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逃走1
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ムジカが囚われていた屋敷は、バーシェの上層部に位置する平地の一角だった。夜空には再び陰鬱な雲がはびこり、眼下にエーテル街灯による明かりが煌々と灯る。
その中で、ラスは下層へ向けて緩やかに下降していた。
「ラス、適当なところで降りろ。翼が目立つ」
「なるべく敵勢力領域から離れることを優先すべきと考えますので、このまま拠点へ戻ります。人間の視界であれば視認される可能性は低く、このままでも問題ないと判断しています」
確かに、上層に向かう道路には、いくつか関所のような門が設置されている。
昼夜資格のないものを通さぬように門番がたむろしているが、誰も空を移動するとは考えもしなかった。なにより、このような空など誰も見上げない。
けれど甘く忍び寄る毒のような言葉は耳にこびりつき、鮮烈な光景は目に焼き付いて離れない。
心を荒れ狂わせていたムジカは、ラスの否定の言葉に体を震わせてしまった。
「どうしましたか、ムジカ。怪我をしていましたか」
「ねえよ。それよりも、お前は大丈夫なのか」
その言葉がついたのは、ただ飛行中に不具合が起きたらムジカが大けがでは済まないと考えたからだった。
自分よりこの青年人形が受けた傷のほうが物理的にひどいのだ。
「腹部の損傷は重度ですが、重要器官は回避していますのでエーテルエネルギーを補給できれば修復できます。安全拠点までは行動も可能です」
言葉通り、ムジカを支える腕はびくともしない。
少し前のムジカであれば、何も考えず身を預けられただろう。言葉尻をとって揶揄するくらいはしたかもしれない。
だが今は地面が遠いことを、地に足がついていないことに不安を覚えてしまい、それがムジカの心に重いよどみを生み出していた。
ムジカの異変には気がつかないようでラスはエーテル光を散らしながら問いかけてくる。
「では、寒いのですか」
「すこし、な」
パニエの重ねられたスカート部分は暖かかったが、胸元の開いた上半身はコートもない中では寒い。雪がちらつく季節がさしかかっているのだ。
ラスの推察に便乗してごまかして、ムジカは話をそらした。
「……なんで、あたしがあそこに居るってわかった」
「予想される帰宅時間を超過したため、第3探掘坑にてムジカの業務終了を確認した後、住民に足跡を聞き込み現場付近を捜索。路地でムジカの所持品であるナイフとエーテル塗料を発見し緊急事態と判断しました」
塗料は主にマッピングのさい、一度通った道を見失わないために使うものだ。
エーテルには固有の反応があり、一定期間であれば記憶して足跡を追うことができるとラスが言っていたことをかろうじて思い出し、ポーチからこぼしておいたのだ。だが、屋敷までは特定できなかったはずだ。
「それでよく、わかったな」
「あなたの声なら聞こえますので。ですが、そばを離れたことは俺の判断ミスでした。申し訳ありません」
「いや」
「追っ手の気配はありませんので、とりあえずは安全と判断します。ですが敵勢力の規模、能力がわかりませんので大回りします。許可いただけますか」
「……別に、あたしの許可なんて、いらないんじゃねえの」
「ムジカ?」
「なんでもない。それでいい」
ラスの珍しく曖昧な表現も謝罪も、ムジカの頭の上を滑っていく。
アルーフの言葉が、脳の中をぐるぐると巡っていた。
300年前もあんな風に戦っていたのだろうか。自律兵器を壊し、人を殺し。
ムジカはラスという青年人形が自律兵器だと表層では理解していたつもりでも、自分が狩る自律兵器と同じものだとわかっていなかったのかも知れない。
話に聞いた最強の自律兵器、熾天使がラスだったなんて。
アルーフの言葉を笑い飛ばすこともできなかった。ラスについて何も知らないことを改めて突きつけられた気がした。
疑いだしたらきりがない。記憶を失っているというのも嘘ではないか。この青年人形は起動するためだけにムジカを欲したのではないか。
