みの里帰りか?随分早いな、お盆でもないのに。お母さん、具合でも悪いのか?」 
 俺はなんとなくモヤモヤした気持ちが込み上げてくるのを感じながら尋ねた。
「ううん、母は元気。・・・ちょっとね、こっちに出てくるとき結構急だったから、いろいろ片付けなきゃいけないことが向こうに残ってて。2、3日で戻ってくるから、心配しないで」
 桃はそう言って濡れた手をタオルで拭き、エプロンを外した。はっきりと内容を言わない桃に、俺は妙に神経質になった。

「・・・何か、あっちに問題でもあるのか?最近、桃、誰かの電話やメールに困った顔してたろ」
 桃がハッとして俺を見た。瞳が揺れたのを見て、俺の中でますます何かが引っかかる。
「なあ、桃。俺に何か隠してないか?・・・約束したよな。これからは何でも話すって。無理して平気なふりしないで甘えてくれって、俺、おまえに頼んだよな?」
「うん・・・。そうだよね」
 桃はためらうように眼を伏せる。迷っているように見えた。俺がもう一度「桃」と叱るような声を出すと、桃は顔を上げ、唇を噛んでから思い切ったように言葉を発した。

「長野で、私、結婚を申し込まれてたの」
 一瞬意味が分からず、俺はポカンとして数秒黙り込んだ。
 桃が口にした言葉を何度か頭の中で反芻し、その意味を理解した途端、耳がカッと熱くなった。
「・・・結婚って。・・・向こうにつきあってる男がいるのか?」
 いい年をして情けないが、俺の声は微かに上擦っていた。動揺しているのを桃に気付かれたくなかったが、こればっかりは隠しようがなかった。
「違う・・・!つきあってなんかいない。先生、誤解しないで。一方的な話なの。私、何度も断ってるの」
 何度も・・・?俺が強張った顔をしたせいか、桃は俺の両腕を掴み、焦ったように早口で事情を話し始めた。

 桃の説明はこうだった。
 桃の就職活動時に祖父が縁故採用を頼んだ相手は、祖父の古い友人でかつて信用金庫の支店長を務めていた人だった。しかも、その孫に当たる桃より5歳上の男が現在その信用金庫の主任になっており、祖父は桃の就職を頼む際に、その孫との縁談も込みで話をつけていたのだと言う。
「私は全然知らなかったの、そんな話。就職してその主任と同じ支店になって、後で主任本人から聞かされて本当にびっくりしたの。もちろん、家に帰って祖父に抗議した。私、本気で頭にきて初めて祖父に食って掛かったの。でも祖父は、『そんなに難しく考えなくても、お婿さん候補としてゆっくり見ていけばいい』って笑ってた。『どうせおまえはこの地で骨を埋めるんだから、地元のそこそこ有望な男と早く結婚した方が自分のためだぞ』って。じゃないと、おまえの母親みたいに不幸になるのは眼に見えてるって」

 桃は激しく抵抗し、その主任とも仕事以外ではできるだけ距離を置いたのだそうだ。でもその男は桃のことを妙に気に入っていたらしく、諦めようとしなかった。急がなくていい、少しずつ考えてくれればいい。そう粘られ、桃が何度断っても「気長に待つよ」の一点張りだったと言う。
「私、長野に引っ越してからも先生のことずっと忘れられなかったけど、でももう二度と逢えないって思ってたし、きっと先生は結婚しただろうし、いつまでも先生のこと引き摺ってても意味ないのかなって思うようになって」

 折れた桃は、その主任と食事くらいは行くようになった。何度か食事して、やっぱり恋愛感情は持てないと悟り、はっきり断った。だがその男は、桃に他に恋人ができたら諦める、そうでなければいくらでも待つと繰り返すばかりだった。
「でも、祖父が死んで私も縛られる理由がなくなったから、思い切って信金を辞めて東京に出ると決めて、その人にも最後通告みたいに『結婚できません』って言ったの。東京に好きな人がいて、その人に逢いに行くってことも」
 桃の言葉を聞いたその男は、ひるまずにこう言ったと言う。
『早瀬さんが東京で、その忘れられない人とうまくいく保証はどこにあるの?相手が結婚してたらそれで終わりでしょう?むしろその可能性の方が高い。僕は早瀬さんがその男性と確実に結ばれたと分かるまでは、諦めずに待ってるよ。結果を知らせてほしい』

「私、もうこれ以上話しても意味ないと思って、振り切って長野を出てきたの。先生と再会してこんなふうになれて、私あんまり嬉しくて、主任のプロポーズのことなんて忘れかけてた。そしたら最近、主任からメールや電話が来るようになって『どうなった?』って。先生とうまくいったって伝えても、どうしても納得できないから、もう一度会って話したいって」
「・・・だから、会いに行くのか?その男に」
 咎めるような口調になる自分に嫌気がさした。
 俺は見知らぬ男の影に嫉妬し、そいつのくじけない情熱に脅え、そんな大事なことを隠していた桃に腹を立てていた。ただの身勝手だ。俺は自分がこれほど未熟なガキだったのかと愕然とした。

「最初はメールも電話も無視しようと思ったけど、このまま逃げていても無意味だと思って。それに、その主任にはたしかに仕事でさんざんお世話になったの。私がコネで入社したくせに2年で信金を辞めることになって、周りから結構いろいろ言われたときも、間に入ってかばってくれたし。祖父の時代はもちろん、今は母もお金の管理とか主任に担当してもらってるし、田舎だからそういういろんなしがらみがあるの。ちゃんと会ってきちんと断って、けじめをつけないと終わらないと思う。だから明日、私、長野に帰る。・・・先生、分かってくれるでしょ?」

 桃が不安そうな顔で俺の腕を掴んでいる。俺の表情を見て、心細そうな顔をしている。それが余計に俺を情けない気持ちにさせた。好きな女に、俺はこういう表情をさせているのか。

「・・・おまえ、長野に帰った後、本当にこっちに戻ってくるか?・・・そんなこと言って、また行ったきりになるんじゃないのか?」
「先生・・・?」
 疑ってはいけないのに、口から出てきたセリフがこれだった。狭量で臆病な男が、恋人を信じ切れずに口にする言葉。言うべきじゃないと、頭では分かっているのに。

「桃は優しいから、そいつに会ったらほだされて帰ってこられなくなるかもしれない」
「・・・そんなわけないでしょ?先生、何言ってるの?私のこと信じてくれないの・・・?」
 桃の声が揺れた。
 高校生の頃、俺に何も言わずにいきなり消えた桃。ベランダから見下ろした、白いブラウスの後ろ姿が今でも忘れられない。

「先生、そんな顔しないで・・・。言わなかったこと、怒ってるの?私、先生に、余計な心配かけたくなかっただけで」
「そんな大事なこと隠してて・・・。おまえ、いつも肝心なことを俺に話そうとしないじゃないか・・・!」
 
 言ってから、しまったと思ったが遅かった。
 俺の声に桃の身体がビクッと震えた。大きな瞳がみるみる涙でいっぱいになった。


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