夕凪の空 京の香り

志生帆 海

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第三章

白き花と夏の庭 7

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 静岡の須藤筆工房に戻るなり、俺は中庭の洗い場でさっきのハンカチを濯いだ。泥と血が付いたそれは、なかなか頑固な汚れだったので必死に洗った。

「よしっ! これでいい」

 綺麗に汚れが落ちたハンカチを太陽の下に干し、それから腰痛でまだ床に臥せっている兄の部屋へと向かった。

「兄さん、ただいま」
「なんだ海風、もう帰っていたのか。今日は悪かったな。で、無事に納品出来たか」
「うん……まあ」

 つい浮かない返事をしてしまった。兄の方も何かを察知したのか、布団から身を乗り出して来た。

「どうした? 何かあったのか」
「兄さん……正直に答えてくれよ。納品の中に入っていた絵筆は誰の物なんだ? 」
「え……ということは、あの子は部屋に同席されなかったのか」
「あの子とは誰? やっぱりあの絵筆を使う人のことか」
「あ、いや……なんでもない」

 兄は余計なことを言ったというような気まずい表情を浮かべていた。詳しく聞くなら今だ。

「でもたぶん俺は、その彼に会ってしまったよ」

 彼がその青年だと、俺は確信している。繊細にハンカチに描かれた花の絵は、着物の絵付けと同じ技法だ。それにあの襖越しに聞いた声、澄んだ小川のような涼やかな音色のような声は特徴的だ。

「会ったのか。一体どこでだ? あの子が一人で出歩くはずがないのに」
「詳しいんですね。偶然寺の庭で会った。驚くほど美しい人だったよ。どうやらあの寺の血縁者みたいだったけど」
「そうか……会ってしまったのか」
「正直に話して欲しい」
「あぁそうだな。会ってしまったのなら話しておかないと。そうだな確か一年程前に初めて会ったのだ。彼は若住職の大事な弟だと聞いている。いいか、このことは絶対に他言無用だぞ。理由は分からないが極端な程、人目に触れることを住職が警戒されているからな」
「……一年前? 」

 それは俺が列車で彼を見かけ、置き去られた鞄を駅に届けた時期だ。同時に信二郎が俺の下宿を訪ねて来た時でもある。

 これでいよいよ確信が持てた。

 これは一刻も早く信二郎に知らせないと。信二郎があんなに必死で探していたのだから、知らせてやりたい。

「兄さん悪い。俺、もう東京に戻るよ」
「えっ急だな」

 すぐに荷物をまとめ、先ほどのハンカチを四つ折りにし鞄に放り込み、急いで列車に飛び乗った。

****

鎌倉 月影寺

「夕凪、さっき誰かと話していたのかい? 」
「あ……いえ」
「あまり一人で遠くまで歩きまわるなよ。湖翠兄さんが心配して、俺に探しに行けっていつも言うからな。俺も忙しい。ははっ」
「すみません、つい」
「特にこの先は危ないから近づくなよ」
「この先もまだ道があるのですね。知らなかったです」

 耳を澄ますと微かに水音が聴こえた。この先には川があるのか、それとも小さな滝つぼでもあるのだろうか。

「じゃあ俺は少し薪になりそうな木を探してくるからな。ほら、もう寺が見えるから、先に戻っていろ」
「はい。分かりました」
「寄り道するなよ」

 流水さんと別れてから、先ほどの出来事を反芻した。

 先ほど怪我の手当てをしてあげた青年は、どうやら俺のことを知っているようだった。でも俺は彼のことを全く知らない。俺は知らない人に対する警戒心があの事件以降、酷くなってきている。

 流水さんからは犬に噛まれたとでも思え、いつまでも引きずるなと慰めてもらっても、やはり癒えない傷となり警戒心ばかり募る一年だった。

 それに流水さんや湖翠さんが守ってくれることもあり、必要最低限の人としか接することがない生活に慣れてしまった。

 先ほど俺の顔を見て、彼は明らかに驚いていたよな。彼が何度か口に出そうとしたのは、やはり俺の名前だったのか。

「ゆうなぎ……」

 そう口元が動いたような気がした。

 その名を他人から呼ばれることが怖くて、話を遮り口を塞いでしまうなんてな。

 しかし彼は一体誰だったのだろう。もしかして先ほど来た筆屋だろうか。他に思い当たらない。

 ふぅ……もう考えるのはよそう……もう会うこともない人だ。

 その時、背後にふと視線を感じた。

「え……」

 立ち止まって辺りを見渡すが、誰もいない。

「誰かいるのですか」

 返事はなく、そよぐ風の音だけが聴こえた。

 なんだろう、誰かに見られているような気がする。 この感じ…以前どこかで……

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