いつ、裏切るかわからない。そんな泥のようなフレーズが、頭にこびりついていた。
その中で、ラスは下層へ向けて緩やかに下降していた。
「ラス、適当なところで降りろ。翼が目立つ」
「なるべく敵勢力領域から離れることを優先すべきと考えますので、このまま拠点へ戻ります。人間の視界であれば視認される可能性は低く、このままでも問題ないと判断しています」
確かに、上層に向かう道路には、いくつか関所のような門が設置されている。
昼夜資格のないものを通さぬように門番がたむろしているが、誰も空を移動するとは考えもしなかった。なにより、このような空など誰も見上げない。
けれど甘く忍び寄る毒のような言葉は耳にこびりつき、鮮烈な光景は目に焼き付いて離れない。
心を荒れ狂わせていたムジカは、ラスの否定の言葉に体を震わせてしまった。
「どうしましたか、ムジカ。怪我をしていましたか」
「ねえよ。それよりも、お前は大丈夫なのか」
その言葉がついたのは、ただ飛行中に不具合が起きたらムジカが大けがでは済まないと考えたからだった。
自分よりこの青年人形が受けた傷のほうが物理的にひどいのだ。
「腹部の損傷は重度ですが、重要器官は回避していますのでエーテルエネルギーを補給できれば修復できます。安全拠点までは行動も可能です」
言葉通り、ムジカを支える腕はびくともしない。
少し前のムジカであれば、何も考えず身を預けられただろう。言葉尻をとって揶揄するくらいはしたかもしれない。
だが今は地面が遠いことを、地に足がついていないことに不安を覚えてしまい、それがムジカの心に重いよどみを生み出していた。
ムジカの異変には気がつかないようでラスはエーテル光を散らしながら問いかけてくる。
「では、寒いのですか」
「すこし、な」
パニエの重ねられたスカート部分は暖かかったが、胸元の開いた上半身はコートもない中では寒い。雪がちらつく季節がさしかかっているのだ。
ラスの推察に便乗してごまかして、ムジカは話をそらした。
「……なんで、あたしがあそこに居るってわかった」
「予想される帰宅時間を超過したため、第3探掘坑にてムジカの業務終了を確認した後、住民に足跡を聞き込み現場付近を捜索。路地でムジカの所持品であるナイフとエーテル塗料を発見し緊急事態と判断しました」
塗料は主にマッピングのさい、一度通った道を見失わないために使うものだ。
エーテルには固有の反応があり、一定期間であれば記憶して足跡を追うことができるとラスが言っていたことをかろうじて思い出し、ポーチからこぼしておいたのだ。だが、屋敷までは特定できなかったはずだ。
「それでよく、わかったな」
「あなたの声なら聞こえますので。ですが、そばを離れたことは俺の判断ミスでした。申し訳ありません」
「いや」
「追っ手の気配はありませんので、とりあえずは安全と判断します。ですが敵勢力の規模、能力がわかりませんので大回りします。許可いただけますか」
「……別に、あたしの許可なんて、いらないんじゃねえの」
「ムジカ?」
「なんでもない。それでいい」
ラスの珍しく曖昧な表現も謝罪も、ムジカの頭の上を滑っていく。
アルーフの言葉が、脳の中をぐるぐると巡っていた。
300年前もあんな風に戦っていたのだろうか。自律兵器を壊し、人を殺し。
ムジカはラスという青年人形が自律兵器だと表層では理解していたつもりでも、自分が狩る自律兵器と同じものだとわかっていなかったのかも知れない。
話に聞いた最強の自律兵器、熾天使がラスだったなんて。
アルーフの言葉を笑い飛ばすこともできなかった。ラスについて何も知らないことを改めて突きつけられた気がした。
疑いだしたらきりがない。記憶を失っているというのも嘘ではないか。この青年人形は起動するためだけにムジカを欲したのではないか。
いつ、裏切るかわからない。そんな泥のようなフレーズが、頭にこびりついていた。
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